つれていって、ここではないどこかへ

古池ねじ

第1話

 たぶん僕は恋をしたのだろう。十四も年上の、知性も社会的地位も名誉も財産も美しさも、おまけに夫まで持っている、中学生の頃からずっと憧れ続けた女性に。

 カウンターの左側に座った彼女は、ウイスキーの入ったグラスの縁に、細い指先で触れている。長い真っ直ぐな睫は伏せられているので、僕はこっそりと、その横顔を堪能する。

  つるりと丸い白い額、低い柔らかそうな鼻、小さいけれどふっくらとした唇、削いだようにすっきりとした、顎から首にかけての線。

  すごく美人、というわけではないのだろう。実際、人ごみの中では埋もれてしまうような目立たない顔立ちだ。化粧もほとんどしていないように見える。

  けれど、澄んだ肌や、耳の形や目の際なんかが、丁寧に作られている、という印象を抱かせる。彼女が身に着けている白いブラウスや、紺色の控えめな光沢のあるスカートみたいだ。シンプルだけれど、多分、とても高価。

「何を考えているの?」

 視線はグラスに注いだまま、ひっそりと静かな声で尋ねる。

「別に、何も」

 あなたが綺麗だ、と思っていました、とは言えない。

「何も?」

 彼女は微笑む。目尻に細かな小皺ができて、僕はその小皺がすごく好きだ、と思う。

「何か話して、笹野君」

 そう言って、彼女はからから、と氷を鳴らす。僕は少し考える。彼女を退屈させたくはない。一瞬でも。

「この間、『マルホランド・ドライブ』見ましたよ」

 面白いから、と彼女に勧められていた映画の名前を口にすると、彼女は切れ長の目を見開いた。

「本当? どうだった?」

 僕はあの暗い、ぐちゃぐちゃの映画を思い出す。

「ダイアンとベティが同じ人なのか違う人なのかよくわからなくて混乱しました」

 彼女はくす、と肩を竦めて笑う。

「確かに結構違うけどね。ナオミ・ワッツ。ベティは可愛くってダイアンは荒んだ感じで」

 そして彼女はウイスキーを、僕は焼酎を啜りながら、ひとしきりあの映画の細部について語り合った。だ、だら、だ、だらだらだらだだだ、と彼女は小声で劇中歌を口ずさんでくすくす笑った。

「園田さんは最近どうですか。仕事とか」

 僕が尋ねると、彼女はそうねえ、と首を傾げた。不穏な気持ちになるほど長くて滑らかで細い首だ。

「今は書下ろしをやってるけど」

「どんな話ですか」

「大学生、殺人事件、みたいなね」

「クローズドサークル?」

 彼女は微笑んで頷く。

「そう。クローズドサークル」

 彼女はそれ以上話してくれない。いつもそうだ。仕事の話になると、彼女はやんわりと僕を拒絶する。取材半分に時々会って酒を飲むだけの大学生に漠然とした情報以上のものを与えてくれるほうがおかしいと、頭ではわかってはいるのだけれど。

  僕は焼酎を一口嘗めて、話題を変える。

「ご主人は元気ですか」

 元気よ、と彼女は僕の目をじっと見つめて言う。鳶色の、大きな澄んだ瞳。僕は痛みのような、罪悪感のような、ときめき、のような、でもそのどれでもないような、奇妙な感覚にとらわれる。彼女にその目で見つめられると、いつもそうなってしまうのだ。

「毎日毎日仕事してるわ。全然休みがないの」

「銀行は大変ですね」

 彼女は深く頷いた。彼女と夫とは、大学時代に推理小説研究会で出会ったのだという。今僕が所属しているサークルでもあるのだけれど、やる気がないところだったらしく、十年前に学生会館が新しくなった際に、移転のごたごたで潰れてしまい、今は会誌もほとんど残っていないようだ。彼女のファンとしては非常に残念なことだ。学生時代の彼女の作品が読めないなんて。

「毎日毎日すれ違いだわ。私が起きるとあの人は寝ているし、あの人が起きるときに私はいないし」

 そんなことを、楽しそうに歌うように言う。すれ違い。僕はほんの少し嬉しいような気持ちになって、慌ててそれを否定する。そんなことに喜んで一体どうなるって言うんだろう。

「君には彼女はいないの?」

「いません」

 その言葉が、妙にきっぱり響いてなんだか嫌になる。

「いたらこんなところでおばさんと飲んでないわね」

「いても来ますよ僕は」

 する、とそんなことが口から出て、僕は自分で驚いた。でも言ってしまったものは言ってしまったものなので、僕は彼女の目を見つめて言う。

「どんな美人の彼女がいても、園田さんと会いたいですよ」

 彼女はぱちぱちと瞬きをして、それから目を伏せて微笑む。目の下に刻まれる、飾りのような皺。

「そういうことが言えるようだときっとすぐにできるわよ」

 ほしくないのに。そう思うけれど、でも口にしない。彼女なんてほしくない。彼女なんかと遊んだり何かしたりするよりもずっと、この人とこうして酒を飲んだほうがいい。けれど、だからと言ってこの人と何かしたい、というわけではないのだ。本当に全然そんな気がないか、と言われると多少疑わしいこともないではない。けれどそれは本当に、ほんの少し、気配程度の感情だ。そんなことよりただ僕は、この人と同じ場所にいたいのだ。この美しい女性作家と。

 彼女はすっ、と銀の華奢な腕時計を嵌めた手を軽く挙げて、すみません、とバーテンに言う。グラスの中身は、つめたく光る氷だけになっていた。

「同じのを」

 五杯目だ。彼女はどんなに飲んでも顔色が少しも変わらない。

 結局彼女はその後もう二杯飲んで、タクシーで家に帰った。僕は終電に乗って、下宿に帰ってすぐに寝た。

  くたびれた自分の匂いの布団をかぶり、目を瞑る。彼女のひっそりとした佇まいや笑い声が、酔った頭の中にふわふわと、焦点を結ばずに、漂っていた。



 きっかけは、高校生の頃に僕が彼女に出したファンレターだった。

  彼女は、園田晶というミステリ作家だ。顔写真も、詳しい経歴も、性別さえ明らかにしていない、いわゆる覆面作家だ。一高校生がファンレターを送ったところで返事など返ってこないだろうと思っていたが、彼女のある作品を読み終わったあと、探偵が出したものとは別の解答があるのではないか、とふと思った。二回ほど読み返しても、どうしてもそうとしか考えられなくなり、それを作者本人に確かめてみたくなって、便箋で五枚にもなる長い手紙を送った。ポストに封筒が落ちる音を、もし返事が来たら、という期待と、来るわけがない、という諦めの半々になった気持ちで聞いた。

 けれども手紙を出したことさえほとんど忘れかけたある日、その返事は届いたのだった。

 シンプルな、白い便箋に、小さい、右上がりの特徴のある字で、僕の意見をおおむね肯定し、多少の訂正を綴ってあった。最後にメールアドレスが記してあり、よかったら他にも意見や感想が聞きたい、という旨のことが添えてあった。

  今にして思えば、それは単なる社交辞令だったのだろう。でも有頂天になった僕はまた長い長いメールを送った。中学生の時、ある推理作家の書評を読んで興味を持ち、デビュー作を買ったこと。ロジックの美しさに感動し、生き生きした大学生活の描写に憧れたこと。受験生になった今は、そのモデルになった大学を第一志望にしていること。最新作の感想。これでいいだろうかと五回ほど推敲したのだが、「メールを出さない」という選択肢については、そのときは思いつきもしなかった。今になって考えるとたいそう恥ずかしいことだが、結果としては悪いことはなかったのだからまあ、厚顔無恥、というのも、そう馬鹿にしたものでもないだろう。

 そしてメールにもちゃんと、返事がきた。そっけなくはあったがぞんざいな印象はなく、最後にはまた、よかったらまたメールを送ってほしい、と書いてあり、有頂天だった僕は有頂天でい続けることができた。

  新しい作品が発表されるたびに、僕はメールを送った。短編の発表も含んだので、だいたい二ヶ月に一回は、長い長いメールを送ったことになる。

 その間に、僕は高校と実家を出て京都の大学に入った。第一志望に合格したのだ。そのこともメールに書くと、驚いたことに一度会わないか、という返事が来たのだった。信じられなくて何度も読み返したが、何度読んでも同じことが書いてあった。

  僕は震える指で、先生がいいなら喜んで、とキーボードを打った。待ち合わせは京阪の四条駅。推理小説雑誌の最新号が目印。待ち合わせの時間の三十分も早く来て、雑誌を固く抱きしめながら、その人が声をかけてくるのを待った。

 ふ、と、肩に何かが触れた。びく、と身体が跳ね、その勢いのままに僕は振り向いた。そして一瞬、落胆した。そこに立っていたのは二十代半ばの女性で、まず待ち合わせている相手とは思えなかったから。

 何ですか、と尋ねようとした僕に、彼女は笹野君? と問いかけて首を傾げた。ひどく不安げな顔で。彼女を安心させてあげたくて、ほとんど何も考えずに僕は頷いた。すると彼女はゆっくりと、強張った表情を緩めた。地味と言っていいほど清楚な顔立ちの中に、小さな明りがともったような、そんな微笑だった。

 園田、先生、ですか。ようやく事態を把握した僕が尋ね返すと、彼女はこくん、と頷いた。ほとんど可憐と言ってもいいような仕草で。園田晶です。澄んだ細い声で、彼女は名乗った。

 綺麗な人だ。沁みこむように、ゆっくりと、そう思った。綺麗な人だ。想像には応えてもらえなかったけれど、期待には充分以上に応えてもらった。そんなことを思うのは不遜だけれど、実感としてはそんな感じだった。

 ずっと憧れ続けていた人がそこにいるということと、まったく想像していなかった彼女の美しさは、僕の脳に半透明の膜のようなものを掛けた。

  その日一日のことを、僕はだからぼんやりとしか覚えていない。彼女は美しい声で話し、笑い、僕にお酒をおごってくれた。さらさらと長い髪が肩を滑る音、薄いピンクのマニキュアに彩られた細い指、華奢なのに滑らかな手の甲、唇を濡らしたウイスキーを嘗め取った薄い舌。アパートに帰った後、僕はその一つ一つを思い浮かべ、しっかりと記憶に定着させようとした。したけれど、なんだか酔った頭では全てがふわふわして、結局のところ、なにもかもがそんなふわふわした感じのまま、ふわふわの中から細部がふっと浮かんでまたふわふわに沈むような、そんな感じにしか記憶しかできなかった。

  それは、彼女と会い始めてから一年半がたった今も、あまり変わらない。



 昼休み、五年ほど前に復活した推理小説研究会の部室で連城三紀彦の『萩の雨』を読んでいると、ねえねえ、と唐突に左に座っている水上が僕を呼んだ。同回生の水上は美少年めいた顔立ちと体つきとファッションをしている。声も低くはないのだけれど女性的な丸みがなくて、性別というものをどこかに忘れてきたような雰囲気の持ち主だ。それはちゃんと自覚しているようで、初対面でこっちが迷っている間に水上加奈です、とフルネームで名乗ってくれた。性別を間違われるのはどうも不本意なようである。それだったらもっと女の子らしい格好をすればいいのに、と僕は思っているのだが、まあ、彼女には彼女なりの考えがあるのだろう。

「何」

 僕はページを指で押さえて尋ねる。

「クシモノが食べたい」

「クシモノ?」

「焼き鳥とか串かつとか、そういう串にさしてあるものが食べたい」

 串もの、か。脳内でようやく漢字に変換できた。

「んじゃ、食べに行きますか」

 頭の中で幾つか、焼き鳥屋と串かつ屋を思い浮かべる。今月はそれほど本も買っていないからちょっと外食するぐらいの金はある。

「でもお金ないー」

「なんだそれ」

 僕は古本屋でかけてもらったカバーの端を栞代わりにして本を閉じ、パイプ椅子の上の腰を動かして水上のほうを向く。水上は本だのプリントだの講演会や芝居のちらしでとり散らかっている机に顔を伏せてお金がないー、と繰り返す。毛先を遊ばせた短い髪が、窓から入る日差しでふわふわと茶色く透けている。

「自分で作ろっかなー」

「へえ」

 水上の顔の横には弁当箱が置いてある。紺色の巾着に包まれた四角い箱は、吹奏楽部でチューバを担当していた高校時代に僕が使っていたのと同じぐらいの大きさなのだが、水上は毎日この弁当箱に彩りよく玉子焼きだのきんぴらだの煮物だのちまちま詰め込んで持ってくる。よく食べるものだ、し、よく作るものだ。作り置きしとけば簡単だし、と本人は言うのだが。

  ぶん、と跳ねるように水上は起き上がって宣言する。

「決めた。今日串かつ。笹野も来る?」

「あー、うん。暇だし」

 水上の家にはサークルの例会の後なんかに何度か行ったことがある。行けば必ず、部屋を決めるときに「絶対これだけは譲れなかった」という二口コンロと電子レンジと炊飯器を最大限に活用して欠食児童みたいな貧乏学生たちの胃袋と舌を満足させてくれる。

「他に何人か呼ぶから、ビールだけ買ってきて」

「ビール?」

「ビール。発泡酒じゃなくてビール。「その他雑種」とかは夕飯食べ終わってから買い足す」

 夕飯食べ終わってから、ということは。

「飲む気なんだ」

「飲む気なんだよ」

「昨日も飲んだんだけどね俺は」

「私は飲んでないからいいんだ。明日土曜日だし」

 一瞬だけどうしようか、と迷い、ビールと串かつの誘惑にあっさりと屈する。

「うずらが欲しいな」

 水上は硬い線の肩を竦め、安かったらね、と答えて立ち上がった。そろそろ昼休みも終わりだ。



 四時間目の教育原論が終わった後、携帯電話を確認すると水上からメールが入っていた。「殿と荒野が来るって

 七時ぐらいに来て

 うずら確保済」

 水上のメールはいつも顔文字どころか句読点さえ使われていない。「うずら確保済」に思わず薄ら笑いを浮かべ、僕は大学を自転車で出る。

  風がひんやりと乾いていて、長袖に腕が包まれているのが心地いい。もう、完全に秋だ。直接水上の家に行かず、少し遠回りしてスーパーに足を伸ばす。僕の家からも少し遠いので普段は行かないけれど、このあたりでは一番安い店だ。

  特売の卵のMサイズが一パック九十八円で、ちょっと買いたくなるけれど、どうせ使い切れない上に自分の家に寄っている暇もないので我慢する。白菜も人参も安い。客は夕飯の材料を買いに来た主婦が大半だ。

  野菜売り場の裏の買い物かごを取り、酒の売り場に行こうとする。けれど、何しろここで酒を買うのは初めてなので、どちらに行っていいのかいまいちわからない。品物が所狭しと積まれている狭い通路をきょろきょろしながら進んでいく。幼稚園児ぐらいの男の子が、だー、ともあー、ともつかない奇声を上げながら走り回っている。ぶつからないように避けると、右膝とかごがぶつかった。がちゃ。安っぽい音が立つ。男の子が、走り抜けていく。甲高い母親の声。

  どうして僕は、こんなところにいるんだろう。

  突然、そう思って立ちすくんでしまう。昨日のあの、園田さんと過ごしたふわふわした豪奢な時間と、慣れないスーパーで安いビールを買おうとしている今が違いすぎて。お惣菜コーナーから漂ってくる、安っぽい油のにおい。右膝の小さな痛み。きしきしと心臓が縮むのを感じながら、進む。ようやく、ビールが見つかった。

  はあ、と一つ溜め息をついて、僕はかごにビールの五百ミリリットル缶の六本セットを放り込む。四人なら二つあれば充分だろう。



 鍵は開いてるから勝手に入れというメールに従い、おじゃまします、と言ってドアを開けると、五平餅のようなにおいがした。玄関の靴の様子では、僕が一番乗りのようだ。

「ビールは?」

 キッチンで材料に衣をつけている水上は、こちらを向かずに尋ねてきた。

「十二本買った」

「ご苦労。後で精算して」

「わかった。このにおい何」

「まだ内緒」

 僕は独り暮らしにしては随分大きい冷蔵庫にビールのパックを詰め込む。冷蔵庫には、けれど中身はあんまり入っていない。作り置きの麦茶にバターやベーコン、卵や豆乳、野菜ジュースと、味噌とか何か細々したものがいくつか、というところだ。買い置きのものも大半使ってしまったということだろう。

「これ部屋もってって」

 水上が透明なビニール袋を輪ゴムで止めて手袋代わりにした手で大皿二枚を指す。もう後は揚げるばかりになった串かつがたっぷり並んでいるものと、ざく切りにしたキャベツが山盛りになったものだ。

「あっちで揚げるの?」

 水上は作業の手を休めずに頷く。ビニール袋が卵とパン粉でべちゃべちゃになっている。

「クッキングヒーター出したから」

 コンロ二口あるのになんでそんなものが必要なんだろう。

「なんでも持ってるんだな」

「そうでもないよ。今は蒸籠が欲しい」

 蒸籠。何を作るつもりだ。

 水上の指示に従って紙皿を出したりソースを出したりしていると、荒野と殿がやってきた。殿というのはあだ名で、本名は田崎と言う。顔が織田信長の肖像画に似ているのと会長という役職についているのが由来らしい。今日集まった中では一人だけ三回生だ。

「お土産」

 二回生の荒野がビニール袋を握った大きな拳を突き出す。水上は何それ、と眉を寄せた。

「蕎麦ぼうろ」

「なんでそんなものを」

「実家に帰る前に買って、持って行くのを忘れてた」

「その辺置いといて」

「水上さん好きじゃないの?」

 殿が首を傾げる。

「口が渇くものはあんまり」

 衣でびしょびしょのビニール袋をゴミ箱に捨てて水上が答える。

「スナック菓子とかよく食べてるのに」

「酒のつまみになるものは好きです」

 殿は困ったような笑い方をした。

「まあ、なんとなくわかるけど」

 水上以外の人間でビールや箸を用意して席に着いてしばらくすると、キッチンであれやこれや細かい作業を終えたらしい水上はやや大きめの皿を持ってようやくリビングへとやってきた。

「いいにおいだねえ」

 殿が細い鼻をひくひくと動かす。

「焼きおむすびー」

 ドラえもんが道具を出すときのような口調で言うと水上は皿をどん、とテーブルに置いた。男連中はおー、といささかおおげさな感嘆の声を漏らす。焼きおにぎりは普通のだし醤油が塗られているらしいのと、胡麻の入った味噌だれが塗られているのと二種類、四個ずつだ。

「はーい、手を合わせてください」

 水上が声を上げると、みんなではーい、と手を合わせた。

「いたーだきます」

 いたーだきます、とみんなで声を合わせる。

  その途端、男はいっせいに焼きおにぎりに手を伸ばす。僕は味噌だれを食べてみる。最初に感じたいい匂いの正体はこれだったらしい。表面がこんがりと焦げていて、市販のものより随分大きい。二つに割ると湯気が顔に当った。口に含むと、なんだか懐かしい味がする。

「美味いねこれ。五平餅みたい」

「ごへいもち? 何それ」

 油の入った鍋が乗ったクッキングヒーターの温度を調節しながら水上が尋ねる。

「え、知らないの、五平餅」

「僕も知らない」

「俺も」

 殿と荒野も言う。

「なんかご飯を潰して小判型にしたのを串にさして、で、こういう味噌だれつけて焼いたやつだけど」

「知らない」

「知らない」

「俺も」

 あれは中部地方限定だったのか。あんまり自然に売っているので今まで気付かなかった。

「それどういう時に食べるものなの?」

 水上が尋ねる。僕はビールを一口含んで答える。

「スーパーの前にいか焼いたやつとかたこ焼きとか売ってる店ない?」

「ああ。なんかこう、どっちかっていうとぱっとしないスーパーの前にあるやつね」

「そういうとこで、みたらし団子と一緒に売ってる」

「へーえ」

 水上はそろそろかなあ、と呟いて、大皿から串かつを一本取ってそっと油の中に入れた。ぱちぱち、と小気味のいい音で油が爆ぜる。

「よし、いい感じ」

 頷くと、次々と串を油に投入する。いい色に揚がったものは菜ばしで取り上げ、クッキングシートが引かれた皿に乗せる。

「みんなもう食べていいよ」

 いっせいに串に手が伸びる。僕が取ったのはうずらだ。甘辛く煮込まれたうずらが二つ、串に刺さっている。たれもつけずにそのままかぶりついて、熱い口をキャベツで冷やす。

  テレビをつけることさえなく、ほとんど無言でみんな競うように食べた。四つの額が赤くなって、丸く汗が浮かんでいる。部屋の温度がどんどん上がっているような気がする。油の爆ぜる音。ビールが喉を通る音。キャベツと衣が歯に砕かれる音。

  水上も串を揚げながら手際よく自分の分を取って、男子に負けない量を食べている。水上が食事風景を見るとよくこんな小さい身体にこれだけの量が入るもんだとその度に感心する。おまけに、ビールも絶え間なく飲んでいる。

  大皿にもずいぶんスペースが出来、空っぽだった胃の切実な欲求が和らいだ頃、ばらばらと音を立て水上が自分が食べ終わった串をコップに挿した。その量に、水上以外の三人とも、ほとんどぎょっとする。

「食べるねえ、水上さん」

 殿が感心しきったように言う。

「会長は根菜ばっか食べるのやめてくださいよー」

「へ? あ、ほんとうだ」

 油で光った唇を尖らせた水上の反論で、自分が蓮根や南瓜や里芋ばかり食べていることに気づいたらしく、殿は照れくさそうに笑う。

「でも根菜、美味しいよねえ」

「そりゃ美味しいですけど他の人のことも考えてくださいよー」

「でも荒野君も肉ばっかり食べてるよ」

 丁度豚肉を食べていた荒野がびく、と痙攣したように顔を上げた。

「え、そんな食ってないですよ」

「でも僕が見るといつも肉食べてるよ」

「え、アスパラとかも食べてますって」

 荒野以外の全員がぶ、と上品じゃない噴出し方をした。

「アスパラにもベーコン巻いてあるじゃん!」

 水上が真っ赤な顔で突っ込んだ。

「いや、他にも食べてるって」

「そんなんだから血糖値高いんだよー」

 あっはははは!、と高らかに水上は笑う。荒野は太い眉を寄せ、串から残りの豚を引き抜いて咀嚼した。こいつこんなに痩せてるのに血糖値高いのか、と僕は無益な情報を一つ得る。

「水上酔ってる?」

 僕が尋ねると、水上は酔ってないよー、と言いながらビールをもう一口飲んだ。

「酔ってるねえ」

 殿が茄子を串から箸で取りながら笑う。

「任せると危なそうだからもう全部揚げちゃうよ?」

 僕がまだ揚げる前の串が持ってある皿に手を掛けると水上は肘をついて串をもてあそびながらくくくくっ、と笑った。

「しょーがないなー揚げさせてやるよー」

 皮膚の薄そうな頬は、熱い食事とアルコールのせいで破裂しそうに赤い。涼しげな細い髪が汗で濡れた額に貼り付いている。荒野と殿がやれやれ、という視線を交わす。僕は慎重に串を油の中へ落としていく。

 あっという間に最後に揚げた分もなくなった。最後の一本は豚肉で、荒野が食べて水上にやはり笑われた。

  少し残っていたキャベツをばりばりと食べながら、みんなでビールを片付けるように飲む。水上はほとんど突っ伏すようにテーブルに身体を任せながら、それでもビールを離さない。

「もう飲むなよ水上」

 荒野が眉を寄せて忠告する。

「なんでー」

 水上がぎろりと荒野を睨み上げる。

「お前首まで赤いぞ。水を飲め」

「赤いだけだもん酔ってないもんー」

 荒野は溜め息をついて立ち上がり、キッチンに向かった。冷蔵庫の扉に手を掛けて、

「開けるぞ」

  と告げると答えを待たずに開き、作り置きしてある麦茶を出して食器籠のコップに注いだ。

「飲め」

 とん、とテーブルにコップを置く。空の缶を小さな手で握りながら、水上はいまいち焦点の合わない目でそのひどく重たそうな緑色のミッキーマウスのコップを眺める。

「これねー、高かったんだよー」

「それはいいから早く飲め」

 苛立ちを露にした荒野の声に、水上は唇を尖らせた。

「わかったよー」

 一息に半分ほどコップを開け、はあ、と溜め息をついてまたテーブルに突っ伏す。

「あーなんかふわふわしてきたー」

「俺はいらいらする」

「ひどいなあ」

「ひどいのはお前だ」

「そんなことないよー」

 くすくす笑いながら、水上は荒野のあぐらをかいた膝にぽん、と倒れこんだ。え、と小さく声が漏れてしまったのは僕だけで、殿はいつもの穏やかな笑顔を崩さないし、当の荒野は眉を寄せるけれど何も言わない。

「じゃあお話しよーよ。みんなで」

「なんの」

「じゃー最近読んだミステリのことでも」

 くすくす笑いながら、水上は荒野の太腿に頭を擦り付ける。妙にそれが色っぽい、というか生生しくて、僕は目を逸らしてしまう。なんで殿は止めないんだろう。そして、何よりなんで荒野はそれを受け入れるのだろう。

「そういえば園田の新作読んだよ」

 殿が言う。僕はびく、と肩が動くのを止められなかった。

「どうですかー新作」

 水上の問いに、殿は僅かに首を傾げた。

「そうだねえ、まあ、面白かったけど、ちょっと雑かなあ。トリックの詰めとかね、園田にしてはけっこう甘い。急いで書いたみたいな感じだったよ。設定と動機はすごくいいから、ちょっと惜しい感じ」

 殿の評は的を射ている、と思う。僕は園田晶の盲目的な、常に全肯定のファンだけれど、確かに最新作は登場人物の処理やロジックの詰めが甘かったと思う。それでも他の作家とは比べ物にならないぐらい面白いと思うけれど。

「私園田は微妙だなー。面白いとは思うけど」

 水上が言う。

「微妙? なんで?」

 殿がのんびりと尋ねる。

「なんか女キャラが親父くさくてやだ。女が出てこなけりゃ完璧なのに」

 僕はごほごほと咳をした。出そうになった声を飲み込んだら噎せたのだ。親父くさい? 華奢で上品なあの人の姿を思い出す。親父くさい、だって?

「新作はほとんど女子が出てこなかったよ」

「じゃあ読むかあ」

 そんな水上が、急に煩わしくなった。へらへら酔って、男に膝枕させて、呆れられて。みっともない。たった一言でそんなふうに思うなんて心が狭いと自分でも感じるけれど、そういう気持ちがあることは、否定できない。

「飲め」

 荒野が空のコップに麦茶を注いで、もう一度水上に差し出す。うー、と水上は起き上がってまたコップを空にする。口の端から顎まで、零れた麦茶が伝う。ぐだりと机に崩れて突っ伏す。その背中を荒野が撫でる。部屋には酒と油の匂いが充満していて暑苦しくて息苦しい。

 園田さんに会いたい。

 その気持ちに全身をすっぽり覆われてしまう。園田さんに、会いたい。あの人の細い指や、美しいお酒の飲み方、快適で豪華なあの空間に身を置いていたい。こんな場所にはいたくない。

 水上は荒野を巻き込んでミステリしりとりを始め、殿は一人でそばぼおろを食べている。僕は立ち上がり、窓を開ける。



 月曜日、昼休みに部室に行くと、誰もいなかった。僕は「萩の雨」を取り出して読み進める。その端正な文章にどっぷり浸っていると、部室のドアが開いた。

「あ、笹野君」

 殿だった。

「こんにちは」

「うん。金曜はお疲れ様」

「あのあとどうなったんですか」

「荒野君だけ残って、僕は帰った」

「え」

 殿は悪戯っぽく笑った。

「水上さんはそうしてほしいんだろうと思ったから」

 僕は僅かに眉を寄せた。なんて勝手な。

「荒野はそうしてほしくなかったかもしれないじゃないですか」

「うーん。でもまあ、それならそれでいいじゃない」

 殿は僕の正面に座る。いつもの穏やかな、そして、何を考えているのかいまいちわからない笑顔。

「それに、多分そんなことはないと思うよ」

「なんの根拠があって」

「荒野君はただの友達の女の子を膝枕したりはしないよ」

 薄い根拠だ、と思ったけれど、口には出さなかった。自分が水上に対して冷たくなっているのがわかるから。

「そういえばさ、上村さんからメールがあったんだけど」

 殿は口調をがらりと変え、大切な秘密を告げるように微笑んだ。

「はい」

 僕はなんとなく姿勢を正す。上村さんとはうちの大学のOBで、尋常じゃない量の古書のコレクターだ。生活のほとんどを本に捧げている、真似はしたくはないけれど尊敬せざるは得ないような。

「再開前の、『茶会』を持ってる知り合いがいるんだって」

「再開前?」

 僕は目を剥いた。『茶会』はうちのサークルの会誌で、サークルの再開前と同じ名前を今も使っている。色々なOBを当ってみたものの、再開前の『茶会』はごく初期のものが何冊かしか見つからなかった。後期は活動自体が小さくなっていて、少数しか刷っていなかったらしい。とにかく貴重なものなのだ。

「うん。うちのサークルの人じゃないんだけど、再開前のやつほとんど全部持ってるんだって」

「え、それ、見られるんですか? もしかして」

 つい興奮して身を乗り出すと、ノックが聞こえた。ドアが開く。

「おはよう」

 水上だった。眠たげに目を擦っている。

「おはよう」

 愛想よく答える殿の隣に座る。

「何? なんかあったの?」

 ただならぬ気配を感じたのか、ぱちぱちと薄い睫を瞬いて水上が尋ねる。事情を殿が説

明すると、うひゃあ、と間の抜けた声をあげた。

「すごいじゃないですか。それ、見せてもらえるんですか?」

「うん。というか、寄付してくれるんだって」

「え!」

 僕と水上は同時に叫んだ。殿はふふ、と悪戯っぽく笑う。

「もともと他の大学の推理小説研究会の人で、そのサークルが潰れたときに、サークルが持ってたいろんな大学の会誌をほとんど引き取ったんだって。趣味で。でももうすぐ家が改築するんで、色々蔵書を処分するつもりらしい。それで上村さんに話が回ってきたんだ」

「すごーい」

 うん、と殿は頷く。

「それでね、結構な荷物になると思うから、何人か一緒に僕の車で行こうと思うんだけど」

「あ、私行きます」

「僕も」

 ひらひらと手を挙げる水上につられて僕も手を挙げる。

「ありがとう。じゃあ、あっちにもそう伝えておくね」

「うわあ」

 水上が皮膚の薄そうな頬を真っ赤に上気させてぱたぱたと足で床を叩く。

「楽しみー」

 僕も水上ほどアピールはしないけれど、多分内心では同じぐらい浮かれている。殿や水上は単純にサークルの歴史的なことに興味があるのだろうけど、僕はその辺りにはさほど関心はない。僕の興味はただ一点。再開前の『茶会』に載っているはずの、園田晶のデビュー前の作品だ。



 意外なことに、上村さんの知り合いだというコレクターは、若い女性だった。細い体を紺色のスウェットと黒いジーンズに包んだ彼女は葛西さん、という。古書店の店員をしているらしい。羨ましい。

「ここが離れ。好きにしていいよ。こっちもお茶とかは出さないんで」

 古い、というよりぼろい、と言ったほうが適切なほどの母屋と、木が茂った庭に似つかわしく、木造の離れは暗く、古い。それでも造りはしっかりしているようで、狭い入口から中に入ると、ひんやりと涼しく、清潔だけれど柔らかい、いい木の匂いがした。掃除も行き届いているようだ。葛西さんが白い指でスイッチを入れると、ばちん、と大げさな音が鳴って電気が黄色く灯る。

「本だらけ」

 くす、と葛西さんは照れたように笑って呟いた。確かに、その通りだった。本だらけ。というか、十畳くらいはありそうなこの離れには、本と、ダンボールと棚しかない。本当に、それだけしかない。でも、ここに、『茶会』がある。園田さんの、デビュー前の作品が載った、『茶会』が。それを思うだけで、息が苦しくなる。

「会誌があるのはあそこらへんのダンボール。めぼしいものは分けておいてあるから、別にダンボールごと持ってってもいいけど」

「いや、さすがにそれは無理です」

 殿が苦笑して口を挟む。あそこらへん、といわれた場所に、ダンボールは山と積まれている。軽トラックでもないと運搬不可能だ。葛西さんは尖った肩を竦める。

「ま、正直そっちのほうがありがたかったんだけどね。会誌以外ももってっていいよ。ただ、帰り際に何もっていくのか言っておいて。あと、私は母屋で昼寝してるから、何かあったら携帯に電話して。じゃ」

「あ、ありがとうございます」

 ひらひら、と手を振って、葛西さんは離れを後にする。

「さて、はじめようか」

 殿はぱん、と手を叩き、僕と水上、荒野に呼びかける。またこのメンバーだ。

「はーい」

 水上が代表して間延びした返事をする。

「それと、途中で中読んじゃだめだからね」

「それは守れる自信がない」

 殿の注意にふざけた返事をする水上の頭を、

「こら」

 と荒野が軽く叩いた。もっと強く叩いてもいいのに、と僕は思うが、無論口には出さない。

「ま、とりあえず開けましょうか」

 二人のやりとりに目を細めた殿が、一番上のダンボールの封印を、静かに解いた。やりますよ、と僕は、声に出さずにこっそりと、園田さんに告げる。



 『茶会』の捜索は難航を極めた。

  一冊目は、最初に開いたダンボールの中に見つかった。けれどその先が、どれだけ本の山をかき分けようと見つからない。ぱっと見てこれだと思っても、よく似た装丁のほかのサークルの会誌だったり、これは絶対にそうだと思っていると、もう見つけたものと同じ号だったりする。

  葛西さんは、とりあえず取っておこうという、割とアバウトなコレクターらしい。もっとも、学生のサークルの会誌を分類しているコレクターなんていうものがいても、かなり病的な気はするが。

 結局、三十個ほどはあったダンボールを全部開封してひとつひとつ確認していって、ようやく全部で十二冊の『茶会』が発見された。

「これで全部? ないの、ある?」

 焦れたように水上が尋ねる。

「たぶん、これで全部。創刊号がないけど、それは部室に持ってるから」

 殿が持参した箱に、順番どおりに『茶会』を重ねながら答えた。

「じゃ、帰れるんだね!」

 心底うれしそうな声で叫ぶ水上の顔の大半が、頭の後ろで括ったタオルに覆われている。鼻炎持ちだという水上は、ひっきりなしに出るくしゃみに耐え切れず、タオルをマスク代わりにしていた。建物自体を清潔にしていても、古い本からはどうしても埃が立ってしまうようだ。僕も鼻は弱いほうではないのだけれど、作業が進むにつれてむずがゆくなってきた。かなりつらいのだろう。途中から無駄口も叩かず黙々と本を選り分けていた。よく見ると、顔と目が、赤くなっている気がする。

「まだだ」

 荒野が水上の肩を叩く。

「ええ?」

 水上は不快げに眉を寄せる。荒野自身も心底うんざりした顔で、ダンボールの山を顎で示す。

「片づけが残ってる」

 四人でそれぞれに深いため息をつき、無言で本の山に手をかける。水上が小さくくしゃみをした。



 最初の言葉に反して、葛西さんはお茶どころか、お菓子まで出してくれた。もちもちとした皮にあんこが包まれた、肩のこらない和菓子に、緑茶。涼しい縁側ですすけた庭を見ながらのんびりしていると、疲れも時間も忘れてしまいそうだった。一息つくと、今までは労働の煩わしさに忘れていた達成感と喜びが、胸のうちに沸いてくる。読める。これで、園田さんの作品が、読める。

 顔と目の赤みもすっかり引いた水上は、楽しそうに葛西さんに話しかける。

「葛西さんって、つぶれる前のうちのことも知ってるんですか?」

 葛西さんは小さくうなずく。

「まあね。って言ってもそれほど詳しくないんだけど。園田晶がいたよね。私の二つ上だったっけ」

「あ、知ってるんですか?」

 お茶をこぼしそうになって、慌てる。葛西さんは二つ目の和菓子をかじっている。白い頬には畳の跡。本当に昼寝していたらしい。なかなか豪快な人だ。

「うーん。っていっても話したこともないんだけどね。でもとにかくミステリマニアで学外にも有名で、会誌にもすごい量をばんばん書いてたよ。今に比べればそりゃ若書きだけど、学生離れしてうまかったのは確かだね。なんか、読ませるんだよ。素人の作品なのにさ。うちのサークルにもファンが何人かいて、サインもらってるやつまでいたよ。サインっていうより、ただ名前書いただけなんだけど、あれは今では貴重かもしれないね」

 そうだろうそうだろう。僕はなんだか嬉しくなって、緩んだ口元を湯飲みで隠す。

「本人はどんな人なんですか?」

 葛西さんは緑茶を一口音を立てずに啜り、うーん、と宙をにらむ。

「正直あんまりよく覚えてないなあ。大学同士で結構交流あったんだけど、ほっとんど誰とも、自分のサークルの仲間とも個人的なことはしゃべってなかったし、なんか暗そうな人っていうか。すごい酒飲みってのは聞いたことあるけど。まあ、総じてくらーいミステリマニアって感じ」

 ぐしゃ、と、自分の中の汚い塊が潰れて、中身が飛び出してきたような、不快感。葛西さんの、さっきまでは屈託のないとしか思えなかったその笑顔。それが、今では裏にどろどろとしたものを隠しているように見えてしまう。

  園田さんが、暗いミステリマニア? なんでそんな言い方するんだろう。あんなに美しい人なのに。この女は、なんでそんな言い方を。嫉妬? 美しくて才能があるあの人に対する。

  僕の考えていることなど知ることのない葛西さんは、のんきに続ける。

「まあ、やっぱりああいう人が大成するんだなあって思ったよ。情熱っていうか、好きなものに対するエネルギーの大きさが違うんだよね。うちらみたいなちょっとかじったぐらいの凡人とはさ、人間の種類が違うよ。一回合同例会で司会やってたんだけど、すっごい量のレジュメだった。しかもそれが読ませるし、発表も聞かせるんだよねえ」

 その補足がむしろ好意的に聞こえて、僕は混乱する。悪意的な発言に対する言い訳がましい弁護、というような言い方ではない。単純にさして興味もないことに対してさしさわりのないコメントをした、というふうにしか聞こえない軽さだ。

 ふと、園田さんの顔が、うまく思い出せないことに、気づいた。美しい、あいまいな、霞がかかったようなイメージ。

 ぎゅ、と、胸に重たいものが詰まったような苦しさを覚える。本当は、園田さんは美しく落ち着いて神秘的な女性なんかじゃなくて、ただの暗い、普通のミステリマニアなんじゃないだろうか。

  ぽかり、と、泡のように、そんな疑いが沸いた。ごく普通の、ただのミステリマニアの女性を、僕が妄想の中でどんどんどんどん美化していって、美しい、あいまいなイメージを作り出している。『園田晶』という、僕に都合のいいイメージ。

  馬鹿な。鼻で息を吐いて、そんな考えを一蹴する。

 馬鹿馬鹿しい。そんなわけがない。僕は知っている。園田さんは特別な人だ。特別に上品で、清潔で、美しい。それは事実だ。それは僕が男であるのと同じぐらいの、単純な事実だ。あの人は、美しい。

 それなのに、さっきまでの馬鹿馬鹿しい疑いは、僕の胸にしつこく漂っている。割れない泡みたいに。

「ところでもうこんな時間だけど、君たち帰んなくっていいの?」

 さばさばと潮時を告げる葛西さんの声に、殿がそろそろお暇させていただきます、と答えた。すすけた庭の緑が、わずかに夕日の金色を帯び始めていた。



 部室に『茶会』を持ち帰った後、ざっと目次だけを確認しておいた。すると確かに、何号か「園田晶」の名前を見ることができた。タイトルに「密室」や「殺人事件」という直接的な単語が多く、今よりもずっと硬質な印象だ。すぐさま読みふけりたかったけれど、みんなの手前そこまで関心をあらわにするのも躊躇われた。

  大学近くの定食屋でさっさと早めの夕飯を食べて、すぐに解散した。文科系で軟弱な僕たちは、とにかく疲れていたのだ。

 家に帰ると、すぐに布団に寝転んだ。『茶会』を見つけた、ということを、僕は園田さんへは告げなかった。今日は、ではなく、これからもたぶん、黙っているだろう。いつもの僕なら絶対報告していたと思うのだけれど、でもしなかった。なんとなく、あまりいい趣味ではないような気が、するのだ。

 翌日、部室に行くと、水上がいた。

「ちーす」

 こちらも見ずに軽く挨拶をする水上の手には『茶会』。くすんだ茶色の表紙のそれは、昨日僕が園田さんの短編を確認した号のうちのひとつだ。

「面白い?」

 僕はなんとなく及び腰になって尋ねる。うん、と水上は頷く。

「園田晶の短編が載ってる。『冷たい密室』ってやつと、『御所殺人事件』っていうのと二つ」

「どう?」

 水上は小さく眉を寄せた。

「今よりちょっと硬い感じかな。トリックとかロジックとか、ミステリ部分はとにかくやたら凝ってるけど人物描写とか全然ないからあっという間に読み終わるし。特に『冷たい密室』はなんかもうすごいね。ちょっと読んだだけじゃわけわかんないぐらい複雑。さすがに山沢晴雄の『離れた家』よりはわかりやすいけど」

「へえ」

「確かにこれはデビューするなーって感じがする。うん。他のと全然違うもん。うまいよ。文章もすごく読みやすい」

 僕は水上の正面に座る。水上は顔を上げ、言う。

「ちょっと、いい気分だよね」

「いい気分?」

 水上は薄く笑い、うなずく。

「うちらがやってる『茶会』とおんなじ『茶会』に、こういう作品が載ってて、作家になった人がいるって」

 す、と血の気が引いた後、すぐその反動のように、頭に血が上った。怒りの余り、ぷつりぷつりと頭皮に汗が沸く。水上はへらへらと笑っている。

「なんか、いいよね。そういうの」

「なんでいい気になるんだよ」

 小さいけれど、自分でも、気分が悪くなるような声だった。きょとん、と、水上が丸く目を見開く。

「え?」

 ぐう、と、どうにか喉元で、汚い言葉を押さえ込む。どうしてお前が。お前なんかが。あの人の何も知らないくせに。あの人をけなしたくせに。会ったこともないお前が。どうして。

 震える息を少し吐く。

「いや、何でもない」

「……うん」

 水上は、不審げな視線を投げてくる。それを避けるように、僕は『茶会』に手を伸ばす。水上には、何の悪意もないのだ。ただ、何も知らないだけ、ただ、常識の範囲で無神経なだけ。それは、はっきりとわかっているから、余計につらかった。

「あ」

 何気なく開いたページに、思わず声が漏れた。

「どうしたの?」

「あ、いや、なんでもない」

 それは、合宿の記録ページだった。集合写真が、載っている。園田さんのいる、集合写真。

 写真の中の園田さんは、今よりずっと若い、というよりも、幼いほどだ。大学が持っている琵琶湖近くの保養地の玄関前の広場に、十人ほどの男女が並んでいる。女子は三人しかいない。服装からして、合宿は夏だろう。タンクトップに短パン、という格好の男子もいる。

 園田さんは、白っぽいワンピースの上に、濃い色の大きめのカーディガンを羽織っている。髪が、とても短い。今よりずっとふっくらとした頬と、折れそうに細い首が、無防備で幼く見える。いとけない、という言葉さえ似合う、そんな少女。まぶしそうに目を細め、ほんの微かに、笑っている。つい漏れてしまったような、小さな小さな笑み。

 その粒子の粗い白黒の写真を見ただけで、僕の喉は痛いくらいに熱くなった。

  なんて、可愛いんだろう。

  その触れたら柔らかく崩れてしまいそうな園田さんの姿に、涙が出そうになる。ただの集合写真なのに、彼女だけ生き生きと鮮明で、輪郭さえくっきりしているように見える。

 表紙を見返してみる。それは、十四年前のものだった。ということは、このとき園田さんは二十歳なのだ。十四年前。二十歳の、園田さん。その頃、僕は六歳だった。園田さんのことを、何一つ知りはしなかった。この集合写真には、たぶん園田さんの夫も写っていると、いうのに。

 そう思うとたまらなくなって、『茶会』を閉じた。けれど、またたまらなくて、目次のあたりを狙って開いた。『園田晶』という名前は三つあった。いつの間にか口の中に溜まっていた苦い唾を飲み下す。指先が重くしびれている。

 知りたい。

 園田さんの、何もかもを、知りたい。あの人の書いたものは全部読みたい。あの人の好きな本も。あの人の好きなことも、嫌いなことも、全部知りたい。あの人と、つながっていたい。どうしても。

 突然沸いたその欲望は強烈で、頭の中がそれだけで塗りつぶされてしまう。僕は、今、園田さんがほしかった。どうしようもなく。今どこかで仕事をしているか酒を飲んでいるか、あるいは僕の知らない誰かと会っているのか、まったく想像の手がかりもないぐらい遠い三十四歳の園田さんだけじゃなく、琵琶湖のほとりの保養地でまぶしさに目を細めながら小さく笑う、手が届きそうなぐらい可愛らしいのに、今よりもさらにずっとずっと遠い二十歳の園田さんも、ほしかった。決して手に入れられないことに泣き出しそうになるぐらい、ほしかった。手に入らないことが、全然納得できない、理解できないぐらいの、凶暴な欲望。

「熱心だね」

 水上が無邪気に言う。こんな欲望も、こんな焦燥も、こいつは何にも知らないんだ、と分かって、返事をするのも面倒になる。ああ、ともうん、ともつかない適当な相槌を返し、僕は園田さんのページを開く。



 『園田晶』という作家は、天才だ。僕は久しぶりにそのことを思い出した。

 午後の東洋史と論理学の授業をさぼって、ただただ『茶会』を読み耽った。園田さんは、在学していた四年間で、十四の短編を『茶会』に残していた。そのいくつかは十ページにも満たない掌編だとしても、すごい量だ。いや、量自体は、確かに多いけれど圧倒的というほどでもない。去年卒業した先輩には、一年で八つの短編を載せた人もいる。園田さんがすごいのは、十四の作品の、そのクオリティの高さだ。それはもうまさに、圧倒的、だ。

 文章は学生らしく荒っぽく、一文がやたら長くて最初と最後では主語が変わっていたりするものも多い。思いついたアイディアをただ書き飛ばしたような、投げやりなものもある。登場人物の名前は違う作品でもしょっちゅう重複するし、「しなやかな首筋」で「アーモンド形の瞳」の美人ばかり出てくる。

 それでも、どの作品も、圧倒的に面白かった。発想は奇抜で、こちらに伝えられる情報量は適切で、文章は乱暴でもこちらの共感を誘い、読みづらくても、読むのをやめる気には全くなれない。どの作品にも奇妙な、凶暴なぐらいの力が篭っていて、ひとつ読み終わるたびに、どっと疲れた。

 もちろん、今の園田さんの作品のほうが、ずっと完成度が高い。ひとつの作品としてみれば、ひどいものだとさえ言えるものも少なくない。けれど荒っぽくて洗練されていないからこそ、余計にその際立った才能が、直接こちらに訴えてくる。

 暗い部屋で、ふっくらとした唇をきつくかみ締めて、キーボードを叩く少女の姿が浮かぶ。頭の中に次々アイディアが浮かんで、とにかくそれを形にしてしまわなくては、と思っている彼女。その存在をくっきりと意識できるような、生々しい作品ばかりだ。

 叙述トリックを使った六ページの掌編に、こんな文があった。

「彼はまだ何者でもなかった。そしてそれを、何者にもなれる、ということだと信じていた。多くの十九歳が、そう信じているように。」

 それを書く園田さんだって、まだ何者でもなかったのだ。何者かになりたい、と願い、なれるはずだ、と信じ、でもなれないかもしれない、と疑う、園田さんの心の揺れが、文章からまざまざと立ち上がってくる。

 あと、十四年。

  その数字に絶望しながら、でも願う。あと、十四年、僕が早く生まれていたら、とどうしようもないことを。もしも学生時代の園田さんのそばにいられていたら、と。

「風が吹いていた。目を瞑り、頬を空気が打つに任せた。風が、止んだ。目を開く。

 ここはどこだろう、と彼は疑う。よく知っている、あまりにも馴染んだ場所なのに、ここが自分の居場所だと、不意に信じられなくなってしまう。

 どうして俺は、ここにいるんだろう。」

 もしもそうなら。視界がにじんでいく。目元が熱い。

「本当に自分がいるべき場所。そんなものが本当にあるのかどうかさえ、わからない。それでも叫びだしたいほどの強さで、感じる。

 ここは、自分の居場所じゃない。」

 もしも、あのころ僕がそばにいられたら。

  この人のことを、誰よりわかってあげられたのに。

  想像の中で、あの少女はきつく唇をかみ締めて、ほとんど泣き出しそうな顔をしている。自分の中にある大きすぎる欲望をどう処理していいのかわからずに、ただただキーボードを叩いている。

  園田さんのことが、理解できる。僕だけが、園田さんを本当に理解できる。ほとんど直感的に、それがわかった。そんなのはただの妄想だ、と冷静になろうとする。けれど、その直感を裏付ける状況証拠なら、ある。

 園田さんは、僕の手紙を読んで、会ってくれた。

 それが、何よりの証拠じゃないのか? 僕には何か、他の読者とは違う「何か」がある、と。そう思ったから、彼女は僕を選んで、僕と会ってくれているんじゃないのか?

 うぬぼれだ、と否定しようとするのだけれど、どうしても気持ちがそちらに傾いてしまう。仮にそれが真実だったとしても、どうしようもないというのに。

 だって、僕は彼女にただ、理解者として特別扱いされたいだけ、じゃない。

 僕は園田さんが、ほしいのだ。

 そこまで考えて、気づく。僕はすでに、園田さんのものだった。園田さんが僕をほしくなくても、僕はすでにどうしようもないぐらい、存在ごとすべて、園田さんのものだった。僕の体の中には、彼女の言葉が詰まっている。彼女のそっけない、けれども正確で、力強い言葉が、僕の皮膚の内側にびっちりと張り付いてしまっている。大学生の頃の稚拙な言葉も、今の洗練された滑らかな言葉も、彼女が紙に刻み付けるすべてが、僕の中に積み重なっている。

 考えてみれば、初めてその作品に触れたときから、僕は園田さんに恋をしていたのかもしれない。

 園田晶のデビュー作は、大学の部室棟で起こる殺人事件だった。主人公は推理小説研究会に所属する大学二回生の青年。彼は同じサークルの少女、高崎に恋をする。本ばかり読んでいる目立たない、けれど美しい少女。

 彼女の台詞なら、僕は全て暗記している。

 たとえば、

「私、「他人とわかりあうことはできない」ってことを知っている人としか、仲良くしないことにしてるの」

 という言葉は今でも僕の人付き合いに関する指針だし、終盤で出てくる

「最初の一歩を踏み出したとき、こんなことになるって予想できた? もう私たちは最初いたところには、絶対に戻れない。そんなつもりも、何の覚悟もなかったのに、気がついたらこんなところに着いちゃってる」

 という嘆きは、何か新しいことを始めようとするたびに、思い出す。

 僕の人生は、園田晶を知ったときから、少しその形を変えているのだ。僕は園田晶を指針にして、自分の人生を作ってきた。

 不思議なぐらい、彼女の言葉は僕の胸に沁みる。それは作家としての力量もあるだろうけれど、でもそういうものを飛び越えた先で、彼女の言葉は僕に訴えかける。中学生のとき、僕は作品の中の高崎に恋をした。彼女に会いたくて、好きで好きでたまらなくて、彼女が小説の一登場人物でしかないことに絶望していた。

  今ならわかる。僕が恋をしたのは、高崎の向こうにいる、園田晶その人だったのだ。

  そして、園田さんは、生きている。手が届かなくても、生きて、現実に、触れることができるのだ。



 胃の奥に暗くわだかまるような恋心を抱えながら、でも僕はどうすることもできずに日々を過ごした。連絡先もわかっているのに、自分から会いたい、と言う事はできなかった。

 誰かのことでこんなに頭をいっぱいにしながら生活することができるなんて、今まで想像もしていなかった。何をしていても、ちょっとした思考の隙間にするりと園田さんが入り込んでくる。携帯電話が鳴るたびに園田さんからではないかと震え、家に帰ると十分ごとにパソコンでメールをチェックした。こんなことは常軌を逸している、と思うのに、止めることができない。

 たとえば、駅の人の流れの中、彼女の姿を見つけようとしている。白いブラウスや、黒いつややかな髪を見かけるたびに、僕はその人の顔に慌てて視線を滑らせて、その都度失望した。それは苦しいことだった。けれど、どうすれば今までの自分に戻れるのか、見当もつかなかった。それに実際のところ、戻りたいのかさえわからなかった。園田さんに支配されている、ということ。思うことで、園田さんと繋がる、ということ。それを、失いたくない。失った瞬間、園田さんとの繋がりさえ、失われてしまう気がするのだ。

 美しい人。僕の、美しい人。

 こんなにも会いたいと思っているのに、その人の姿は、僕の視界のどこにもなかった。園田さんが気まぐれを起こさなければ、見つめることさえできないのが、僕と彼女の関係だった。

 不当だ、と僕は人知れず、憤る。どうして会えないんだろう。こんなに好きなのに。そして、僕なら園田さんを理解できるのに。僕だけが、彼女を本当に理解できる。そしてきっと、園田さんだって、そのことはわかっているはずなのに。僕が彼女を必要とするほんの何分の一かでも、彼女だって僕を、必要としているはずなのに。だから、僕と会ってくれたはずなのに。それなのに。どうして。

 園田さん園田さん園田さん。昼休みに部室にいる今も、僕は園田さんのことだけを考えている。フレッド・カサックの『殺人交叉点』の字を目で追ってはいるけれど、内容は少しも頭にしみこんではこない。園田さんに、会いたい。でも、どうすればいい? 簡単だ。メールを送ればいい。でも、答えてくれるだろうか? 僕のほうから会いたいというなんて、そんなことはしたことがなかった。そして、何より恐ろしいことに、彼女がもう会いたくない、と思えば、その瞬間にこの関係は終わってしまうのだ。もう、会えなくなる。

「おはよう」

 かけられた声に顔を上げると、荒野が入ってきたところだった。

「おはよう」

 挨拶を返す。荒野は大股で部室を進み、窓際の席に音を立てて腰掛ける。いつもの荒野だ。いや、何かが、変だ。そんな気がしたので、荒野の顔をまじまじと見つめてみた。地味だが清潔に整った顔が、困惑したような笑みを浮かべる。

「何?」

「いや……何か、」

 ああ、そうだ。

「いいことでもあったのかな、と」

 そういう感じがしたのだ。荒野の普段の暗い、の一歩手前の落ち着きが、ない。浮き足立っているような。

「鋭いな」

 荒野は肯定すると、小さく笑った。控えめだが、心底嬉しそうな笑み。荒野は、こんな笑い方をするのか。初めて知った。こんな、普通の男子のような。何があったのだろう。

「水上さんと、付き合ってる」

 尋ねるより先に、答えが返ってきた。

「は?」

 俄には理解しがたくて、間抜けた声を上げてしまう。荒野は、見たことのないような笑顔のまま、照れてみせた。照れる荒野。正直いって少し、気持悪い。

「まあ、色々あって。俺はずっと水上さんのこと、好きだったから」

「はあ!?」

 ある意味で、その言葉に一番驚いた。嘘だろう? 荒野が、水上を? あの水上を好きになる男がいて、しかもそれが荒野だなんて。一体どういうことだ。

「……そんなに驚くことかな」

「いや……驚くよ。そんな感じ全然なかったのに」

「そうかな」

「そうだよ」

 と言ってはみたものの、最近そういえば、以前より二人の接触が増えていたような気も、しないではない。言葉が続かない。荒野はくたくたになった大きな鞄から文庫を取り出している。カバーが掛かっていないので、それがカーの「火刑法廷」だとわかった。

「……聞いてもいいかな」

「何?」

 荒野は文庫にしおりを挟む。質問をされてなんとなく嬉しそうなのは、おそらく僕の気のせいではないだろう。なんだか、それがすごく癪に障った。

「いつから好きだったんだ?」

「一回生の夏ぐらいにはもう、好きだったよ」

 その声にもやはり、隠し切れない嬉しさが滲んでいた。

「信じられない」

 改めてそう言うと、

「俺も、信じられない」

 と返ってきた。そういうことを言ったのではないのだが。

「俺に彼女が出来るなんて、しかもそれが好きな相手だなんて、信じられない」

 そんなに臆面もなく嬉しがるようなことだろうか。いい笑顔だった。うんざりする程度には。

「どこが好きなんだ」

 相手をしてやるのも癪だが、好奇心に負けた。荒野は目を細め、沈思黙考する。荒野はこういう仕草が絵になる。しかしこれも水上との色恋沙汰がもたらしたものだと思うと、ひときわ気色悪かった。

「俺とは違うタイプだろう。水上さんは」

「……まあ、そうだね」

「それがいいと思ったんだろうな、たぶん。水上さんと話してると、いつもと違う何かが見えるような気がする」

 水上といると見えてくるもの。くだらない。得意げに話す荒野に、声には出さずにはき捨てる。そんなものを見るために付き合うなんて、馬鹿みたいだ。すっかり興を殺がれた僕に気付くこともなく、荒野は滔々と自分の恋愛について語る。

「俺はつまらない人間で、この先もたぶんつまらない人間として生きていくんだろうけれど、水上さんといると、そういうことを忘れる。彼女といると、つまらないことが一つもない」

 それだけ言うと、荒野は文庫本に戻った。

 馬鹿じゃないのか。

 初めての恋人にちょっと荒野は、浮かれすぎだ。水上が恋人だったからといって、それがなんになるのか。つまらない男が、つまらない女と、つまらない恋愛をしている。たったそれだけのことだ。

 園田さん。

  すがるように祈るように、僕はその名前を叫ぶ。体の奥底で。

 園田さん園田さん園田さん。会いたいんです。あなたに会いたい。あなた以外の人間は、全部馬鹿に見えるんだ。あなただけが、本当に僕と会話できる。他の人間じゃ全然だめだ。だんだん、わかってきた。ここは、僕の居場所じゃない。僕の居場所は、あなたの傍だ。

 園田さんに、会おう。決めた。帰ったら、園田さんにメールを送ろう。きっと会ってくれる。きっと。

  きっと。









 ディオールのリキッドファンデの上に同じラインのパウダーを白凰堂のブラシで軽く乗せ、シャネルのチークを頬の高い位置にぼかす。シャネルのアイブロウパウダーで軽く眉を描き、ディオールのマスカラでまつげを際立たせると、ディオールのグロスを唇に軽く乗せる。

  平日ならゲランで隙なく作った肌の上にシャドウ、リキッドライン、マスカラ、チーク、ハイライト、シェーディング、最後にリップラインを取って丁寧にルージュを塗り、ようやく顔が完成するのだが、本来園田美香はこのぐらいの、肌の些細な粗を隠しきれていないくらいのメイクが好きだった。こちらのほうがより、自分の美しさが引き立つ、と考えている。

  鏡に向かって、口角を僅かに上げ、笑顔を作る。自然で、何もしていないようだが、清潔な品のよさがある。美しい女が漏れなくそうであるように、彼女もまた、自分が美しいことをよく知っていた。

 仕上げにサンタ・マリア・ノヴェッラのオー・デ・コロンを纏うと、目を引きはしないが誰もが好ましく思うような、上質な女が完成した。その出来にすっかり満足すると、もう一度鏡越しに自分に笑顔を投げ、ドレッサーから立ち上がり、寝室を出た。

 リビングはコーヒーの香りで満ちていた。夫が居るのだ。反射的に時計を確認すると、まだ七時だ。こんなに早く起きるはずはないから、昨夜は眠っていないのだろう。呆れてしまう。

  夫は新聞を読みながら、もそもそとトーストを食べている。その巣穴にいる動物のように無心な姿を見ると、美香の口元はつい緩んでしまう。可愛い男だ。愛すべし、男。男が可愛くあるには、無心でいるほかないと、美香は思っている。

「おはよう」

 声をかけると、後ろから撃たれでもしたかのように肩を震わせ、それから顔を上げる。

「お、おはよう」

 無精ひげがずいぶん伸びている。美香は胸が痛いような愛情と、朝から夫に会える嬉しさに襲われて、夫の首に後ろから両腕を回した。ぼさぼさの、脂くさい髪に化粧も気にせず頬を摺り寄せる。そうされている間ずっと、夫はおびえてでもいるかのように、じっと身を強張らせている。嫌がっているわけではないことは充分承知しているので、たっぷりと夫の体温と匂いを満喫する。十秒ほど楽しむと、腕を解いて頭を一つ撫でてやり、テーブルに向かい合って座る。

「今日は、どこか、行くの」

 私が聞かなくても自分から何か話して、と結婚してからの九年間指導され続け、ようやく体得したその問いに、美香はにっこりと微笑む。

「うん。劇を見に行くの。一緒に行く?」

 夫は首を振る。聞く前からわかっていたが、それでもかすかに、悲しかった。

「仕事、調子よさそうね」

「うん。まあ、それなりに」

「長編?」

「いや、中編、かな」

「本格?」

「うーん、微妙」

「できたら読ませてね」

 夫はうん、とトーストを口に押し込みながらうなずいた。この男は何も変らない。学生時代からずっと。

  美香は最初まともに会話もできないこの男を軽んじ、小説を書くと知ったときに初めて興味を覚え、作品を初めて読ませてもらったときには、どうしようもなく嫉妬し、それからこの男が欲しくなった。彼は、自分とは違う種類の人間だった。美香がどんなに焦がれても、手に入れることができないものを、当然のように、初めから持っていた。それは何も、小説が書けるということだけではない。

 彼は「特別」な人間だった。美香とは、違う。

 いつになったら、この気持から開放されるのか、美香にはわからない。もしかしたら、一生そうなのかもしれない、と、内臓がゆがむ心地がすることがある。小説を書かなくなり、特別ではないがしっかりとした仕事と、安定した生活を得ている今でさえ、まだ夫に嫉妬している。無心な、小説を生み出すために生まれた動物のようなこの男に。

 だからあんな馬鹿げたこともしたのだ。美香は顔に出さずに自分を笑う。夫がいつもリビングに放り出している大量のファンレターから一枚くすねて、返事を出すような、馬鹿げたことを。

 あれは割りに楽しい遊びだった。最初のうちは。ある程度の勤続年数のある銀行員として、あるいは美しい女として、丁重に遇されることには慣れていても、天才として崇拝される、というのは、新鮮で悪くなかった。例え、今は顔も思い出せないほど平凡な学生が相手だったとしても。

 もし彼が『茶会』を読んだなどとメールをよこさなければ、今でも会っていたかもしれない。美香は考える。馬鹿げた遊びをすっぱりやめることができたのは、あのメールのおかげだった。美香が確認したところ、『茶会』には美香と夫の若い頃の写真も、本名も載っていた。

  それだけで即座にあの学生が結論にたどり着けるとは思わない。彼は自分が「園田晶」ではないかもしれないとは微塵も疑っていなかった。彼自身が信じたがっていたのだから当然だ。少しおかしいことがあったとしても、彼なら自分でその疑いを踏み潰してしまうだろう。美香が「園田晶」になりたがったのと同じように、彼も「作家に目をかけられる若者」になりたがっていた。

  だが、それでも。美香は考える。考えるだけで、胸は痛んだ。

  彼は学生時代の美香、素顔の、何の変哲もない少女の美香を、見てしまった。それは、美香にとって決定的なものだった。園田晶ではないと暴かれることよりも、あの少女の姿を知られることのほうが、美香にはずっと恐ろしかった。

  そして、そう、何より、あのつまらない、奇を衒っただけの、自分の小説。それをもし読まれたら、と思っただけで、美香にはあの学生に対して、憎悪さえ沸き起こる。彼の存在をもし消せるとするなら、美香はためらいなくそうしただろう。

  つまらない小説を書く、つまらない少女。

  それは美香の、夫にさえ話すことのできない急所だった。ほしかったものの、ほとんどを手に入れた今でも。

  いや、違う。今だから、こそ。

「トースト、食べる」

 夫に尋ねられ、美香の声は弾む。

「焼いてくれるの?」

「うん。待って」

 夫は立ち上がり、食パンをトースターにセットする。

「いい天気ね」

 窓の外を見て、晴れた空に微笑む。頬が日差しに暖められる。

「ああ、うん」

 夫はコーヒーを美香のカップに注いでくれる。不器用だが、丁寧な仕草だ。

「劇は一人で観てくるから、少しだけ一緒に散歩しない?」

 美香の提案に、夫は少し驚いたような顔をして、

「あ、うん。いいよ」

 とぎこちなく微笑んだ。

  コーヒーをテーブルに置いてくれるその細長い手を取り、美香は自分の頬に押し付ける。温かい手のひら。夫の体温。夫が淹れたコーヒーの、いい香り。

「どうしたの?」

 戸惑う夫に、美香は心から言った。

「あなたと結婚して、よかったなあ、と思って」

「それは、どうも」

 照れたように夫が笑う。どうしてこの男はいつまで経ってもこんなに可愛いのだろう。幸福に息を詰まらせながら、美香はうっとりと目を閉じた。

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