4.炎の跡

 それは、太陽が空の頂上に登ってから、ほんの少し、首をかしげた……それくらいの時間でしかなかった。

 だが、温羅の村はもう、あののどかで穏やかな、優しい空間ではない。


 ただ、灰色。


 なにもない灰色の世界が広がっている。

 犬は子どもたちを守り、炎によって視力を失った。小猿はだらしなく結い上げた美豆良が半分ほど焼け落ちただけですんだが、羅はおばぁと老人たちを守り、背中に大きな傷を負い、歩くこともままならなくなった。


「酷すぎる……」

 灰色になった島を見渡し、もう目の開かない犬がぽつりと呟く。未だくすぶり続ける焼けた藁の匂いが、犬の鼻をついた。

「雨が降る……」

 空を見上げて、小猿が呟く。程なく、大粒の雨が降り、山火事を消し、くすぶり続けていた小さな火を消していく。

 雨に打たれながら、犬はただ、死んだ子たちの亡骸を埋める穴を掘り続けた。


「乙姫」

 ウラシマが、羅に心配げに寄り添う豊玉臣に、海神の娘の名前を呼びかける。

 いままで「乙姫」という呼ばれ方などしたことがない豊玉臣はウラシマの顔を不思議そうに眺めていたが、その真ん中にある大きな傷に見覚えがあって、「ウラシマの村の人」と、答えた。

「豊玉、違う、この人は……」

「やめろ、ホオリ」

 昔の名前でそう呼びかけて、ウラシマは豊玉に玉手箱を差し出す。

「……これ、なに?」

「開ければ、煙が出ておばあさんになってしまう、不思議な箱だ」

「え!? やだよ、そんなの、要らない!」

 豊玉は驚いてウラシマに玉手箱を突き返すが、ウラシマはさらに、豊玉にその箱を押し戻した。

「嘘だよ。俺の宝物だ」

 豊玉は驚いて玉手箱を開ける。中には、どこかでなくしたと思っていた櫛が入っていた。

「……この櫛……」

 豊玉は驚いてウラシマを見つめる。

「ずっと、返したかった」

 ウラシマはただ、それだけ言うと、豊玉臣の背中で自分を見つめるトヨに気づいた。

「……トヨ。無事だったか」

 娘の元気な姿を見たウラシマが両手を広げると、トヨが嬉しそうに父に駆け寄った。

「お父様! 怖かった」

 抱きしめ合う親子を見て、豊玉が「よかった」と微笑む。

 豊玉は戦火の中、羅の三人の娘と共に、トヨも守り通していた。

「ありがとう」

 ウラシマが、心の底から豊玉に感謝を示す。

「怖かったでしょう、トヨ。頑張ったね。さ、お父様と一緒に、ウラシマの村に帰りなさい」

 豊玉に促されたトヨが、小さく、頭を振った。

「トヨは、ウラシマの村には帰らない。この村を元に戻さなくちゃ」

「ムリよ! トヨはまだ小さいの。ここはあたしたちに任せて、お父様と帰りなさい」

「そうだよ、トヨ! 君の代わりに僕が残って村を作り直すから、君はお父さんと帰りな……」

 豊玉臣の言葉にかぶせて、トヨの代わりを申し出るワカ、そしてイサと桃姫を村人たちは全員でにらみ付け、担ぎ上げて船に乗せる。

「お前たちのせいでこの村がこんなになったんじゃないか! ヤマトは帰れ!」

「何だとお前ら!」

 売り言葉に買い言葉でいきり立つイサだが、ヤマトの兵が村を焼き払った事実を前に、振り上げた拳を降ろし、村人たちに頭を下げた。



「申し訳なかった」

 イサと、村人たちのあいだに、沈黙が流れる。


「……イサ。わたし、トヨたちと一緒にこの村に残る」

 いうなり、桃姫が船の上から飛び降りた。

「わたしと小猿は薬の知識がある。村の人々を癒やすことが出来る。傷ついたヤマトの兵士たちも、この村で預かるわ。だから……この村のことは心配しないで、あなたたち二人はヤマトに帰りなさい」

 桃姫はそういうと、ウラシマに合図を送る。

 ウラシマは頷いて、ゆっくりと船を漕ぎ出した。

「桃! ヤマトが落ち着いたら、絶対、迎えに来る!」

 イサと、ワカの叫び声だけが……ただ、遠くから聞こえる。


 ヤマトが造った船はウラシマの案内により、海流に飲まれることなく海を横断し……ウラシマの浜に着いた。

 イサとワカはヤマトの国に戻り、孝霊帝の葬儀、ワカの即位を済ませた。



 これ以降、孝霊帝の末子ワカタケヒコノミコトは第八代大王・孝元帝となり、亡き兄東宮の子、7歳になった男一の宮を自分の養子とし、開化東宮として傍に置いた。

 

 位を追われるかと恐々としていた細媛命くわしひめのみことは……王太后という身分を与えられ、御所にほど近いところに新しい御殿を造り、そこで、ただ一人……静かに余生を送ることになった。


 イサは……ワカを即位させたあと、そのまますぐに温羅の島に向かおうとしたが、孝元帝がそれを止める。

 孝元帝はまず、イサに吉備や山陰のほうの平定を命じた。

 孝元帝の命令に従って、吉備地方を制圧するのに、実に十年の月日を要した。


……いつしか、イサは「吉備冠者」と呼ばれるようになっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る