猿が来る、いつも猿は来る、両手広げて待っている

2-1.イサの話

 双子が生まれてから、12年の歳月が流れた。


 現代に比べて栄養が不足しているこの時代、多胎児でなくとも赤ん坊は育ちにくかったが、倭国香媛ヤマトノクニカヒメが産んだイサセリヒコは大王おおきみの憂いなど吹き飛ばすかのように、健康的に育った。

 強情でわがままなところが目立ち、侍女や奴婢ぬひたちがささやく「乱暴王子」というあだ名は、母親である倭国香媛ヤマトノクニカヒメばかりか父親である大王の耳にも届いていたが、孝霊帝はそんな噂などいっこうに気にしない。

 それどころか、東宮である孝元を差し置いてまるで三男坊のイサが東宮であるかのような扱いをすることがあったから、現東宮の母である細媛命くわしひめのみことはイサを非常に嫌った。


 ある日、孝霊帝は12歳になったイサの元服と、孝元東宮付きの近衛大将になることを命じる。

 大嫌いなイサが可愛い東宮の傍に常にいることになる事態に、細媛命くわしひめのみことがいつものヒステリーを起こして孝霊帝に詰め寄った。

「大王! イサセリヒコを東宮さまのお傍におくなど、滅相もございません! いつ、寝首をかかれるかもしれませず! あたくし、東宮の生母として、断固、お断り申し上げます!!」

 だが、妻の意見になど耳を貸すような孝霊帝ではない。

「じゃあ、孝元を廃嫡して、イサを東宮に据えるか……」

 などと軽々しくいうものだから、それには倭国香媛ヤマトノクニカヒメも当のイサも含め、家臣一同が大反対し、孝霊帝を諫めた。


 孝霊帝と、細媛命くわしひめのみことの意見の対立を案じたクニカ姫は、東宮の弟宮をすべて元服させ、全員を東宮の付きの近衛大将に据えることを考えた。

「それはさすがに、多い」

 若いクニカ姫の突飛な提案に、孝霊帝は呆れた。

「王子たちはそれぞれに得意な領分があろう」

 孝霊帝はそう言うと、力の強い第3王子のイサと第4王子の伊予いよを近衛大将に、頭の良い第2王子と第5王子の稚武彦尊ワカタケヒコノミコトを文官長に任命することにした。

 東宮の弟宮全員が我が息子の臣下に下ると聞いて、細媛命くわしひめのみことはやっと、その鋭い感情の矛を収めた。




 だが、当のイサセリヒコからすると、元服などたまったものではない。

「いやだぁぁぁ! いやだ、いやだ、いやだぁぁぁ!」

 イサセリヒコのワガママ者の大声が、御所中に響き渡る。

「元服なんて、いやだぁぁぁあ!」

「イサの宮! わがままを申されますな!」

 従者の犬飼健いぬかいたけるが、御所の柱にしがみついたイサを引きはがす。そして、自分の肩の上にのせた。

「まだこんなに可愛い盛りなのに、元服しろだなんて……父上と母上の、ばかぁ!」

 髪を稚児髷から無理矢理、大人の美豆良みずらに変えさせられたイサが、気持ち悪そうにその頭をかきむしる。

「こんな髪型、いやだぁぁぁ……」

「大人になるかならざるか、みずからの伴侶すら親が決め……なにごとも自分で決めることが叶わぬとは、高貴なお方も大変だな。俺は乳母めのとの子に生まれて良かった」

 犬がいつもの毒舌を吐く。


 ふと……犬は、えもいわれぬ悪臭に気づいて、顔をそちらに向けた。

「どうした?」

「臭い」

 主人の問いかけにそれだけ答えて、犬はイサを肩に乗せたまま、匂いのする方に足を向ける。

 御所の中にどうやって入り込んだのか、白い髪の毛をした小さな少年と……匂いの元であろう、杖をついたしわくちゃの老婆が、巨体の犬を見上げていた。

たれだ。誰に断ってそこにいる」

 犬の問いかけに、老婆の方が「クニカ姫に会いたい」と告げる。断ろうと思っていた犬だが、老婆の悪臭のそのまた向こうにある懐かしい匂いをかぎ分けて、眉をしかめた。

「嗅いだことのある匂いだ」

 犬飼健いぬかいたけるの名は伊達ではない。彼の鼻の感覚は非常に鋭敏で、ありとあらゆるものの匂いを瞬時にかぎ分ける。さらに、一度嗅いだにおいは二度と忘れなかった。

「この匂い……巫女の君か?」

 犬が老婆に、かつて御所でそう呼ばれていたときの名前で呼びかける。

「おぬし、儂と会うたことがあるのかえ?」

 老婆は呼ばれた名を否定せず、だが、「巫女の君」という懐かしい名で呼ばれたことに驚いて、犬にそう問いかけた。

「いや……母にそなた様の匂いが付いていたことがある」

 犬はイサを降ろし、老婆のえた匂いに顔をしかめながらも、懸命に記憶を呼び覚まそうとして鼻を動かす。

「青年よ。クニカ姫様に、会わせてたもれ」

 老婆の懇願に、犬は首を振った。

「姫より先に、母に会われよ」

「おぬしの母……とは、どなたじゃ」

「クニカ姫様の乳母で、シトという。俺は、シトの8番目の子だ」

「シト殿!」

 シトという名を聞いて、老婆のまぶたのたるんだ両方の目から、涙があふれ始めた。

 犬はそんな老婆に眉をしかめながらも、イサには孝霊帝のいる表御所に参内するように言い、老婆と少年を母の部屋に促す。

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