午前三時、202号室の団欒
西田三郎
第1話 裏野ハイツ
今日、駅からアパートに戻るまでに陽炎を見た。
ブラウスが汗で素肌に張り付き、こめかみから汗のしずくが顎へ伝う。
その日は大学で学内合同企業説明会があった日で、あたしはリクルートスーツを着ていた。虫眼鏡で炙り殺される蟻みたいな気分だった。
駅から徒歩七分。悪くない距離だ。文句を言うなんておかしい。
「でもマジで……マジで死にそう。ああもう」
あたしは事情があって大学三年のときに実家を出た。
どんな事情かって……?
まあ、家族と折り合いが悪かった、とでも言っておこうか。
ムリしてでも一人暮らしをはじめる女の子には、事情がある。
だいたいがあたしと同じように、家族とそりが合わないというのが理由だと思うけど。
あたしの住んでいるアパートは、裏野ハイツという。
そのアパートにまず惹かれたのは、敷金なしで3万5千円、という家賃。
「ものすごく安くなってます……くれぐれも他の住人の皆さんには家賃のこと、内緒にしておいてくださいね」
と不動産屋さんは小声で言った。
実際、家賃は5万弱というところらしい。
築三十年で木造二階建てで、はっきり言って見掛けは良くない。
刑事ドラマで、刑事が聞き込みにきて、隣の部屋から水商売風の女がぬっと顔を出し、「ちょっとお、うるさいなあ。こっちは夜商売なんだから」と迷惑そうに言いそうな感じの、寂れた昭和の感じ。
……いやいや、贅沢言ってはいられない。
あまりにも安すぎる家賃って不安じゃない? ……と友達には言われる。
自殺者があったとか? 殺人事件があったとか? 幽霊が出るとか?
まあ、気にしない。
両親や妹と暮らすより、幽霊と暮らしたほうがずっとマシだ。
大学まで電車で四駅というアクセスの良さも魅力だった。
でもその日はあまりにも暑すぎて、太陽の光も残酷すぎて、商店街を抜けて裏野ハイツの昭和な姿が陽炎の中に見えてきたとき、あたしの頭はインフルエンザにでも罹ったようにぼうっとしていた。
(あれ……)
アパートの前にはガレージを兼ねたアスファルトの広場があって、その中央に三歳くらいの男の子が座り込み、チョークで地面に何か書いていた。
「こんにちは」
あたしは男の子に声を掛けた。男の子が顔を上げる。
無表情。
男の子は緑色のTシャツにベージュのハーフパンツ姿。
この裏野ハイツで暮らし始めて半年。何度か見かけたことがある子だった。
確か、30代のお父さんとお母さんと3人暮らし。
確か、102号室か103号室に住んでいるはずだ。
「今日もあっついねえ~ 何描いてるの?」
「…………」
男の子はくすりとも笑わない。人見知りが激しいのだろう。
そういえばあたしは、この子と言葉を交わしたことがない。
あたしは男の子に近づいて、彼が地面に描いていたものを見た。
(……?)
何なんだろう。
男の子は上下に3つずつ連なった合計6つの箱を描いている。
そのなかに……たくさんの人影が描かれていた。
「絵、上手いね……これなに?」
あたしを無表情に見上げたまま、男の子がこくりと頷く。
「タカユキ!」
急に、背後から声を掛けられて、あたしは飛び上がった。
振り返ると、前にも見かけたことがあるこの子のお母さんが、子供用の麦わら帽子を手に立っていた。
三〇歳くらいの、すらりとした美人。
タンクトップにカットオフのショーパンと、白いサンダル。
長い髪をきれいに茶色に染めて、少しギャルが入っている。
あたしと目が合うと、きれいな顔に人懐こそうな笑みを浮かべた。
「こんにちは! 暑いですね!」
「え、ああ……はい……」
「……ほら、タカユキ。外で遊ぶときは帽子かぶらなきゃダメって言ったじゃん……なに? お姉ちゃんに遊んでもらってたのぉ?」
男の子……タカユキくんが、お母さんを見上げてこくり、と頷く。
「かわいいお子さんですね……それに、絵がとてもお上手で」
「そうですかぁ? ……でもほんと、絵を描き出したら止まんないんで、困ってるんですよぉ……ほっといたら、何時間でも描いてるんだからぁ……」
「い、いえでもとても……個性的な絵で……」
あたしは慎重に言葉を選んで言った。
「2階の学生さん? あれ、今日はスーツ? もう就活なんですかぁ?」
「いえまだ……学校でセミナーがあったから……」
「こんな暑い日にタイヘンですねぇ……あ、ダンナだ。お帰り!」
と、その女性があたしの背後に向かって声を掛けた。
「おうっ! ただいま」
声のほうを振り返る。
(あれ……?)
お母さんに負けないくらい人懐こそうな笑顔で歩いてきたのは、作業着を着た四〇過ぎのおじさんだった。
筋肉質な体型で、あごひげを生やしている。
「タカユキ、今日はいい子にしてたか? ……あ、どうも。二階の学生さんですよね。あれ、今日はスーツですか?」
「学校でセミナー? だっけ? があったんだって。ホラ、就活の」
と、お母さんがあたしの代わりに答える。
お父さんは、タカユキくんをひょいと抱き上げると、高い高いをした。
「そっかあ、最近は学生さんの就職もタイヘンらしいですねえ……あ、いや、ちょっとは景気もマシになったんだっけ?」
ニコニコと優しい笑顔で笑いかけるお父さん。
「い、いえまだ本格的に就活が始まったわけじゃ……」
「頑張ってくださいね! なあに、気にすることはありませんよ。俺みたいな奴でも働き口があって、女房子供を養っていけてんだから! あ、いてっ!」
タカユキくんを抱いたお父さんの脇腹を、お母さんがつねった。
「カワイイ子の前だとすぐデレデレすんだから。イイ人ぶってんじゃねえよ!」
「あはは! バレてた?」
「バレバレだっての……ねえ?」
お母さんがあたしの顔を覗き込む。
笑うお父さんとお母さん。タカユキくんは笑わない。
あたしは、曖昧に笑みを浮かべた。
「じゃあ、ウチらはこれで。就活、頑張ってね!」
そう言って仲良し夫婦は、あたしに会釈をした。
お父さんに抱えられたまま、タカユキくんはじっとあたしを見ている。
家族は、一階の一番右の部屋……103号室に入っていった。
あたしはひとり、人影がいっぱいの箱が描かれたガレージに残される。
すごく違和感があった……なぜだろう? ひとり考える。
そうだ。
確か……前にもあの親子3人を見かけたことがあった。
そのとき、お父さんは確か、お母さんと同年代の、スリムで背の高い、ちょっとヤンキーの入った茶髪の人だったような気がするけど……
確か、あご髭もなかった。
暑さのせいで、ぼんやりしているのだろうか?
あたしは、親子が入っていった103号室の表札を見た。
名前はない。まあ、あたしも表札なんて出してないけど。
と、そのとき、一斉に蝉が鳴き出した。
いや、ずっと鳴いていたのかもしれない。
それに、あたしが気づかなかっただけなのかもしれない。
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