2-2.小猿

 巫女の君が自分を訪ねてきた……と、息子である犬飼健いぬかいたけるから聞いて、シトはその豊満な肉体を揺らしながら、御所の中を突っ走った。

「母上! うるさい」

 息子がそうたしなめるのも聞かず、シトは部屋の中にいるはずの【巫女の君】を探す。

「巫女の君はどこ?」

「母上の目の前だ」

 息子が視線を向ける老婆の方に目を向けて、シトは驚いて目を見開いた。

「え?」

 シトは一瞬、息子の顔を見つめる。息子は、酷い匂いのする老婆に目をやり、「これが巫女の君だ」と母に言った。

「そんなわけないじゃない。だって、巫女の君はクニカ姫や第4王妃ハエイロド姫と同い年なのよ?」

「それは知らん。だが、確かにこの老婆から、巫女の君の匂いがする」

 今年数えで52歳になる自分よりさらに20歳は年上に見える老婆に驚きながらも、シトは老婆の前に座り込んだ。

「……巫女の君で、お間違いはございませんの?」

細媛命くわしひめのみことに産所を追われたとき……シト殿に助けていただいたことは、忘れておりません」

 シトは、そう言って涙を流す白髪の老婆を、その太った身体で【巫女の君】を抱きしめる。

 母の肉圧で老婆の腰の骨が折れないかと、犬は余計な心配をしたが、十数年ぶりの再会に涙を流し合う二人に「あとは母上と巫女の君で存分にお話あれ」と言いおいて立ち上がった。部屋を出ようと踵を返したが、その部屋の隅っこで所在なくきょろきょろと首を動かす、小さな白い髪の少年に気づいて視線を向ける。

「おい、小猿。遊んでやるからついてこい」

 犬は【小猿】と呼んだその白い髪の少年の顔に、白い布をかけた。

「なにすんねん」

 小猿が、犬がかけたその布を払う。だが、犬は困った顔をして「」と謎めいた言葉をかけ、小猿の鼻から下を布で優しく覆ってやると、小猿の小さな身体を抱き上げた。


 犬と小猿の姿が見えなくなると、シトが「巫女の君」と、老婆に呼びかけた。

「あの子は、そなたの子?」

 シトが老婆に確かめたかったのは、小猿の出自ではない。……と、いうことだった。

「左様です」

 その言葉でシトは納得して、もうそれから小猿のことを聞くのはやめた。

「何故、東方の御所から帰ってこられましたの? 桃姫が孝元東宮の斎宮様として東方の御所に参られる日まで、そちらでお待ちせよと……クニカ姫様からのご命令ではありませんでしたか?」

 ヤマトを守る神々を祀る宮殿が、ここから東のある地方の湖のほとりにある。その宮殿には成人した男性は入ることが許されず、斎宮さいぐうをいただいて、小さな子どもと女ばかりが暮らしていた。

 イサの双子の姉である桃姫は、孝元東宮が即位した際にこの宮殿の斎宮になることが生まれながらに決まっているのだが、この老婆はクニカ姫に命じられ、桃姫が東の御所に行った際には女官長として桃姫のお世話をするために、12年も前から東の御所で桃姫のお越しを待っていたのだった。

「夢を見ました。もうすぐ、孝元東宮が身罷みまかられます。そうなればもう、桃姫が斎宮として東方の御所に来られることはなくなりましょう」

 シトの言葉にかぶせて老婆はそう言い、シトをじっと見つめる。

「なんてことをおっしゃいますの!? 東宮は、お元気でいらっしゃいます! まだ24歳ですのよ?」

 シトは声を荒げるが、老婆はゆっくりと首を振った。

「すべては天命と心得まする。儂は元々は流浪の巫女。クニカ姫のお言葉に甘えて12年もの時を東の御所で過ごすことが出来たが、もう……桃姫にお会いすることも叶わぬ。流浪の民は、流浪の民に戻ろうと思う。だが、あの白き息子のことだけが気がかり……」


 小猿あの子が、何故あんなに全身が透き通るように白い子どもなのかは、巫女の君にもわからない。だが、白髪の子どもを連れて外の世界を歩くのは非常に目立ち、また、もうすぐ10歳になろうとする子を女ばかりの旅団に入れれば、色恋沙汰のいさかいの元にもなりかねない。それで、あの子を桃姫の従者にしようと思い立ったという。


「あの子はきっと、桃姫のお役に立ちます。どうぞ、のことをよろしくお願い申し上げまする」

 深々と頭を下げ、老婆はひとり、御所を出た。


 シトから話を聞いたクニカ姫が老婆の行方を捜したが……それ以降、老婆の行方は杳としてしれない。



 東の宮殿から来た老婆が置いていった白い髪の毛をした小さな少年は、シトの十五番目の子どもとして育てられることになった。

 同時にクニカ姫から月読尊ツクヨミノミコトという名前を賜ったが、誰もそんな仰々しい名前で呼ぶ者はいない。みんな、犬飼健いぬかいたけるが呼ぶのにならって【小猿】と呼んだ。


 小猿は、暇があれば空を見つめている子だった。

「おばちゃん。今から雨降るよって、晩飯のしたくは、早うやった方がええで。夜中まで、止まん」

 雨が降る時間から、それが止む時間。風が吹く方向、水害、台風の発生までぴたりと言い当てるので、クニカ姫の御所で働く奴婢たちは、小猿を重宝がった。

 真っ白の長髪に、顔の半分を布で覆った奇妙な出で立ちの少年を奇怪に思う従者たちもいないではなかったが、クニカ姫とシトが「小猿の髪の毛は神様の恩恵。下手にいじめると龍神の祟りがある」などと教えたので、孝霊帝の子どもたちも従者たちも、小さな小猿をいじめようとする者はいなかった。



 そんな小猿に、イサの双子の姉、桃姫ももひめが興味を持った。

 この桃姫も不思議な子で、生まれながらに身体から馨しい桃の香りがした。それで誰が言い始めたともなく、「桃姫」と呼ばれるようになったのだが、この桃姫も、小さな頃から暇があれば空を見つめている子だった。

 その日の午後の天気から、7日後、10日後の天気を読む。そればかりか、御所の中から山でイノシシ狩りをしているはずのイサが崖から落ちて怪我をするから手当の準備をしておけ……と、侍女に命じたり、庭で兄弟と遊んでいるワカがもうすぐ木から落ちて運ばれてくる……など、怪我や病気に関することも当ててしまう。

 御所では教える者がいないはずの薬学に非常に詳しく、第4王妃ハエイロド姫の産んだ末弟のワカと二人で日がな一日、薬をすりつぶしてはその成分を調べて……というようなことを繰り返していた。



「小猿はイサよりもずっと、自分の弟みたいよ」

 そんなことを言う桃姫を、クニカ姫は複雑な思いで見つめている。

「小猿は桃姫にそっくりよ」

 桃姫の従者の豊玉臣が、クニカ姫にそんなことを言う。

「犬が、小猿の顔にあんな布をかけたの。自分の顔を出して歩くことがかなわないだなんて、可哀想に」

 クニカ姫は「小猿の顔に布をかけずに生活させてやりたい」と嘆くが、豊玉臣が首を振る。


 小猿の母……犬やシトが「巫女の君」と呼んでいた老婆は、シトが言うとおり、クニカ姫と同い年のはずだった。

 巫女の君が16の頃は、非常に美しい旅の巫女だった。それで孝元帝に気に入られ、桃姫を生んだ。桃姫を産んですぐ、巫女の君は、細媛命くわしひめのみことによって、御所を追われた。

 生まれたばかりの姫君の命まで失われるのではないかと思ったクニカ姫は、巫女の君が産んだ姫は死産したと細媛命くわしひめのみことに偽り、自分が双子を産んだことにして、巫女の君が産んだ姫君を引き取った。

 それが、桃姫である。



「イサの宮がもうすこし、心の中も大人におなりになってからにしましょう」

 生まれて12年間、双子として育った桃姫とイサが実は同母の姉弟ではなく、桃姫の母は別に居て、小猿はその母から生まれた桃姫の異父弟である……。そんなことが今のイサにバレたら、頭が混乱して小猿を殺してしまうかもしれない。

 豊玉臣がそんなことを言うが、イサの気性の荒さは折り紙付き。あながち、冗談とも思えず、クニカ姫は深いため息をついた。

「ねえ、豊玉。わたくしは、いつかイサと桃姫を妹背いもせにしたいと思っているの」

「そうね。お二人はきっと、お似合いの夫婦におなりだわ。でも、それも……イサの宮がもう少し、大人におなりになってからにしましょう」

 豊玉臣がクニカ姫の手を取って、8歳も年上の姫君に優しくそう諭した。

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