第6話 タカユキ/ユキ
その日、あたしは一限目の授業があったので、朝8時少し前に部屋を出た。
202号室、そして昨日、夕食をごちそうになったおばあさんの部屋……201号室の前を通る。
階段を降りようと思ったところで、足が止まった。
タカユキくんが、先日と同じ場所にしゃがみ込み、同じように地面になにか描いている。アパートに背を向けているので、彼の顔は見えない。
そっと足音を忍ばせて……階段を降りた。
彼があたしのほうに振り向くのが、恐ろしくて仕方がなかった。
(振り向かないで……お願いだから振り向かないで……)
振り向いたタカユキくんの顔が、ゆうべ、おばあさんに見せられた写真とまったく同じだということを……改めて確認するのが怖かったからだ。
あたしは出来る限り足音を忍ばせながら、なんとか階段を降りきった。
タカユキくんはあたしのことに気づいていない様子だ。
あたしに背を向けたまま、絵を書き続けている。
そのまま、彼の横を走り抜けてマンションの敷地を出ようとしたときだった。
ガチャリ、と音を立てて103号室のドアがひらく。
「じゃあ、行ってくるよ……今日は早く帰れると思うから」
「行ってらっしゃい。早く帰ってきてね」
そんな。
あたしは目を見開き、大きく開いた口を思わず両手で隠した。
カバンを地面に落とさなかっただけ、マシだったかもしれない。
部屋から出てきたのは、ストライプのスーツを着た、細身の男性だった。
背が高く、痩せている。きれいにヒゲを剃り、髪を短く清潔に切っている。
間違いない……一昨日の夕方、この場所で見かけた男……髭面で、作業服を着た、筋肉質な男性……とは明らかに別人だ。
(こ、この人は……)
そして、もう一人の人間ともまるで別人だ。
服が変われば、髪型が変われば、物腰が変われば、人はまるで別人に見える。
わたしが今、目の前にしているスーツ姿の30代男性は……一昨日の深夜、わたしがコンビニで見かけた、あのグレーのジャージの男とはまったく違う。
あの夜、彼は102号にだらしない身なりと足取りで入っていった。
その男が、今朝は103号室から、颯爽とした足取りと、ぱりっとしたスーツで現れたのだ。
「おはようございます!」
爽やかな笑顔で、彼があたしに挨拶をする。
だいぶ前見かけたときは、茶髪で和柄Tシャツにダメージジーンズ、というヤンキー入ったファッションだった彼が。
そしてまた、103号室の父親として帰ってきた彼が。
「あっ……えっ……あの……おは、おはっ……」
と、玄関口からタカユキくんのお母さんが顔を出す。
(え、えええっ……?)
「おはようございます……」
確かにおんなじ女性だ。顔立ちは美しく、スタイルはすらっとしている。
しかし彼女の髪は茶色に染められておらず、黒髪。
長さも上品なショートボブに変わっている。
服装はアースカラーのノースリーブと膝丈ショートパンツ。
「あ、あのっ……な……」
あたしは思わず一歩後ずさっていた。
自分の手がわなわなと震えているのがわかった。
「どうかしましたか?」
スーツの男性が、怪訝そうに首をかしげる。
視線を逸らせると……地面に何かを描いていたタカユキくんが、あたしのほうを見ていた。
「えっ……」
タカユキくんは、前髪を輪ゴムで止めていた。
髪も昨日より、ずいぶん長くなっている。
そして……グリーンのワンピースを着ていた。
顔はまったく同じだが……彼は女の子の格好をしている。
「ユキ、お姉さんにご挨拶は?」
ショートボブの髪をかきあげて、お母さんがその女の子に声を掛ける。
「ユキ?」
タカユキくん……ではなく、ユキちゃん……は、無表情にあたしを見ている。
地面に描かれているのは、相変わらず上下に3つづつ並んだ6つの箱と、たくさんの人影だ。おびただしい人影が、すべての箱に描き込まれている。
上の段の一番左の箱だけだ……人が一人しか描き込まれていないのは。
「し、し、失礼します!」
あたしは後ろを振り返らずに駈け出し……裏野ハイツの敷地を飛び出した。
できるだけ早く、敷地から遠ざかりたかった。
タカユキくん、ではなく、ユキちゃんが描いていた箱、あれは裏野ハイツだ。
そして上の段の一番左の、一人ぼっちの人影……あれは、あたしだ。
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