Good Night
水野ハル
第1話 Lily
たった一人の客を乗せて、バスはまっさらな雪の平原をゆっくりと走っていた。みすぼらしく枯れた稲の残骸や、黒くひび割れた水田の泥を、美しい氷の結晶で覆い隠して、雪原は静かに、冷たく、どこまでも広がっていた。
一面が雪に覆われてしまっていても、目的地が近づいていることは、なんとなくわかる。遠くに連なる山々や、ぽつぽつとたたずむ防風林。幾度となく足を運んだ経験が教えてくれる。
車内アナウンスが目的地の名を告げた。僕は腰を浮かせ、頭上の降車ボタンを押した。バスは低いうなりを上げ、車体を大きく揺らした。僕が持つユリの甘い香りが鼻をくすぐった。
バスは停まり、前方のドアが開いた。運転手が膝の上で指を叩く、神経質そうなリズムが小さく聞こえた。僕はポケットに入れておいた小銭を運賃箱に放りこみ、百合の花を守るようにしながら、バスを降りた。バスはすぐにドアを閉め、低い音をとどろかせ、住宅地へと続く道を行った。
灰色の雲が、空全体にべったりと貼りついていた。僕は杉の木に囲まれた細い道を上った。杉の黒い葉に積もった雪が、ときどき音も無く落ちてきた。雪を踏むくぐもった音だけが、規則的に鳴っていた。
坂の途中で、僕は横道に入った。林を抜けると、開けた場所に出た。そこには黒や灰色の石が静かに並んでいた。僕は小さく会釈をしながら彼らの前を通り過ぎ、墓場の奥まで進んでいった。
僕は彼女の前に立った。特別小さくも大きくもない、ごく普通の墓石だった。僕は墓石に積もった雪をはらい落として、持ってきた白い百合の花を供え、線香に火をつけ、手を合わせた。
「久しぶり」と僕は言った。
返事は無かった。
「何か変わったことはあったかな」
黒い墓石はじっとたたずんでいた。
「昨日、試験を受けてきた。たぶん受かると思う。A判定だったしね。まあ、なんとかなったよ」
線香の灰が、ぽとりと落ちた。
「だから、春からはあの街を出るよ。今までみたいには、ここに来ることはできないけど、時間を見つけて会いに来るよ」
百合の花はくすぶる線香を見つめていた。
「引っ越す前にまた来るよ。じゃあ、またね」
彼女が眠る墓石に手を合わせるとき、いつも考えることがある。彼女は本当にここに眠っているのだろうか。「ヒロキくん、わたしはこっちだよ」なんてことを言いながら、じつは僕の後ろで笑っているんじゃないだろうか。彼女ならやりそうなことだ。でも、それは僕の願望でしかないのだろう。ここに眠っていると思うことも、同じなのかもしれない。それでも、僕は手を合わせた。彼女が石の下にいても、僕の後ろにいても、それともどこか遠くにいたとしても、僕は構わなかった。生者の行動は生者のためにあるのだから。
彼女は本当に存在していたのだろうか、と僕は考えたことがある。彼女は本当はどこにもいなくて、傷ついた僕の心が作り出した幻影ではないのだろうか。記憶の端から引っ張ってきて、都合よく作り上げられた架空の人物なのではないか、と。
でも、そんなことはどうでもよかった。僕は彼女と過ごした多くの時間を覚えている。彼女が話した言葉も、その声も、表情も、そのときの風も、空も、全部覚えている。そしてそれを何よりも愛おしく思っている。それが幻だとしても構わない。現実だろうが幻影だろうが、それが大切な記憶であることには変わらない。
僕は彼女が好きだった。でもそれは男女の関係ではなく、一人の人間として、だ。彼女のほうも、僕を男としては見ていなかっただろう。彼女に触れたいと思うことはあったが、それは性欲などとはかけ離れた欲求だったと自分では思う。
僕はただ彼女の隣にいたかった。僕が見る景色の中に彼女の姿があればよかった。また、彼女が見て微笑むような景色の中に僕が含まれていればよかった。
本当に、ただそれだけだったのに。
僕は坂道に刻まれた自分の足跡を見つめた。そして、一度だけ振り返った。雪をかぶっていない墓石のそばに、小さく白い花が、静かに座っていた。一輪の百合の花は首を傾けて、僕が手を合わせていた場所を見つめていた。
「僕はこっちだよ、ハナコ」
僕はそう囁いて、坂道を下った。
Good Night 水野ハル @haru_mzn
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