第4話 孫の写真

 おばあさんの部屋は、とてもきれいに整理整頓されていた。

 部屋の間取りは、あたしの部屋とまったく同じ。

 9畳のダイニングキッチンの奥は、6畳の洋室。

 おばあさんはそこに、布団を敷いて寝ているようだ。


「ほんま、ろくなもん用意できへんけどかんにんな……」


 そう言いながら、おばあさんは丁寧に鯖の切り身を焼いてくれた。

 あと、お味噌汁の匂い。そして、煮物の匂い。ご飯が炊ける匂い。

 あたしはキッチンのテーブルに座って待っていた。

 手伝います、といったけど、おばあさんに断られ、じっと待っているしかなかった。


 それにしても不思議で、奇妙な気分だった……自分の部屋とまったく同じ風景のなかで、まったく違う生活が営まれているなんて。

 当たり前のことかもしれないけれど、その時は妙にそれが気にかかった。


 テーブルに、二人分の食事が並ぶ。

(あっ……これ、家庭料理だ)

 大根おろしが添えられた鯖の塩焼きと、葱ととうふのお味噌汁。大皿に載った里芋とれんこんとニンジンとこんにゃく、ちくわ……という具の筑前煮。そして、炊きたてのご飯。


「さあさあ、食べとくれやす……ほんま、年寄り臭いもんでごめんやで……」

「そんな……とても美味しそうです。いただきます」


 あたしは損得勘定もお世辞もなにもなく、普通にそう言った。

 一人暮ぐらしを始めてから、遠ざかっていた家庭料理だった。

 いや、実家で暮らしていたときよりも、それは家庭料理っぽかった。


「……おいしそうに食べてくらはるなあ……お姉ちゃんの歳やったら、洋食のほうがうれしいんとちゃうか?」

「そんなことないです……とてもおいしいです」


 ふつうに箸が進んだ。

 おばあさんはニコニコ笑いながら正面に座り、あたしが食べるのをうれしそうに見ている。


「お姉ちゃん、確か……半年ほど前からここに来はったんやっけな?」

「あ、はい……今年の頭くらいからです。今日までご挨拶もせず、申し訳ありませんでした……お隣なのに」

「かまへんかまへん……いまどきの子やのにほんま律儀やな……それにお隣、っちゅうても一つ飛ばしてのお隣やないの」

「そう……ですね……」


 そういえばそうだ。確か、さっきおばあさんが階段で言っていた。

 202号室は空き家だということを。

 でも、あたしは昨夜、すき焼きの匂いを嗅いだ。

 隣からは、すき焼きを囲む大人数の人々の声を聞いた。


「おばあさんは……このアパートに住まれて長いんですか?」

「そうやなあ……もう20年になるかいなあ……長い、ちゅうたら長いな。まだ、あんたが赤ちゃんくらいやった頃からになるからなあ」


 20年。確かに。あたしの人生とほぼ変わらない。

 あたしはおばあさんの夕食の誘いに応じたことの、目的を思い出した。


「さっきの男の人……あの、親切な方なんですけど、あの方はこのお部屋の下の101号室に住んでらっしゃるんですよね?」

「せやで。あの人は……たぶん2~3年前に越してきはったんとちゃうかな……若いお嬢さんと暮らし始めたのは、最近みたいやけど」


 さすが、おばあさんはよく知っている。


「そのお隣……102号に住んでらっしゃっるのは……男性ですよね?」

「ああ……あそこの人のことは、あんまりよう知らんけどなあ……なんか、仕事したはらへんみたいで、あんまり外出もしはれへんし……」


 あたしが昨夜、コンビニで見かけたのは、その男だ。

 でも彼は……前に見た時は確か……


「あの……あそこに住んでらっしゃる人って、どんな見掛けの人ですか? 昨日、ちょっと見かけたんですけど……30歳くらいの、背の高い人?」

「せやったかいなあ? ……あてからしたら、30歳も40歳もようわからんわな……みんな“若い人”で、あてよりは“背の高い人”やし……あはは」


 確かにそうなのかもしれない。

 おばあさんは笑う。あたしも笑う。

 でも、違和感は消えない。


「じゃあ、その隣……あたしの部屋の真下は、3人のご家族ですよね?」

「そうそう、若いきれいなお母さんと、お父さんと、3つくらいの男の子な。ほんまに、仲良さそうなええ家族やわ……」


 ……おばあさんのご家族は? ……と聞こうとして、やめた。

 こんな寂れたアパートで、このご高齢で一人暮らしをしているのだ。

 わざわざこっちから聞くようなことではない。


 むしろ、あたしが聞きたいのは、103号室のお父さんのことだった。


「その……あそこのお父さんって……ヒゲを生やした、がっちりした体型の人でしたっけ……」

「ああ、そういうたらそうかもな。前はヒゲ生やしたはれへんかったと思うけど……最近生やしはじめはったかもな。この前ひさびさに見かけたとき、ほんま、誰かと思ってびっくりしたわ……かなんわもう……あははは」


 いや、“誰かと思ってびっくりした”どころではない。

 わたしの認識では、あの部屋の“お父さん”はまるで違う人になっている。

 とはいえ……それをどうおばあさんに伝えていいか、わからなかった。

 やはり、あたしの認識を疑うべきなのだろうか?

 気がつけば、食事は終わっていた。


「……ごちそうさまでした。ほんとうにありがとうございます。すっかり厚かましくごちそうになっちゃって……」

「あほなこと言いなないな……ありがとうございます、って言いたいのはあてのほうやわ……お姉ちゃんのおかげで、ほんまに久しぶりに楽しい晩ごはんやったわ……また、ちょいちょいでええから誘うてええかな」


 おばあさんの笑顔には屈託がない。

 その裏に、寂しさの影のようなものが見えた。


「もちろん……でもそんなにしょっちゅうお邪魔しちゃ……」

「ええねんええねん。あんたが迷惑やなかったらな……あんた、どんなご飯が好きや? ライスカレーがええか? それともすき焼きか?」


「……すき焼き……」


「うちの孫、あてが作るすき焼きが大好きでなあ……関西風の味付けがええらしいんやわ……あの子も、今頃はお姉ちゃんくらいの歳になってんのかなあ」


 と、おばあさんが立ち上がり、戸棚から写真を一枚取り出した。

 かなり古い写真のようだ。あたしはおばあさんの手から、写真を受け取る。


 どこかの公園で撮られた写真で、緑を背景に3歳くらいの男の子が写っていた。

 おかっぱ頭で、緑色のTシャツにベージュのハーフパンツ姿の男の子。

 写真を見ると、日付が入っていた……1999:08:06


「あ、かわいい……えっ?」

「なんや、どないかしたんか?」

「あ……ええと、いえ、知ってる男の子に、とてもよく似ていたもんで……」

「へえ、あんたの弟さんとか?」

「ええ、い、いやあの……」


 おばあさんが屈託のない笑顔で、あたしの顔を見つめている。

 とても言い出せなかった。

 この写真に写っている男の子は……103号室のタカユキ君とそっくりだなんて。

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