ギムレイの使者

 中尉は一人、操舵室に立っていました。風は弱く波も穏やかな夜です。右舷、凝澪島からあふれ出した森が波の上にバルコニーを作っています。木々を縫う血管のような管は分岐したヨルムンガンドそのもので、月明かりを照り返していました。中尉は眠気覚ましに噛んでいた木の皮を海へ吐き出しました。彼女が窓から身を乗り出している間も舵輪は回ります。操舵は棘皮鎧たちが行い人間が見張りに立っているのです。床からノックの音。「どうぞ」階下からロッタが上がってきます。「こんばんは」手に袋と水筒を持っています。窓際の椅子に座りコップに水筒の中身を注ぎます。湯気が立ち上りました。「今夜は冷えますね」舳先が波を切る音と、スープをすする音がします。「どうしたの。まだロッタさんの番じゃないでしょ」「室賀さんのことです」中尉はコップを傾けるのを一旦止め「室賀さんの、どのこと?」残りを飲み干しました。「とぼけないでください」眼鏡のフレームに光が走ります。「お二人が隠していることです」操舵盤の算曜石の中で輝線が往復しています。中尉の瞼の動きから光を追っているのが見て取れました。「術使いの人には分かっちゃうよね」立ち上がり窓の上に据えられたバーを握ります。「貴方から見てどう見える?どう感じる?」 龍洋ろんようは黒くうねっています。「私は棘皮鎧を通してしかあの子の力を感じられない」「それは——」算曜石さんようせきを走る光が回転し輪になりました。中尉が操舵盤のボタンを押しマイクを握ります。輝線は音の高低を示す波形を描きます。「——ヨルムンガンド勢力というのは?——了解です。これより入港します」波形は直線になってから算曜石の底へ溶けていきました。マイクを伝声管のラッパに持ち替えます。「ヘルくん、聞いていたわね。そっちに着替えに行く」中尉は前髪をかきあげて「煎塚さんを起こしてきてくれる?操舵を代わってもらわないと」レバーやトグルスイッチを次々に入れていきます。ラタトスクのシステムが多重に立ち上がり、船体を唸りが走り抜けます。「中尉さん」森が開けました。浅い湾へ陸地がえぐれ込み、ラタトスクは右へ傾きます。港があり、月光に代わり炎が海を照らしています。ロッタは中尉が握っていたバーに指を掛けました。「信じてあげてください」窓に図形が浮き上がります。「どっちを?」「どっちもです」傾きが戻っていきます。ロッタは床の扉を開けました。「この船を維持しているのは室賀さんです。ラタトスクは彼女の体の延長なんです」中尉はレバーを上げ下げしていた手を止め、かぶりを振りました。階下へ戻るロッタに振り返り敬礼。「分かった。信じてみる」扉が閉まります。中尉は舵輪を握りました。


 クレーンが横たわる空き地で炎が眠たげに燃えていました。錨を下ろしたラタトスクから、四人は立ち上る煙を見上げます。熱で砲身が弾け、コンテナの残滓が崩れ落ちます。下船した湯は窪みで燻る火を見てさっと身を引きました。「ただの火じゃありません」取り残された火は撤退した元火へ合流しようともがき、のたうっています。「自律性を帯びてるわぁ。厄介ね」荒く上下する湯の胸からシグさんもその炎を見ていました。「離れて」中尉は地面に刺していた槍を抜き、火溜りに穂を向けました。凍気の塊が沸き立つ炎を干上がらせていきます。中尉は駆けてきて湯のこめかみにキス。彼女の肩の向こうでは煎塚とロッタが半ば森に埋もれた基地を指差しています。眠る獣の内側をくり抜いて明かりを灯した形の新塩瓦基地。腹の辺りから、集荷場跡地へ伸びる道路をホヤランタンの明かりが揺れていました。「中ー尉ー!」ランタンが照らす光の円が近づいてきます。焼け野原ではあまりにも目立ってしまう、緑と茶に染められた戦闘服と白い傷のついたヘルメット。湯と体格の変わらない女性の軍人が息を切らせ走ってきます。「よくぞご無事で!」中尉は槍を湯に預け上下するヘルメットの元へ行き、彼女の手を握りました。「それはお互い様よ、洲本すもと少尉」二人が肩を叩き合っている間、煎塚は槍を掲げて回そうとする湯をたしなめていました。

 中尉の友人で竜騎兵の洲本芽理少尉の後に一同が続きます。既に建物の中のざわめきや食事の匂いを感じる近さです。多角形の炭素骨板を組み合わせた基地には焦げ目一つありません。「——という訳で室賀さんを守るために身を隠していたの」焦げ臭い風に背中を押されました。軒下まで来ると、少尉はしんがりを務める湯を振り返ります。「あの。室賀さん。失礼を承知でお聞きしたいことが」湯とオーメさんは基地の屋根を指と管足で指しています。傷んだ屋根をヒトデがガゼ麩で補修をしているところでした。「ふ、双子のお姉さんか妹さんはいらっしゃいますか?」目深に被ったヘルメットの下から尋ねると「何があったんすか?」「私たちはこの三日間一緒でした」煎塚とロッタが立ち塞がります。少尉はおののいて両手を振りました。「ち、違っ疑ってるんじゃなく——」どいて、と言い湯が煎塚の腕を押し上げます。「私のシブリングを見たんですね」声は淀みなく、腹をさすります。触れた場所の棘皮鎧に漣が立ち、密度変化で同心円の縞が生まれます。「少尉さん。十六年前、海鼠水工で合成された人造人間とは私のことです。これを見てください」みぞおちに一筋の切れ目が開くと、水で満ちた管が並んでいます。湯の腹の管足は息遣いに合わせ膨らんでいました。少尉は胸に手を当て「管足だ……貴方が——」名札を握ります。湯は腹を閉じました。「人工物ですから——同じタイプのエキノ・ヒューマンがいてもおかしくはなく——」少尉の後ろでドアノブが回ります。扉が開くと迷彩服、事務服、白衣、軍服姿の隊員たちが流れ出し「話は聞かせていただきました!」「十六年間よくご無事で……」「ささやかですがパーティーの用意がしてあるんです、さあ!」「星沢中尉と付き合ってるってホント?!」鬨の声を上げて湯と中尉を運び去っていきました。扉は開け放したまま喧騒が遠ざかります。取り残された煎塚は「あーそっか」と呟き頭を掻きました。「一部で人造人間を神聖視してる連中がいるって聞いたことがあります。まさかここが拠点だったとは——」隣から聞こえる嗚咽に煎塚は腰を抜かしました。ロッタが掌の付け根を顎に押し当てて涙をこぼしています。「ええっ、ダイジョブっすか」煎塚は唇を尖らせ両手でポケットを探ります。ズボンから引き出したハンカチは真っ黒です。オーメさんが煎塚の脇腹をつつきます。防弾ベストのマガジンポケットには洗いたてのタオルが入っているのでした。「ありがとうございます」ロッタはタオルを受け取りました。「眼鏡持っててもらえますか」「アアッすんません」目元を拭いロッタはタオルを畳みます。「驚かせてごめんなさい」基地を仰ぎます。回るアンテナの上で月が輝いています。「美しいものを見ました」そう言い一歩踏み出します。「ロッタさんこれ」煎塚の手にあるのは楕円のレンズが光る眼鏡です。「あら、私ったら」二人とオーメさんが基地へ入り扉を閉めると、辺りには再び静けさに包まれました。風向きが変わり、集積場に落ちる雲の影が増え始めます。


 近所で採れた魚と果物が振舞われ、パーティーが終わりました。「ただいま」開いた扉の隙間から音楽が流れ出してきます。オーメさんを先に入れ後ろ手で扉を閉めると、足元から奥へ点々と服が脱ぎ捨てられています。湯は服を拾いました。糊の効いた、基地の事務員用シャツとズボンです。「おかえり」奥から声と、げっぷの音。湯は拾った服と自分の服を洗面室のカゴに置きました。寝室の扉を開けると二段ベッドの下段で中尉があぐらをかいています。ブラインドの閉じた窓。窓枠にラジオが置かれ、片手には透明な瓶。「お酒じゃないよね」押入れに入るオーメさんの尻尾を見送り、湯はタオルケットを腹に巻きました。「ジュースだよ」指からぶら下がった瓶のラベルには水滴のついた果実が描かれています。髪を解き碧剣をベッド上段に置いてシーツに腰を下ろしました。瓶は床に置かれ、底に溜まっていた泡が水面で弾けます。中尉が脚に囲まれた菱形の空き地を手で叩くので湯はあぐらの間に座りました。瓶底からは一定の調子で泡が上がっています。「抜け出すなら一声かけて」「主賓が抜け出したらまずいでしょ」湯がため息をついて体を揺すると、タオルケットの裾から透き通った管が一本、また一本と滑り出しました。管足は溶けかけの氷のように色を移ろわせ、二人を包む繭になります。ラジオの音楽が止まりアナウンサーがニュースを読み上げます。「——要請を受け国際術士協会は凝澪に術士の派遣を決定しました。次のニュースです。鳥令諸島各島で目撃された不審な船は追跡を振り切り——」「消してくれる?」湯は頷き管足を窓枠へ伸ばします。音量ダイヤルが最小を下回るとスイッチが切れました。管足がブラインドを上げると、窓ガラスを水滴が落ちていきます。水のレンズの底が燃えていました。「雨なのに燃えてる」「燃えているのが渾だからね」中尉はそう言い、眉を目の前の肩に押し当てました。湯は管足を引きながら左手を首の後ろに回し、中尉の髪ゴムを解きます。「謝らないといけないことがあるんだけど」背筋に中尉の冷えた耳たぶが触れました。「話してみて」頭の上で交差した管足が縮みます。「リジルの剣は貴方の力なの」管足は動きません。「ロッタさんが言うにはラタトスクの形を保っているのもリジルの剣らしいの」遠くの廊下を誰かが駆ける足音。「嘘をついて本当に——」「いいえお姉様」管足が一斉に滑り合います。繭を作る編み目が解け、新しい結び目を形作っていきます。「リジルの剣はやっぱりお姉様の力です」湯は左手を開きました。熱を帯びた五本の指があります。「あの剣を抜いたことと無関係だとは思えません。ラタトスクを膨らませてる自覚もありませんし」背中で中尉が身じろぎします。「えっと、だからね、術ってある意味臓器みたいなものらしいから——」管足を震わせて笑い「だって、それでいいじゃありませんか」中尉の足首に手を置きます。「生意気言って」中尉は湯の腿をつねりました。


 翌朝、雨が上がった中庭に炎が走ります。拳大の炎は敷かれた骨畳とガゼ麩を焦がし字を書きました。『室賀湯へ 投降せよ 投降すれば人間たちの安全は保証する』午前の遅い時刻も書き添えてあります。すぐに基地の講堂で集会が開かれ少尉が登壇しました。白と緑のヒトデが刺繍された旗の前で、拳を突き上げます。「我々の女神を!凝澪の希望を!渡すものかあーっ!」講堂を震わす鬨の声。ラタトスクの四人と一匹は並んで椅子に掛けていました。「ロッタさんはこの状況どう思います?」隣のロッタに小声で尋ねる煎塚。「あの旗、一晩であの完成度……」「そっちっすかー」湯と中尉はオーメさんを挟んで着席しています。「こ、怖い」湯が青い顔で中尉を見ます。「今までで一番怖いです、お姉様」「革命でも起こしそうな勢いね」少尉がギラつく目で湯にコメントを求めました。中尉に耳打ちされてから湯は熱狂する人々の前に立ちます。『新人類万歳』と書かれた横断幕とプラカードが揺れ、照明がこちらを向きます。眉間を押さえてからマイクに向け口を開きました。「皆さん、私の声が聞こえますか」歓声。咳払いをする振りをして中尉たちを見ると、中尉とオーメさんが頷いています。「私は敵——私と同じ姿をしたもの——の言いなりになるつもりはありません。ですが、皆さんと彼女が傷つけ合う道も佳しとはしません。まず私が話し合いを試みます」鼻筋を指で挟み背筋を伸ばします。壇上に集中した照明が、髪に弾かれ散っています。「中尉は直接私の身を守ってくれます。煎塚先輩は管制室から間接援護をしてくれます。ロッタさんはこの出来事を詳しく記録してくれます。私のことは心配要りません。皆さんはどうか慌てず、自身の職務に集中してください」頭を下げて数秒経つと、拍手がわき起こりました。湯は足早に椅子に戻ると、オーメさんの管足を握り目に吸盤を押し当てます。「ああー冷たくて気持ちいい」中尉が肩を叩きます。「よくやったわ」簡単な全体ブリーフィングが済むと散会になり、ラタトスクの四人と一匹を残して人々は仕事に戻りました。煎塚が大きなあくびをして天井を見上げます。「室賀、本当にこれでいいのか?」眠る獣の腰、基地の中で最も高い天井に声がうつろに響きました。「はい」椅子を並べて横になり、湯は中尉の膝に頭を乗せています。「シブリングは私の起源に関わることを知っています。たぶん」寝返りを打ちました。「責任は私が取る。全力でリジルの剣を振るってらっしゃい」中尉は煎塚に、湯にそう言いました。「中尉さん。お話できたんですね」ロッタが書類から目を上げると中尉はウィンクを返しました。「えっ何すかリジルって。初耳なんすけど」膝を越えてやり取りされる言葉に煎塚は小鼻を膨らませます。「あっと、それは」書類が落ちました。対機械置換型人類制圧マニュアルが床に広がります。散魂症候群に罹る前後の算曜石の写真。「色々とわけがあって——」ロッタが書類を拾うのを煎塚が手伝っています「よし、この説明はロッタさんに任せよう」中尉は湯の腕を引き袖に消えていきます。「責任取んじゃなかったのかよー」ページをめくり煎塚はボヤきます。「あのー、この経緯はですね——」ロッタに書類を渡します。「俺たちも管制室に急ぎましょう。話はその後で」管制室へ向かう廊下。駆け足で人々が通り過ぎます。「——そんなことがあったんすか」煎塚はひたいから赤い髪を撫でつけます。「中尉さんも悩んでいたようです」かぶりを振るロッタ。「俺の監督不行き届きっすわ。ホント、ご迷惑おかけしました」ロッタがくすくすと笑います。「監督役は中尉さんでしょう?」管制室はモニターと黒板が壁を覆い、ガゼ算機の濾過ポンプから水が落ちます。モニターの中でナマコサウルスに跨った少尉が指示を出しています。約束の時刻が迫っていました。

 西の森から鳥の群れが飛び立ちます。厚い樹冠の底、近づいてくるモノを狙撃手のスコープが捉えます。「シブリング・アルファです。陸戦型ガルムを帯同しています」細く高い木が茂る林床を柔らかな光が洗い出しています。一頭として同じ姿のないガルムの行軍の中、寝台型ガルムが慎重に歩いています。その広すぎる背中で学制服の少女が横になっていました。「寝ている、のか?」基地の屋根に据えられたテントから長物が突き出しています。狙撃手の隣で少尉が双眼鏡を覗きます。「今なら仕留められます——少尉、許可を」双眼鏡を下ろし少尉は水筒で狙撃手の頭を殴りました。「我々が約束を反故にしてどうする。室賀様を信じろ!」狙撃手の痛がりように少尉はうろたえ「ごめん、痛かった?」謝罪しました。「それにしても……学生帽と制服か。どこで手に入れたんだ?」少尉は首を傾げました。「自分も博物館でしか見たことがありません」狙撃手は照準を合わせ直します。深紅の行軍が森の切れ目に達します。野戦テントから湯と中尉が出て集積場跡地へ歩き出しました。歩く寝台の上で体を起こすシブリング・アルファを見て煎塚はモニターに食いつきました。「双子でもこうは似ないだろ」別のモニターの中で湯が眉根を寄せました。管制室が慌ただしくなります。潮風に打たれ覚醒深度を増したシブリング・アルファは枕元を探り、帽子のつばを手にします。『投降せよ』のところで寝台は止まり、シブリング・アルファは帽子をかぶり脚を下ろしました。「止まって」片手を上げます。手首に巻いた時計を涼しげな目で見ます。「時間通りね。悪いようにはしないつもりよ、湯——」湯は「名前は?」寝台の前に立つシブリングへ向け「どこから来たの?」進むのを「どうして火をつけたの」止めません。シブリング・アルファは寝台に尻餅をつきます。「と、止まりなさいよ——」「下手に刺激するな、中尉もニヤニヤしてないで!」煎塚からの流線通信です。中尉は止まれと言われた位置で湯の背中を見ていました。「いいの。責任は取るから」三本の尾を持つガルムが飛び出し、湯の行く手で棘を逆立てました。「いいわ、教えてあげる。私はりん、室賀燐」シブリング・アルファは三本尾の背棘に指を通します。「ギムレイから来た。ねえ聞いて。貴方が来てくれたらみんな上手くいく。私たちのパパだって帰ってくるのに」「燐、ね」湯が呟きます。「こっちからも質問させて」燐が立って帽子を直します。「まだ三つめのを聞いてない」「先にこっちよ」燐は咳払い。「で?投降してくれるの?」はためくスカートの彼方でクレーンが燃え尽きようとしています。湯は鼻を鳴らすと、足を肩幅に広げ腰に手を置いて背筋を伸ばしました。「それより燐。私たちの仲間になってくれない?」森で鳴く、虫や棘皮の声が会談の場を通り抜け、陣地も管制室も静まり返りました。雨上がりの高い空で鳥が円を描いています。「何を、言って——」燐の体がぐらりと傾きます。「ここの人は私たちエキノ・ヒューマンを特別に計らってくれるの。一緒に謝ればきっと許してくれるから」うつむく燐を湯が覗き上げます。「そんな勝手なことは——」顔を背けると湯はさっと引きました。「中尉殿!止めて!室賀を止めてください!」煎塚の懇願に混ざって管制室の笑い声が流線通信に乗っていました。「いいじゃないですか。室賀さんのペースですよ?」ロッタが口元を押さえて言います。「そうですけどそうですけどぉ!あとそいつが着てるのただの服じゃないからな、渾振反応すげー出てるからな気をつけろよ」流線が切れました。「勝手?仲間がいるってこと?海鼠水工の人?」襟を緩めていた燐の顔に余裕が戻ります。「まさか。でも——」燐は寝台に飛び乗り両腕を広げます。「私たちギムレイこそ本物の海鼠水工よ!星棘湾の筏なんか比べ物にならない」「ふーん。お姉様ー、お昼は何にしますー?」棘皮鎧についた燃え殻を払い中尉に振り向きます。「それは下ごしらえが間に合わないから無理ですー」「あんたから訊いてきたんでしょ聞きなさいよ!」湯は耳の前に垂らした前髪を指先に巻きつけました。「うん。仲間の顔色窺って放火するのが本物なのか、って思って」燐は頬をひくつかせ「——投降するつもりが無いのは分かった」手首を見て、湯の手を借りて寝台から降りました。「算曜石の剣を持ってるでしょう、緑色の」左手を上に向けると掌から炎が湧き出ました。「渡して。それ以上の譲歩は出来ない」盃からあふれる炎から目を離さず、手を背中にやります「あ」が碧剣はありませんでした。中尉と目を見合わせます。「置いて来ちゃった」燐の指から炎が滴り落ちました。「ハアッ?置いて来たぁ?」悪びれず湯は首を縦に振ります。「話し合いだし、持って来いなんて言われて——」「肌身離さず持ってると思ったのよ!ああもう、時間切れになっちゃう」基地の前、本陣のテントでざわめきが起こります。煎塚はモニターの波形に目を走らせマイクを握ります。「渾振反応が西から接近してる。こいつは——燐と同じ波形だ!」燐が通ってきた林床を、真っ白な糸が束になって蠕動しています。糸の束は森の縁に辿り着くと横へと糸を伸ばし、芳醇な土の匂いをかもしながら落ち葉という落ち葉を食べ始めました。脈打つ繊維の上を走ってくる者がいます。「シ、……シブリングがもう一人います!シブリング・ベータです」長物を構える狙撃手が口角に泡を飛ばします。「あ〜、三つ子ちゃんだったんですか。ミステリィのトリックみたいですね〜」納得してロッタはお茶を飲みました。「あーはいはい双子かと思ってたら、ってやつ。シグさん、火の次は何です?」湯の左胸が陽気に光りました。「菌類ね。カビ、キノコと共生している。こんなの初めてだわぁ」菌糸の回廊からシブリング・ベータが一直線に向かって来て、湯と中尉から等しく距離を置いて止まりました。「交渉は決裂のようだなあ、燐。そして湯!」開いた両手が菌糸に包まれていきます。「楽しもうぜ」それはレースの手袋のようでした。「待ってかや、まだ——」シブリング・ベータ、茅に向けて中尉の偽雷ぎらいが走ります。膝に命中したものの、スカートが軽く焦げるだけの結果に終わりました。「菌糸がアースになってンだよ、邪魔すんな!」飛びかかってきた茅の拳を槍の柄で弾き脚を払います。両手を地に着けた茅に中尉は「悪いけど、しばらく眠ってて」槍を向けました。穂先が帯電します。「だからさァ」茅の手の下で地面が動きます。敷骨が内側から膨らみ外側が割れ始めました。一瞬動きが止まったあと、乾いた骨が湿った温かい土となって爆発します。「雷ってのはさ、むしろ養分になんだよ!」豊かな土が噴き上がる爆心地に立ち、茅が呵呵とばかり笑います。土の飛沫は湯の足元まで届きました。「お姉様、いま——」足元の土を炎が燃やします。燐が左手を下に向け指から炎を垂らしていました。二人を囲む円になった炎の中で燐は腕を組みます。「流石にそれは見過ごせない。でも、話し合いは続けましょう」燐の落ち着き払った顔は湯が毎朝鏡で見るそれと見分けがつきませんでした。「あーっはっはっ」茅の横蹴りで中尉の槍が手から離れます。「早くあんたを倒して湯と一戦交えてェんだけど?」土に足を取られ中尉がよろけます。「生意気な——ヘルくんこれどうなってるの」左胸で冷たい光が回ります。「菌類の分解能力を増幅し、触れたもの全てを土へと作り変えている模様です。冷却し酵素の活性を下げる作戦を提案します」中尉は茅のジャブを避けフックをかわします。「槍、私の槍どこよ」「4メートル後方……あ、もう少し右です」たゆたう炎の線を越えた、寝台の前。四つの緑の瞳が徒手格闘戦を見守っていました。「どうするの。時間の問題よ」燐は手から火の粉を上げ薄い笑みを浮かべました。「まだよ」湯はブリムに刺さった土くれを手に取り「三つ目の質問の答えを聞いていない」崩すと、中で菌糸の網目が動くのが見えました。燐はやれやれとかぶりを振り「頑固ね……」焼け跡を振り返ります。「ガートが貨物に紛れている可能性があった。だから燃やしたの」「ガートですって!?」煎塚も管制室で椅子から飛び上がりました。「そんな大事なことをどうして——変異して繁殖する兵器なのよ、分かってるの?」管制室から書類を持ったフタッフが廊下へ走っていきました。対ガートマニュアルを取りに行ったのです。煎塚とロッタはモニターを切り替え、目を皿のようにして痕跡を探します。「ええ。十年前、僅かなガートの侵入で北岸の生態系は大打撃を受けた」走査する煎塚の眉が動きます。「でも湯、貴方が来てギムレイが完全になればガートも敵ではなくなるの」湯は顔色を無くして首を振りました。「そんな話、誰から聞いたの?」腰と腿の吸気孔が開き、空気を取り込み始めます。「燐、貴方騙されてる」湯は腰を沈めます。何か言おうとする燐を残して跳躍。壁になった炎を、湯は両腕で顔を覆い突き破りました。「室賀、聞いてくれ」煎塚の流線。「少尉が応援を呼んでくれた。星棘に帰還中のフギンが応援に来てくれる。中尉を救出してくれ」咳き込む湯。「基地の前にいる人たちに避難するよう伝えてください。あと、ごめんなさいって」「いいけど何する気だ?」土煙の中で中尉と茅が殴り合いをしています。その向こうに朧げに見えるのは、新塩瓦軍港基地。「リジルの剣よ——歴史的に貴重な基地ですが、武器になってもらいます」ガルムの群れが動き出し、撃渾楔から渾炎弾を撃ち始めました。基地の島軍も応戦し、視界の効かない中を銃弾が飛び交います。「あった!私の槍!」土を被った槍を拾い渾を注入すると、穂先から柄に霜が降り始めました。左胸が緑色に瞬き「お姉様、基地の前に茅を誘導して」湯の流線を伝えました。「分かった」中尉は柔らかな土の上を走り、スライディングしてくる茅を飛び越えます。「やるじゃんか人間のくせに」茅が拳を振るうごとに骨は分解され土は厚みを増していきます。「最高の土壌だ。このあと何を育てる?ワタの木なんかどうだ?」目を伏せ、指の間から落ちる土を眺める茅。「灰もいい肥料になる」突き込まれた槍を掴んで引き寄せ、中尉の腹に拳と蹴りを入れます。「そこまでよ」土を巻き上げて湯が着地します。既に、基地の目と鼻の先に三人はいました。「待ってたぜ。親父から格闘術習ったんだろ?思う存分——」茅は唇を締め横に避けました。彼女のいた位置に、基地から飛んできた黒い板が突き刺さります。土をえぐって倒れる六角形のそれは、基地の外板でした。続けて基地の梁だった角材の雨が降り注ぎます。「何だこりゃ」茅はステップを踏み拳で角材を弾きます。「た、建物で殴ってる……」森に避難した少尉はナマコサウルスの背で震えました。「すごいぃ」特殊加工された炭素骨は茅の拳でも僅かずつしか分解できません。基地は外板が次々と逆立ち、輪郭が崩れつつありました。接着剤として炭素骨板を繋ぎとめていたガゼ麩が潤滑剤になり、茅を囲むように建材がこぼれ、地を流れます。「湯、卑怯だぞ」柱と窓枠の奥から茅の叫び。建材同士を獣の脂に似たガゼ麩が繋ぎ、染み込んで動かしています。「俺と直接戦えー!クソッ、燐!りーん!」屋根が覆い被さり茅の声は聞こえなくなりました。湯は倒れたまま成り行きを見ていた中尉の手を取り起こします。「これが、リジルの剣なの?」伏せた椀の形をした塊を前に、中尉が呆然と呟きます。「はい」湯はうつむき恥じらいました。「お姉様が責任を取って下さると言ったので、つい——やり過ぎたでしょうか?」中尉は湯のひたいにキスをします。「全然。素晴らしいわ」六足型のガルムに乗った燐が茅に呼びかけています。晴れた土煙の先にある建材の塊を目にし、帽子が飛んでいくのに構わず湯に食ってかかります。「茅はどこ?返して!」塊の表面にある扉が開くと奥に狭い空間が続いています。湯が呼ぶと茅が這いずってきて、地面に落ちました。燐が抱き起こします。「ったくビービー泣くんじゃねェよ」指先に土の詰まった茅の手が燐の背中に触れました。「俺は平気だからよ、湯のことは説得できたのかよ?」燐は顔を埋めます。「うるさい。生意気なのよ、あんな簡単な手に引っかかったくせに」茅は笑おうとして背中の痛みに縮み上がります。「その調子じゃあ無理だったようだなァ」瞼の腫れた目で湯を見て「俺たちの負けだ。どうするよ」問いました。望み通りではなかったものの、満更でもなかったという笑みを浮かべています。湯は中尉の横顔を見上げました。「普通なら法の裁きを受けてもらうけど——あいにくエキノ・ヒューマンを裁く法律はないわ」中尉は三人のエキノ・ヒューマンを順々に見て天を仰ぎました。「燐。ギムレイとやらのボスに伝えて。人間は話し合いを望むと。共にガートに立ち向かう用意があると。それが分かったなら、失せなさい」茅に肩を貸し燐が立ちます。「ありがと。その寛大さが仇にならないといいわね」「ええ。全く。ふふっ」

 避難した仮設陣地で煎塚はマイクを持ちます。「あ、もしもし。さっき援護をお願いした新塩瓦基地なんですが——ええ、はい。え、もう見えてる?——はあ、すんません、いえいえこちらこそ。後でレポート送りますんで。——ええ、はい、お疲れ様っすー」寝台に茅を乗せ、燐はガルムたちを引き上げさせました。六足型の背から湯たちを見下ろします。「湯。一緒にギムレイへ帰らない?」使い切った渾が体力で支払われ始め、湯は急激に消耗していました。中尉の腕に掴まったまま首を横に振ります。「帰る場所ならもう決めてあるの」燐は背を向け「じゃあ、また」と言うと振り向かずに駆けていきました。後ろ姿が森に消えてから、湯は膝をつき脂汗を流します。「大昔の制服なんか、着て」悪態を絞り出す湯にロッタとオーメさんが駆け寄ります。「あの制服着てみたいんじゃないの?」湯を抱き上げる中尉。湯は答えません。「皆さーん大変でーす」剥き出しになった講堂を背に少尉が走ってきました。「行方不明だった少佐から救難信号が」中尉の目つきが険しくなります。「発信場所は?」少尉は手元の通信石を見ます。「し、塩瓦付近です!」湯が薄く目を開けました。「少尉さん、お願いがあります」「は、ハイ何でしょう喜んで!」敬礼する少尉。「私の部屋にある剣、預かってくれませんか」煎塚は顎に手で触れ頷きます。「確かにその方がいい。シブリングの目当てがあの剣なら、室賀が持ったままだと危険だ」少尉は両手足をおろおろと動かします。「承知いたしました!厳重に保管し、もし移す必要が生じた際はお伝えします」湯が少尉に微笑みました。「次の目的地は決まりですね」木匙をポーチにしまうロッタ。「塩瓦ではどんなことが起きるのかしら」中尉たちが仰ぐ空に島軍のフギンが弧を描きます。「何だあの——ガラクタと呼ぶには大きすぎる物体は?」フギンを駆る棘皮使いは軽く身を乗り出します。基地は屋根のほとんどを失い、中の間取りが見て取れます。左胸が穏やかに光ります。「不活性化している。害はない」「そういう問題じゃないんだが」浅葱色の翼を打ちフギンが離脱します。

 揚錨車が回ります。基地の人々に見送られラタトスクは新塩瓦軍港から出航しました。


————つづく

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ボーンシェル・ガール 3 碧剣のシブリング コルヌ湾 @shippo560

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