第5話 少年は少女の許へ駆ける
感情を発散させることで怒りは薄らぎ、僕は息絶え絶えになりながら床にへたり込んだ。すると部屋から嵐が去り、風の鋭い音と物が衝突する鈍い音は反響だけを残して止んだ。僕はそこでようやく握り拳を解く。それから、千切れてしまいそうな首の痛みに顔をしかめる。切り傷特有のこの激痛は耐えがたかった。さっさと痛みが引いてくれることを祈るが、少なくとも今日1日で治るはずもないことはわかっていた。
僅か3分の戦闘だというのに、部屋の中は酷い有り様だった。窓ガラスは全て割れ、パイプ椅子のうちいくつかは変形し、折りたたみテーブルは真逆に折れ、壁紙は何かの爪痕のように裂けている。――そして、足下ではスーツを着た詐欺師のような男が床に突っ伏していた。黒かったはずのスーツはめちゃくちゃに裂け、大量の紅色に染まっていた。そして、男の手に握られたナイフは、他ならぬスーツの男の胸に深々と突き刺さっていた。
僕はあの時の状況を思い返す。握り拳を作って近づいたあの時、僕に向かって突き立てられたナイフが顔スレスレを通り過ぎて、そのまま男の胸に突き刺さったのだった。
――強風に煽られて、単純に手が滑ったのだろうか? それとも、ナイフが胸に突き刺さるよう、僕が不思議な風を仕向けたというのだろうか?
僕はぶんぶんと頭を振った。どっちだろうと一緒のことだ。それより、問題はユキだ。
あいつは、仲間に殺させると言った。仲間とコンタクトを取っていた様子はなかったけれど、あいつは僕のことと同様に、ユキのことも事前に知っていた。僕と接触をする前に当たりをつけておいても不思議じゃない。もしかすると僕を引きつけている間にユキを始末する、という作戦だったのかもしれない。だとしたら、今頃ユキの下にあいつの仲間がいるかもしれない。さすがに図書館内で暴力沙汰を起こすとは思えないけれど、閉館時間を狙ってどこかに身を潜めているかもしれない。杞憂かもしれない。むしろ杞憂であってほしい。どちらにしろ、ごちゃごちゃと考えている場合じゃない。早くユキの下へ戻らなくちゃ。僕がユキを、護るのだから。
図書館から出て、もう随分と時間が経っていた。それだけ長い間、スーツ男の話を聞いていたいうことだった。急いで会議室を出ると、来た道を思い返しながら走り出す。
走るのは苦手じゃなかった。向かい風は決して吹かないから。
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「……消えてる」
中年男性が胸を刺されて殺された、あの現場で僕は思わず足を止めた。そこには何の痕跡も残ってなかった。誰かが発見して通報したのだろうか? そして救急車でも来て運ばれたのだろうか? しかし、中年男性の死体もなければ、舗装路に染み込んだはずの僅かな血痕もキレイさっぱり消え去っているのだった。救急車で運ばれたにしては、何の痕跡もなさすぎた。
――どういうことだ? あの男は『死体はこちらで処理する』と言っていた。これもあいつの仲間が処理したということなのか? あるいは、これは僕が望んだことなのか? 僕が望んだから、なかったことになったのか?
『君の力は風動かすだとか、そんな小規模なものじゃない。もっと根本的な――そうだな、君自身の意のままに現実を変えてしまうような、そういう能力だ。今は君が『風』というイメージに囚われ過ぎているだけでな。』
あいつは確かそう言っていた。つまり、僕が心の底からあの中年男性を憐れみ、なかったことにしたいと思ったから――そこまで考えて僕は首を振る。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。今はそんな事を考えている場合じゃない。
さっきと同じように自分へ言い聞かすけれど、しかし今度はどうも気になるのだった。もし僕の力が本当にそんなすごいものだとすれば、ユキの笑顔を取り戻すことも可能なんじゃないか、と――。
それは人道的な考えではないかもしれない。けれども今初めて見えた、たった1つの希望だった。
僕は確かめたい気持ちを抑えながら、後ろ髪を引かれるようにしてその場を後にした。
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それから僕は道に迷った。情けないことに、迷いに迷った。何せ土地鑑が全くない場所に連れて来られたのだ。一度しか通ってない道を完璧に覚えられるはずもない。それに似たような飲み屋の多い、入り組んだ狭い路地だ。大まかな方角ですらわからない。頼りのスマホは、さっきの大嵐のどさくさに紛れて壊れていた。30分くらい同じ道を行ったり来たりして、幽かな記憶と照合しながら元来た道を懸命に思い出そうとした。そして、図書館がもうじき閉館するという頃、僕はようやく元の道に確信を持てたのだった。
元の道を思い出せればこっちのものだった。そこから図書館の見える交差点に辿り着くまで、10分もかからなかった。
汗を垂らして大袈裟に息を切らしながら信号を待つのは、やはり相当目立つようだった。同じく信号待ちしていたお兄さんや中年女性が一斉に振り返って僕の方を見た。しかし、僕の方を一瞥するだけで、特に嫌な顔をされることもなかった。その反応を見て、僕は1つのことを思い出す。
――そうだ、首についたあの傷を上手く誤魔化す言い訳を考えないと。ユキをこんなよくわからない事態に巻き込みたくないし、何よりユキが怖がって僕と距離を置くようになってしまったら――。
そこまで考えたその時、僕はとあることに違和感を覚えた。首に傷があるにしては、通行人達の反応がやけに薄いということに。そういえばずっと前から、首から溢れ出る血を拭っていない。いつの間にか、痛みも消え去っている。少なくとも、自分の思考を打ち消して首をぶんぶんと振ったあの時には既に。
僕は恐る恐る首筋に触れる。ぬめぬめとした液体の感触もなければ、ざらざらとした傷口の感触もない。いつの間にか治っていた――いや、無かったことになっていたかのようだった。
――これも僕の力なのか? 僕が傷口をなくすことを望んだから? 痛みに耐えかねて、なくなってしまえばいいと願ったから?
信号が青になる。僕は湧き出る疑問を打ち消して急いで横断歩道を渡り、図書館の敷地に入った。
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敷地に入った時には、閉館時刻から2分が経っていた。自動扉の奥に閉館を示す看板が立ててある。ということは、ユキは図書館から追い出されているはずだった。
――もうすでにあいつの仲間と接触したとすれば。
一瞬そんな不吉な考えが頭を過ったが、慌てて追い払う。
――図書館から出たユキが居そうな場所は? 風が当たりそうな場所……北側にある、休憩スペースか? あそこなら木に囲まれているし、ベンチもある。こんな暑い中で涼むにはちょうどいいところだ。風も感じやすい。
急いで図書館の外周に沿って休憩スペースに向かう。広い図書館で、思いの外距離がある。あとどれだけ走ればいいんだろう。そう思いながら走り続け、あと数十メートルというところまで来て、木に囲まれたベンチが目に入り僕は思わず歩調を緩める。
推測通り、ユキは休憩スペースに居た。木製のベンチに俯き加減で座っているのが遠くから見えたのだった。いつもと変わらないユキの姿に安堵したのも束の間、僕はとんでもないものを目にする。
それはほんの数秒のことだった。その男はすぐ傍の喫煙スペースで煙草を吸っていた。黒いスーツを着ていた。それから男はポケットに手を差し入れると見覚えのあるナイフを取り出した。ユキが男の握るナイフに気づき悲鳴を上げようとしたが、それよりも先にナイフが胸を貫いた。
それから男はナイフを抜いて僕の方を振り返ると、詐欺師のような作り笑いを浮かべた。
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「随分遅かったな。道にでも迷っていたか?」
「あんた……死んだはずじゃなかったのかよッ!」
「俺が死んだ? 俺は一言もそんなこと言ってないぜ? もっとも、一言も言わなかったから死んだと思ったのかもしれないがな」
そんな単純な話じゃなかった。死んだふりなんかじゃない。たとえナイフで自分の胸を貫いたというのが演技だったとしても、あの強風の中生きていられるはずがないし、こいつの身体は確かに切り刻まれていたのだ。あれが演技のはずがない。
「ふざけるなッ! くそッ!」
僕は悲鳴とも罵倒ともつかない叫び声を上げながら、慌ててユキの下に駆け寄った。それからユキを抱きかかえ、だらりと垂れた腕を取って脈を計る。何の動きも感じられなかった。即死だった。生きていたころの温もりが、生温い風に混じって腕の中から徐々に抜けていくのがわかった。
「さて、これで君を縛るしがらみはなくなった。最後の選択肢を与えよう。自警団に入るか、今ここで死ぬか。5分間、自分の身の振り方をじっくり考えてみるがいい」
僕はスーツ男をキッと睨みつけた。だが、睨みつけるだけだった。何もできなかった。風を起こすことさえもできなかった。それから涙が溢れ出てきた。怒りよりも力よりも、何よりも先に涙が溢れた。それから
そして、情けない僕は、自分で護れなかったくせにこう思うのだった。
――ユキを返せ、と。
「……ユキを返せ、ユキを返せ、ユキを返せッ!」
その時だった。腕の中で、何かが動く気配がした。何かがビクつき、それからユキの胸の傷がみるみるうちに塞がって行った。血は空気中へ一瞬にして霧散し、破れた服は
奇跡だった。
「ユキっ!」
僕はユキの身体を揺さぶりながらそう呼びかけた。ユキの
「ユキ、ユキっ! 大丈夫?」
ユキは僕の言葉に頷いた。それから無理やりに笑顔を作ろうと、口角を釣り上げた。でも、目は笑っていなかった。いつもの、下手くそな作り笑いだった。
僕はそれを見て、思わず顔を
その時だった。ユキは身体をくの字に曲げた。それから何度も痙攣し、げほげほと咳き込み息苦しそうに顔を顰めた後、唐突に動きを止めた。
そして、ユキは僕の腕の中で再び死んだ。
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