第5話 カレーライス
その日の夜、あたしはほとんど眠れなかった。
おばあさんに見せられた写真の中のタカユキくんが、目を閉じればはっきりと蘇ってくる。
あの写真をどうやっておばあさんに返したのか、あのときの動揺をどうやってごまかしたのか、どう言い訳してあわただしくおばあさんの部屋を後にしたのか、はっきり覚えていない。
失礼がなければいいが、とは思うが、それでもあたしは恐ろしかった。
あのボロボロの写真に写っていたのは、あきらかにタカユキ君だ。
あの写真に入っていた日付が間違いでなければ、あの写真は17年前に撮られたことになる。
でも、タカユキ君はいま、3歳の子供だ。
(見間違いだって……あたし、きっとどうかしてるんだ)
あたしはベッドの上で膝を抱えながら、自分に言い聞かせた。
(あれがタカユキくんなわけないじゃん……写真の中の男の子が、タカユキくんに似てただけ? ……それとも、タカユキくんがあの写真の男の子に似てる、ってだけで……)
もしくは。
あたしが何もかもを関連づけて考えすぎているのかもしれない。
あの写真の男の子は、タカユキくんにちっとも似ておらず、タカユキくんもまた、あの写真の男の子とはちっとも似ていないのかもしれない。
103号室の旦那さんは、もともと髭もじゃで筋肉質な男性だった。
あたしが見かけたとき、103号室の奥さんとタカユキくんは、旦那さんではない別の男性と出かけていたのかも。
(それが、昨夜コンビニで見かけたあの灰色のジャージの男性? ……おばあさんが言ってた、無職で引きこもりの男? ……あまりにも見掛けが変わり果てすぎてない?)
……自分を納得させようとすればするほど、頭の中に疑問符が増えていく。
髪なんて染めれば色が変わるし、数ヶ月もすればボサボサになる。
別になにも不自然なことではない……ありえないことではない。
(ってことは……あの、タカユキくんのちょっとギャル入ったお母さんは、隣に住んでいる無職の若い男と不倫とかしている、ってこと? それも堂々と、子供をつれて食事に出かけたりしてるってこと?)
だめだだめだだめだ。
無理やり理屈をつけようとしても、どうしてもあたしのなかの理性と常識が、もぐら叩きみたいに理屈を打ち消していく。
ひざを抱えて、なんとか眠ろうとした……がそんなには眠れなかった。
まず鼻をついたのは、カレーの香りだった。
はっとして顔を上げる。壁掛け時計の示す時刻は午前3時。
そして……隣の部屋からの声。
(わーい! カレーだ! カレーだ!)
(あんまり辛くないから安心してね……ご飯もいくらでもあるから)
(いやあ、僕もカレーには目がないんですよ……)
(とりあえず、ビールでも開けますか……)
(カレーにビール? ……ちょっとおかしくない?)
「……ひ、ひっ……」
もちろん声は、となりの部屋……空き室のはずの202号室から聞こえてくる。
「だ、誰なの?」
声に出して言った。思ったより震えて、霞んだ声だった。
「誰が……誰がそこにいるの?」
(俺、おかわりしていいっすか?)
(食べるの早っ!)
(僕も、僕も!)
(ほらほら、慌てない……まだまだたくさんあるんだから)
(ビール、もう一本いっとく? ……さん、ほら、飲んじゃおう)
「……なにしてるの?」
今後は、もう少しましな声が出た。
「なにしてるのよ? 空き部屋なんでしょ? 空き部屋でなに団欒してんの?」
最後のほうには、もうほとんど叫んでいた。
(あははは、ほんと、テンション上がっちゃうよなあ! カレーって)
(あんた、口の周りカレーだらけ。拭きなさい)
(生卵入れる?)
(あ、入れる入れる!)
(僕も!)
「夜中の3時だよ? なにみんなで楽しそうにカレー食べてんの? おかしくない? あんたら、ほんとにおかしいんじゃない?」
何度も何度も叫んだ。
しかし、彼らはあたしの声など耳に入らないように、楽しそうに語らい続ける。
強烈なカレーの匂いとともに。
あたしのほうがおかしいんだろうか?
彼らは、団欒を楽しんでいるだけだ。
たとえ今が、夜中の3時であろうとも。
それを、おかしいと非難しているあたしのほうが、おかしいのだろうか?
あたしは、心が狭いのだろうか?
明け方まで、彼らの声はやまなかった。
いつの間にか、あたしはベッドの上で膝を抱えたまま、眠り込んでいたようだ。
目が覚めると、部屋に朝日が差し込んでいて……声は止んでいた。
カレーの残り香も、消えていた。
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