第2話 すき焼き
その夜。
バイトのない日だったので、結構夜更かししてからベッドに入った。
さすがにここのところ、クーラーを点けずには眠れない。
それに、女の一人暮らしで窓を開けて寝るのは不用心だし。
おかげさまで、ぐっすりと眠ることができた。
あの声を聞くまでは。
(…………ほら、もっと飲んで!)
(おっとっと……こぼれる、こぼれるよ)
(もう肉、食べられるよ。ほら、もっと食べなよ)
(ママ! ママ!)
(まだまだ肉も野菜もいっぱいあるから、ほら、もっとビール飲んで!)
……最初は、夢だと思った。
実際、あたしはその声のせいで、家族ですき焼きパーティをやっている夢を見た。
夢のなかで、わたしも、父も、母も、妹も……笑いながらすき焼きを囲んでいた……でもあたしは、たとえ夢であってもその光景に違和感を抱いていた。
(それでは……の……を祝して……カンパーイ!)
(カンパーイ!)
そこで、飛び起きた。
部屋はしんとしていた。クーラーが静かな音を立てるだけで。
まるであたしが飛び起きたのを合図に、一斉に宴がお開きになったように。
(夢……?)
時計を見ると3時前だった。
あたしは1LDKの部屋の奥にある洋室の北側の壁にベッドをくっつけ、東向きのベランダを枕にして眠っている。
そうすると、差し込んだ朝日が気持よく起こしてくれるので。
声のした方向を見る……やはり、隣の部屋からだ。
(……いや、夢じゃない。だって……)
なぜなら、かすかなすき焼きの香りがこちらに届いている。
ほんの少し、タバコの匂いもする。
(ってことは……隣? でも……夜中の3時だし)
ベッドから半身を起こして、南側にある押入れと物入れの殺風景な風景を見つめた。
もう、声は聞こえてこない……ただ、残り香だけが残っている。
物音がしたとするなら、隣の202号室からだ。
なぜならあたしの部屋は、2階に3つある部屋の中で一番北側の203号室。
大学から帰ってきたときに会ったあの3人家族の、ちょうど真上になる。
(でも……隣の部屋って確か……)
ずっと空き室だったはずだ。
少なくとも、あたしがこのマンションに越してきてからは。
(それに、夜中の3時にすき焼き? それに子供の声もしたけど……)
子供といえば……このマンションで見かけたことがある子供は、この部屋の真下にに住んでいるあの子……タカユキくん、だっけ? ……だけだ。
ふつうなら、夢だと思ってそのまま寝直しただろう。
でも、すき焼きの匂いがあたしを寝かせなかった。
辺りは静まり返っている。壁に掛けた時計がカチコチいう音。
どこかかなり遠くから、救急車だかパトカーだかのサイレンの音。
近くの公園で、カラスが鳴く声。
静かだ。普段、深夜に聞こえてくる自然な音以外、なにも聞こえない。
(…………やっぱり、夢?)
でもすき焼きの残り香は残っている。
あたしは近くにあったフード付きパーカーを羽織り、お財布だけを握って部屋を出た。とにかく、あの濃厚な、甘ったるい肉の匂いから逃れたかった。
部屋を出て、隣……202号室の表札を見る。
表札は掛かっていない。
というあたしも、自分の部屋には表札を掛けていない。
外付けの階段を降りて、ハイツの前のガレージに出た。
タカユキくんが描いた6つの箱と、たくさんの人影の絵が残っている。
あたしはなぜか、それを水たまりみたいに避けて敷地から外に出た。
ハイツの裏手にある一番近いコンビニまで歩く。
こんな時間に女の子の一人歩きは危険かと思われるだろうけれど、幸い、このあたりの治安はものすごくいい……と聞いている。
コンビニに着いたとき、雑誌コーナーに一人男性がいた。
(……あれ?)
30代くらいの、痩せて背の高い男性だった。
髪はボサボサで、ヒゲは伸び放題。
いかにもだらしない、ネズミ色の上下ジャージにサンダル姿。
あまり、近寄りたくないタイプだったけど、あたしはなぜか……その人をどこかで見かけたような気がした。
ダイエットペプシを買う。
コンビニの店員さんは、はじめて見る眠そうな太った男の子で、たぶんわたしと同じくらいの年頃だろう。
はじめて見るのも無理はない。
なぜなら、あたしがこんな時間にこのコンビニに来るのははじめてだから。
会計をすませたとき、ちょうど雑誌コーナーにいた男性が店を出て行った。
立ち読みだけで、結局なにも買わなかったようだ。
別に追いかけるつもりじゃなかったが、あたしが店を出ると、前方にくたびれた足取りで歩くネズミ色のジャージ姿が見えた。
あたしは裏野ハイツに向かって、ゆっくり歩き出した。
男性があまりにもダラダラとした足取りだったので、追い越さないように気をつけながら。
(……でも、あの人……ほんとにどこかで……それに……えっ?)
ジャージの背中を尾行しているような感じになっている。
なぜなら彼は裏野ハイツの裏手を回り込んで、確実にハイツの方向をめざしていたからだ。
(ってことは……同じアパートの住人?)
それなら、前に見かけたことがあっても不思議ではない。
でも……なぜか、違和感を拭い去ることができない。
予想どおり、男性は裏野ハイツの敷地内に入っていった。
あたしはまるでほんとうに彼を尾行している刑事みたいに、近くの電柱の影に隠れて、彼が鍵を取り出し……一階の真ん中の部屋、102号室に入っていくのを見守った。
102号室の明かりが灯る。
あたしはそれでも、電柱の陰から動けないでいた。
なぜなら……コンビニで見かけた彼の顔をどこで見かけたか、急に思い出したからだ。
前に彼を見たとき、彼は髪の毛を茶髪に染めていた。
あんなに髪の毛を、ボサボサにはしていなかった。
少しヤンキーがはいっているけど、身綺麗にして、明るく笑ってた。
あたしが彼を前に見かけたのは、確か1ヶ月ほど前に大学から帰宅したとき。
彼は若くて綺麗でギャルが奥さんと、小さな男の子……タカユキくんと一緒に外食に出かけようとしているところだった。
そう、彼は……彼ら家族は、103号室で暮らしているはずだ。
あたしの記憶が確かならば。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます