シドさん

そんな僕の失態をいつもメンバーと一緒に笑ってくれるはずのシドさんが……同じ日から、ライブハウスに来なくなった。

 シドさんが所属するJack in the boxのメンバーさん達によると、彼女と一緒に住んでるはずのアパートには、すでに他の人が住んでいたそうで……黙って失踪したのではないかという話だった。

 僕たちはシドさんにサポートしてもらっていただけだったけど、Jack in the boxはたちどころに困った。シドさんほどの技量を持ったサポートメンバーがすぐに見つからなかったからだ。今までの恩返しにとシンゴがサポートを買って出たけど、Jack in the boxはインディーズとは言え、大きなハコでもワンマンでいっぱいに出来るほどの有名バンド。たかだか高校三年生が、一日二日練習したくらいで叩きこなせるものではないらしく、「気持ちだけはもらっておく」と丁寧に断られた。

 週に二回の小さなライブハウスでのライブは、なんとか別のサポートに入ってもらってこなしていたけど、月に一度の大きなハコでのライブは待ってはくれない。ファンのほとんどがボーカルさんと、ルックスの良いシドさんの人気で支えられていたバンドだったから、シドさんがいなくなったと周りに知られてからたった二週間で、Jack in the boxの人気は目に見えて下がり始めていた。

 最初は悠長にシドさんの帰りを待っていたメンバーさんたちにも、大きなライブを十日後に控えた頃から、焦りの色が見え始めた。


 ……だけど……結局……ライブの日になっても、シドさんは帰ってこなかった。

 大きなライブを、主力メンバーがいないままでこなしたJack in the box。そのライブは、それでも僕たちなんかよりずっとずっと素晴らしいものだったけど。だけど、ファンにも、メンバーさん達にも、それは最悪のライブだったらしい。

「シドさんの帰りを待つか、解散か」

 最悪のライブを終えたメンバーさん達が、喧々諤々話し合う中。


――大雨が降る、二月の夜。僕は、路上で倒れるシドさんを見つけた。


「なんで、こんなところに寝てるんです」

 思わず、僕は路上でうつぶせに倒れ込む、ボロボロの服を着込んだ巨人に声をかけた。

「……返事がない。ただの屍のようだ」

 冷たい雨が降る、ダウンコートを着ていてもギュッと身を縮めないと寒くて仕方がないこんな夜。コンクリートに寝そべったままのシドさんが、ポツリと呟く。

「………」

 僕は思わずくるりと踵を返した。そんな僕のジャージの裾を、シドさんが掴む。

「屍がジャージの裾をつままないでください」

「腐った死体だ」

「マドハンドですか。何があったか聞いてあげますから、起き上がって下さい」

 僕の言葉に、シドさんが顔を上げる。

 その顔に、僕は少し、ほっとした。ガリガリに痩せて、頬がこけて、目もくぼんでるけど……世の中を悲観したとか、そういうような顔ではなかった。



 僕はシドさんを近くのビジネスホテルに連れて行った。とりあえず、何よりもまずシャワーをあびてもらう。耐えられないほどに臭かったからだ。これじゃあ、ファストフード店にすら入れられない。

 シドさんはまるまる一ヶ月間姿を消していたけど、お風呂に入ったのは今が初めてだという。脱いだぱんつも臭いし、着ていたコートも二月に着るような分厚いものではない。もともと体毛の薄い人なのに、一度も髭を剃ってないのか、無精髭を通り越して顔の半分が柔らかい髭で覆われている。

「何があったんです」

 ビジネスホテルに併設されていたコンビニで、ぱんつとシャツだけは売ってたから、それを買って、お風呂上がりのシドさんに着てもらった。

「一緒に暮らしてた女に捨てられた。家に帰ったら、アパートが引き払われてた」

「……ライブハウスに住めば良かったじゃないですか。どうせそこで働いてるんだから」

 僕が言うと、シドさんがじっと僕を見つめる。

「その発想はなかった……」

「その発想を持ちましょう」

 女に捨てられたと軽々しく言ったシドさんだったけど、その理由については口を濁したいようだった。ただ……。その女性がシドさんにとって、とても大事な人だったことだけは……僕にも分かった。

 僕に向かって元気そうに笑うシドさんは……僕が差し出したサンドイッチに、一度も口をつけなかった。

 この一ヶ月間、きっとずっと、そうしてきたのだろう。

 Jack in the boxのメンバーさん達に謝っている最中も、そして、メンバーさん達にごってりたっぷり叱られて……Jack in the boxの解散を告げられている最中も……僕が差し出した、大好きな銘柄の缶コーヒーにすら、ただの一度も口をつけなかった。


「シドさん。食べてください」

 メンバーさん達が帰ってから、僕はシドさんにサンドイッチを差し出す。シドさんを拾ってから二日。まだ、ただの一度も食事をしているところを見ていない。それどころか、水すら飲んでいるのか、怪しかった。

「いらん」

 サンドイッチを差し出す僕に、シドさんがそのサンドイッチを押し返し、首を振る。そして、匂いを嗅ぐのも嫌そうに、トイレに駆け込んだ。

「……つわりですか?」

「うん、いま、三ヶ月で……」

 そんなボケだけは返す余裕はあるらしい。

 僕は大げさに溜息を吐いて、シドさんに缶コーヒーを差し出す。

「せめて、水かコーヒーだけでも飲んで下さい」

 それでも、シドさんはにこりと微笑んで、それを僕に押し戻した。

「……食べないと死にますよ?」

「よかったい」

 ……甘い。

 ケーキか、マシュマロか……。なんだか、そんな、お菓子を連想させるような……甘ったるい声。

 いままでどこか、頑張って声色を低めにして喋ってるような気はしていたけど、シドさんの地声ってこんな甘ったるい、高い声だったんだ。

「……セツヤの彼女……森子チャンやっけ? 元気か?」

「別れました。ふられました。もう要らないって」

 僕が応えると、シドさんが力なく笑った。……違う。いつも通り大きな声で笑っているつもりで、力が出ないんだろう。

「いかんやね」

 ポツリと呟き、シドさんはベッドに倒れ込むように寝そべった。

「たった一人んおなごし大事にできんで、ファンば大事にできるわけ、なか」

「……訛りキツイっすね」

「やけん、これのほんなこつん俺やけん」

 ベッドに仰向けになり、照明がまぶしそうに手をかざして、シドさんは呟く。大きな腕時計を付けた、その手で……シドさんは、何度も何度も、自分の額を叩いた。

「……出て行った彼女に何をしたのか、無理矢理聞きます」

「……枕営業」

 シドさんの言葉に、僕は驚いてシドさんを見つめる。

「ずーと、ずーと、リコさんに会うずーっとずーっと前から……Jackを始める前から、俺は枕営業で客獲ってきとるんよ」

「バレたんですか?」

「客の一人が、俺の彼女になったと思い込んで……リコさんに、直接別れてくれち、言いにいったって……」

 彼女が愛想を尽かすのも当たり前だ……。僕は思わず大きく溜息を吐いて、両手で顔を覆った。

「アホやなあ、俺」

 手の甲で顔を覆ったまま。シドさんが、小さく、小さく、呟いた。

「失って、ほんなこつ大事なもんが、ようやっと見えた気がしたんよ」

 その言葉から、しばらくの沈黙。そして……シドさんは、掠れた声で、絞り出すように、彼女の名を呼んだ。

「……リコさん……ごめんなあ……」

 ごつんごつんと腕時計を額に叩きつける音が響く中……たった一言。僕はもう、それ以上……シドさんに食べ物を勧めるのも、失踪した理由を聞くことも……辞めた。

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