第7話 その朝、あたしは早く目覚めた

 その夜、あたしは裏野ハイツには帰らなかった。


 大学で裕子を見つけて、飲みに誘う。

 ちょうど週末だった、ということもあったが……特に、理由は言わなかった。

 あたしはあんまりお酒に強くない。裕子はけっこう飲む。


 居酒屋で、飲んで、飲んで、飲んだ。

 どうでもいいバカ話をして、大声で笑った。

 自分でもかなりヘンなテンションだったと思う。


 裕子は最初、戸惑っていたみたいだけど、彼女も酔いが回っていくうちに、あたしに合わせて浮かれ、騒ぎ始めた。


 とにかく、裏野ハイツに帰りたくなかった。

 あたしはベロベロに酔っ払い、裕子のマンションに泊めてもらうことにした。

 ……というか、裕子を飲みに誘ったのはそれが目的だったのだけど。


 裕子の部屋で入れ違いにシャワーを浴び、裕子は自分のベッドで、あたしは床にクッションを敷いて寝た。眠りに落ちる少し前、裕子に声を掛けてみる。


「やっぱり、友達って大事だよね」

「え、なにそんなワザトラシイこと言ってんの?」

「ううん……なんでもない。裕子…ずっとあたしの友達でいてね」

「今日はヘンだよ、あんた」


 あたしは寝返りを打って、ベッドの上で目を閉じている裕子を見た。


「ヘンだったかな?」

「なんかあったの?」


 確かに、ここ数日、いろんなことがありすぎた。

 いや、いろんなことがあった、というのは、すべてあたしの主観のなかでの出来事だ。

 それを、いったいどうやって裕子に説明すればいいのだろう?

どうやって、理解してもらえればいいのだろう?


「……なんでもない」

「そっか……じゃ、わたし寝ちゃうからね」

「うん、おやすみ」


 裏野ハイツの部屋よりも、ずっと狭いワンルームだけれど、ここなら深夜に、隣の部屋から食べ物の匂いがただよってくることはない。

 人が騒ぐ声が、聞こえてくることもない。


 少なくとも、今晩のあたしは安全だ。


 あたしは、目を閉じた。

 ゆうべ、ほとんど眠れなかったうえに、散々お酒を飲んだせいだろう。

 電池が切れたみたいに、あたしは眠りに落ちた。








 朝日があたしの顔を照らしている。

 近くの公園から、蝉がわめき立ている。


 近くの公園……?


 ここは裕子の部屋だけど、この蝉の声は裏野ハイツで毎朝聞かされている、あの公園からの喧騒とそっくりだ。


 トーストを焼く匂い。

 コーヒーの香り。

 フライパンで、ベーコンかハムの脂がはぜる音。


(え……裕子、あたしに朝ごはん作ってくれてるの?)


 あたしは目を開いた。

 東向きの窓からの朝日。見慣れた天井……いや、少し違う。

 木目の雰囲気もシミも、見慣れた天井とは少し違う。


(う、嘘でしょ?)


 ここは裏野ハイツだ。

 慌ててベッドの上で半身を起こす。


 ダイニングキッチンに、パジャマ姿の後ろ姿が見えた。

 男だ。白髪混じりの、中肉中背の後ろ姿。

 鼻歌を歌いながら、その男がキッチンで朝食を作っている。

 裏野ハイツの、あたしの部屋ではない別の部屋で。


「あっ……あのっ……えっ?」


 そのときあたしは、自分がなにひとつ身につけていないことに気づいた。

 男が、あたしに振り返る。


「あっ……起きたんだね? もうすぐ朝ごはんができるよ、お姫さま」


 あの男だ。

 一昨日の夜、201号室のお婆さんが階段を登るのを手伝っていたとき、親切に手を貸してくれた、あの101号室の男。

 スーツ姿ではなかったけれど、あのときと同じ愛想のいい優しそうな笑顔で、あたしを見ている。


 あたしは自分の胸が丸出しになっていることに気づいて、慌ててシーツを搔きよせて隠した。

 そして、ベッドの上で後ずさる。


「こっ……ここ、どこ? 」

 男性はフライパンを手に、きょとんとして言った。

「どこって……部屋じゃないか」

「な、なんであたしが、ここにいるの?」


 男性はにっこり笑うと、やれやれ、という感じで肩をすくめ、フライパンをレンジに戻してレンジの火を止めた。

 そして……愛想のいい笑みを浮かべたまま、あたしのほうに歩いてくる。


「どうしたの? 寝ぼけてるの?」

「こっ……来ないでっ!」


 あたしはお尻のうしろにあった枕を引っ掴むと、男性に投げつけた。

 枕が男性の顔に当たる。でも、男性は愛想のいい笑みを崩さない。


「お姫さまは、ずいぶん寝ぼけてるみたいだなあ……ここは僕たちの部屋。裏野ハウス101号室。君は、僕と半年前からこの部屋で暮らしている……それは、なぜだと思う?」

「し、知らないわよっ!  な、なんであたし、ハダカなの?  あんた、あたしに何をしたの?  ……あたしの服はどこ?」


また、男性が肩をすくめる。“やれやれ”の仕草だ。


「ゆうべのこと、ぜんぜん覚えてないの?  結婚して半年……きのうの君はなんというかいつになく……はげしかったよ」


 一昨日の夜、おばあさんから聞いたことばがよみがえる。


『……たしか、えらい若い奥さんと一緒に暮らしたはるみたいやで……お姉ちゃんと変わらんくらいの、若い女の子と……』


あたしは叫んでいた。


裏野ハイツ中どころか、この町全域に響き渡るような金切声で。

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