第3話 愛想のいい、気のいい人たち

「それくらい、フツウだって! ……わたしなんか、未だに隣の人の顔知らないもん。マンションに住んで、もう3年だよ?」


 学生食堂で、友達の裕子が笑いながら言った。

 彼女は地方から大学近辺のマンションに下宿しているので、ひとり暮らしの先輩でもある。


「でも……なんかおかしくない?  あたし、ボケちゃったのかなあ……」


 できるだけ、なんでもない話をしているのを装うのが大変だった。


「てか、今どき自分のアパートにどんな人が住んでるか、ちゃんと把握してるほうがオカシイって。そりゃ、よっぽどいい男がいるとか、ヤバそうな奴がいるとかだったら別だけど……でも、あんたのアパートでは“ご近所付き合い”ってのがあるんだね。そういうのって、ちょっと羨ましいカンジするなあ……」

「え、べつに“ご近所付き合い”ってほどじゃないけど……」


 実際、あたしが同じアパートに住んでいる人に関して関心を持ち出したのは、昨日からだ。それまでは、そんなことはまったく気にせず暮らしてきた。


「逆に考えるとさ、あんたの住んでるあたり、治安がいいみたいだけど、やっぱ女子のひとり暮らしじゃん?  ご近所付き合いがあるほうが、なにかと安心だよ。困ったことがあったら、相談できる人が近くにいる、って結構安心だよ?  わたし、田舎出身だからさ、こっちに越して来てから、つくづくそれ、実感するけど……まあ、ご近所付き合いがノーミツすぎるのも、結構ウザいけど」


裕子が屈託なく笑う。


「ウザいよね」

 あたしは無理やり笑顔を作った。

「ウザいか安心か、そのトレードオフだよ……って、トレードオフって、使い方これで合ってたっけ?」

「合ってる。たぶん」

 とりあえず、その場は笑ってすませることにした。





 その日は大学からバイト先に直行したので、裏野ハイツに帰ったのは確か、9時ごろだったと思う。

 敷地に入ると、鉄製の階段のところに小さな、丸い人影が見えた。

「ああ、もう……ホンマに……もう、かなわんわ……」

 70歳くらいのお婆さんだった。

 階段を逆さに登り、車輪とハンドルがついた歩行補助器をなんとか引っ張り上げようと苦労している。

 考える前に、あたしはお婆さんに駆け寄っていた。


「大丈夫ですか? お手伝いします」

「え? あ、そんなん、悪いわ……いやいや、大丈夫ですさかいに……」

「あたしも二階なんです。これ、あたしが引き上げますから、どうぞお先に」

「ほんまに、ほんまにすんまへんなあ……若い人にこんなことさせて……ほんまにおおきになお姉ちゃん……ここに住んだはる人はほんまええ人ばっかりや」


 お婆さんは、ゆっくり、ゆっくりと階段を登っていく。


 あたしは後ろ向きに歩行補助器をかたん、かたんと引き上げていった。それはとても軽かったけど……この小さくて腰が曲がったおばあさんにしてみれば、毎日これを上まで引き上げるのは大変だったことだろう。


「いつも大変でしょう」

 おばあさんがあたしの背中に言う

「ほんまにおおきになあ……ところでお姉ちゃん、203の学生さんやろ?」

「おばあさんは……202号室の?」


 そこで、ふと昨夜の声とすき焼きの香りを思い出した。


「いや、ちゃいま。あては201だす……202は、ずっと空いとるしな」

「え、で、でも昨夜……」



 ちょうど階段の中ほどまできて、おばあさんに振り向こうとした時だった。


「あのー……大丈夫ですか?」


 いつのまにか、階段の下にスーツを着た50歳くらいの男性が立っていた。

ええと……この人は?


「ああ、どうもこんばんはだす。いやほんま、このお姉ちゃんが親切に手伝うてくれはってなあ……有難いことで……」

「そうですか。たいへんでしょう……僕もお手伝いします」


 そういって男性が階段を登り、歩行補助器の車輪を持ち上げた。


「あ、ありがとうございます……」


 あたしは男性の顔を見た。

 白髪で眼鏡を掛け、とても上品な感じがする人だ。

 あたしの顔を見上げて、にっこりと微笑む。


「さ、そのまま、上まで運びましょう……気をつけて」


 おばあさん、あたし、歩行補助器、その男性の順で、なんとか2階の廊下にたどり着いた。


「ほんまにえらいすみまへんなあ……お姉ちゃんも、お兄ちゃんも……」

 おばあさんはそう言うと、ほんとうにわたしと男性に手を合わせる。

「ははは、"お姉ちゃん、お兄ちゃん”て、僕みたいなジジイを、この可愛いお嬢さんと一緒にしたら可哀想ですよ」


 男性が愛想よく笑う。

 わたしは釣られて笑いながら、ちらりと男性のスーツの襟についている社章を見た。誰もが知っている家電メーカーの社章だった。

 こういうと失礼だけど……とてもこんな寂れたアパートに住んでいる人には見えない……というか、ほんとうにこの人は裏野アパートの住人なんだろうか?

 はじめて会ったような気がする。


「じゃあ、これで……困ったことがあったらいつでも言ってください」


 そう言い残して、男性は若々しい足取りで階段を駆け下りていった。


「はああ……ほんまにありがたいことです。おおきに」

「あの人は?……」


 あたしがおばあさんにさっきの男性のことをしようとしたとき、1階のほうから声がした。


「ただいまー……いやごめんごめん、遅くなっちゃって……」


 バタン。

 ドアが閉まる音。


「あの人な、あての真下に住んだはる人や」

「ということは……101号に?」

 おばあさんが、声を潜めて言う。

「せや。たしか、えらい若い奥さんと一緒に暮らしたはるみたいやで……お姉ちゃんと変わらんくらいの、若い女の子と」

「へえ……」


 あたしと同じくらいの歳? ……ちょっとだけ引いた。


「まあ親切で上品なお人やからなあ……お姉ちゃんも、そういう男を見つけるんやで……あ、ごめんごめん、余計なお世話やな……」

「い、いえそんな……」


 おばあさんは皺だらけの顔に、満面の笑顔を浮かべている。

 そういえば、このおばあさんに会ったことはあったっけ?

 いや、話をするのは今夜が初めてだ。


「そや……お姉ちゃん、ご飯は食べはった? よかったら、うっとこで一緒に食べへん? ……あんまり美味しいいもんは出されへんけど……」


 おばあさんが愛想よく言った。

 ふつうなら、もちろんそんな申し出を遠慮なしに受け入れたりしない。

 でも……おばあさんはこのアパートに詳しそうだ。

 あたしは、おばあさんの申し出を受け入れていた。

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