5.相撲の話

 その戦いは、ヤマトの言葉では【相撲すまい】と言うらしかった。

 この島にはヤマトの国の人たちも数多く流されてきていたから、【相撲すまい】の準備は彼らが行った。


 神の宿る小屋が建てられる。その小屋の中に土を平たく盛る。ここが、二人が戦う場所であるらしい。

 ホオリとホデリがその真ん中に立たされる。武器や、防具の使用は認められない。お互いが一糸まとわぬ姿となり、神に向かって何の武器も持っていないことを誓い合う。


 温の「始め」の声と共に、まずはホデリの方がホオリの髪に手を伸ばす。

 前髪をつかもうとして伸ばしたその手をホオリは払って、ホデリの胸元に入り込んだ。体重と勢いを使って兄を押し倒すつもりだったが、兄の方が重く、重心が低くてびくともしない。逆にホデリがホオリの脇に腕を差し込み、13歳にしては大きなホオリの身体を、軽々と持ち上げた。

 自分を持ち上げるホデリの額に、ホオリが頭突きを入れる。

 よろめいて、思わず力を緩めたホデリからするりと抜けると、ホオリは今度はその右側から足を振り上げ、蹴り落とす。だが、その蹴りをホデリの太い腕が易々と止めた。振り上げたホオリの足首をつかんで、その身体を片腕で持ち上げる。

 そのまま、ホデリが腕を土の上に振り下ろせば、ホオリの身体に土がつき、ホデリの勝ちでおしまい……。

 とは、ならなかった。

 器用なホオリは、振り上げられた力を使って、今度は左足のかかとを兄の眉間に振り下ろした。


 勝負は、存外にあっけなかった。

 ホデリの眼がぐるりと白目をむき、その大きな身体が、盛り上げられた土の上に倒れた。

 土の上で戦う二人、そして、その戦いを同じ土俵の上で静かに見守っていた温にとって、それは長い戦いだった。

 だが、その時間はほんの少し……。小さな子どもが、きびのにぎりめしをほおばり始めて食べ終わるまでの、たった、それくらいの時間しか経っていなかった。


 あまりの早い決着に、温は一瞬、「勝負あり」というのを忘れた。

 興奮したホオリが土の上に倒れたホデリにさらに蹴りを入れようとするのを見て、温は慌てて、「勝負あり!」と叫んで、ホオリを止める。

「お前の勝ちだ、ホオリ!」

 ホオリの身体を抱き留め、温は臣下の者にホデリの様子を確かめさせる。


 幸い、ホデリは軽い脳しんとうを起こしていただけで、すぐに気を取り戻した。

 目を覚ましたホデリに、温は「ホオリの勝ちだ」と、告げた。

「そうか……」

 ホデリはふらつきながらも立ち上がり、温と、おばぁに深く頭を下げる。

「長い間、お世話になりました」

 そんな兄に、ホオリがしがみついた。

「お兄ちゃん! 俺は、お兄ちゃんに出て行けなんか、言ってない!」

 ホデリに出て行くなと叫ぶホオリを、温が止めた。

「これから、どこに行くつもりだ」

「会いたい人がいる……」

 温の問いかけにそれだけ答え、ホデリは片手にすっぽり収まるほどの、小さな木箱を取り出した。

「それは?」

「乙姫の櫛だ」

 緋色の組紐で封ぜられたその木箱をホデリが振ると、木箱はカラカラと美しい音を奏でた。

「この櫛を、竜宮城へ……乙姫に返しに行こうかと思う」

 ホデリの答えに、温は即座にそれが嘘だと悟った。

 ホデリは温と同じく、現実主義者だ。海流や気候、天候の理を熟知しているホデリが『海神』の存在など露ほども信じていないことは、温が一番よく知っている。だが、「海神の娘の婿となり、竜宮城で暮らすことにした」そういえば、おばぁの心は安まる。そう思ったのだろうと察しは付いた。

「そうか。達者でな」

 温が肩を叩くとホデリはうなずき、もう一度、温とおばぁにむかって深々と頭を下げる。

 そして、粗末な着物を羽織って外に出た。


 それから……島で、ホデリの姿を見た者はいない。


 

 四年経って、十七になったホオリは、約束通り温の娘、ミムラの婿になった。

 成人に伴い、名は、羅関白ら かんぱくと、改めた。「」と名を改めても、「山幸彦」という呼び名で呼ぶ者の方が多かったが、もう、ホオリという名で呼ぶ者は居ない。


 それから十年以上経って、ミムラと羅のあいだに三人目の娘が生まれる頃には、おばぁの『昔』が失われはじめた。

 誰を拾い、誰を喪い、誰を葬ったのか、もうおばぁは思い出せない。だから、「羅がホオリだった頃、ホデリという兄がいた」ということを口に出す者は、村では一人もいなくなった。

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