第10話 届かない言葉

「マリーの姉……だと」

「……ノアたちからそんな話、聞いてない」

「大方、マリーの生活の平穏を乱したくないからでしょうね。あの子らしいわ」


 トウカがマリーを引き取ってから、ノアたちは陰でマリーを守ることに徹していた。人知れず動いていたことも一度や二度ではない。それも全てマリーが平和に暮らして行くため。不安な日々を送らないための配慮でもあったが、それは秘匿している情報が多いということでもあった。


「魔王……父と母は魔族の中でも珍しく組織と言うものに拘る方だったわ。でも、私たちは集団行動が性に合わなかったのよ。部隊を率いるだの、責任ある立場に就くだの。そんなことより魔族らしく奔放に生きたかったわ」


 かつて、世界中あちこちで魔族は独自の活動を行っていた。だが、魔王軍が結成されてからは魔王を中心に統制がとられ、組織になって手強くなった代わりに魔族による町や村の襲撃は減少していた。これは個人主義の強い魔族からすれば窮屈なものと言えた。


「だから十年前に私たちは魔王軍から出て行ったの。マリーだけは母様が手放そうとしなかったから止む無く置いていったけど……」


 十年前ならマリーはまだ一歳になるかならないかだ。母親としては何としても守り抜きたかったに違いない。


「お城で貴女を見た時に震えが走ったわ。五年前の人間との決戦で死んだと聞いていたのだから」

「あ……」


 カレンが身を屈め、マリーに視線を合わせる。愛おしそうにその頬に、髪に触れる。


「その母様譲りの銀色の髪、父様譲りの紅い瞳と魔力。間違いなく貴女は私の妹、マリーよ」

「マリーから離れて!」

「よせ、トウカ!」


 トウカがたまらず飛び出す。姉妹の時間を邪魔され、カレンは不快な眼で睨みつける。


「魔力よ。盾になりなさい」


 焦りからトウカは何の工夫もない一直線の突進で突っ込んでしまった。そんな単純な攻撃を通すカレンではない。伸ばした手は魔力の盾で遮られる。


「……ぐっ」

「両親に続いて今度は私を殺す気かしら……マリーの目の前で」

「違う! 私は――」

「走りなさい、稲妻よ」

「あぐっ!?」


 盾を通じてトウカを電撃が貫いた。反応が遅れてまともに食らってしまう。


「あ……」

「トウカ!」

「さあ魔力よ。炸裂なさい」


 膝を付くトウカに、盾を解除してカレンが右手に魔力を集める。


「マ……リー」


 虚ろな目で最後まで娘の名を呼ぶ。絶対に守る。その手を決して離さない。そう思ってこの五年間やって来た。あと少しの所にいる娘の下へ手を伸ばしたい。でも体が動かない。その手を掴むことができない。


「魔王の娘の御前よ。下がりなさい、人間が」


 魔王の娘という過酷な宿命を乗り越えられるように、たくさんの人に支えてもらえるように力を尽くしてきた。たとえ生まれが違っていても、お互いを思いやる心に種族の違いなどない。正しく導いていくことで互いの懸け橋になれると思った。


 でも、それは意味のないことだったのだろうか。

 手を取ろうとした時のマリーの眼。怯えた表情。


 ——全て、間違っていたのだろうか。


「ごめん——」


 至近距離で魔法が炸裂する。投げ出されるようにしてトウカの体が宙に舞い、初夏の花々を散らしながら草原に落下していく。


「ママ!」

「トウカーっ!」


 舞い上がる花びらの中でトウカは空に手を伸ばす。マリーが大好きと言っていた花畑。それを見せてあげることができた。太陽の下を歩くのが何より楽しみだった。何よりも大切な娘。


「ああ……誕生日の……準備……まだ終わって」


 楽しんで欲しかった。腕を振るった料理を食べて、オウカも一緒に過ごして、全てを明かしてぶつかって、それでも最後には笑顔で一日を終えられる。今日と言う大切な一日を経て、また新たに親子として歩んで行ける。そう信じていた。


「……どうして、こうなっちゃったの……かな」


 涙が一筋伝う。それと共に伸ばした手は何も掴むことなく地面に落ちた。


「いや……」


 その全てを目の当たりにしていたマリーの肩が震えていた。目の前に差し出された手を握れなかった。その手はもうあんなに遠い所にある。


「いやああああ!」


 その少しの躊躇が招いた悲劇。優しく、ずっと笑顔で自分を見守り続けてくれた母親を一瞬だけでも恐れてしまった。その結果がこの有様。


「ああああああああああああ!!」

「これは……!?」


 自分への怒り、罪悪感、絶望感、虚無感、孤独感。多くの負の感情が少女の中で渦巻いて増幅していく。まだ十一歳の子供。全てを受け止め、処理できるだけの精神は整っていない。


 全てを忘れたい。

 この現実から目を逸らしたい。

 この悲しみから――。


「いかん、マリー!」


 マリーから魔力が爆発的に溢れ出し、炎に、雷撃に、氷結に、破壊の力となって飛び回り始める。滅茶苦茶に乱れた魔力運用で辺り全てに被害が拡大していく。


「くっ……まずい。これは、五年前の時以上だ!」


 紫電が走り空気が震える。草原は凍り付き、炎上し、風に吹き飛ばされて花が散る。飛び交う魔力が森を脅かし、トウカの家に火が付き燃え上がる。五年間、母娘で過ごした憩いの場所が自分自身の手で崩されていく。だが、我を忘れているマリーはその事実に気付いていない。


「マリー、気を確かに持て! マリーっ!」


 無力さにオウカが歯噛みする。かつての暴走時はシオンやドラセナ、フジ、そしてトウカがいたからこそ止めることができた。だがトウカは倒れ、この場にはオウカと、カレンしかいない。魔封じの腕輪はマリーが持っているのか、それとも炎上する家の中なのか。いずれにしろマリーを止めるための手札があまりに足りなかった。


「――落ち着きなさい、マリー」


 だが、そんな暴走するマリーを後ろからカレンが抱き締めた。マリーの絶叫に呼応して暴れまわる魔力がカレンの手を焼く。だが、その手を離さず、マリーに匹敵する魔力を放出する。


「ぐっ……大丈夫。大丈夫よマリー」


 魔王級二人分の魔力が激しくせめぎ合い、力をぶつけ合う。だが、一方的に流れ出しているマリーの魔力に対して、己の意思で完璧に操られたカレンの魔力が巧みに力をいなし、溢れ出す魔力を抑え込む。


「ごめ……ん……なさ」


 やがて、力を出し切ったマリーがカレンの腕の中で気を失う。カレンはその体を優しく横たえるとふら付きながら立ち上がった。


「まさか、暴走までするとは思わなかったわ……やっぱり、まだ魔力の制御が十分にできてないのね」

「何故暴走を止めた……私たちを殺すつもりではなかったのか」


 焼けただれた腕を魔法で治癒しながらカレンがオウカを睨みつける。


「勘違いしないで……私の一番の目的はマリーよ。この子が死んでしまっては意味がないの」

「何だと……」

「貴女たちを今は殺さないのもそのため。この子に自暴自棄になられても困るのよ」

「今はだと……まさか!?」


 草原に倒れたままのトウカに目を向ける。見た目は重傷だが生きているというのだ。


「仮にもここまでマリーを守り、育ててくれたことには感謝しているわ。それに免じて命だけは助けてあげる」


 カレンの足下から影が伸び、倒れているマリーも一緒に包み込んでいく。


「ま、待て!」

「家族ごっこも楽しかったでしょう? ここから先は肉親がこの子を守るわ。でも、次に会った時には――」


 その姿が影の中に消える。そして、カレンの冷たい声だけが残された。


「――本当に、殺してあげるわ」

「……くそおっ!」


 静寂が戻った草原に、オウカの叫びと地面に拳を撃ちつける音だけが響いた。


「何だこれは……私たちがしてきたことの結果がこれか!」


 本来ならば五年間の集大成になるはずだった。その為に準備もしてきた。説明下手なトウカと少し勘違いしやすいマリーをフォローして繋ぐ役割を必死に努めるつもりだった。だが、駆け付けてみればトウカは倒され、マリーはさらわれ、自分自身は何を成したというのか。何もできなかったことへの腹立たしさとトウカとマリーを守れなかった無力感だけが残り、オウカを打ちのめす。


「う……」

「トウカ!?」


 わずかな声にオウカは駆け寄る。カレンの言葉通り、致命的な一撃ではなかったらしい。抱き起こすとゆっくりとトウカがその眼を開いた。


「……オウカ」

「あまり喋るな、傷に触る」

「……マリーは?」


 言葉を詰まらせ、オウカが苦々しい表情で眼を伏せる。それだけでトウカは全てを理解した。


「そっか……連れて行かれちゃったんだね」

「……ああ」

「……全部、滅茶苦茶になっちゃった」


 それは、今日の事か。それとも目の前の惨状を刺しているのか。あるいは、これまでの全ての事についてなのか。


「……今は、怪我を治せ」


 ぼんやりと目の前を見ているのかいないのか定まらない表情のトウカに、オウカはそれ以上、何も声をかけることができなかった。


 地は抉れ、花は散り、幼い頃からマリーがよく遊んでいた場所はもはや見る影もない。二人の目の前では家が燃えている。マリーと彼女らが家族になった所が。五年間の、トウカにとっては十年以上の思いが詰まった大切な場所が。それを眺める彼女の心中を思うと何も言えない。


 そして我を忘れていたとはいえ、それをしたのが自分らの娘であったという事実もまたオウカの心を深く抉るのだった。

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