第7話 東京都千代田区神田駿河台の中汁なし麺(辛肉味噌入り)

 住む場所を離れ、一時、日々の柵から解放される。

 旅には、そういうよさがある。


「うん、中々楽しい映画だった」


 だから私は、朝一番の『ジャングル・ブック』を鑑賞した。


 旅先でまで映画を観るのはどうか? いつもと変わらんじゃないか? と言われそうであるが、好きにしていいのが柵からの解放である。私は好きにしたのだ。これもまた、旅の醍醐味。


 ともあれ、フルCGで描かれるリアルで人間臭い動物達の映像を堪能して劇場を後にした私の頭の中には、謎のスキャットが流れ出していた。ボバンババ……いや、これは違う作品だったな。


「さて、ここからは……神保町だ」


 劇場からは30分ほどで歩ける距離である。


 神保町と言えば、本の街であり、本と言えば、『 R.O.D -READ OR DIE- 』の読子・リードマンである。


 無類の本好きというか書痴ビブリオマニア

 本を愛し、紙に愛される紙使い。


 大英博物館のエージェントとして活躍。

 収入は本の購入に充て、時には本や丸ごと大人買いをしたりもする。

 その本を収納するために神保町にビルまで購入してそこを住居にする、という本好きの憧れの生活を送る素敵めがねっ娘。後のテレビアニメ版では三十路を迎えていたが、まぁ、細かいことはいい。

 彼女との出会いは、コミカライズ版であった。赤を基調とした中に描かれた素敵めがねっ娘の姿に惹かれ、気がつけばレジに持っていき、即座に嵌まり、小説が元と知るや小説版も購入し、以降、オリジナルアニメ版の DVD も、その後日別の紙使いにをメインとしたテレビアニメ版の DVD も、後に発売されたブルーレイボックスも、全て購入した。


 全ては、めがねっ娘の表紙から始まった。つまり、めがねっ娘を表紙にすることによる購買促進効果は確かにあった一例として、ここに記しておきたい。


 次の巻で完結、と宣言されたところから10年以上の時を経て、ようやく続きが出ることが発表されたのも記憶に新しい。とはいえ、最終巻が出ると思ったらもう一冊続くというのは、騙されたと思うよりも、まだ続くことを喜ぶべきところであろう。


 何せ、読子さんの活躍をまだまだ楽しむことができるのだから。


 だからこそ、神保町へ向かおう。


 だが。


「腹が……減った」


 昨日少々食べ過ぎたので、朝は控えめにしたからだろう。

 まだ昼には早い時間にもかかわらず、腹の虫がなり始めた。

 残念ながら、半額弁当はまだ売っていない。


 ゆえに、どこかで食べていかねば。


「……神保町行くなら、御茶ノ水を通るな」


 そうして、気になっていたメニューを食べるため、気になっていた店へ行ってみることにした。


 にもかかわらず。


「あれ? 食券がない?」


 食券機のどこを見てもお目当てのメニューはない。


 ちょうど近くに来ていた店員に尋ねると、今はやっていないとのこと。


「な、なんということだ……」


 とはいえ、今更他の店に行くことを腹の虫は許さない。

 もう、食べられると待ち構えているのだ。


 なら。


「これは、食べたことがないな。それに、油そばはヘルシーだとあの漫画で言っていた。汁なしも呼称の違いで基本的に油そばだから大丈夫だ」


 そういうわけで、今日の昼食は『中汁なし麺(辛肉味噌入り)』となった。


 店員に食券を渡し、無料トッピングを聞かれるが、今日は控えめにすべく、


「全部普通で」


 と応えてしまう。


 だが、だ。


 これでいいのか? と心の中で誰かが囁く。


 旅先の店だ。そうそう来ることはない。


 マさずに後悔するよりも、マシてこうかいすべきじゃないのか?


 悪魔の、囁き。


 気がつくと、


「すいません、やっぱり、ヤサイチョイマシで」


 店員に声を掛けていた。


 『チョイマシ』と予防線を張っているが、それでも、少しは攻めた。弱気ではあるが、前のめりではある。何と戦っているのか正直よくわからないが、きっと勝てる。


 なぁに、チョイマシなら、たいしたことはなかろうて。


 悠然と構え、『ゴシックは魔法乙女~さっさと契約しなさい~』を起動して黄色い猫を集める作業を始める。うん、順調だ。


 三回目の出撃で、丼が届いたのだが。


「なんだ、これは?」


 その異様なる威容を見た瞬間、秋葉のラボに走って電話レンジからDメールを送りたかった。


【チョイマシは回避せよ。むしろ減らせ】


 と。


 なんてことだ。この量、どう見ても標準的なマシマシかそれ以上だ。


 マシなんて頼んだら、どんなことになるんだ?


 ともあれ、今から挑む敵の姿を改めて観察する。


 丼の上端から優に十センチ以上の高みに至るヤサイの山。

 その山の頂には卵黄が鎮座し、斜面は三色に彩られている。


 薄茶色のアブラ。

 濃い褐色の辛肉味噌。

 そして、一味唐辛子。


 見るからに、体に悪そうだ。つまり、旨そうだ。


 しかし、この量は想定外だ。


「負けてなるモノか」


 いきなり混ぜるには無理がある量のため、まずは慎重に野菜をつまんでは口に運ぶ。


「これはこれで、悪くない」


 混ぜていないので、ただの蒸したキャベツともやしだが、これはこれであっさりしていて悪くない。


 だが、その僅かな振動で辛肉味噌が崩れていくので、方針転換。


 レンゲと箸を使って辛味噌肉を斜面に押しつけるようにして奥へ奥へと押し込んでいく。そうして、麓に隙間ができたところで、麺を引っ張り上げて少し口にする。


「あれ? なんか、味が薄い?」


 豚の風味がするだけで、それほどドギツサはない。むしろあっさり目だ。


 怪訝に思いながらも、麺を少し減らしてスペースを空け、そこに押し込んだ辛肉味噌を落とし込んで崩れるのを防ぐ。途中、転げ落ちるのを掬って口に運んでみたのだが、


「あ、やばい。これは旨い。凄く、旨い」


 要するに唐辛子で辛味がついた、弁当などでお馴染みのそぼろの豚版である。

 ゆえに、御飯が幾らでも食べられそうな味だ。つまり、麺も同じく進むだろう。


「そうか、よく考えたら汁なしってまぜそばだから、まぜてこそ本来の味になるんだな」


 まぜそば系は食べ慣れていないので、そんな初歩的なことを見落としていた。薄味に感じたのは、それがあくまでベースの味で、他の具材の味をまぜこんでようやく完成する味の一端に過ぎなかったからなのだ。


「そうと気付けば……」


 ヤサイの斜面を箸で崩してはそこに周囲の辛肉味噌、一味、脂を混ぜ込んでいく。

 ある程度全体に余裕が出来たところで、中央の卵黄を沈めるようにしてそこに混ぜ込む。


「おお、こ、これが本来の味か……」


 辛い。だが、旨みが格段に増している。当たり前だ。辛肉味噌の旨みが混ざってこその汁なしだったのだ。


「いい味だ。好みだ。夏にもいい」


 カプサイシンが効いてすぐに汗が噴き出してきた。


 だが、残り三分の一ぐらいになったところで、箸が止まる。


 因みに、三分の一ぐらい=通常のラーメン1杯分かそれより少し多いぐらい、である。


「やばい、な」


 もうゴールしてもいいよね? と声が聞こえた。色んな意味で切なくなる。


 箸が止まったのは、量的な問題もあるが、大量のヤサイが混ざってくるにつれて味が薄まってきて食欲促進効果が薄れてきてしまったのもある。


 それもこれも、チョイマシの罠にはまったからだ。


 やはり、ここは秋葉のラボに走ってDメールか? いや、落ち着け。あれは二次元の世界だ。まだ、三次元から二次元世界への旅の技術は確立されていない。


 少々錯乱していたが、ヒロインの萌郁さんの顔を思い出して落ち着く。


 そうして、卓上を見回せば。


「カラメ、ニンニク……それに、ハバネロソース!」


 味変アイテムがこんなにあるではないか!


「まだだ、まだ戦える」


 どうしてこれまで忘れていたのか? ニンニクを忘れるなど言語道断横断歩道である。


 豪快にスプーン三杯のニンニクを投入し、カラメを回し掛けする。


「よし! これならまだ戦える!」


 カラメの醤油味とニンニクのガツンとくる刺激で食欲にブーストが掛かる。


「しかし、これも、いくべきか?」


 ハバネロソースである。辛味は平気な方だ。なら、大丈夫か?


「いや、次に取っておこう」


 その判断が効を奏した。


「くっ、ここでブーストが切れるとは……


 ふいに、箸が止まってしまったのだ。


「あと、あと少しなのに……」


 丼に残るのは、ほんの三、四口程度の量。


「そうか、ここで、これを使えという眼鏡の女神様の思し召しだったのだな……」


 吹っ切れた。


「ソイヤ!」


 気合いと共に、ハバネロソースを数滴垂らす。

 いや、ほら? 入れすぎたらやばいんですよ、これ。冗談抜きで内臓傷つくレベルで。

 だから、これで十分なんですって。


「ふぅ……辛い、がいける」


 既にベースの部分であった辛味の中にあっても更に引き立つハバネロの辛味。他にも幾つか薬味が入っていて風味もプラスされる。


 流れる汗のスピードが明らかにアップしたが、怯まず、最後の数口を咀嚼し、嚥下する。


「か、勝った!」


 丼の中には、赤く濁ったタレの残り汁のみ。食い切ったのだ。


 マシて残すという業を背負わずに済んだのだ。


 もしもそんなことになれば、夏が来る度思い出して苦い思いをせねばならなかっただろう。


「ごちそうさん」


 勝利の余韻を味わいながら、店を後にする。


「さて、神保町で神田古書センターの地下へ行くか(※ありません」


 こうして、重い腹を抱えて歩き始める。


 道を間違えて飯田橋付近まで歩いてしまって神保町に辿り着くまでに四十分近くかかったのは、きっと腹ごなしをしろという眼鏡の女神様の思し召しだったのだと、私は信じている。

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