3.海幸彦と山幸彦の話
「なあ、ホオリ」
ある日、ホデリはホオリに声をかけた。
「たまには山で猟をしてみたい。今日は、お前が海に出てくれないか?」
「ああ、良いよ」
ホデリの願いを、ホオリはあっさりと受け入れる。そして、自分が一番使いやすいと思う弓矢と、ホデリが差し出した釣り針を取り替えた。
ホオリは、ホデリが「よく魚が捕れる」と教えてくれた、すぐ近くの無人島に向かって、舟を出す。
だが、夕暮れ時になっても、魚は一匹も捕れなかった。
「……つまんねぇなあ」
最後の一振り……そう思って、ホオリは海に向かって釣り竿を振る。
「痛い!!」
突然、女の子の甲高い悲鳴が聞こえ、ホオリは驚いて振り返った。
ホオリの後ろの岩がやたら温かいと思っていたら、その向こう側にどうやら温泉が湧き出ていたらしかった。
一糸まとわぬ美少女が、その豊かな黒髪にホオリの投げた釣り針を絡ませ、目をむいてホオリをにらみ付けている。
「ちょっと! 絡まっちゃったじゃないの、どうすんのよ、この髪の毛!!」
「ご、ごめんなさい……」
少女の気迫に押され、ホオリが二歩、三歩と後ずさる。
「……とっても、いい? その釣り針、お兄ちゃんの大事なものなんだ」
ホオリの願いに少女はすこし気持ちを落ち着け、木の枝にかけた着物を羽織って、大きな岩に座った。
「優しくしてね。痛いのはイヤよ」
「わかってる」
ホオリは頷いて、少女の髪の毛に絡んだ釣り針をつまみ上げた。
「痛い! バカ!」
「ごめん……」
「もう、いい! その小刀、貸しなさい」
少女は言うなり、ホオリの腰に差していた小刀を抜き取ると、釣り針が絡んだ自分の髪の毛の一束を、切り取ってしまう。
「……あ! 綺麗な髪なのに……」
「どうせすぐ伸びるわ」
少女はこともなげにそう言って、ホオリに釣り針と小刀を返す。
「なによ、この釣り針」
ホオリに返そうとした自分の手の中の釣り針を見つめ、少女はまた、甲高い悲鳴のような声を上げた。
「あんた、こんなので今日一日、釣りをしてたの?」
「……そうだけど?」
「バカねえ。こんなので釣れるわけないじゃない」
少女はいうなり、まっすぐに伸びた釣り針を、その細くて白い指で、器用に曲げてしまった。
「さあ、釣ってご覧なさい」
少女が言うので、ホオリは渋々、竿に釣り針を引っかけて、海に投げ入れる。
少女が作り直した釣り針は、面白いように魚が捕れた。
「あなた、あの島の子でしょう? あの島の子はみんな漁師だと思ってたけど……あなた、漁師には見えないわね」
少女が、ホオリの島を指さす。
「俺の名は
「……山幸彦……? あたしの名前は
「豊玉臣? ……海神の娘の名前に似てる」
「海神?」
豊玉臣と名乗った娘が首をかしげるので、ホオリは自分が来た島を指さした。
「俺のおばぁが言うんだ。このあたりの海には海神が住んでいる。嵐の夜に舟をだし、海神の怒りに触れた者は、舟がひっくり返って死ぬ。運良く海神の怒りを鎮めた者は、おばぁのいる島にたどり着く」
おばぁの話では、海神の名前はワタツミといい、海神の娘の名前は
「ヤマトでも、海神の伝承はあるわ。娘の名前は違うけど……」
豊玉臣の住む
「あ! 潮が引く時間だわ」
豊玉臣はそう言うと、ホオリの手を引いて、島の東側の岩場に走る。
今まで海があったはずの場所に、砂浜の道が出来ている。夕陽を受けてキラキラと輝く砂の道を見つめ、ホオリは目を見開いた。
「……これは?」
「潮が引くと、ここに道が現れるの」
少女はいたずらっ子のように笑って、羽織っていただけの着物をしっかりと着付け直す。
ふと、少女は自分が髪を直そうと思っていた櫛を、ホオリに差し出した。
「あげる」
「え?」
ホオリは、櫛というものをみたことがない。だから、最初、何をするものかわからなくて手を引いた。だが、豊玉はそのホオリの腕をつかんで、自分の櫛をホオリの手の中に押し込む。
「潮が満ちちゃう。じゃあね」
「あ、豊玉!! 待って!」
ホオリは豊玉を呼ぶが、豊玉は振り返らず、ただ、一目散に海に出来た砂の街道を走って行った。
「豊玉……?」
後ろからそんな声が聞こえ、ホオリが振り向くと、そこにホデリが立っていた。
「お兄ちゃん。山に行ったんじゃないのか」
「あの娘は、誰だ」
ホオリの問いかけにホデリは答えず、砂の道を走って帰る豊玉の後ろ姿を指さす。
「……
とくに何かを思ったわけではないが、ホオリは敢えて「豊玉比売」ではなく、「乙姫」と少女を呼んだ。
「乙姫……?」
ホオリが、海の道を走る少女の背中を見つめる。
「俺がうっかり、髪の毛にハリを引っかけてしまって、怒らせたんだ」
ホオリの言葉に、ホデリが目をむいた。
「お前!
「待って! ちゃんと……ちゃんと、機嫌を直して帰ったから! ほら、その証拠! これ、乙姫からもらったんだよ」
ホオリが、先ほど豊玉からもらった櫛を差し出す。
「彼女の
ホオリの言葉も聞かず、櫛を握りしめたホデリは、豊玉が渡り終わったばかりの潮が満ち始めた砂の道を見つめる。
「潮が満ちすぎると、俺たちも帰れなくなる。早く、島に帰ろう……ホオリ」
砂の道に、潮がすっかり満ちきるのを見終わってから、ホデリはホオリを促し、島に向かって舟を漕ぎ出した。
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