ギムレイの使者
中尉は一人、操舵室に立っていました。風は弱く波も穏やかな夜です。右舷、凝澪島からあふれ出した森が波の上にバルコニーを作っています。木々を縫う血管のような管は分岐したヨルムンガンドそのもので、月明かりを照り返していました。中尉は眠気覚ましに噛んでいた木の皮を海へ吐き出しました。彼女が窓から身を乗り出している間も舵輪は回ります。操舵は棘皮鎧たちが行い人間が見張りに立っているのです。床からノックの音。「どうぞ」階下からロッタが上がってきます。「こんばんは」手に袋と水筒を持っています。窓際の椅子に座りコップに水筒の中身を注ぎます。湯気が立ち上りました。「今夜は冷えますね」舳先が波を切る音と、スープをすする音がします。「どうしたの。まだロッタさんの番じゃないでしょ」「室賀さんのことです」中尉はコップを傾けるのを一旦止め「室賀さんの、どのこと?」残りを飲み干しました。「とぼけないでください」眼鏡のフレームに光が走ります。「お二人が隠していることです」操舵盤の算曜石の中で輝線が往復しています。中尉の瞼の動きから光を追っているのが見て取れました。「術使いの人には分かっちゃうよね」立ち上がり窓の上に据えられたバーを握ります。「貴方から見てどう見える?どう感じる?」
クレーンが横たわる空き地で炎が眠たげに燃えていました。錨を下ろしたラタトスクから、四人は立ち上る煙を見上げます。熱で砲身が弾け、コンテナの残滓が崩れ落ちます。下船した湯は窪みで燻る火を見てさっと身を引きました。「ただの火じゃありません」取り残された火は撤退した元火へ合流しようともがき、のたうっています。「自律性を帯びてるわぁ。厄介ね」荒く上下する湯の胸からシグさんもその炎を見ていました。「離れて」中尉は地面に刺していた槍を抜き、火溜りに穂を向けました。凍気の塊が沸き立つ炎を干上がらせていきます。中尉は駆けてきて湯のこめかみにキス。彼女の肩の向こうでは煎塚とロッタが半ば森に埋もれた基地を指差しています。眠る獣の内側をくり抜いて明かりを灯した形の新塩瓦基地。腹の辺りから、集荷場跡地へ伸びる道路をホヤランタンの明かりが揺れていました。「中ー尉ー!」ランタンが照らす光の円が近づいてきます。焼け野原ではあまりにも目立ってしまう、緑と茶に染められた戦闘服と白い傷のついたヘルメット。湯と体格の変わらない女性の軍人が息を切らせ走ってきます。「よくぞご無事で!」中尉は槍を湯に預け上下するヘルメットの元へ行き、彼女の手を握りました。「それはお互い様よ、
中尉の友人で竜騎兵の洲本芽理少尉の後に一同が続きます。既に建物の中のざわめきや食事の匂いを感じる近さです。多角形の炭素骨板を組み合わせた基地には焦げ目一つありません。「——という訳で室賀さんを守るために身を隠していたの」焦げ臭い風に背中を押されました。軒下まで来ると、少尉はしんがりを務める湯を振り返ります。「あの。室賀さん。失礼を承知でお聞きしたいことが」湯とオーメさんは基地の屋根を指と管足で指しています。傷んだ屋根をヒトデがガゼ麩で補修をしているところでした。「ふ、双子のお姉さんか妹さんはいらっしゃいますか?」目深に被ったヘルメットの下から尋ねると「何があったんすか?」「私たちはこの三日間一緒でした」煎塚とロッタが立ち塞がります。少尉はおののいて両手を振りました。「ち、違っ疑ってるんじゃなく——」どいて、と言い湯が煎塚の腕を押し上げます。「私のシブリングを見たんですね」声は淀みなく、腹をさすります。触れた場所の棘皮鎧に漣が立ち、密度変化で同心円の縞が生まれます。「少尉さん。十六年前、海鼠水工で合成された人造人間とは私のことです。これを見てください」みぞおちに一筋の切れ目が開くと、水で満ちた管が並んでいます。湯の腹の管足は息遣いに合わせ膨らんでいました。少尉は胸に手を当て「管足だ……貴方が——」名札を握ります。湯は腹を閉じました。「人工物ですから——同じタイプのエキノ・ヒューマンがいてもおかしくはなく——」少尉の後ろでドアノブが回ります。扉が開くと迷彩服、事務服、白衣、軍服姿の隊員たちが流れ出し「話は聞かせていただきました!」「十六年間よくご無事で……」「ささやかですがパーティーの用意がしてあるんです、さあ!」「星沢中尉と付き合ってるってホント?!」鬨の声を上げて湯と中尉を運び去っていきました。扉は開け放したまま喧騒が遠ざかります。取り残された煎塚は「あーそっか」と呟き頭を掻きました。「一部で人造人間を神聖視してる連中がいるって聞いたことがあります。まさかここが拠点だったとは——」隣から聞こえる嗚咽に煎塚は腰を抜かしました。ロッタが掌の付け根を顎に押し当てて涙をこぼしています。「ええっ、ダイジョブっすか」煎塚は唇を尖らせ両手でポケットを探ります。ズボンから引き出したハンカチは真っ黒です。オーメさんが煎塚の脇腹をつつきます。防弾ベストのマガジンポケットには洗いたてのタオルが入っているのでした。「ありがとうございます」ロッタはタオルを受け取りました。「眼鏡持っててもらえますか」「アアッすんません」目元を拭いロッタはタオルを畳みます。「驚かせてごめんなさい」基地を仰ぎます。回るアンテナの上で月が輝いています。「美しいものを見ました」そう言い一歩踏み出します。「ロッタさんこれ」煎塚の手にあるのは楕円のレンズが光る眼鏡です。「あら、私ったら」二人とオーメさんが基地へ入り扉を閉めると、辺りには再び静けさに包まれました。風向きが変わり、集積場に落ちる雲の影が増え始めます。
近所で採れた魚と果物が振舞われ、パーティーが終わりました。「ただいま」開いた扉の隙間から音楽が流れ出してきます。オーメさんを先に入れ後ろ手で扉を閉めると、足元から奥へ点々と服が脱ぎ捨てられています。湯は服を拾いました。糊の効いた、基地の事務員用シャツとズボンです。「おかえり」奥から声と、げっぷの音。湯は拾った服と自分の服を洗面室のカゴに置きました。寝室の扉を開けると二段ベッドの下段で中尉があぐらをかいています。ブラインドの閉じた窓。窓枠にラジオが置かれ、片手には透明な瓶。「お酒じゃないよね」押入れに入るオーメさんの尻尾を見送り、湯はタオルケットを腹に巻きました。「ジュースだよ」指からぶら下がった瓶のラベルには水滴のついた果実が描かれています。髪を解き碧剣をベッド上段に置いてシーツに腰を下ろしました。瓶は床に置かれ、底に溜まっていた泡が水面で弾けます。中尉が脚に囲まれた菱形の空き地を手で叩くので湯はあぐらの間に座りました。瓶底からは一定の調子で泡が上がっています。「抜け出すなら一声かけて」「主賓が抜け出したらまずいでしょ」湯がため息をついて体を揺すると、タオルケットの裾から透き通った管が一本、また一本と滑り出しました。管足は溶けかけの氷のように色を移ろわせ、二人を包む繭になります。ラジオの音楽が止まりアナウンサーがニュースを読み上げます。「——要請を受け国際術士協会は凝澪に術士の派遣を決定しました。次のニュースです。鳥令諸島各島で目撃された不審な船は追跡を振り切り——」「消してくれる?」湯は頷き管足を窓枠へ伸ばします。音量ダイヤルが最小を下回るとスイッチが切れました。管足がブラインドを上げると、窓ガラスを水滴が落ちていきます。水のレンズの底が燃えていました。「雨なのに燃えてる」「燃えているのが渾だからね」中尉はそう言い、眉を目の前の肩に押し当てました。湯は管足を引きながら左手を首の後ろに回し、中尉の髪ゴムを解きます。「謝らないといけないことがあるんだけど」背筋に中尉の冷えた耳たぶが触れました。「話してみて」頭の上で交差した管足が縮みます。「リジルの剣は貴方の力なの」管足は動きません。「ロッタさんが言うにはラタトスクの形を保っているのもリジルの剣らしいの」遠くの廊下を誰かが駆ける足音。「嘘をついて本当に——」「いいえお姉様」管足が一斉に滑り合います。繭を作る編み目が解け、新しい結び目を形作っていきます。「リジルの剣はやっぱりお姉様の力です」湯は左手を開きました。熱を帯びた五本の指があります。「あの剣を抜いたことと無関係だとは思えません。ラタトスクを膨らませてる自覚もありませんし」背中で中尉が身じろぎします。「えっと、だからね、術ってある意味臓器みたいなものらしいから——」管足を震わせて笑い「だって、それでいいじゃありませんか」中尉の足首に手を置きます。「生意気言って」中尉は湯の腿をつねりました。
翌朝、雨が上がった中庭に炎が走ります。拳大の炎は敷かれた骨畳とガゼ麩を焦がし字を書きました。『室賀湯へ 投降せよ 投降すれば人間たちの安全は保証する』午前の遅い時刻も書き添えてあります。すぐに基地の講堂で集会が開かれ少尉が登壇しました。白と緑のヒトデが刺繍された旗の前で、拳を突き上げます。「我々の女神を!凝澪の希望を!渡すものかあーっ!」講堂を震わす鬨の声。ラタトスクの四人と一匹は並んで椅子に掛けていました。「ロッタさんはこの状況どう思います?」隣のロッタに小声で尋ねる煎塚。「あの旗、一晩であの完成度……」「そっちっすかー」湯と中尉はオーメさんを挟んで着席しています。「こ、怖い」湯が青い顔で中尉を見ます。「今までで一番怖いです、お姉様」「革命でも起こしそうな勢いね」少尉がギラつく目で湯にコメントを求めました。中尉に耳打ちされてから湯は熱狂する人々の前に立ちます。『新人類万歳』と書かれた横断幕とプラカードが揺れ、照明がこちらを向きます。眉間を押さえてからマイクに向け口を開きました。「皆さん、私の声が聞こえますか」歓声。咳払いをする振りをして中尉たちを見ると、中尉とオーメさんが頷いています。「私は敵——私と同じ姿をしたもの——の言いなりになるつもりはありません。ですが、皆さんと彼女が傷つけ合う道も佳しとはしません。まず私が話し合いを試みます」鼻筋を指で挟み背筋を伸ばします。壇上に集中した照明が、髪に弾かれ散っています。「中尉は直接私の身を守ってくれます。煎塚先輩は管制室から間接援護をしてくれます。ロッタさんはこの出来事を詳しく記録してくれます。私のことは心配要りません。皆さんはどうか慌てず、自身の職務に集中してください」頭を下げて数秒経つと、拍手がわき起こりました。湯は足早に椅子に戻ると、オーメさんの管足を握り目に吸盤を押し当てます。「ああー冷たくて気持ちいい」中尉が肩を叩きます。「よくやったわ」簡単な全体ブリーフィングが済むと散会になり、ラタトスクの四人と一匹を残して人々は仕事に戻りました。煎塚が大きなあくびをして天井を見上げます。「室賀、本当にこれでいいのか?」眠る獣の腰、基地の中で最も高い天井に声がうつろに響きました。「はい」椅子を並べて横になり、湯は中尉の膝に頭を乗せています。「シブリングは私の起源に関わることを知っています。たぶん」寝返りを打ちました。「責任は私が取る。全力でリジルの剣を振るってらっしゃい」中尉は煎塚に、湯にそう言いました。「中尉さん。お話できたんですね」ロッタが書類から目を上げると中尉はウィンクを返しました。「えっ何すかリジルって。初耳なんすけど」膝を越えてやり取りされる言葉に煎塚は小鼻を膨らませます。「あっと、それは」書類が落ちました。対機械置換型人類制圧マニュアルが床に広がります。散魂症候群に罹る前後の算曜石の写真。「色々とわけがあって——」ロッタが書類を拾うのを煎塚が手伝っています「よし、この説明はロッタさんに任せよう」中尉は湯の腕を引き袖に消えていきます。「責任取んじゃなかったのかよー」ページをめくり煎塚はボヤきます。「あのー、この経緯はですね——」ロッタに書類を渡します。「俺たちも管制室に急ぎましょう。話はその後で」管制室へ向かう廊下。駆け足で人々が通り過ぎます。「——そんなことがあったんすか」煎塚はひたいから赤い髪を撫でつけます。「中尉さんも悩んでいたようです」かぶりを振るロッタ。「俺の監督不行き届きっすわ。ホント、ご迷惑おかけしました」ロッタがくすくすと笑います。「監督役は中尉さんでしょう?」管制室はモニターと黒板が壁を覆い、ガゼ算機の濾過ポンプから水が落ちます。モニターの中でナマコサウルスに跨った少尉が指示を出しています。約束の時刻が迫っていました。
西の森から鳥の群れが飛び立ちます。厚い樹冠の底、近づいてくるモノを狙撃手のスコープが捉えます。「シブリング・アルファです。陸戦型ガルムを帯同しています」細く高い木が茂る林床を柔らかな光が洗い出しています。一頭として同じ姿のないガルムの行軍の中、寝台型ガルムが慎重に歩いています。その広すぎる背中で学制服の少女が横になっていました。「寝ている、のか?」基地の屋根に据えられたテントから長物が突き出しています。狙撃手の隣で少尉が双眼鏡を覗きます。「今なら仕留められます——少尉、許可を」双眼鏡を下ろし少尉は水筒で狙撃手の頭を殴りました。「我々が約束を反故にしてどうする。室賀様を信じろ!」狙撃手の痛がりように少尉はうろたえ「ごめん、痛かった?」謝罪しました。「それにしても……学生帽と制服か。どこで手に入れたんだ?」少尉は首を傾げました。「自分も博物館でしか見たことがありません」狙撃手は照準を合わせ直します。深紅の行軍が森の切れ目に達します。野戦テントから湯と中尉が出て集積場跡地へ歩き出しました。歩く寝台の上で体を起こすシブリング・アルファを見て煎塚はモニターに食いつきました。「双子でもこうは似ないだろ」別のモニターの中で湯が眉根を寄せました。管制室が慌ただしくなります。潮風に打たれ覚醒深度を増したシブリング・アルファは枕元を探り、帽子のつばを手にします。『投降せよ』のところで寝台は止まり、シブリング・アルファは帽子をかぶり脚を下ろしました。「止まって」片手を上げます。手首に巻いた時計を涼しげな目で見ます。「時間通りね。悪いようにはしないつもりよ、湯——」湯は「名前は?」寝台の前に立つシブリングへ向け「どこから来たの?」進むのを「どうして火をつけたの」止めません。シブリング・アルファは寝台に尻餅をつきます。「と、止まりなさいよ——」「下手に刺激するな、中尉もニヤニヤしてないで!」煎塚からの流線通信です。中尉は止まれと言われた位置で湯の背中を見ていました。「いいの。責任は取るから」三本の尾を持つガルムが飛び出し、湯の行く手で棘を逆立てました。「いいわ、教えてあげる。私は
避難した仮設陣地で煎塚はマイクを持ちます。「あ、もしもし。さっき援護をお願いした新塩瓦基地なんですが——ええ、はい。え、もう見えてる?——はあ、すんません、いえいえこちらこそ。後でレポート送りますんで。——ええ、はい、お疲れ様っすー」寝台に茅を乗せ、燐はガルムたちを引き上げさせました。六足型の背から湯たちを見下ろします。「湯。一緒にギムレイへ帰らない?」使い切った渾が体力で支払われ始め、湯は急激に消耗していました。中尉の腕に掴まったまま首を横に振ります。「帰る場所ならもう決めてあるの」燐は背を向け「じゃあ、また」と言うと振り向かずに駆けていきました。後ろ姿が森に消えてから、湯は膝をつき脂汗を流します。「大昔の制服なんか、着て」悪態を絞り出す湯にロッタとオーメさんが駆け寄ります。「あの制服着てみたいんじゃないの?」湯を抱き上げる中尉。湯は答えません。「皆さーん大変でーす」剥き出しになった講堂を背に少尉が走ってきました。「行方不明だった少佐から救難信号が」中尉の目つきが険しくなります。「発信場所は?」少尉は手元の通信石を見ます。「し、塩瓦付近です!」湯が薄く目を開けました。「少尉さん、お願いがあります」「は、ハイ何でしょう喜んで!」敬礼する少尉。「私の部屋にある剣、預かってくれませんか」煎塚は顎に手で触れ頷きます。「確かにその方がいい。シブリングの目当てがあの剣なら、室賀が持ったままだと危険だ」少尉は両手足をおろおろと動かします。「承知いたしました!厳重に保管し、もし移す必要が生じた際はお伝えします」湯が少尉に微笑みました。「次の目的地は決まりですね」木匙をポーチにしまうロッタ。「塩瓦ではどんなことが起きるのかしら」中尉たちが仰ぐ空に島軍のフギンが弧を描きます。「何だあの——ガラクタと呼ぶには大きすぎる物体は?」フギンを駆る棘皮使いは軽く身を乗り出します。基地は屋根のほとんどを失い、中の間取りが見て取れます。左胸が穏やかに光ります。「不活性化している。害はない」「そういう問題じゃないんだが」浅葱色の翼を打ちフギンが離脱します。
揚錨車が回ります。基地の人々に見送られラタトスクは新塩瓦軍港から出航しました。
————つづく
ボーンシェル・ガール 3 碧剣のシブリング コルヌ湾 @shippo560
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