第7話 再び、秀策の忘れ物

 次の日の朝、父親は会社に行く前に玲奈の顔を見ると、

「杏美にパソコンを貸してくれるよう言っといたので、ちゃんと将棋の練習をするんだぞ。」

と、寝起きの玲奈をつかまえて言った。

「ええっ?! なんで将棋だよ、嫌だよ。」

「お前には才能があるそうだから、この夏休みにしっかり練習したら、津島君に勝てるかもしれないんだぞ。」

と、玲奈にとっては要らぬお世話の激賞をする。すると、早くから起きていた杏美が、

「アンタ、天才少女だもんね?!」

と、たまらないといった感じで肩を揺すりながら笑っていた。杏美の言葉に寝ぼけ顔の玲奈は、

「誰が・・・? あたしゃ、負けたんだよ。凡人だよ、ただの凡人。」

と、負けずに言い返す。それを聞いた母親が、

「何よ、一回くらい負けたって?! 天才はね、99パーセントの努力が必要なのよ!」

と、昨日までの冷たい態度がウソのようだ。

「だって負けたんだから・・・。」

と言いながら、目が覚めてきた玲奈はムキになると、

「あたしゃあね、もう将棋はやめたんだ。」

と言っていた。すると杏美が、

「バカだねえ。このチャンスを逃したら、あんたなんかに二度とチャンスは訪れないんだから。」

と、脅し文句を言う。

 本因坊秀策ほんいんぼうしゅうさくは一度負けたといっても、それで将棋を止めるつもりもなかったが、宿った人間が悪かった! 元々がナマケモノでむらっ気な玲奈なのだ。

「嫌だよ。わたしゃあ、将棋は好きでも何でもないんだから。」

「なによ、あれだけ将棋、将棋と騒いでいたもんが。」

「それは、もう終わったの。宿題も済んでるし、これからは遊ぶんだ!」

「バカみたい。」

 いつものことだが、口の悪い姉妹には喧嘩に終わりがなかったのだ。結局、玲奈は母親と杏美に反旗をひるがえしたために、朝飯抜きとなっていた。

 

 津島少年との対局も済んで、今日からは思う存分遊べると思っていた玲奈だが、将棋というか、玲奈に対する考えを変えた母親と姉の、思いも寄らぬハプニングに遭遇して、文句タラタラの果てに空きっすきっぱらをかかえるという最悪の状態で、美代のところに遊びに行くこととなった。

 「なにさ。そんなに将棋がしたければ、自分たちがすればいいじゃないの!」と腹を立てるのだが、将棋が指せたのは、すべて秀策のおかげということにはつゆほども思いが至らないのだから、いい気なものである。

「美代ちゃん、遊ぼ!」

 突然押しかけられても、迷惑なのは美代である。その上、

「うちは貧しいから、朝ご飯、食べさせてもらえないんだ。何か、食べるものない?」

と、要らぬ事までペラペラとしゃべっていた。

「ええっ?! 朝ご飯、食べてないの?」

 そんなことを言われたら、何かしてあげないとと思うのが美代であった。

「そうだ、食べかけのスナック菓子ならあるよ。」

「それでいいから、めぐんでよ。」

 朝から、美代は玲奈にお菓子を取られていたのだ。

「思い出した。美代ちゃん、あれから少し時間が経ったけど、和尚さんのところに行ってみない? そうそう、もう一つ秀策の預かり物があるって言ってたじゃない。」

と、思いがけないことまで言い出す。

「だけど、突然行っても前みたいに和尚さんいないかもしれないよ。」

「いいんじゃない。いなけりゃ、明日行けばいいんだから。」

 「なんで私が明日も行かなければいけないの?」、すべてが美代には迷惑な話である。しかし、強引な玲奈にひっぱられるようにして美代も家を出ていた。

「お母さん、れなちゃんと遊びに行ってくるね。」

「こんなに暑いのに、どこに行くの?」

「地蔵院。」

「なんで、お寺?」

「れなちゃんが、用事があるらしいの。」

「ふーん?」

 美代の家を出ると、玲奈はもらった菓子の袋を首から下げたバッグにしまうのかと思いきや、しっかり握って食べながら歩く。行儀の悪い子であった。


 石切神社は、美代の家からすぐだった。二人は神社を足早に通り過ぎると、細い路地道を抜けて地蔵院の前にいた。

「こんにちは!」

 寺の軒先から、玲奈が大きな声で挨拶をする。

「はいはい、何かご用ですか?」

 住職の奥さんは顔を出したが、

「あっ?!」

と言うと、二人が分かるほど複雑な表情をしていた。それは、『ああ、また面倒な子が来た』という表情だった。それもそのはず、以前の玲奈の印象があまりにも悪すぎたのだ。そんなことは分からずに、

「こんにちは。住職さんは、おられますか?!」

と、玲奈は厚かましく言う。

「ええ、いるにはいますよ。」

と言いながら、奥さんは玲奈を見ずに美代を見ていた。どうも、玲奈を見たくないようだ。だが玲奈は、

「この前の続き、教えて欲しいんですが・・・。」

と、図々しさ全開で言った。

「ちょっと待ってね! 住職に聞いてきますから・・・。」

 奥さんが奥に入ると、まるで待っていたかのようにタイミング良く住職が出てきていた。別段、待っていたわけではないようだが住職は、

「もう、来ないのかと思っていたよ。」

と言うと、二人を見る。そして、

「君が、玲奈さん?」

と言いながら、美代を見た。言われた美代はびっくりすると、慌てて顔の前でイエイエというように手を振り、こちらがと玲奈を見て住職を見ていた。

「ああ、君が玲奈さんか!」

「はい、そうですが・・・。」

 玲奈は名前を言われて、変な顔をする。

「噂を聞いたよ。」

「はあっ?! 何を・・・、ですか。」

「君。将棋、凄いんだってね。」

「将棋ですか・・・、でも昨日きのう負けました。どうして、知ってるんですか?」

「朝、用事があってね。出かけた先で、君の話を聞いたんだ。将棋の天才だってね。」

 玲奈は強く首を振りながら、どういう顔をしていいのか分からないので恥じらったように舌を出していた。横にいた美代は驚いて、

「えっ、玲奈ちゃん凄い! どうしたのよ?」

と聞く。

「君は友達なのに、何も知らないの? 彼女はね、昨日きのう尾道で天才と言われている少年と将棋を指して、凄い勝負をしたらしいよ。」

「ほんとですか? わあ、れなちゃん、やったね! なんで、教えてくれなかったの?」

 美代は、自分が知らなかったことに恨み言を言っていた。二人の考えなど分かりようのない住職は、

「まあ、上がりなさい。この間の本因坊秀策ほんいんぼうしゅうさくの預かり物のことだね?!」

と言うと、奥に招いていた。前と同じ一番奥の部屋に住職は二人を案内すると、掛け軸の下に置いていた、いつ破れても不思議のない風呂敷包みを手に取り座卓の上に置く。

「これが、天野宗歩あまのそうほの将棋精選の写しだったね。」

と、小汚い紙の束をあらためて玲奈に見せた。『相変わらず、きったねえなっ』、自分でお願いしときながら、前回と同じように汚いものでも見るような目をした。

「それから、もう一つ・・・。」

と言うと、住職は埃まみれの別の紙の束をつかんでいた。

「こちらの束はね、外国の書を翻訳したものが書かれていて、内容はチェスだったよ。」

 玲奈と美代は、訳が分からずポカーンとしている。

「外国?」

「チェス?」

 玲奈が何も言わないので、美代が恐る恐る聞く。

「外国と言うと、どこですか・・・。」

 住職は状態の悪い紙の束を慎重にめくりながら、もったいぶって言う。

「私も素人で詳しくないからネットで調べたんだが、たぶんイギリス人が書いた本を翻訳したものだと思う。」

 突然、イギリスである。

「えっ、イギリスですか?」

「うん。江戸時代の事だから、どうして本因坊秀策ほんいんぼうしゅうさくがイギリスの・・・。」

 勉強は苦手な玲奈だが、それっくらいは分かるので、

「じゃ、ニセモノだ!」

と、鬼の首を取ったように言っていた。

「いや、そうでもないみたいだよ。」

 住職は紙の束を二人に見せて、

「これは、手書きしたものの写しなんだ。書かれている文字はカタカナ交じりの漢字で非常に読みづらいんだが、イギリス人のハワード・スタントンという人の『チェスプレイヤーのハンドブック』という本だと思う。」

「ええっ?! どうして、イギリス人がカタカナ交じりの漢字を書くことができたんだ?」

 美代を見ながら、玲奈は見当違いのすっとんきょうな声を上げる。美代はあわてると、

「そうじゃないの。」

と、玲奈をさとすように、落ち着かせるように言っていた。

「はっはっは、それはまず有りえないだろう。そうだね、オランダ人かポルトガル人が交易でやって来たときに、日本の誰かが本を手に入れたんじゃないのかな。そして、その本を翻訳したものが、これじゃあないだろうか。」

「江戸時代にチェスなんて、聞いたことないですね?」

と美代。

「うん、私もそう思う。これは、案外貴重なものかもしれないなっ。」

「でも、どうして本因坊秀策ほんいんぼうしゅうさくが持っていたんですか?」

「オランダ人が持ち込んだとしたら、長崎で誰かが本を手に入れて翻訳したのかもしれない・・・。」

 言いながら住職はしばらく考えていたが、

「そうか?! もしかしたら勝海舟かつかいしゅうが自分で翻訳したか、または翻訳したものを手に入れて秀策に渡したのかもしれないね。幕府ばくふにいた勝海舟かつかいしゅうなら、秀策と会う機会があったかもしれないよ。」

勝海舟かつかいしゅうですか? 名前は聞いたことがあります。」

 美代が目を輝かした。美代は歴女、歴史好きの女の子で坂本龍馬の大ファンだったのだ。

「それじゃあ、龍馬が持っていたんですか?」

「それは違うと思うよ、勝海舟かつかいしゅうと龍馬が親しくなる前のことだと思う。海舟も一時、長崎の海軍伝習所にいたから、そこで手に入れたか?! いや待てよ、もしかすると薩摩で手に入れたのかも・・・。」

「どうして薩摩なんですか? それに薩摩と言えば、篤姫の島津ですね?」

「そう、海舟は島津斉彬しまずなりあきらと親しかったし、斉彬はフランスと親しかったという。当時も今も、ヨーロッパではチェスが盛んだが、その頃チェスの本場はフランスからイギリスに移ったはずなので、もしかするとフランスから渡ってきたのかもしれないよ。」

「話が、ドンドン広がっていきますね!」

「まあね・・・、何も分からない私たちが『ああでもない、こうでもない』と言っているんだからね。」

 話を聞いているはずの玲奈だが、チンプンカンプンである。分からないから、とぼけたような愛想笑いをしていたが、そんな玲奈をほっといて美代は、

「じゃあ、本を書いたのはイギリス人でも、その本を持ってきたのはオランダなのかイギリスなのか、もしかしてフランスなのか分からないということですね?」

「まあ、そういう事かな。」

 話に入れない玲奈は面白くもなんともないので翻訳した紙の束を、前から『汚え、汚え』と言っておきながらも、手に取って見ていた。というよりは、本因坊秀策ほんいんぼうしゅうさくが、あまりの懐かしさにむしゃぶりつくように読んでいたのである。そんな玲奈を見て、

「あれ? れなちゃん、読めるんだ。」

と、美代が驚いたように言った。

「へん。私だって、自慢じゃないけどカタカナくらいは読めるんだよ。」

と、本人は読む気もないくせに情けない自慢をする。まあ読めても読めなくっても、読んでいるのは秀策だったが・・・。

 そんなこんなで時間が経つと、二人は住職に丁寧ていねいにお礼を言って地蔵院を出ていた。玲奈はお菓子の袋を持ったまま、

「美代ちゃん。今日は、ありがとう。」

と、気味悪く礼を言っていた。美代は一瞬ギクリとするが、

「どういたしまして。でも、今日は面白かったよ!」

と喜んでいた。

「そう言ってもらえて、良かったよ。・・・そっか? やはり、これからはチェスだね! よし、今度はチェスをやるぞ。」

「はああ?!」

 聞いた美代はあきれてしまうと、玲奈をしげしげと見ていた。ああ・・・、天才将棋少女はどこに行ったのだろう?!







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