旅立ちは突然に

3-1.哀しいという気持ちの話

 だが……ワカが次の東宮に任ぜられる日は、意外に早く来た。


 御所の庭で、子どもたちと遊んでいた東宮が、毒蛇に噛まれて亡くなった。

 そんな知らせがイサの元に届いたのは、「ワカを東宮にしたい」という東宮の意思を聞いてから……ほんの、一ヶ月後のことだった。


 細媛命くわしひめのみことは、いつも自分に対してイサが嫌がらせで放つ蛇が東宮を死に追いやったのだと……イサを激しく糾弾した。


「お前たちが! お前たちが東宮を!!」

 いつもは静かな夕刻の御所に、細媛命くわしひめのみことの怒声が響き渡る。

「イサセリヒコが東宮に毒蛇を放ったのだ! あたくしの東宮を返して!」

 木の汁で赤く染められた細媛命くわしひめのみことのツメが、イサの頬を軽く裂いた。それでも、イサはぼんやりとくうを見据えたまま、ただ黙って細媛命くわしひめのみことにされるがままになっている。

「お前はいつもそう! その反抗的な目! お前のその目に、あたくしが今までどれだけイヤな思いをしてきたか!」

 細媛命くわしひめのみことの手が、イサの首に掛かる。首の皮に王后の指がきつく食い込んだが、それでも、イサはただ、くうを見ていた

「返して! 返しなさいよ、あたくしの東宮を!!」

「王后陛下。どうか、もうお鎮めください。蛇を放ったのはイサの宮ではございません!」

 イサの従者である犬飼健いぬかいたけるが、王后を止める。それでやっと、王后はイサから離れた。荒い呼吸を繰り返しながらぎょろりと目をむいてイサをにらみ付け、荒々しく踵を返すと、自分の御所に戻る。

 そんな王后の背中が見えなくなるまで頭を下げていた犬飼健は、王后の気配がしなくなったのを見計らって頭を上げ、王子を見つめた。


「心の乱れを、ああやって素直に表現できる者は幸せだな」

 20歳の犬が、50に届きそうな王后をそう、評価する。そして、12歳のあるじを抱き上げた。

「哀しいときは哀しいと言って良いんですよ、イサの宮」

 イサも犬の首に自分の腕を回し、犬に甘えるように、その肩に頭をもたげた。

「哀しい……とは?」

「人は何かを失ったとき、心に穴が開いたような気持ちになります。それを、哀しいと言います」

 イサは、今まで身近な人が死ぬ……ということを、経験したことはなかった。自分を孫のように可愛がってくれていた大臣おおおみのアシナヅチが、5歳の頃に死んでしまったが、まだ小さくて、「心に穴が開いたような気持ち」にはならなかった。ただ、「アシナヅチには明日から会えない」という母の言葉だけが、心に残っている。

「兄上には、明日から会えないのか?」

「会えません」

「まだまだ、教えていただいてないことがたくさんある」

「……母上の御所に帰りましょう」

 犬は、元々寡黙な男だった。だから、それ以降は何も言わずに、ただ、王子を抱き上げたまま、クニカ姫の御所に向かって歩き続ける。



 中央の御所では大王もまた……。東宮を失った悲しみに、打ちひしがれていた。


 東宮を失ってから後、大王はぼんやりとした一日を過ごすことが多くなってきた。時折、身体の不調を訴えて床に伏す。

 そんなとき、大王に変わって第二王子と第三王子のイサ、そして第四王子が交代で朝廷に出ていたのだが、この三人はこぞって短気者で、話の長い老人たちとの会議には向かない。

 結局、大臣たちはすべての話を一番年下のワカに持ち込むようになった。


「兄上たち。僕、東宮になろうと思うんだけど、いいかな?」

 ワカがそう決心したのは、東宮が亡くなってから実に、半年も経ってから。

 三人の兄たちは、数えで11歳になったばかりのワカの決心を、喜んで受け入れた。

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