憂う心は終末へと

「桐谷様、大丈夫でございますか」


 車は真夜中の首都高をひた走る。相馬の話を聞いてから、美月はしばし呆然としていた。衝撃の事実だった。まさか佐伯を殺した犯人が上総だったなんて……。


「葛西さん、私もうなにがなんだかわかんないよ。なにが本当でなにが間違ってるのかも、私はいったいなにを信じたらいいの……」


 怒りも哀しみも後悔も憎しみも、今の自分にはいったいどれが当てはまるのかなんてまったくわからない。周りの人間すべてが敵に思えてくる。


 ***


「将官に確認を取りました。あの日、会議の後確かに都築さんは佐伯に伝えたようなんです。……すぐに立ち去れと」


 上総が話していた通りだった。拘束はしない。ただ、その代わりにこちらの指示に従ってもらう。そして、時期を見て逃がすつもりだった。しかし、上層部に素性が知られ上総に命令が下った。


「恩田司令官の命令です。以前、都築さんから直接お聞きしました」


「嘘……。でも、上総だっていくらなんでもそんなこと」


「詳しくは聞けませんでしたが、都築さんにとっては非常に辛いものだったと」


 上総が従うしかなかった理由。それを出されてしまっては、さすがに実行するしかなかったのかもしれない。


「都築さんは、とうに逃げたはずの佐伯が訓練を休むと連絡をしたことを不審に思い、念のため佐伯の部屋へ向かったんだと思います」


 ***


「……佐伯、出て行けと言っただろう。なにをしている」


 そっと扉を開けると、宙を見上げて立ち尽くしている佐伯の姿があった。全身の力は抜け、表情は虚ろだった。


「あ、都築一佐ですか……。本当に、申し訳ありません。ご忠告いただきありがとうございました。ですが……」


「佐伯……?お前、まさか」


 その姿を目にした上総は、すぐに気付いてしまった。佐伯はもう、元の状態には戻ることはできないと。すると、部屋の隅から恩田が姿を現した。上総は自分の目を疑った。


「都築。いけないじゃないか、命令はちゃんと聞かないと」


 恩田は、拳銃を手に佐伯のもとへと近付いて行く。


「彼は今、ほとんど眼が視えていないよ。強力な散瞳剤をさしてあるんだ。政府の犬だからね、用心するに越したことはない」


「……それだけでは、ありませんよね」


 上総は深い溜め息をついた。医師であり、製薬会社の研究員である自分が気が付かないわけがない。佐伯は散瞳剤に加えて、通常の何倍もの量の筋弛緩剤も打たれている。


「司令官、彼を始末したところでこの問題は解決いたしません。このまま、組織の諜報員として使う方が有益です」


「君はいつからそんな風になってしまったんだね。本来の君に戻りたまえ。……いいのか?これを使ってしまっても」


「……!司令官、それは……」


 普段から冷静な上総の表情が大きく歪んだ。佐伯には見えていないが、明らかに動揺しているのは伝わってくる。


「こいつは組織の人間ではない。だったら、死刑囚と同等だろう。この薬を使用する最年少のデータが取れるぞ」


「薬……?死刑囚……?」


 この人は、やると言ったらやる男だ。司令官である以上、自分一人では止める術はない。それに、自分が裏である実験を行なっていることも、本来なら政府には知られたくない。


「今すぐ殺せ」


「……」


 恩田は、なかなか一歩を踏み出さない上総を横目に、なんの迷いもせず佐伯の首に注射器を刺した。上総は口を噤み、目を大きく見開いた。


「!!うわあああぁぁぁ!!」


 針を刺した直後、佐伯は断末魔の叫びをあげた。みるみるうちに顔は真っ赤に変化し、頭を抱え歯が折れそうなほどに食いしばっている。


「……せっかく、一切の苦しみもなくあの世へいけるところだったのにね」


「ああぁぁ!い、いたい!!ああああ!!うう、苦しい……」


「しばらく様子を見ようかね。手出しはするなよ。お前の可愛い部下たちが同じ目に遭う」


 涙を流し暴れ苦しんでいる佐伯を前に、恩田は薄ら笑いを浮かべていた。


 ここで恩田を殺すか……。いや、監視されている可能性が高い。下手に動けば、部下たちが殺されるかもしれない。しかし、このまま佐伯を放っておくのは最も辛い……。


 筋弛緩剤によってすでに筋力が衰えていたため、佐伯は床に倒れ込み小刻みに震えながら苦しみに耐えていた。

 この光景は見慣れている。これまで同時に何人もの実験を行い、その末路を目にしてきた。


「やはり、常日頃から訓練を重ねているだけあって、死刑囚に比べて体力はあるようだね。まだなんとか意識を保てている。都築、君もきちんと分析したまえ。またとない機会じゃないか」


「ううう……。ぐあぁぁ」


 佐伯は掌いっぱいに髪の毛を毟り取っていた。のたうち回ってはまた毟り、何度も何度も毟り取っている。


「これこそが、この薬の本来の使い方だ。裏切り者は罰せよ。これほどこの言葉にあった薬はないじゃないか」


「……」


 拳銃など使わなくとも、この手で恩田を殺すなど容易い。それなのに、動くことさえできない自分に腹が立つ。


「司令官、もういい加減……」


 上総の多大なる怒りに、佐伯が話を遮った。


「……私の脳は、も、もう元には戻らないのでしょうね。このまま、はあ……、なにもできずに生き続けるのは、私としては、とても辛いです……!どうかお願いします」


 佐伯の涙ながらの訴えに、上総は躊躇しつつも佐伯の拳銃を手にした。それを確認して佐伯は静かに頷いた。引鉄に掛ける指は小刻みに震え、思うように力が入らない。


「……も、もう、三十分は経ちましたか……?い、今にも脳がおかしくなりそうで、身体の中から破裂してしまいそうで。……あ、頭の中や身体の中に、なにかがいるんです。なにかが這いずりまわって……。はあ、……これは、本当に酷い薬ですね。針を刺された直後、あまりの苦痛にすぐにでも死にたくなりました」


「佐伯……」


「ぐはっ……!!」


 上総は息を止め、佐伯のこめかみに銃口を押し付けた。佐伯の額には脂汗がにじんでおり、顔色はほぼ真っ白。唇が青く変化している。


「く、苦しみは、これが最高潮ですか……?」


 今にも精神状態が狂ってしまいそうななか、一縷の望みをかけて上総に問いかける。


「……」


 いや、違う。そんなものじゃない、これからなんだよ。今までの苦しみはまだまだ序盤で、波を繰り返して、それからが酷いんだ。……なんて、そんなこと言えるわけがない。


「……都築一佐は、本当に嘘がつけませんね。絶対に、負けないでくださいね。はあ、……あなたを捕まえることができなくて、残念です。……うっ。もう、もう耐えられな……」


 正直、まだ三十分。本来の人体実験は三日はかかる。実験体は、どれだけ叫ぼうが暴れようがこの薬で死ぬことは不可能。精神が崩壊しようとこの実験は終わらない。


「はやく……、こ、ころして、ください……!!」


 頭を抱え金切り声をあげるかつての部下。もうじき血を吐き、そして穴という穴から液体が垂れはじめるだろう。それでもまだ三十分なんだ。


「……たすけて」


 一瞬だが、視えていないはずの佐伯の眼がこちらを向いた。その言葉に、申し訳ないと言いかけるも咄嗟に飲み込み、上総はついに引鉄を引いた。人を殺すことには慣れている。頭部を撃つなど、これまで何度してきたことか。


「ふん、やってしまったな。これでお前はもう引き返せない」


 恩田は、ほくそ笑みながら上総の横を通り過ぎて行く。一瞬だけ歩みを止めて、ポケットから目薬と注射器を放り投げた。


「……ふざけるな」


 上総は佐伯の方を向くことができなかった。もしかしたら、憎悪の目で自分を睨みつけているかもしれない。

 彼の視界を消した散瞳剤も、彼の自由を奪った筋弛緩剤も、そして彼の最期を最悪なものにしてしまったこの毒薬も、作ったのはこの自分だ。それらがどれほどの威力を発するかなんて、嫌というほどによくわかっている。


「言葉を発するなんて、とてもできないはずだ……」


 気力が抜けて、上総はその場に崩れ落ちた。後悔と憎しみが込められたその手で、自らが生み出した存在してはならない兵器を握り潰す。

 いつかは、こんな形で使われてしまうかもしれないということは承知していた。その覚悟を持って、これまで生産を進めてきた。表向きは金のため。だが、上総の奥底では違った。やがて来るその日のために、改良に改良を重ねて……。


「……まさか、部下を実験体にしてしまうとはね」


 予想外の実験結果はいささか良好。欲を言えば、もう少し体内の破壊に特化したものに改良してもいいかもしれない。そしてさらに酷く、絶望を憶えるほどの苦しみが必要だ。


「これは、いずれ自分に」


 上総の中でなにかが弾けた。少しずつ、抑制していた枷を外す。まだ完全に心を闇に堕とす決心はついていない。だけど、もう平気だ。


「……そして、司令官。最後はあなたに」


 上総は震える手で頭を抱え、ふらつきながら部屋を出た。


 ***


「信じられない。だって、死亡推定時刻はどうなの」


「佐伯の死亡時刻は十七時過ぎです」


「ならありえないじゃない。あの日は十六時半から十八時まで射撃の授業をしていたのよ。相馬、あなたもいたじゃない!」


「あの時間、桐谷三佐は都築さんのことをずっと見ておられましたか?」


 美月は、射撃訓練の日のことを思い出した。


「都築さんは、桐谷三佐に指導をお願いしておられました。そして、その間にそっと佐伯の様子を見に行かれたんです」


 じゃあ、あのとき上総が言っていたことって。あのときの上総は、憎しみと後悔で今にも潰れてしまいそうだったんだ。


「桐谷三佐の部下を殺してしまったこと。そして、それを言い出せなかったこと。それが都築さんの中でどんどん膨れていき、都築さんは罪悪感に苛まれていったのだと思います」


「それなら、どうして陽は自分が殺しただなんて言ったの。陽は、上総が殺したって知っていたの?」


「柏樹二佐から、これを渡されました」


 相馬が取り出したのは、壊れた注射器。


「私は、都築さんの研究所での仕事を詳しく知っていたわけではありません。おそらく内密に作っていた薬もあるでしょう。中に残っていた液体を調べたのですが……。なんといいますか、非常に強い毒物でした。そして、針に残っていた細胞は佐伯のもので、打ったとされる指紋は司令官のものでした」


「それって。佐伯は殺される前にその注射器で毒薬を打たれて、それで上総が……」


 相馬は思い出していた。あの屋上での出来事、尊敬する上官の最期の姿。


「一度だけ、この毒薬の効果を目の当たりにしたことがあるんです。とてもお強い人があれだけ苦しんでいた。立っているのがやっとだった」


 自分が作った薬で、目の前で部下が苦しんでいる。もう元に戻す事は不可能。それならば、もう解放するしかない。そして、上総は最期にすべての苦しみを背負うと決めた。


「陽は、それを見て上総の想いを汲み取ったのね。上総の行動を理解して黙っていた。そして、自分がすべての罪を被った」


「……屋上で、都築さんに頼まれました。桐谷三佐と大郷に謝っておいて欲しいと。これで、最後の命令は遂行しました」


「あのときの”ごめんね”は……」


 美月は唇を噛み、涙が溢れ出そうになるのを必死で堪えていた。


 ***


「……悔しいですね」


 葛西の一言に、美月は我に返る。


「誰も、都築様に恩を返すことができなかったのですね。都築様亡き今、私たちはなにをしたらいいのか……」


 葛西もまた後悔をしていた。私たちが今できること。それはただひとつ、上総の意思を継ぐことだけ。彼が命懸けで護ろうとしたこの組織だけは、なんとしても残していかなければならない。

 ただ、陽が犯人じゃないなら話ってなんだろう。機密機関……、諜報員……。


「そろそろ到着いたします。ご準備を」


 陽との約束の場所へはもうすぐ。


「そうか、陽も佐伯も裏切っていたわけではなかったんだ。皆、誰かを想って……」


 まだまだ空は漆黒の闇。雲の切れ間から、大きな満月が見下ろしている。

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