第4話 玲奈、初めての他流試合

 次の日の朝、ラジオ体操から帰ると、ちょうど父親が起きたところだった。

「父さん、おはよう!」

と玲奈はにこやかに挨拶するが、当の父親はボサボサの頭をかきながらトイレに行くようで、

「おはよう。」

と、返事を返しただけだった。それを見ていた杏美が『ヤッター』プラス『気の毒』そうな顔をすると、

「アハッハ。父さん、もう忘れているよ。」

と、うれしそうに言っていた。玲奈は、

「そんな?!」

と言って、廊下を行ったり来たりして父親がトイレから出てくるのを待つ。しばらくして、やっと出てきた父親をつかまえると、

「父さん、昨日の約束覚えている?」

と聞いていた。まだ目が覚めきっていない父親は、『う、うんん?』という顔をして玲奈を見ている。

「ああっ、覚えてないんだ!」

「いや、将棋のことだろう。覚えているよ。」

と、目をこすり睡そうに言っていた。

 玲奈は杏美を振り返ると、舌を出す。それを見た杏美は、そっぽを向いていた。

「じゃあ、早くしようよ。」

「まあ、待てよ。今、起きたばかりなんだから。朝飯くらい、ゆっくり食べさせてくれ。」

「じゃあ、食べたら教えてくれるんだね。」

「分かった、分かった。」

 父親の返事に玲奈はスキップをしながら居間に行くと、盤と駒を用意していた。

「将棋、将棋・・・。」

 朝ご飯の仕度をしている母親と、その手伝いをしていた杏美はあきれたような顔をして玲奈を見た。

「やっぱ頭を打って、少しおかしくなったんじゃない?! ねえ。お母さん・・・。そう思わない。」

「そうね、ちょっと変ね。」

「ちょっとじゃないよ、だいぶ変だよ。」

 姉妹そろって口が悪いので、杏美は平気でキツいことを言っていた。聞こえているのか聞こえていないのか、玲奈はへっちゃらな顔で駒を並べている。

「さあ、準備はできたぞ。」

と言うと、どこで覚えたのか行儀よく正座をして父親を待つ。

 待つこと、一時間。玲奈は何度膝を崩したり、正座し直したりしていただろか。朝ご飯を終えた父親が、やっと玲奈のところに来ていた。

「玲奈。ご飯、まだなんだろう?」

「お昼にいっしょに食べるからいいよ。」

 すると杏美が、

「食べないと、母さんに捨てられるよ。」

と嫌みたらしく言う。玲奈は杏美を無視すると、

「母さん、お昼にいっしょに食べるから置いといて。」

「あんたのお腹は、どうなっているのよ?! 昼にいっしょに食べて、お腹をこわしても知らないわよ。」

と、怒ったように言っていた。

「さあ、父さん! 将棋、将棋。」

 そんな玲奈に、父親もあきれてしまう。仕方なく父親は、まず駒の動きから教えていた。そして一通り教えると、

「そんなにやりたいのなら、手加減はせんぞ。」

と言っていた。

「いいよ、望むところよ。」

 玲奈のどこにそんな強気が隠れていたのか、父親をはじめ、母親も杏美もあきれているし、だいたい本人が本当のことを分かっていなかった。

「よし、玲奈が先手で指していいぞ。」

「うん、分かった。」

 玲奈はうれしそうに両手をすりあわせ気合いを入れると、

 先手、玲奈。2六歩。

 後手、父。5二玉。

 先手、玲奈。7六歩。

 後手、父。4四歩。

 先手、玲奈。2五歩。

 後手、父。1二香

 先手、玲奈。6四銀。

 後手、父。2四歩。

 先手、玲奈。同歩。

 後手、父。4三玉。

 先手、玲奈。2三歩成。

 後手、父。1一角。

 先手、玲奈。1二と。

 後手、父。同飛。

 先手。玲奈。2四歩。

 後手、父。3四歩。

 先手、玲奈。2三歩成。

 後手、父。4二飛。

 先手、玲奈。3八銀。

 後手、父。6二飛。

 先手、玲奈。3六歩。

 後手、父。4二玉。

 先手、玲奈。2四飛。

 後手、父。8四歩。

 先手、玲奈。3四飛。

 後手、父。3三歩。

 先手、玲奈。4四飛。

 後手、父。5二玉。

 先手、玲奈。4三香。

 後手、父。5一金。

 先手、玲奈。1二と。

 後手、父。9二香。

 先手、玲奈。1一と。

 後手、父。7四歩。

 先手、玲奈。2一と。

 後手、父。3二銀。

 先手、玲奈。2二と。

 後手、父。4一銀。

 先手、玲奈。同香成。

 後手、父。8二銀。

 先手、玲奈。3二と。

 後手、父。3四歩。

 先手、玲奈。5一成香。

 後手、父。同金。

 先手、玲奈。4三角。

で、先手の勝ち。

 勝負は三十分もかからなかった。『やったあ、やったあ!』と玲奈は大喜びだ。それを聞いて、母親と杏美がやって来た。遊びのつもりが遊びでなくなり、父親は腕組みをすると渋い顔で盤面をにらんでいる。

「あら、お父さん? わざと、負けてやったの?!」

「まあ、なっ。」

 父親は、なんとか親の威厳を保とうとするが苦笑いしかなかった。

「アンタ、父さんに勝ったの?」

 杏美はウンザリしたように言う。


 次の日。玲奈の父親は会社の昼休みに、空き時間を利用して同僚の橋田と将棋を指していたが、ボソリと、

「じつは・・・。きのう、娘と指して負けてしまった。」

と頭をかきながら、ぼやく。

「へえ、娘さんに負けたのか?」

「そうなんだ。将棋もまともに知らない下の娘として、負けてしまった。」

「おいおい、それはないだろう?!」

「本当の事だ。喜んでいいのか、悲しまなくてはいけないのか?!」

「でも、将棋を知らないんだろう?」

「ああ。上の娘がチョコッと教えたんだが、長女自体があまり将棋を知らないし・・・。まいったよ。」

「それは、おかしいんじゃないのか。」

「まあね。上がまともに知らないのに、下がどうして知ってるのか?」

「なにか・・・。そう、パソコンで習っていたとか。」

「それが、下のは、パソコンを持っていないんだ。」

「じゃあ、どうして?」

「あれが原因じゃないかと、思っているんだ。」

「あれがと言うと?」

「恥ずかしい話だが、下はおてんばで、この前友達と石切神社で遊んでいて転げ落ちて頭を打ってね。それから将棋、将棋と言い出したんだが、それだけならまだしも、変に強いんだ。」

「ほお、興味深いね。どういう事だろう・・・。」

「おお、そうだ。橋田、君はアマと言っても有段者だから、一度娘と手合わせしてもらえないだろうか。」

 橋田は興味深そうな顔をするが、

「しかし吉本、お前負けたんだろう。もし俺が負けたら、立つ瀬がないよ。」

「大丈夫さ。たかが、小学生だ。お手柔らかに頼むよ。」

「それじゃあ、一度娘さんと手合わせといきますか。」

 その日、父親は帰ると玲奈をつかまえて、

「うちの会社に将棋の強い奴がいるんだが、玲奈の話をしたら一度手合わせをしてもいいと言うんだ。どうかな?」

と、玲奈の顔を見ながら言っていた。

「へえ、そんなに強いの。私も一度、指してみたい。」

 娘の返事を聞いて、自分で言っときながら父親は少しムッとしていたが、

「そうか・・・。じゃあ橋田に伝えて、いつがいいか聞いてくる。」

「うん、分かった。今休みだから、いつでもいいよ。」

 玲奈は、アッケラカンと言っていた。


 次の日曜、橋田がやって来ていた。

「奥さん、久しぶりです。前にお会いしたのは、社内旅行の時でしたかね?」

「いつも主人がお世話になっています。そうですね、もう五年も前ですか。」

「五年ですか・・・、早いものですね。それはそうと、これは気持ちだけですが。」

 そう言って、橋田は持っていた缶ビールの箱を母親に渡す。すると父親が、

「ダメだよ、気を使わないでくれ。こっちが無理を言っているんだから。」

と言って、頭を下げた。

「そうもいかないさ。それより、娘さんを紹介してくれよ。」

 橋田に言われて、父親は玲奈を手招きした。

「これが下の娘の玲奈と言うんだが、それとこっちが上の娘の杏美。二人とも、橋田さんに挨拶しなさい。」

「こんにちは。」

「こんにちは。」

「玲奈さんは、将棋が強いんだってね。」

「いえ、そんな・・・。父に勝ったのは、マグレです。」

「そうよ、玲奈は始めたばかりだものね。」

 この姉妹は家族以外には、驚くほどいい顔をする。それ故、橋田が帰った後が見ものであった。橋田は玲奈に、

「それじゃあ、さっそくお手合わせをお願いしてもいいかな。」

と言っていた。玲奈も神妙な顔をして、

「はい、お願いします。」

と言うと、行儀よく正座をした。

 橋田も座ると、二人で駒を並べはじめる。先手は玲奈で、勝負を開始した。

 玲奈。7六歩。

 橋田。3四歩。

 玲奈。2六歩。

 橋田。4四歩。

 玲奈。2五歩。

 橋田。3三角。

 玲奈。4八銀。

 橋田。3二銀。

 玲奈。5六歩。

 橋田。5四歩。

 玲奈。5八金。

 橋田。4二飛。

 玲奈。6八王。

 橋田。6二王。

 玲奈。7八王。

 橋田。7に王。

 玲奈。9六歩。

 橋田。9四歩。

 玲奈。3六歩。

 橋田。8二王。

 玲奈。7七角。

 橋田。4三銀。

 橋田が、「これは?!」と言いながら、うなるように指していた。その一方、玲奈はと見ると、考えているのかいないのか、見ようによっては自分の意思ではなく誰かに動かされているように見えていた。

 今ひとつ将棋が分かっていない玲奈を動かしているのは、もちろん本因坊秀策ほんいんぼうしゅさくで、秀策は地蔵院で見た天野宗歩あまのそうほ棋譜ぎふを、またたく間に自分のものにした上で指していた。

 当然だが、そんな事とはつゆほども知らない父親は、呆れたように二人の次の一手を、息を呑みながら見守っていた。

「驚いた! 玲奈が、これほどやるとは・・・。」

 父親の言葉が聞こえているはずの橋田だったが、答えるだけの余裕がない。盤上では、そろそろ決着が付こうとしていた。

 玲奈百十五手。6四角。

 橋田。同王。

 玲奈。5四金打。

 橋田。同金。

 玲奈。同桂成。

 橋田。7三王。

 玲奈。6二竜。

 橋田。8四王。

 玲奈。7二竜。

と、玲奈が指したところで橋田が言っていた。

「まいりました。」

「おいおい、玲奈。凄いじゃないか、この橋田を負かすなんて!」

 この時ばかりは、父親もあきれていた。橋田は頭を叩きながら、

「こりゃ、まいったな。玲奈ちゃんは凄いよ、地区大会に出ても優勝できるかもしれない。」

と言って、行き場のない照れ笑いをしていた。

「しかし・・・。玲奈ちゃんの棋風は、どこかで見たことがあるような?」

と、考え込んでしまう。

「橋田。どこかで見たとは、どういう事だ。」

「うん、どこかで見たような・・・。あっ、そうか! 升田幸三ますだこうぞう?! いや、天野宗歩あまのそうほだ! そういう事か・・・。」

 何がそういう事か、橋田にも説明が付かないが・・・。

「何々、天野宗歩あまのそうほ?」

「そう。棋譜ぎふが、ほとんどいっしょなんだ。」

 父親は天野宗歩あまのそうほと聞いても、ほとんど知らないのだが、橋田との普段の会話のなかで、凄い将棋指しということだけは分かっていた。当然だが、父親の頭は飛躍する。

「じゃあ、うちの娘は天才か?」

「もしかしたらね・・・。そうだ、尾道に中学生だが凄い男の子がいるので、玲奈ちゃん彼と一度指してみてはどうかな? 僕が会わせてあげるよ。」






 






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る