第4話



「……おふくろ!!」

 声がして、誰かがやってくる。僕は顔を上げる。露路さんは上げない。声からすると壮年の男性のようだった。

 僕の隣に座った露路さんは、さっきから、不安げに、電車に乗らないと、乗らないと、と繰り返していた。男性が来てもあまり変化はない。男性は露路さんに声をかける。安堵と苛立ちの解けたあとの、裏腹の大声で。

「なにやってんだよ、おふくろ!! こんなところまで来ちゃってさ!」

「あのう、どちら様ですか?」

「俺だよ、わかんないの…… ああ、もう!」

 そんな大声を出さないで欲しい、と僕は思った。

 でも、口には出さない。露路さんの手はひんやりしてて華奢で…… 紙のようにもろくて、やわらかい。

「あの、そちらさんは?」

「僕は日下部と申します。こちらで、ちょっと、正岡さんと一緒になりまして」

「ああ、あなたがおふくろを見つけてくれたんですか。すいません」

 声には疲れがにじんでいた。当たり前だろう。自分の母親が、行方不明になっていたのだから。男性は僕の前にやってきて、たぶん、頭を下げようとしたんだろう。僕はわざと明るい声を出す。

「ああ、お礼はいいですよー。残念ながら、当方、見えませんもので」

「あ…… ああ、すいません」

 男性はしばらく言葉を捜しているようだった。僕は露路さんの手を握ったまま言葉を待った。煙草くさい駅の待合室。

 駅員さんに露路さんの服のあちこちを探してもらったら、案の定、靴に自宅の住所と電話番号が縫い付けてあった。番号にかけるとすぐに家族が飛んできた。たぶんいつものことなんだろう。……たぶん、こんな遠くに来ちゃうというのは、いつものことだとは言いがたいだろうけれども。

「おふくろ、最近ぼけがすすんで、徘徊がひどくって…… でも、事故にならなくってなによりですよ、ほんとうに」

「……」

 徘徊、と言うのだな、と僕は何かひどく切ない思いで思った。

 露路さんは、ただ、家に帰りたいだけなのだ。でも、その『家』はもうどこにもない。『玉の井』はもう、どこにもない。墨田区東向島、なんていう住所は、露路さんにはなんの意味もない。ただ露路さんが帰りたいのはあの日の町、自分が若い娘として、手習いなどをして暮らしていた、あの当時の町なのだ。

 露路さんは、つれて帰られて、また、思うんだろうか。

 人攫いの家なんか逃げ出して、家に帰りたい、と。

 ―――露路さんがほんとうに帰りたい場所は、『昔』に他ならないのだ。

 息子らしい男性に肩を抱かれて、露路さんは立ち上がった。手が離れた。思わず追いたくなる…… ぎゅっと、硬く手を握り締めて、こらえた。

「慈郎さん」

 露路さんが呼んだ。少し低い、きれいな声で。

「ねえ、気をつけて帰ってくださいね」

 僕は、硬く、白杖を握り締めた。無理やりのように笑った。

「うん、露路さんも、気をつけて」

 男性はなにくれと露路さんをなだめながら、待合室を出て行った。僕はひとりになった。

 僕は眼を閉じた――― 開けていても、閉じていても同じ闇だけれど、それでも眼を閉じた。閉じたくなった理由を、分かってほしい。

 『むかし』は帰らない。

 僕には、もう二度と、『ひかり』は帰らない。

 僕はさまよい続けるんだろうか。還らない『ひかり』をさがして。それを人は痴呆老人の徘徊と同じように思うのだろうか。おろかな、不自由な人間の振る舞いと?

 でも、分かって欲しい。たったひとりで暗闇の中を歩くとき、露路さんの手が、どれだけ心強かったか。

 同じ、見知らぬ世界をさまようとき、共に歩いてくれる人の手が、どれだけ心強かったか。

 僕たちは一緒に『むかし』を歩いた。『むかし』を探した。それが幻影であっても、僕たちは、手を取り合って一緒に歩いた。

 僕には、『むかし』がある―――

 たとえ、明日が、暗闇の中でも。

 僕は眼を開く。やはり目の前には真闇だけがある。その表現すら正しくない。闇すらない。盲の世界がある。

 それでもいい。

 僕は歩けるし、僕は笑える。そして、僕は、露路さんの手を引いて、『玉の井』へとたどり着くことすら出来たのだから。

 大きく息を吸う。大きく息を吐く。

 そして、僕は呼びかける。

「駅員さん、すいません―――」

 家に電話をかけよう。迎えを頼もう。母はずいぶん心配しているだろう。

 でも、僕は電車にも乗れた。ここまで来られた。

 僕はもう怖くない。どれだけ恐ろしくても、どれだけ不安でも。

 なぜなら……


 なぜなら、僕たちには、『むかし』があるのだから。




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回想列車に乗って とくぞう @zyukai

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