嘘への抜け道

 身支度を済ませた煎塚は机から管の繋がった通信石を取りました。算曜石さんようせきの薄い板から渾水管こんすいかんを抜きます。海外の同好の士が寄越した文面が薄板に浮かんでいましたが、ノックの音で通信石を置きます。通信石のそばには標本箱が二段重ねてありました。展棘てんきょくされた陸生ウニの輝きとラベルの文字を確かめ玄関に向かいます。開いた扉の先に湯が立っています。

「先輩、おはようございます」

 背中が見える深さまで礼をすると、煎塚の額を細く、しなるものが掠めました。一歩下がります。

「危ねーな、何だよそれ。おはよう」

 煎塚は眼鏡を直し、温度の違う空気に鼻をひくつかせました。湯は碧剣を留める腰のベルトに、新聞紙で包んだ長いものを差しています。折った腰を元に戻し体を伸び縮みさせて腰からそれを抜き、右手から提げました。

「朝早くにすみません。どうしてもお返ししたいものがあって」

 湯は鞄をまさぐり、握り拳を煎塚の胸の前で開きました。湿った掌に群青色の紙板が乗っています。煎塚は眉間に皺を寄せ掌に顔を近づけると、親指と人差し指で紙板の円い突起を摘み自分の掌に乗せました。裏返すとざらついた灰色の厚紙で、隅の縁がめくれていました。

「パズルのピースか、これ。貸した覚えはないんだが」

 湯は新聞紙の切れ端を折り始めたオーメさんの管足を見ています。

「海鼠の寮から荷物を送るとき、紛れ込んだみたいなんです。ごめんなさい」

 眉間に皺を寄せたままの煎塚に湯は頭を下げました。皺がほどけ、煎塚が指を鳴らします。

「ろんろんのか。そういや作ってた」

 湯は眼鏡の奥の丸くなった目を見上げます。

「そうですそれです、龍の女の子がヒロインの」

 左手を振り踏み込む湯の前で、煎塚は腰に手を当て何度も頷きました。

「思い出した。あのとき俺も別の部屋に引っ越したんだ。どこかで荷物が混ざったんだろう」

 煎塚は丸みのある顎を上げ目を細めました。湯は胸を撫で下ろします。

「室賀が部屋にぶちまけた絵の具が顔みたいに見えてなあ。それで引っ越しを決めたんだった」

 煎塚が眉間を押さている間に、湯は右手に持ったものを横向きに持ち替え両手で握りました。

「私の作品はお気に召して頂けませんでしたか。パズルはどうされました?」

 ピースを摘んだ手の手首で額を擦りました。湯は新聞紙を剥がし始めます。

「そっちについての謝罪はないのか、流石だよ。パズルは途中までやって保管してある」

 かぶりを振ってピースを胸ポケットにしまい

「ろんろんの監督の新作、観たか?」

 壁のポスターを見ました。トンネルの前に立つ四人の少年少女が描かれています。

「果てヶ原隧道?」

 手を止めて湯がタイトルを読みました。

「お屋敷のテレビは巣織すおりのチャンネルが映らないんです。どんな話ですか?」

 煎塚は湯の手の中で光る緑色のものを横目で見てから、説明を始めました。

「実在しないはずのトンネルを巡るホラーものだよ。青春の閉塞感がテーマでさ」

 湯の眉が上がります。

「面白そうですね」

「だろ?」

 煎塚の姿勢が軽く前屈みになります。

「それにな、実はろんろんと世界観が繋がってるらしく——」

「あっ、そういうのは観てからでいいです。それよりこっち」

 話を遮り、湯が青緑色の棒を横向に持ち突き出していました。右手の先にある側が尖り反対側は骨質の断面を覗かせています。金属光沢を帯びたそれに天井を走る渾水管が湾曲して映りました。煎塚が中腰になり顔を近づけます。

「こいつはカヘイブンブク類の棘か?」

 眼鏡を直し、棘が描く曲線を見つめます。

「はい、キョジンノドウカの成体のものです。お屋敷で拾いました」

 湯は胸を張りました。

「先輩、一言の相談もなく休職してご迷惑をおかけしました。これ、お詫びとお土産です」

 靴箱から取り出したルーペで棘を検分していた煎塚はレンズをカバーにしまい

「ちょっと待ってて欲しい」

 扉を開いたまま部屋に戻り、手に丸い緑色のものを持ち戻ってきました。

「オーメさん、いつもこいつに付き合わされて大変っすね。これどうぞ」

 青リンゴを受け取ったオーメさんはその場で二秒間固まりました。そして二人に背を向けると、後ろ腕と尻尾腕を床に固定します。胴の皮下にある結合組織を軟化させて前腕だけを前進させ体を前後に引き延ばすと、天井の隅にあるイエガゼ用縦路に滑り込んでゆきました。

「どうしたんでしょう、あんなに急いで」

「あの形態は初めて見た」

 縦路の蓋が閉まるのを見て湯が向き直ると、煎塚は机に駆け戻っています。警報音が聞こえ照明が非常灯に切り替わり、橙の光が廊下を満たします。

「そういうものはよ——」

 靴箱に通信石を置いたとき、結節点の砲が吐き出した融骨弾がナグルファル艦橋のアンテナを溶かしました。船の腹にある居住棟まで振動が伝わります。

 オーメさんが閉鎖された隔壁を迂回しナグルファル下層に着くまでに、海鼠かいそ船団は二隻の装甲艇を失いました。戦闘司令室のスクリーンに蕾とも果実ともつかない姿に成長した砲身が映ります。四枚の副スクリーンには、結節点の下半球から水面に落ちた組織がひび割れ、ガルムに変容してゆく様が粗い画質で描画されています。職員が口と手を動かす音に混ざり骨鐘が鳴りました。出入り口が開き肢椅子に掛けた部長が髪を振り乱して入室します。ざわめきに鉱石モニターに向いていた煎塚が腰をひねります。

「人形は、棘皮使いたちはどこじゃ。どこにおる」

 艦長席につくと喉の関節から上がる湯気を扇子で扇ぎ、司令室を見渡します。すみれ色の瞳が煎塚を見据えました。天井から下がる骨紐を右手で背中の受け口に差し込み、左手首をスクリューのように回転させ煎塚へ向けます。

「おい赤毛、画像を出せ」

 浮かび上がってくる泡の周りで無人潜骨鰭たちが輪を描いていました。

「呼び戻せ、すぐにじゃ」

 回転を止めた手首を肩の後ろまで振ります。煎塚の隣の席の通信士が通信強度のグラフを副スクリーンに出しました。三分前の時点から線が真下へ折れています。

「二騎とも通信不能深度へ入りました。こちらから送話魚雷を接触させないことには——」

 部長は右手で顔を覆います。

「なら発射しろ。ありったけじゃ」

 水雷長が日焼けした太い腕を机に勢いよく置きました。

「それが弾切れになっとりましてな。補給物資リストには入れとったんですが、何故か代わりに乾物が」

 水雷長は太鼓腹を叩いて笑っていましたが、自分以外誰も笑っていいないことに気づきスクリーンの方を向きました。部長は脚先をこつこつと鳴らしていましたが両手で肘掛けを握り深く座り直しました。

「レーギャルンの箱を起動しろ。充渾の済んだレーヴァテインから全部ぶち込め」

 司令室が大きくざわめき、煎塚が勢いよく立ち上がったので椅子が倒れます。

「部長、なぜ味方殺しを今使うんです?」

 部長の脇腹に並ぶ排熱孔が開き陽炎を吐きます。

「間に合いません。自律接骨機への送渾を優先しています。レーヴァテインへの充渾が完了する前に射程外に離脱されます」

 砲術長がスクリーンを向いたまま告げます。肘掛けに頰杖を突いたまま部長は煎塚に顎をしゃくります。椅子を元に戻し煎塚は一段高い床に上がり艦長席の横に立ちます。天井の円形の溝から液体のカーテンが降りて床と繋がり、濁って雨雲の色になります。変色と同時に司令室内の音も艦長の座から消えます。

「赤毛、あの人形を連れ戻せ。この島、場合によっては人類の未来が懸かっておる」

 煎塚は液体カーテンに揺れる部長の背の渾算こんさん回路の光を追っていましたが、腰を曲げ目の高さを部長に合わせます。

「あのー、恩人の娘を謀殺するのに加担するのは抵抗があるんですが。俺以外じゃ駄目でしょうか?」

 部長が腕を振り下ろすと肘掛がひしゃげます。手首の形に凹んだ肘掛に手を掛けたまま黒い前髪の隙間からのけ反った煎塚をねめつけます。

「悪かった。レーギャルンの箱はやり過ぎじゃった」

 肘掛にめり込んだ腕をもう片腕の三本指の手で引き抜きます。

「長生きし過ぎると人の情に疎くなってなあ。レーギャルンはもう使わんと約束する」

 音を立てず滑らかに回転する部長の手首に、困惑した煎塚がゾエトロープのように映ります。

「人類ってのは——」

「人類を生かし、発展させるものとは何じゃ?煎塚よ」

 艦長席の下でうずくまる肢椅子を煎塚は見下ろします。部長は背もたれに体重を預け脚を組みます。

「叡智じゃよ」

 煎塚は薄笑いの浮かぶすみれ色の瞳から目を逸らします。

「汝はいわゆるナチュラリストめいた趣味を持っておるそうじゃな。環境の保全には知識の蓄えが欠かせぬはずだが?」

 部長の関節のない足首が上下に揺れます。

「分かりました」

 煎塚は眼鏡を外し掌で瞼を揉み、

「室賀に接触し連れてきます。ただし、説明して同意を得てからです」

 眼鏡をかけ直します。部長か低い声で笑います。

「勿論じゃ。相手は棘皮使いじゃからな。念のためこれを持って行け」

 つま先で突くと肢椅子が起き上がり、背もたれが抽出しになって開きます。中には一丁の皮銃が置かれています。煎塚は首を横に振ります。

「必要ないですよ」

 薄笑いを消し艦長席から降りると、炎に舐められた樹木の肌触りを持つその皮銃を取って煎塚に持たせます。

「用心するのは分かるが爆弾などは入っておらん」

 艦長席に戻ります。

「そこまで短絡的ではこれほど長生き出来んわい。それ、早う行け」

 煎塚は皮銃ひじゅうを防弾ベストの内側にしまい

「では装甲艇に同乗させてもらい——」

 液体カーテンの外を向きます。部長が手で薙ぐ仕草をします。

「その必要はない。船渠にある六脚船を使うがよい。送ってやろう」

 床が砂になって流れ落ち、煎塚を呑み込みます。液体カーテンも床と天井に吸い込まれてゆきます。部長は頭を抱え

「篠田め、勝手なことを」

 独りごち、脚を組み替えました。

 曲がりくねる孔を滑る煎塚のズボンは摩擦で熱を帯び、着用者の尻を焦がしています。

「熱っ、熱いっ!」

 防弾ベストから引きずり出した手袋の右手が下方の暗闇に消えてゆきます。残った手袋をはめ後ろへ流れ去る壁に手を着きます。額を拭う煎塚の進路で光が揺れています。安全靴の踵と左手から煙を上げる煎塚は船渠の壁に開いた孔から潮風に投げ出され床に転がります。眼鏡を拾い、コンテナの間に立ち上がります。対岸に散らばった干しリンゴを見て訝しみ脚を踏み出しすと、よろけて左脚で三回横に跳ね錆びたコンテナにぶつかります。海外製のコンテナが太鼓の音を奏で、岸壁のフナムシたちが物陰へ隠れます。

「挫いちまったか」

 船渠の壁は赤茶色の鱗骨で覆われ、棘だらけの皮膚に海水を含ませていました。天井で緩やかに膨張と収縮を繰り返す照明の間を棘が生え揃った溝が縫い取ります。溝から吸盤を覗かせる薄茶色の管足は外国の新聞紙に包まれた資材を管足でリレーし、壁に開く孔へ配送しています。煎塚は息を整えると接岸している六脚船へと足を引きずります。半月の形をした六脚船の腹に、鞭角の生えた操舵室と丸い貨物が積まれています。左舷から突き出した三本の脚が係留突起を爪で握っています。右脚を庇い梯子を登り切った甲板では、ビットに座ったオーメさんが煎塚を迎えました。

「オーメさんじゃないっすか!危ないですよ!」

 よろけた煎塚の防弾ベストを管足が引き寄せました。煎塚の袖を引くオーメさんの前に青リンゴの芯が落ちていて、その先にある操舵室の扉は半開きになっています。煎塚は唇を舐めました。身振りでオーメさんをビットの後ろに下がらせ、腰に提げた骨棒をホルダーから抜きます。甲板の内側で水の流れる音が鳴り六脚船が揺れました。揚錨車が回り、船の爪が係留突起を離します。操舵室の屋根では鞭角がひょこひょこと手招きして、うちわ型の骨鰭を振り六脚船は出航しました。前進する船に取り残された扉が全開になり壁にドアノブを打ちつけます。煎塚は渋い顔で骨棒を肩の高さに持ち、敷居を跨ぎます。広くはない操舵室の中央に六脚船とよく似た体型の天測ナマコが座っていて、半透明の体を通してくすんだ緑と茶色の人影が動いています。煎塚は天測ナマコの肉角を避けて回り込みました。

「動かないでください」

 安全靴が滑り、えんじ色の布に乗っていた乾パンと干し肉が宙に舞います。ガラス瓶と氷砂糖を持った婦人が床から見上げていました。態勢を崩して天測ナマコの潤んだ背中に手を着く煎塚の前で婦人は一度身震いをしましたが、口の中のものを噛み続けます。防弾ベストの脇腹で通信石が着信音を鳴らします。噛んでいたものを呑み込み、

「あの、鳴ってますよ?」

 婦人は氷砂糖をもった手で煎塚の脇腹を指します。剥げかけた水色のマニキュアを塗った爪が粘菌灯に照らされました。

「どうぞ?」

 骨棒を持ったまま煎塚は着信に応じました。彼女は床に落ちた干し肉の埃を払い口に運びます。

「赤毛か。急ぐのでこちらから操船した」

 通話相手は部長でした。煎塚は送話口から顔を離しため息をつきます。部長は返事を待たずに喋り出します。

「船内に間者がいてな。平時とはやや異なる路を通ってもらった」

 煎塚は喉を鳴らし瓶から水をラッパ飲みしている女の人のつむじを見て、鼻を擦りました。

「その間者って栗色の三つ編みでオリーブグリーンのセーター着た、肉づきのいい眼鏡の女の子だったりします?非常食でパーティー開いてるんですけど?」

 三つ編みは音を立てて乾パンを嚙ります。

「はあ、美味しい」

 頬に手を当て氷砂糖を口に放り込んだ三つ編みは、片脚を庇って立つ煎塚を見て目つきを変えました。

「いや、そいつは違うな。このような侵入と工作の好機に飯を食う間者は、おらん」

 煎塚は骨棒を下ろしました。オーメさんが天測ナマコのヒゲに触れてから隣に並びます。

「その女は船倉にでも放り込んでおけ。汝は人形を追いかけ連れ帰ってこい」

 三つ編みは両手と両膝を交互に動かして煎塚の足元に這ってきて、腰のポーチをまさぐり細い板状のものを握りました。部長と船内の破壊箇所について話していた煎塚は骨棒を振り回して後ずさり、よろけました。

「動かないでくださいよ!」

 木製の匙を手にした三つ編みは座ったまま両手を振ります。

「あ・し!怪我してますよ。非分類エネルギーで治せますから、こっち来て」

 座ったまま彼女は両手を差し出しました。尻の後ろに乾パンと干し肉の缶が見えます。煎塚のこめかみを汗が伝いました。通信石から部長の呼ぶ声がします。

「おい、聞いとるか」

 煎塚は骨棒を腰に戻し近づくと、彼女が伸ばしたままの手を取って立たせました。

「繰り返すがあの人形の機能は危険じゃ。汝は彼奴と親しいから危険はないじゃろうが、警戒は怠るな」

 三つ編みはデニムのパンツについた乾パンの欠片を払い落とし、後ろに置いていたリュックサックを手に持ちました。

「危険な機能って、火でも吐くんすか」

「そんなものじゃ」

 通信が切れると天測ナマコは首をもたげ、触手の鉤爪を断続的に鳴らしました。だぶつく喉を煎塚が撫でます。

「勝手に操船切りやがった。あんたは隅の方に。ああもう、操船なんて何年ぶりか分かんねえよお」

 三つ編みをその場に残し煎塚は舵輪を握ります。

「俺は煎塚塩二、海鼠水工警備部所属で、棘皮使いの情報支援士です。あんたは——あれ、どうすんだっけな」

 ぎこちない手つきで操舵盤に触れ計器類に目を走らせるうち、床が震え出しました。

「ロッタ・ケウルライネンと言います。デコ連のテテルトトル共和国から来ました、リトルベア通信社の記者です」

 ロッタはリュックと缶詰を伴い消火器の隣に座ります。オーメさんが煎塚の隣に這い登りボタンを押し込みながらレバーを引くと、船の震えが止まりました。

「治癒術士で記者のケウルライネンさん、ですか。文字通りの潜入取材ですか」

 煎塚はオーメさんの背中を軽く叩き、眼鏡を拭いているロッタに振り向きました。

「ロッタでいいですよ。積荷に紛れて来たんですけど出られなくなっちゃって。その白いふっくらヒトデさんに助けてもらったんですよ」

 眼鏡を掛け、操船しているオーメさんを指差します。煎塚ははあ、と返事ともため息ともつかない声を漏らします。

「大陸の北からだと長旅だったでしょう。気候もあっちとこの赤道近くじゃ——」

 オーメさんに手を振るロッタを頭からつま先まで眺めていましたが、濡れた床の足跡に気づきました。

「検疫は?」

 舵輪から片手を離した煎塚がよろけ、膝を着きました。

「え?」

 立ち上がるのに手を貸そうとするロッタを煎塚は制止し、オーメさんの背中に手を掛けます。

「検疫は、入国するとき消毒は受けましたか?」

 乾いた泥の欠片が海水の膜に落ちました。灰褐色の泥が潤んで崩れ、タイルの溝に沿って広がりました。

「えっと、はい。受けました」

 リュックを両腕で抱えたロッタの髪に天窓から弱々しい光が落ちます。天窓の外に鉛色の空がありました。後ろ窓の中で遠ざかるナグルファルの鈍色の節腹で船渠の入り口が閉じてゆき、円盤を何層にも重ねた上部構造物から無人筋翼機が羽ばたいて離陸してゆきます。ロッタはリュックを置き木匙を握りました。

「不法侵入はしましたけど不法入国はしてませんから——」

 前屈みで腰を浮かせ、両膝を床につけたまま

「だから痛み止めだけでも掛けません?これから戦場に向かうんですよね?」

 木匙の周りに親指の爪ほどの大きさの雪だるまが浮かび、ゆっくりと回ります。オーメさんは管足を広げ操舵盤から降り、雪だるまにしげしげと吸盤を向けます。オーメさんを撫でるロッタをしばらく見てから壁の椅子に腰掛け

「オーメさんが助けた人なら、まあ危険はないでしょう。よろしくお願いします」

 ズボンの裾を捲ります。ロッタはオーメさんに掴まりながら近づき、木匙を赤らんだ足首に向けます。

「ロッタさん、部長の勝手で戦闘に巻き込み、申し訳ありません。仰る通りこの先は戦場でして、簡単に説明をさせて頂きます」

 椅子から手の届くところにあったボタンとツマミをいじり、操舵盤の鉱石スクリーンに前線の画像を出します。

「このようにウチの無人装甲艇と、ガルムという敵の化け物が水面で戦ってます。ま、どっちも元は棘皮動物ですが」

 木匙の腹を足首に向けたままロッタは背筋を伸ばしスクリーンに目を凝らします。

「えーと」

 煎塚の顔を見ます。

「どっちがどっちでしょう?」

 ばつが悪そうに笑うのを見て煎塚は憮然とした表情を見せます。

「失礼な。色で一目瞭然でしょう。この青黒い、連装砲を背負った鰭のない魚が装甲艇で——」

 治癒術の放射を中断しロッタが操舵盤に顎を乗せます。

「ああっ、この赤いカップケーキみたいな、形の一定しないのがガルムですね」

 煎塚がロッタを見る目に尊敬の念が混ざります。

「巧い言い方っすね。実際ガルムはそういう生き物です」

 操舵盤と逆、操舵室後ろの窓を指差します。練り色の太い紐を毛糸玉のように球体にしたものが後方甲板に山積みにされています。一つの大きさは身の丈ほどあります。

「あれが——」

「あれがガゼですね!」

 船の動きに合わせ枠の中でぶつかり合うガゼ麩を見て、ロッタは手を打ち鳴らします。

「ご存知でしたか」

「そりゃそうですよ〜」

 ロッタのつむじとガゼ麩を交互に見ます。ロッタは屈むと再び木匙から雪だるまを出します。

「融けたり固まったりする結合組織を培養したもので、凝澪島では文明の基盤と言っても過言ではないくらい身近な素材」

 煎塚は顎に手を触れ

「お言葉の通りです、失礼しました」

 頭を下げるとロッタが笑います

「渡航前にざっと調べただけですよ。あ、脚はもう大丈夫みたいです」

 木匙を足首から離します。赤みは引き、雪だるまが漂っています。

「おっ、痛くない。ありがとうございます」

 煎塚は椅子から立ち操舵盤に向かいます。ロッタは膝の埃を落とすと這い上がろうとするオーメさんの脇に手を入れ、抱えて上げて操舵盤に置きます。

「ところでガルムとヨルムンガンドにはどう対抗するんです?」

 スクリーンの中で、数匹のガルムが装甲艇に登っては連装砲の振り回しでなぎ倒される光景が繰り返されています。

「数では不利に見えます」

 窓の向こうの前線は赤い帯の手前に途切れ途切れに青い線があるという状況です。

「ガルムは結節点、あのでかい瘤を叩けば沈黙するはずです」

 前線の奥、のたうつ朱色の根に囲まれた結節点を煎塚が指差します。

「結節点から指示が出ているとか、ですか?」

 ロッタは操舵盤中央のドーム型の膨らみに目を止めました。青い五角柱の角に時折光が走ります。煎塚はかぶりを振り

「少し違いますが結果は同じです。いま装甲艇十隻分の戦力を二名、結節点へ潜入させています」

 ロッタが顔を上げます。鳶色の瞳の瞳孔が広がります。

「ボーンシェル、棘皮使いさんですね」

 煎塚は黙って操船していましたが、笑い出しました。

「随分とこの島に興味を持ってくれてるんですねえ」

 オーメさんの背中を撫で操船を任せます。

「俺はリトルベア通信社って名前に引っかかりがあるんです。そちらのことも教えてもらえませんか」

 ロッタは燻製チーズの缶を手に微笑みました。

 全長の半分を占める尾をくねらせ、二騎の金縁鰐きんぶちわにが潜行します。ウニの骨とヒトデの皮、培養筋肉からなる瓜型の船体から、長く平たい尾鰭が伸びています。

「苦しくない?平気?」

 きめ細かな骨鱗に包まれた腹の中で中尉はうつ伏せの姿勢を取っています。

「問題ありません」

 前をゆく金縁鰐と後ろの金縁鰐は、人工脊椎を二本より合わせた骨索で繋がれています。

「金縁鰐と耐圧殻、どちらもシグさんの言うことを素直に聞いています」

 外と水で繋がった金縁鰐の腹の中で、湯は頭を包む殻から泡を吐きます。泡は操縦室の天頂に溜まってゆきます。

「よかった」

 耐圧殻の内側に描かれた海と文字の列を見て、中尉は瞼を強く閉じしわを作ります。

「予定通り、前線を潜り抜けて海底まで潜行。地形沿いに進み、ヨルムンガンドの根に侵入するよ」

 湯と二着の鎧が返事をします。

「お姉様。任務とは関係ないのですが、馴染みの宝飾店はありますか?」

 中尉は身じろぎし、肘で身を起こします。背骨に沿って連なる骨節から半透明の管が操縦席の下に垂れて、金縁鰐の腹の内側に接続しています。中尉が斜め後ろへ頭を動かすと、金縁鰐の脇腹の視覚球が僚騎に液体レンズを向けました。

「うん、私はないけど、母の行きつけのお店なら」

 丸い鼻面の先を鮮やかな青い小魚の群れが横切ります。

「よかった。ウニの棘も加工してもらえるでしょうか?」

 緩やかな流れの水を通して、人間と同じ大きさの動物が体を翻します。殻内スクリーンにカーソルが出て、アザラシナマコ科のアシカモドキだと表示されます。

「棘?殻や鱗じゃなくて棘なの?」

 中尉の右手首では結節点の主砲発射の秒読みが踊っています。

「はい。陸生ブンブクの棘を持ってるのですけど、煎塚先輩に宝石として扱った方がいいと教えてもらったんです」

 湯は腰に留めた碧剣に手を伸ばします。スカートの骨枝に束ねた杖鉈つえなたに指が当たり、こつりと鳴りました。

「煎塚さんがそんなことを?」

 湯は今朝の出来事を話し、腕に顎を乗せて聞いていた中尉はふーん、と言って操縦桿のボタンを押します。

「そっかそっか。見直した、なんて言うと失礼だけど私より大人かも知れない。ご主人様が室賀さんの教育係に選んだのも、分かるな」

 くぐもった笑い声が骨索を走りました。

「やっぱりご主人様はお忙しかったの?」

 殻内スクリーン一面の青黒い水に、探針音をもとに中尉の棘皮鎧が計算した海底地形図が書き加えられます。中尉は陸に向かい緩やかな坂になっている地形図を回転させてから湯に送りました。二騎がぬるい水塊を斜めに穿ち続けると、前方の砂底に黒々とした草むらが現れました。口を開いたとき湯から返事が来ます。

「はい、一ヶ月以上お戻りにならないこともありました。シグさん、あの長い旅行のお土産はすごかったですね」

 金縁鰐の喉を縦横にわかつ燐光の帯が草むらを照らし出します。深紅の枝の茂みに湯が声を上げました。

「ええ、あの半年かかった調査旅行の。四魔大陸を横断なさったのよねえ」

 砂底を前にして中尉の金縁鰐が鰭の波打つ向きを逆さにしました。湯は減速し船体一つ分後退します。二騎が鰭を振り姿勢を水平に直してから、中尉は鼻の先の集音器を寄り目で見ました。

「半年?随分長い留守番だったんだね?」

 ヨルムンガンドの根から生えた茂みに腹を擦らない高さを泳ぎ飛びます。

「はい。それくらいは慣れっこでしたから」

 中尉は金縁鰐の鰭が三回波打つ間、黙っていました。

「そっかそっか。やっぱり室賀さんはえらいね」

 湾の奥へ進むに連れ、太さを増した根の下に白い砂底は隠れてゆきます。艶やかな革質のうねりが星棘湾の緩やかな海底を這い上がり、金縁鰐の行く手には深紅の階段とそこかしこから茂る枝が広がっています。弧を描いて海底から持ち上がった根を二騎がくぐり、靄のようにはっきりとした輪郭を持たない枝の群落がひろがる場所に出たとき、海水を支える大地が震わす地響きが走りました。

「地震?ヘルくん?」

「いいえ、只今の振動は結節点からのものです」

 操縦席を囲む画面が赤く染まり警報を鳴らします。それらの画面の一つが骨索から割り込まれ、湯の声を中継し出しました。

「お姉様、緊急事態です」

 勝手に緊急用に切り替わったシステムを一つずつ手動に戻しつつ、中尉は送話器に囁きました。

「ヨルムンガンドはご機嫌斜めみたいね。少し急ごうか」

 中尉は積み込んだ爆薬と腹に懸けた多目的骨槍の検査をヘルくんに命じ、操縦桿に力を込めましたが

「違うんです、私の体から棘皮使いのものとは違う渾が出ているんです」

 武装の点検は自力で行うことにし、ヘルくんに湯の体の検査を命じ直しました。

「湯ぉは現在、わたしを通さずに渾が使えるようになっているわ」

 骨索を通しヘルくんに湯の渾振グラフを送信したシグさんが言ました。中尉は頬杖をついて、送られてきた画像を見ます。黄色の人体の模式図と、へそを中心に広がった曖昧な桃色の渾の分布図が画面に映りました。

「棘皮使いとしての資質に加え、術士としての力に目覚めたということなの?ヘルくんはどう思う?」

 中尉は画面を消します。

「はい。室賀様のお体から微弱な干渉腕の展開を捉えております。イズン・コイルの細胞賦活波と類似が見られます」

 中尉は腕を組み真下を向いていましたが

「分かった、ありがとう。一旦着底して話をしようか」

 顔を上げました。二騎は枝の茂みに出来た穴へ降下し、背甲を開きました。

「お姉様、怖くないんですか?」

 手首に二重巻きになった練り色の紐に指を押しつけ、湯は後ろにいる中尉に尋ねました。

「何が?」

 中尉は腰後ろの碧剣ごと紐を湯の腰に結わえつけます。足元には紐と同じ色のガゼ麩の塊が足首の高さの砂丘に置かれています。湯の手首の紐に出来た指先大の凹みは、弾力で元に戻りました。

「もし暴発したらと思うと」

 摘んで引き伸ばし指先で見えない文字を刻むと、潮の流れに帯状に広がったガゼ麩は内側に巻き上がって紐になりました。湯の右腕を上げさせ輪にした紐を通し、背中側で交差させて左腕に通します。

「だから、こうして吸渾帯きゅうこんたいを巻いているんじゃない。棘皮鎧にも渾を堰き止める働きがあるんだから——」

 ガゼ麩を拾い上げようと中尉が屈むと

「そうよ湯ぉ。この弱腰軍人、拘束にかけては相当のものだから心配いらないわ」

 湯の胸からシグさんの声がし、発声器から漏れた光が中尉の後頭部に差しました。

「弱腰、ですか。確かにもう少し強引な方が嬉しいですね」

 湯は右脚の内側のくるぶしで左脚に巻かれた紐の弾力を確かめました。紐を巻く取っ掛かりになったリントヴルム・エンジンの推晶すいしょうは、その奥で若葉色の光の泡を暖機運転させています。

「そこは否定してくれないの?」

 中尉は抱え上げたガゼ麩から手を滑らせますが、振り向いた湯は水の抵抗を受け沈んでゆく塊を掬い上げました。

「考えてみてください、私の体について」

 粘りついた砂を落とし中尉に返します。

「私は人と生まれ方の違う、造られた生き物です。術を使えること自体が設計の間違いや故障であるとも考えられます」

 中尉は黙ってガゼ麩を受け取りました。湯の頭を包む白い耐圧殻のこめかみに海鼠水工の社章があります。

「だからもし私が——」

 湯の言葉を海面で起きた爆音が遮りました。振動の半球体となって衝撃波が駆け抜け、砂地に装甲艇の末節が落ちてゆきます。湯の肩を掴み伏せようとする中尉の腕の中でガゼ麩がひとりでに捩れ、彼女の背中を蹴って泳ぎ上がりました。横たわるヨルムンガンドの根が空へ落ちるように持ち上がりガゼ麩と融け合い、二人の頭上で五本の枝を星型に開きます。装甲艇の節は脈動するガゼ麩に阻まれ、枝をすり抜けた骨片が砂に降り注ぎます。砂山が崩れて中尉が起き上がり、埋まっている湯を手探りで起こしました。

「今のはお姉様が?」

 泡を吹き湯は感嘆の声を上げました。

「え?今のは——」

 崩れ始めた五本の樹枝を見上げて押し黙った中尉でしたが、湯の胸の発声器が二度点滅するのを見て胸を張り、立ちます。

「ええ、そうよ。今のが私の本気。ヘルくんと一緒にガゼ麩の形を操る術を開発したの。見直した?」

 差し出された手を取り立ち上がった湯は両手で中尉の手を握り締めました。

「すごいです、流石です。お姉様」

 抱きつかれた中尉は耐圧殻の下で汗を流し深く頷き、湯の頭を撫でました。鎧の指と耐圧殻がこすれ合い臼を挽く音が鳴ります。

「てっきり私の術が暴発したのかと思いましたが、無意識であんな複雑なものを作れる訳がありません。やっぱりお姉様こそ真の主です。非礼をお赦しください」

「ええ、ええ。吸渾帯にも何も起きなかったし」

 中尉の腕の中で湯は賛辞を送り続けます。

「とは言えまだ心配よ。金縁鰐は置いて、徒歩で行きましょ」

 耐圧殻内の湯の姿に文字が重なります。

『よろしいのですか?室賀様による渾の連鎖励起としか思えませんが?』

 砂と練り色の破片を落とし、中尉はスクリーンに浮かぶ文字盤に視線入力を行いました。

『あとでちゃんという』

 小破した金縁鰐から無事な爆薬と武器を降ろし二人は茂みが途切れて出来た小径に踏み出します。湯のスカートの下でリントヴルム・エンジンが光を帯び、中尉の槍を軸に掴んだ二人が海底から浮かび上がりました。

「ねえ、室賀さんが言ったことについてなんだけど」

「どんなことでしょう?」

 湯が小首を傾げたまま、小径を滑り出します。

「もし自分が故障していたら、という話」

 枝に絡んだ蠕虫が縮こまるのを湯が目で追います。

「あんな言い方、悲しいよ」

 交差した放渾帯に向け呟きました。リントヴルムの炎を絞り茂みから飛び出さない高度を保っていた湯が首を後ろへ向けます。

「そうですか?でも」

 足元から白が消え、赤い管の織物が後ろへと飛び退ります。離底する金縁鰐たちのおぼろな輪郭が溶けてゆきました。

「いえ、ごめんなさい」

 それきり二人も棘皮鎧たちも黙ったままでしたが、湯が前方に目標地点を見つけ

「着きました」

 と言い逆噴射をすると中尉は槍の下をくぐって湯と向かい合いました。

「結節点まであと一歩だね」

 湯は腰に手を触れました。

「はい。この碧剣に誓ってお姉様をお守りします。ところで」

 槍の石突きの紐を解き袋の口を開きます。中尉がびくりと肩を震わせました。

「結合組織を操るあの力、名前は何て?」

「名前?」

 中尉は深紅の海底でそよぐスカートの、白い骨枝を数えながら訊き返します。

「はい。お姉様は私をヴァルキュリアと呼んで下さいましたよね。同じように神話昔話に因んだ名前があるのかと思ったのです」

 袋を開き爆薬を中尉に渡します。視界にヘルくんが記憶している固有名詞が押し寄せ、中尉は湯に背を向けました。

「うんうん、もちろん。その名も」

 腰と顎をせわしなく指で擦り頷きます。

「その名も?」

 文字で視界が真っ白になり中尉は爆薬を取り落とし、湯がそれを拾いました。眼前を覆う文字列の中で黄色くハイライトされた語があり、中尉は背を向けたままおもむろに腕を組みました。

「リジルの剣」

 起爆装置を手にした湯は、ややあってから首を傾げました。

「あのう」

 湯が手の中で起爆装置を転がします。

「リジルという名詞自体が剣の名前なのですが、何かの暗号ですか?」

「えっ。そうなの?いや違っ、何でもない」

 組んだ腕を解き振り返ると、問いへの答えを待つ湯の姿が文字列の中から現れます。

「そう、この矛盾した名前は心理効果を狙っているの。南に南下するみたいな意味でしょ?言葉を解する敵に対して撹乱を狙っているの」

 湯が再び感嘆の声を上げます。

「まさか心理作戦だったとは、搦め手を得意とするお姉様らしくてとても素敵です」

「はい、はい!ネーミングはいいから爆薬の設置手伝って」

 とりわけ太い根が赤い底から半分露出しています。息継ぎに現れたクジラの背中の丸みを持つ根に爆薬を貼りつけていると、中尉が声を上げ湯の側に回り込みました。

「爆薬はもういいんですか?」

 中尉はかぶりを振り

「もう済んだ。それより」

 耐圧殻の額同士をぶつけます。渾の流線通信ではない

、物理的な振動による声が響きます。

「リジルの剣のことは煎塚さんたちには内緒よ?」

 右手に点火装置を持った湯は左手の人さし指を顎に当てました。

「え、分かりました。分かりましたけど理由をお聞きしてもいいですか?」

 中尉は額を押し当てたまま、両手で湯の頭を押さえます。

「ほら、敵を騙すにはまず味方からだから」

 湯は首を左に深く傾げましたが、微かに波の揺らぎを映す海面を見上げ手を打ち合わせました。

「なるほど!あの力があればラタトスクも動かせそうなものですが、懐深く入り込むまで漏らさないようにしていたんですね!」

 額を離し、宙に浮かぶ

『言うなら今では?』

 という文字を、首を振る動作でかき消します。

「そう、その通りだよ。室賀さんは賢いね、私の誇りだよ」

 点火装置のボタンを押し込まんばかりの力で両手を握り湯は肩を震わせます。

「そんな、また私にはもったいないお言葉を。お姉様こそ私の誇りです」

 慄いて後ずさる中尉の腕を掴み地形の凹みに引きずり、湯はボタンを押し込みます。炎の刃を吐いた爆薬により根は楕円に切り取られ、潮の流れに乗って遠ざかります。湯は紅色と桃色の肉が交互に重なった根の断面に足を掛け中を覗き込みました。縦皺の走る管の中を海水が陸へと流れています。

「そうだ。先輩は今頃どうしているでしょうか」

 布袋から取り出した大小のネジ銃を手に中尉が隣に立ちます。

「私たちが結節点に着くまでは暇じゃないかな?戦闘中暇なのも、結構つらいけど」

 二人は根の中に降り、結節点へ水の流れを遡り始めました。

 灰色の空と海の間、星棘湾ほしとげを横切るガルムと自律戦闘艇が屍の藻屑を築き続ける最前線へ、ひょこひょこと鞭角を振って進む船があります。操舵室から談笑する声が漏れ出ました。

「あの違法ガート養殖場のニュース、おたくらの手柄だったんすか!」

 折り畳み椅子に掛けた煎塚の右足首の周りで親指大の雪だるまが現れては消えてゆきました。

「そうなんです!よくご存知でしたね。ガートに興味が?」

 一つ離れた椅子に掛けたロッタが燻製チーズを口に運びました。二人の間の椅子には布が敷かれ食べ物と皮杯ひはいが置かれています。煎塚は乾パンの缶に手を入れました。

「ええ、あの人工生物が生態系に与える影響について調べたことがあるもんで」

 ロッタが瓶から皮杯に水を注ぎます。

「物的や人的なものではなく、生態系にですか?それは興味深いですね」

 缶から取り出した乾パンを二枚重ね手を丸ごと口に入れ、呑み込んで口を開きます。

「陸生ウニの標本集めが趣味でして——」

 煎塚は失礼、と言って席を離れ、オーメさんと船の自律システムが操る操舵盤の前に立ちました。缶に封をしてロッタも席を離れました。窓の先の青緑の海に灰青色の切っ先が突き刺ささり、波に洗われています。

「あの舳先の辺りで停まります」

 操舵盤のレバーや画面に操作を加える横で、ロッタは右舷側に立つ焦げて割れた舳先を眺めていました。雨が窓ガラスに一滴二滴と落ちます。

「舳先?あれは船ですか?」

 舳先を指差します。幅広で薄い舳先は中央が欠け、ひびが入っていました。

「そう、あれはラタトスクという揚陸艇で」

 操舵盤の下のチェストから救命胴衣を取り出しロッタに渡します。

「何でも、神話に出てくる世界樹の枝を跳び回るリスの名前とかで。沈んだときは俺の後輩が随分落ち込んでましたよ」

 煎塚の操作で六脚船はラタトスクの傍に停まりました。

「後輩さん?どんな方でしょう。お会い出来たら是非お話を——」

 操舵室内の計器が一斉に回り出しました。オーメさんが操舵盤を乗り越え窓ガラスに前腕と管足を押し付けます。

「着いたか。室賀、聞こえてたら返事してくれ。何が見える?」

 煎塚が送話器に唾を飛ばします。操舵室の外では鞭角が痙攣し、船殻各所に埋め込まれた視覚球が回りました。視覚球の見つめる先では根を掘り進み貫いたネジ弾の先が、桃色のおがくずを散らして回っています。スピーカーから耳障りな音が出てロッタが身をすくめました。

「先輩、結節点の中は空っぽ、空っぽの球体です。底は水煙で見えない」

 唐突に開いた出口から水の束が流れ落ち、採光窓から落ちる光の中に白とざくろ色の棘皮使いの姿があります。

蔓薔薇つるばらを丸天井に仕立てたみたいで——何ですかあれ、真っ黒な鉱石がそこら中に?」

 中尉はいばらに槍を突き立て、湯は断続的にリントヴルムを吹かし減速します。

「あれは石じゃない」

 中尉が湯の襟首を掴み、二人は内壁の出っ張りに落ちました。

「硝子状炭素だよ、炭素の人工骨が食い込んでる。煎塚さん、外からも攻撃を」

 湯と中尉が円形の滝壺を見下ろしながら次の足場へ跳躍すると、スピーカーからは雑音しか聞こえなくなりました。煎塚が無人の筋翼機きんよくきと装甲艇に指示を与え始めます。

「今の声が棘皮使いさん?二人とも女性なんですね」

 丸まった背の後ろでロッタが言いました、煎塚の刈り上げた後頭部と操舵盤で光る文字、結節点からそびえる砲身に交互に視線を向けます。

「島軍の星沢紗枝中尉とウチの室賀湯戦闘主任です。よし、これで——」

 煎塚の指が赤く光るボタンの蓋を押し上げたとき、砲身の根本からおびただしい量の海水が溢れ出し、たちまち人間が潜れる太さの亀裂が広がります。砲身が付け根から剥がれ落ち、波飛沫を上げます。六脚船の揺れが収まってロッタが顔を上げると、露出した結節点の内壁を白い矢じりが駆けています。オーメさんは尻尾腕から出した管足で操作をすると操舵盤の画面に彼女の姿と名前が拡大表示されます。鎧のスカートはしなる五枚の翼になって腰の左右と後ろに広がり、前から上へ空気を跳ね上げ湯を接地させています。光の帯を引いて壁を走る彼女の背中を光弾が掠め、耐圧殻が弾け飛びました。銀色の髪を手で押さえ、顔を下に向け口を開いています。スピーカーは雑音を流し続けています。

「この子が棘皮使い?」

 ロッタは黒々とした半球と画面を見比べました。

「まだ子供じゃないですか」

 転がった皮盃を椅子に起き煎塚は足首をさすります。

「援護は必要ないんじゃねえかなあ、いてて」

 ロッタは送話器で湯に呼びかけをしていたましたが室内には雑音しか聞こえません。操舵盤の機器に手を伸ばします。煎塚は髪に絡まった干し肉をそのままに立ち上がり、ロッタの右手に腕を伸ばしました。

「勝手に触らないでください。室賀には複雑な事情があるんです」

 ウニの骨格を枠にした操舵盤の上で手袋をした手がセーターの袖を掴んでいます。骨格内に嵌め込まれた算曜石の青白い光が、二本の腕を下から照らしました。

「子供があのような危険な場所にいる事情というのは、どんな事情です?」

 見上げた煎塚の顔に表情はありません。

「ロッタさん、貴方のことは信用出来る人だと思ってます。ですがこれは彼女の出自に関わる重大な事情で——」

 掴んだ腕を操舵盤の下まで動かしてから手を離します。

「本人抜きで部外者に話すことは出来ないんです」

 ロッタは一歩下がりました。後ろに回した手が壁の計器に当たります。

「部外者ですか、確かに。そうです」

 操舵盤に着いた煎塚の横顔に軽く頭を下げます。煎塚の顔色が変わりました。

「あっ、いえ部外者ってのはアレですよ、決してよそ者には話さないとかじゃなく室賀を中心とした相対的な立場の——」

「はい、分かっています。でも煎塚さん」

 ロッタは橙の非常灯と算曜石で陰影のついた操舵室内を見渡し、息を呑みます。一見平坦な工業製品に見えていた壁や床はどこも丸みとざらつきの影を帯びており、装飾に見えていた線は不規則な縫合線で、ここが部屋の形に形成された骨の内側なのだという事実を知らせています。

「生態系への被害という、声なきものたちの声に耳を傾けられる人が、声を上げないのが不可解なんです。貴方の考えを——」

 スピーカーがハウリングを起こし、オーメさんの管足が小刻みに震えました。

「——んぱーい、先輩」

 狂った音量で湯が煎塚のことを呼びます。画面の中の湯と煎塚の目が合います。

「なんで女の人とオーメさんを連れて前線まで出て来てるんですか、それに後ろ!逃げて!」

 湯は放物線を描いて結節点の底へ、海上からは見ることのできない下半球へ消えます。

「後ろ?」

 眉間を押さえる煎塚の袖をロッタが引きました。

「あの、リスのラッちゃんが」

 ロッタが指差す方へ煎塚が顔を向けると、操舵室の後方窓に練り色の紐が当たりひびが入ります。

「ガゼ麩を食べてるんですけど?」

 六脚船の上に傾いだラタトスクは給油孔から管足を伸ばしてガゼ麩を手繰り寄せ、すすり上げています。

「自己修復しようってのか?」

オーメさんの脇腹に指を食い込ませるロッタの横で煎塚は拳を握り、水と無数の部品を落とす船体を見上げます。

「こんな機能があったのか、やるじゃねえかラタトスク!」

 ガゼ麩を残らず平らげたラタトスクが一つ身震いをすると船殻に縦向きのひびが走り、もう一度体を揺すると舳先を残して船殻が砕け散りました。青緑色の鱗を光らせ六脚船にのしかかると、舳先の根元の口で六脚船を骨鰭から呑み込んでゆきます。

「どうしたらこの状況で喜べるんです?」

 オーメさんを腕に抱いてロッタは座り込み、煎塚は操舵盤を指で叩きました。戦闘海域上空の筋翼機たちの爪が硬く握っていた爆弾を離します。ネジ弾を中心に炎が上がり、結節点内に注いでいた滝は勢いを失って内壁を滴り落ちる幾筋かの糸になりました。

「私にリジルの剣をエンチャントしてくださったんですね」

 湯に並走して内壁が艶やかに潤み糸の壁として編み上がります。杖鉈を構え壁に貼りつくガルムへ粗密針を連射します。槍を振るって光弾をいなし中尉は首を縦に振ります。

「も、もちろん。まさかあんなに使いこなすとは——この音は何。聞こえる、室賀さん?」

 水の落ちる音に覆い隠されていた規則的な音が、反響しています。水の供給を断たれ干上がってゆく滝壺からその音は出ています。滝壺の水面下には、対空迎撃専門のガルムが並んでいます。二枚の楔の間で光の霧が揺れ弾となり発射されていましたが、水位の低下とともに弾幕は薄くなりつつありました。迎撃ガルムの並ぶ円周の下から底に至るまでは太さを増す炭素骨の草むらが生い茂り、勾配の緩い場所では神殿の柱の太さです。雑然とした草むらは滝壺の底で円形に切り拓かれ、雨と弱々しい太陽光が赤い地面に降っています。その円い庭の中で、上顎から上を失った黒い躯体が柱の傍に膝を着いていました。掌を貫いて前腕の中から伸びる骨の刃を柱に振るっています。

「あれは、まずいかも——室賀さん、そこの横孔に退避するよ」

 中尉の指差す先、斜め下には根に繋がる孔がありました。

「機械置換型人類?炭素骨を穿って——」

 湯は赤と黒の同心円を一度見てから内壁を斜め下へ駆け、炭素骨を足場にして滑り込みました。湯の走った軌跡に沿い階段になったガゼ麩壁を降りて、中尉は横孔に入りました。片手を底の方へかざして数秒、舌打ちとともに手を引き、横孔の縁から覗き込む湯のスカートに手を入れ火器を取り出します。

「戦闘用の炭素躯体を確認。こちらの呼びかけには応答どころか反応すらしない。この状況でこっちを無視とか、完全に狂ってる、ヘルくんにシグルドリーヴァさん、非物質障壁と筋力補正を最大出力に」

 鎧の肌が張り詰め水管が浮かび上がります。中尉が立ち上がり可動部位の干渉を確かめている間も湯は水浸しの庭園を見ていました。

「硬い上に小回りが利くし、破壊工作用の火器は役に立ちそうもないし、どうしたものかしら」

 中尉が両手を背中で組んで後ろへ伸ばすと胸の動きに合わせ、呼吸する昆虫の腹の動きで胸甲が開いて閉じます。関節の曲げ伸ばししていると湯が中尉を呼びました。

「見てください、炭素骨の像があります」

 結節点の赤道と底の中間の高さにある横孔から二人は顔を出します。底の庭園には作りかけのものを含め、少女をかたどった四体の像がありました。倒れた作りかけが一体、もう一体は傾き、残りは黙々と柱を削る躯体の前後に安置されています。

「私に似ていませんか、顔」

 横孔に正面を向けた像を湯は指差しました。炭素骨の少女は瞼を閉じうつむいた姿勢で雨を浴びています。

「うん、似てるね。戦利品として一体もらっていこうか」

 中尉が右手を湯の肩に置きます。

「もちろん室賀さんの方が愛くるしいけど。言うまでもないけど」

 横を向いた湯の頬にぴんと伸びた人差し指が触れました。

「冗談はよしてください、早くあのご主人様モドキを——」

 振り返り切らずに前を向き、躯体の背中を見下ろしたまま湯は肩をよじります。

「ご主人様モドキか。長いからモドキって呼ぼうか。いいかな?」

 中尉に頬をつつかれ湯は中腰で立ちました。

「お姉様ふざけている場合じゃ——」

「まあまあ。もう砲は壊したんだし、ちょっと休も?」

 耐圧殻を外した中尉は雑嚢から直方体の紙パックを二つ、取り出しました。一つをしかめ面の湯に渡し、自分のパックにストローを挿しました。

「なぜそんなに落ち着いていられるんですか?」

 中尉の隣で膝を抱え、パックの真水を吸います。

「あのモドキは、部長が言っていたご主人様の端末の一つかもしれないのに」

 音を立て中尉はパックの中身を吸い終え、唇でストローをパックから抜きました。ストローから笛の音が鳴ります。

「だからだよ」

 怪訝な顔で空のパックを中尉に渡しました。

「篠田博士に聞きたいの。室賀さんになぜ留守番をさせたのか」

 一定の間隔で石でも金属でもない硬い音が響きます。中尉が水気の残る天井を見て

「篠田博士から室賀さんを奪った私が偉そうな口を利いちゃ、いけないけどね」

 笑って湯の耳の前に垂れた髪に触れました。

「ありがとうございます」

 横孔の底を流れる澪筋みおすじに目を落とし、湯は唇を動かしました。髪に水が滴ります。

「ご主人様、魂まで算曜石に写し取った方ですからね。やっぱり大算厄だいさんやくが起きる前の凝澪が好きなのでしょうか。この時代のことはもういいのでしょうか」

 中尉は湯の肩を抱きストローをくわえました。

「最後の刻魂墓こくこんぼが失われてから、来年で二百年だったっけ。自然を作り替えることにルールもタブーもなかった時代。人間が人間を越えようとして——」

 中尉の湿った肩装甲に頭の重さを預けます。

「体を機械に置き換えたんでしたね。無限の知性を求めて」

 淡水の混ざった潮風を吸い込み吸い続けるうちにパックが凹み、ストローに空気の詰まる音がします。澪筋を踏みパックを雑嚢に押し込みます。

「どうする、もし大算厄前の遺跡とか見つけちゃったら」

 槍の柄につま先をかけ、跳ね上げて握ります。隣で湯は割れた丸天井の向こうへ顔を向けました。雲が千切れては生え、無形の体を雨粒へと変え続けています。

「雲」

「ん?」

 中尉は槍への充渾を始めていました。穂先から石突きへ並ぶ針の頭の大きさの孔に、掌と手首の管足が嵌ります。穂先に渾の炎が灯ります。

「雲の上は晴れているんですよね」

 手の中で槍を回し炎を穂先に行き渡らせながら、中尉は緑の瞳を眺めていました。

「少しぼうっとしてしまいました。シグさん、ガルムとモドキに変化はありますか?」

 シグさんの骨が可動部を残して噛み合い、湯の胸元からつま先へ骨片のさざ波が走ります。

「ガルムの弾幕が薄くなった以外、さっきのままよ」

 二着の鎧は装着者の体に走る非物質的なひび割れから、異なる位相にある渾を吸い取り始めます。

「ただ、底の方のガルムは撃ってくる様子がない。濾過器なり温水器なりの働きをする個体かもしれないけど、警戒してね」

 湯は頷いてから中尉の顔を見て

「こちらに満足な火器がないということは、あの骨剣相手に格闘戦ですか?」

 眉をひそめ、右腰のスカートの中から杖鉈を引き抜きます。

「炭素骨は骨の何倍も硬いんですよね。それを木みたいに」

 穂先の炎を見上げる瞳に比べ、中尉はいつもと変わらない細い目で黒い円を見下ろしています。

「ええ。かすることも許されない切れ味だし炭素骨の体は軽くてしなやか、熱を通さない」

 湯はピナフォア・ドレスに鳥の糞が落ちたときの顔をしました。

「それじゃ——」

「そう、正面からでは真っ二つどころか粉微塵」

 中尉は穂先を顔の前に引き寄せ掌で包みます。白く薄い煙を残して火は消え、葉脈を金色に光らせた穂先が指の間から現れます。

「でも熱を通さない体は弱点でもある」

 シグさんは脚に繋がる水管の弁を解放します。右腿の裏で針山の推晶が揃って上を向き、きびすを返して下を向きました。左腿では逆の向きで同じ動きが起きています。

「どこかに排熱器がある訳ねえ」

 入れ子になった杖鉈の柄が骨の滑る音を立て二段階に伸びます。

「狙って壊せばいいんですか、ええと」

 ガゼ麩壁の隙間の先でモドキは左腕を掲げます。掌が人差し指と中指の間で開き、割れ目が肘まで深さを増します。分かれた前腕の内側にある二列の膨らみを骨剣が滑り、閉じて固定されました。モドキは両腕を使い髪と肩の隙間に浮き彫りを作り始めます。中尉は右の雑嚢に手を入れ

「そう、隙は少ない。だからこれを」

 取り出した菱形の板を湯の掌に乗せます。

「特製の投げ麩。当たって弾けると、ガゼ麩が泡になって膨らむ。うまく浸み込めば排熱を邪魔出来る」

「一つずつだけですか」

 中尉は口角を上げます。

「十分でしょ」

 湯は苦笑して杖鉈を胸の前で握り、目を閉じます。長方形の刀身を軸に青白い光の輪が三本湧き出ました。その輪が揺らいで無数の粗密針が芽生え、刀身の先を向いて揃います。

「みぞおち辺りでしょうかね」

 一分で進行ルートを決めまず湯が横孔から左へ飛び出しました。スカートを開いて空力効果を持たせ、結節点の底へ時計回りに駆け降ります。四分の一周したところで中尉が横孔から真下へ跳び、モドキの背へ燐火線りんかせんを撃ち込みます。合わせて湯は粗密針の輪を発射します。頭蓋骨の根元と下顎しかない頭を上げたモドキは、両腕の骨剣を左と背中に向け湯たちの射撃を刀身で逸らします。炭素骨の茂みに燐火線と粗密輪が着弾し、割れてささくれた断面が白く光ります。

「海鼠水工私有地につき無断立ち入りを禁止します」

 顎の下から女性の声で同じ文句が二回繰り返され、三回目は何度か前半を繰り返してから途切れます。湯は内壁に食い込んだ炭素骨の間を、中尉は茂みの陰を走ります。像に手をついて立って辺りを見回すモドキの頭に、緩やかなカーブを描いて小石が飛び込みました。内部の複雑な凹凸の間を転がり脊柱との接続口へ、小石は収まりました。中尉が茂みから身を乗り出します。

「ホールインワンだ」

 骨剣に落ちた雨水が蒸発しました。両手の得物は白い湯気をまとい、黒い体躯から炭素骨に鋳込まれた渾算回路の光が漏れます。

「お姉様」

 内壁を蹴りスカートを畳んで急降下してくる湯が叫びました。中尉が投げたウニ手榴弾をモドキが斬り刻む間に湯はモドキの足元に飛び込みました。足首めがけて杖鉈の柄を水平に振ります。甲高い音とともに姿勢を崩したモドキは後ろに倒れかけますが、骨剣を赤く弾力のある地面に刺し転倒を免れます。湯と中尉が畳み掛け、次の瞬間に杖鉈と槍をまとめて絡めとられ投げ飛ばされました。

「強い」

 炭素骨の茂みの中で湯に抱き起こされ、中尉がつぶやきます。湯は黒い欠片まみれの手で背を丸めて立つモドキを指差します。

「見てください、様子が」

 骨剣の湯気が薄まり、脇腹の奥から薄い金属版が重なった機械が現れました。

「あの鰓みたいなのが排熱器ですね」

 湯は右腕の内側に貼った投げ麩に触れました。

「思ったより過熱しやすいみたい。室賀さん、空振りを連発させましょ」

 湯気の立つ排熱器をあばらに隠しモドキが姿勢を正します。骨剣の先が浸かる水たまりが沸騰します。腰でスカートがクモの脚のように動き湯たちが起きるのを手伝いました。

「さっきからフルパワーだから残り時間は多くないわ、チャンスは逃さないで」

 湯は奥の、中尉は手前の像を盾に回り込みます。

「こいつが端末なら安心だね」

 細く高い体と長い腕が生む蒸気の乱舞を上に下に避け、刃で弾きます。

「な、何のことですか?」

 やがて二回目の排熱が始まりましたがモドキが二体の作品を縦横に切って靄の壁にしたため、二人は踏み込むことが出来ません。

「端末の一つに過ぎないなら安心してぶちのめせる」

「ちょっと、お姉様?」

 湯気を縫って中尉が錐雷を落とすこと四回、湯がむき出しの椎間板を粗密針で狙うこと二回の後、三回目の排熱が始まります。排熱器が干渉し腰をひねりづらくなったときを見計らい、中尉があばらの洞へ投げ麩を滑り込ませました。菱形の殻が割れガゼ麩が小雨の降る音を立て膨らみ、胸をかきむしるモドキのあばらを満たしてゆきます。周囲の地面に円弧の切り傷を何重にもつけてから、両膝をつきのけぞった姿でモドキは動きを止めました。引きつり痙攣する舌の奥から煙が立ち昇ります。

「止まりましたね」

 下半身だけになった作りかけの像の陰で乾いた足音が鳴り、湯が顔を出します。手を置いた像の表面、まだ削られていない場所には海鼠水工の倉庫番号が記されていますが、番号の後半は像の切り口で断ち切られています。中尉は槍を逆手に持ち陥没した地面と一体化した上半身を踏んでモドキの前に立ちます。

「後は鎖骨と首の隙間から胸の算曜石を壊せばいい」

 額の汗をぬぐいます。

「室賀さんはそこに——何、この匂い」

 小鼻を膨らませ一歩後退ります。

「気温が下がっています、動かなかったガルムが」

 湯は像から手を引き剥がすと氷の破片が散ります。中尉は槍を順手に構え直します。

「これは、奪熱鎚だつねつつい——」

 歯噛みして後ろへ跳ぶ中尉の前方で、肉体と生命を否定する低温がモドキを包みます。脇腹から凍りついたガゼ麩が砕けてこぼれ落ち、氷の張った排熱器が胸にしまい込まれます。霜の降りた巨軀を震わせ湯気立つ骨剣を打ち鳴らし、顎を中尉に向けます。

「雪ってこんな感じかしらねえ」

 手の震えを抑えるため前腕に杖鉈を固定し援護射撃をする湯の胸で、シグさんは環境の観測をしています。

「これは雪じゃないです、ただの氷の欠片です」

 結節点の内壁を包んでいた水の膜が氷となり、底の庭園に降っています。庭園を囲むガルムの楔は氷塊に包まれています。

「この彫刻の庭全体が強制冷却装置だったのね。こりゃ一本取られたわ」

「まだ取られてません!」

 杖鉈の内部機構が凍りつき粗密針の発射が止まりました。中尉は左の骨剣をいなし

「撤退しよう、横孔が氷で塞がり始めてる」

 湯に呼びかけますが、骨剣を切り離した右手に足首を掴まれ庭園の外周へ低い軌道で投げられました。炭素骨と氷の岩山をざくろ色の影が滑ります。湯は悲鳴を上げ中尉が埋まった氷の山へ跳躍します。重なった薄氷の下で穂先に炎が灯ります。

「雪景色ならもっと開けた場所で見たかったわ。こんな閉塞感のある場所じゃあねえ」

 雪を蒸発させながら、モドキはかくしゃくとした歩みで岩山を渡ってきます。足を滑らせながら中尉を支え辺りを見回していた湯は、眉を上げました。

「お願い、貴方だけでも——」

「閉塞感?」

 歯の根が合わなくなった中尉の言葉を遮ります。

「そうだ、トンネルだ」

 大振りの氷塊がモドキの骨剣に落ち、濃い湯気に変わります。

「室賀さん、何を言ってるの?」

 白い横顔を見て中尉が当惑の表情を浮かべます。中尉にスカートからウニ手榴弾を三つ取ってもらうと、オーバー・スローでモドキの彼方へと投げると壁際で爆発が起き、束の間モドキが立ち止まります。

「お姉様、掴まって。リジルの剣の加護をお願いします」

「ねえ何をする気なの?」

 湯は中尉の手を握りました。リントヴルムが輝き二人の周りの氷を溶かします。

「壁を建てられるならトンネルも掘れるはずです。帰りましょう、煎塚先輩たちも心配しているはずです」

 微笑むと、湯は返事を待たずにリントヴルムを全開にしてモドキへ突き進みます。振り向いたモドキの一太刀を弾いた杖鉈が粉々に散り、鈍い音とともに湯と中尉は胸に飛び込みました。湯はリントヴルムの出力を弱めません。腰を落とし踏みとどまっていたモドキのかかとの下で氷が割れ、地面が潤みます。

「その調子です、ヨルムンガンド。私たちに道を譲りなさい」

 モドキの背の向こうで炭素骨の茂みが氷を振り落として割れてゆきます。足元から爆破した内壁までが一本のぬかるんだ道になり、モドキは足を滑らせました。厚く頑丈な胸板を橇にして、湯たちは雪融けの路面を滑走します。中尉の槍が左の肩関節を焼き切り、腕が置き去りになります。

「前!ぶつかるよ室賀さん!」

 茂みが途切れた先の壁には、縦長の楕円が描かれています。とろみのある金色の楕円に向け、リントヴルムの推晶が甲高い唸りを上げます。

「融けたバターみたいになってるから平気です。息を止めて」

 腹の下でのたうつモドキに膝蹴りを加え、二人は額をあばらに押し当て瞼を閉じます。破裂音の次に手から肩へ衝撃が伝わり全身がヨルムンガンドの融けたガゼ麩に包まれると、音が消えました。上り坂のトンネル内を粘りつくガゼ麩を押しのけ進みます。明るさが増し、あばら越しに伝わる振動の間隔が短くなり風が耳たぶを冷やします。重力が消えて膝がモドキから離れ、湯は顔を振ってガゼ麩を飛ばします。広がったのは雨の上がった空と青灰色の揚陸艇が駆ける海、隣には柄を短く握る中尉がいます。みぞおちへ穂先を差し込んでひねると中で薄く、硬いものが爆ぜます。上半身の隙間という隙間から煙を吐くモドキを風の中に置き去りにして、湯たちは海岸に落下します。

「痛っ」

 うつ伏せで倒れた湯の指が曲がり

「湯ぉ、起きて。まだ近くに奴がいる」

 胸からシグさんの声がします。湯はうめき、網目模様のついた頬を上げます。波が膝を浸しています。ヨルムンガンドの根が白い砂を無数の三角形に区切り波の下へ消えています。砂浜の傾斜に沿って視線を上げると低い草むらと、一部根こそぎになっているものの緑の林があります。樹々の樹冠の彼方には海側が大きく切り欠けた結節点が鎮座していて、全体を見通せるほど離れてはいません。

「動けない、お腹に力が入らないんです。お姉様はどこに」

 赤い網目に指先をかけ陸へ体を引き寄せます。寄せてきた波の浮力を借りもうひと摑み進んで、首を反対へ向けます。大破し腹を見せて横たわる装甲艇の手前で、あばらが透き歯になったモドキが流木を手にしています。湯が上体を持ち上げようとしたとき

「そのまま伏せて」

 装甲艇の陰からまろび出た中尉が叫びます。両手で抱えた装甲艇の対空皮銃をモドキに向け、引き金を引きます。支えにした流木と足首を撃ち抜かれても片腕を振り陸へと這い上がり、二連の銃針が空転して渾弾の連射が止まります。半歩ずつ後退していた中尉がよろけ、モドキが背骨をしならせ手刀を振り上げます。息を止めた湯の背中で、吸渾帯がふつふつと沸いて腰へ流れ始めます。碧剣を巻いていた吸渾帯と混ざり腰に溜まったガゼ麩は柄に巻きついて回転を加え、中尉を呼ぶ声と同時に碧剣を宙に射ち出します。錐揉み回転して飛んでくる剣を中尉は受け取って鞘を振り払い、澄んだ空を照り返す刀身を突き出します。あばらの奥で煮え立つ算曜石へ碧剣の切っ先が吸い込まれると、手刀が力なく開いて砂に落ちます。モドキの背から碧緑の炎が上がります。中尉は立ち尽くしていましたが、焦げ臭い匂いを嗅ぎ骸から碧剣を抜いて、鞘を拾います。湯が横座りで手を振ります。

「お姉様!」

 網目に脚を取られながら息を弾ませます。砂のついた指と煤まみれの指が触れました。

「リジルの剣で碧剣を引き寄せたんですね。何という融通無碍の剣術。私は投げ麩を使う余裕すらなかったというのに」

 胸に顔を埋める湯の頬から砂を払い、中尉は額を押さえます。

「あの、そのことなんだけど言わなきゃいけないことが——」

 波の砕ける音に混ざり聞き覚えのある声がして、湯たちは顔を上げました。

「おーい、ここっすよー」

 操舵室の粘つく扉を開け煎塚が手を振ると湯たちも手を振り返しました。鱗に縁取られた窓の中でオーメさんが舵輪を握り、薄く長い舳先が浜辺の砂に乗り上げます。様変わりして再生したラタトスクに鎧二着が驚きと喜びを述べます。煎塚は欄干を乗り越えて浅瀬に飛び降り湯に肩を貸しに走ります。燃える骸を指差し身振り手振りを交えて三人が話す間、ロッタは操舵室の下のキャビンで薬箱を探し回ります。

「結節点の中にあんなものが」

 煎塚は息を呑みます。モドキの骸からは融けた部品が流れ出し砂に染みを作っています。目を伏せる湯としかめ面を作る中尉を

「いやでも、お二人とも流石っすねえ。島軍と海鼠のトップエースが揃うと違いますよ本当」

 煎塚がねぎらいます。デニムをずぶ濡れにして波に脚を取られながら、ロッタが駆けてきます。

「二人ともお怪我はないですか?」

 手にした薬箱を掲げ叫びます。

「すぐに応急処置を——」

 その前方で湯は中尉の手を取り顔を見上げます。

「そんなことないですよ、トップエースだなんて言い過ぎですよ。ね、お姉様」

 中尉は手を握り返し

「調子がいいなあ、煎塚さん。でも——」

 湯と目を合わせます。

「室賀さんはそんなこと、あるんじゃなくて?」

 指を絡めます。湯が素早く下を向き

「よしてください。お姉様こそ、そんなことあると——」

 煎塚が安全靴で数歩、足踏みをします。

「あのー、もう俺いなくても立てますよね?」

 互いを褒め合う二人から離れた煎塚の後ろで、砂に重いものが落ちる音がします。

「あの、お怪我などは」

 薬箱が砂にめり込み、手ぶらのロッタが呆気に取られています。

「あの二人はどういう間柄で?」

 請う目を煎塚に向けます。

「将来を誓い合った姉妹だそうです」

 何か言おうとしてロッタがくしゃみをします。降雨は冷たい空気を湾に引き込んでいました。四人を収容したラタトスクは後ずさり、浜辺から離れて別の入江に身を隠します。

「この人はデラコリエクス小国連合から来たロッタ・ケウルライネンさん。治癒術がお得意で——」

 一同はキャビンで円テーブルを囲んでいました。合流までに煎塚たちが船内を調べ六脚船の設備がそのまま残っていること、ラタトスクは船殻を脱ぎ捨て六脚船を新たな骨格にしたことが明らかになっていました。ロッタの横に立つ煎塚が隣に目配せをします。

「本業は記者で、門前払いを食らって戦闘に巻き込まれてたところを保護しました」

 ロッタが肩をすくめます。湯と中尉は甚兵衛姿で水の皮杯と氷砂糖を交互に口へ運んでいます。壁のスピーカーから骨提琴の調べが流れています。

「安全が確保できるまでここにいた方がいいと思うんすが、中尉殿のご意見は?」

 中尉が喉を鳴らして皮杯を飲み干しテーブルに置きます。

「もちろん。外国からのお客様を護衛するのは私の仕事だし」

 壁際でとぐろを巻く生きた家具に視線を注ぐロッタの目を見て、笑みを浮かべます。

「ナグルファルに戻ったのち、安全な港まで送ると約束します」

 煎塚は椅子に腰を下ろしロッタもそれに習います。

「そのことなんすけどねえ」

 煎塚は出立前の出来事を説明します。中尉は皿と皮杯をどけテーブルに身を乗り出し

「レーギャルンの箱を使うなんてただごとじゃない」

 壁のボタンを押し音楽の音量を下げます。

「今まで一度だって使われたことがないのに」

 おずおずとロッタが手を挙げ、質問の許可を求めます。

「レーギャルンの箱って何でしょう?企業秘密だったりします?」

 中尉は背もたれに寄りかかり首を横に振ります。

「公表はしてるよ。調べれば仕様も分かる、けど——」

 眉間を人差し指と親指で挟みます。膝で眠るオーメさんを撫でて、湯が口を開きます。

「反乱を企てた棘皮使いを排除するための、追尾式の兵器です」

 次の曲に切り替わるまで沈黙が続きます。

「そんな」

 ロッタがかすれた声を出します。湯はロッタの爪と顔を見て

「物騒な言い方でしたけど、安全装置みたいなものですから」

 笑顔を作りました。

「——部長から受け取ったという銃は?」

 ロッタは息を吸い込んで言葉を口にする前に中尉が背もたれから起きます。

「梱包して船倉にしまってあります、後で確認してください。それと——」

 煎塚がテーブルに紙を広げ始めます。湯と中尉が端を押さえ食器を重石にします。

「俺からもう一つ提案があります」

 薄い水色の海原に浮かぶ凝澪島の地図が広がりました。円の左右両側が凹んだ形の、鳥令諸島南端の島です。煎塚は人差し指を東の凹み、星棘湾に置きます。

「ナグルファルには帰らず、このまま次の結節点に向かいましょう」

 爪で跡をつけながら島の南岸に沿って指を滑らせ、島の南西で止めました。塩瓦という地名が記されています。中尉が頷きます。

「賛成だよ。混乱に乗じて救難信号を拾ったとか、でっち上げや改竄も簡単。でもその前に——」

 星棘湾と塩瓦の中間、南南東を干し肉の角で指します。

「まず新塩瓦の軍港に向かうのはどう?上官に連絡が取りたい」

 指揮棒に使った干し肉を口に運びます。煎塚は髭の伸びてきた下顎を親指の腹でこすり

「いいっすね、物資も足りないですし」

 机に手をついて立ち、中尉も長椅子の切れ目を目指して両手と尻で歩きます。

「まるで家出だものね」

「室賀はいつもの格好じゃないと落ち着かないんじゃないか」

 煎塚に聞かれ湯は食器を片付ける手を止めました。

「ピナフォアなら予備を預かってもらってますよ、それに——」

 まどろむオーメさんの背中を骨片の流れに沿って撫で、メモを書き付けている手を見ます。

「改めて自己紹介をさせてください」

 ロッタが顔を上げずれた眼鏡を直します。

「ケウルライネンさん、初めまして。室賀湯と言います。海鼠の警備部で戦闘主任をしています」

 湯が頭を下げるとロッタはメモを閉じて長椅子のクッションから跳び上がります。

「こちらこそ初めまして。ロッタで結構ですし、あのさっきは盛り上がっているところをお邪魔をしてしまい大変——」

 煎塚と設備の話をしていた中尉がポニーテールを留めたゴム紐をほどき

「気にしなくていいよ。みんなよく磯でいちゃいちゃしてるし」

 亜麻色の髪に指を通します。

「私は星沢紗枝、島軍から中尉の階級をもらってる」

 そう言って足元から中身の干からびたつぶ貝を摘み上げます。色の違う箱が並ぶ部屋の隅へ放ると、蓋の口からヘビの尾のような細いものが伸び貝殻を連れ去ります。

「デコ連と少し勝手が違うと思うけど、分からないことがあったら何でも聞いてね」

 震える箱を中腰のまま凝視していたロッタは湯に声をかけられクッションに座り直します。煎塚は机から離れ階段に片脚を乗せ

「そんじゃあ、ガルムも鎮まってる様子ですし出航といきますか」

 天井の扉に手をかけます。

「俺は上にいるんでゆっくり休んでてください」

 煎塚は操舵室へ上がってゆきました。湯が食器を台所へ運び中尉は壁に埋め込まれた鉱石スクリーン越しに簡易チャンバー内のヘルくんと話を始めます。ロッタは鉛筆を走らせていましたが戻ってきた湯に顔と膝を向けます。

「あの、室賀さん」

「何でしょう?」

 中尉の横でスクリーンを見守っていた湯が返事をします。

「ひょっとして、棘皮使いとしての力の他にも何か——」

 中尉が二人に勢いよく振り向き、広がった髪が湯の肩に堰き止められます。

「ね、ね、ね、二人とも聞いて」

 湯の背中に覆い被さるように手を回し、二人の目の動きを交互にうかがいます。えーと、と三回言ってから

「操舵室に行かない?」

 引きつった顔で言いました。肩に食い込んだ指に掌を重ね、湯が

「先輩に用でもあるんですか?」

 汗ばんだ顎を見上げます。中尉はスクリーンを消しロッタが脇に置いたリュックを指差します。

「ほら、乗り合わせたのも何かの縁だし、団結を強めるためにも記念写真撮らない?ロッタさんカメラあるでしょ?」

 中空を見つめたあと、ロッタの表情が明るくなります。リュックの金具を引き中から角張った丸いものを取り出します。

「そう、それなんです。私が凝澪に来た理由」

 机に置かれたそれは球体を削って面を立てたようにも、立方体を削って角を増やしたようにも見えるものでした。湯は手を重ねたまま一歩前に出ます。

「それって棘皮の?」

 五角形をした面の一つには視覚球が嵌め込まれています。

「はい、叔父から譲ってもらったもので——」

 リュックからずっと小振りの、金属と樹脂のカメラを取り出します。

「残念ながら動かないので記念撮影はこっちになっちゃうんですけど、よろしいですか?」

 湯は両手を口に当てて正二十面体に歩み寄り

「これは珍しいね」

 中尉がそのあとから続きます。

「はい。少し触ってもいいですか?」

 ロッタは頼みを快諾し、湯が両手で棘皮カメラを包みます。淡い褐色の革は湿り気を帯び、液体レンズに控えめに歓声を上げる湯と後ろで満足げに腕を組む中尉が映りました。

「録画予約したっけかなあ」

 ラタトスクへ航路の指示を済ませた煎塚の足の下で三人の声と階段を上がる音が膨らみ、床の扉が開くとともに操舵室に流れ込みます。

「先輩、みんなで写真撮りましょう、写真」

 骨董品のカメラを手にした湯とロッタ、中尉が操舵室を占拠します。

「休んでなくていいのかよ?」

 湯に詰め寄られながら煎塚はくすくすと笑う二人に助けを請います。

「まあまあ」

 中尉が甲板に出る扉を開き

「いいじゃないですか」

 ロッタが煎塚の袖を引きます。棘皮カメラのストラップを握る湯とオーメさんが甲板へ駆け出します。

「しょうがないっすねえ。ラタトスク、ちょっと待っててくれ」

 操舵盤の算曜石に言い残し煎塚たちは甲板に出ます。湯は欄干に寄りかかり棘皮カメラのファインダーから結節点を覗いていました。ロッタがカメラを三脚で立たせます。中尉と煎塚は湯を挟んで欄干の前に、タイマーをセットしたロッタが煎塚の隣に並びます。シャッターが切られ、棘皮カメラを手に前歯を見せる湯と、湯の背に穏やかな笑顔を向ける中尉、緊張は残るものの好奇心に目を輝かせるロッタ、そしてにやけるのを必死で堪える煎塚が写真に収められました。

「はいはい、もう気は済んだでしょう、解散」

 カメラを片づけたあとも話に夢中の三人に煎塚が呼びかけます。

「ガルムと出くわしたら中尉殿と室賀が頼りなんですよ、休んでくれないと」

 三人は渋い顔をつくって階段を降りてゆきました。煎塚とオーメさんが操舵盤のスクリーンを覗きます。六脚船とラタトスクの制御機構が混ざり合い奇妙に辻褄の合った画面が出航を待っています。

「そんじゃ行きますか」

 窓を透かし入江の奥を見ます。朱色をしたヨルムンガンドの荊が絡み合い、骨組みだけの筒となり地形に沿って横たわっています。オーメさんがボタンを押しレバーを引くと機関音が大きくなり、ラタトスクが入江から進み出ます。荊を背に、舳先の欠けた船は傾いた太陽を跳ぶように追いかけました。



つづく

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