黎明
怪しい影はもうひとつ
「葛西さんはもう戻って。私もこの後どうなるかわからないし、帰れるかもわからない。これ以上、巻き込むわけにはいかない」
車から降りると、肌寒い夜風が頬を撫でた。まだ波の音は聞こえない。時折、少し強く吹いた風が闇の中で葉を鳴らしている。
「いいえ、私は運転手としてここに残ります。その覚悟を持って都築様のお手を取ったのですから」
「……あなたには家族がいるんだから、ちゃんと帰らないと」
家族がいる。この言葉を聞いてやっと諦めてくれたようだ。
「桐谷様、私としてはただご無理をなさらぬようとしか申せません。ですが、都築様ならおそらくこう仰るはずです。……行って来い、ただし必ず帰って来るんだ、と」
「ええ、そうね。上総はやる前から諦めたりはしない。うまくいくよう結果を見越して動く。……でも、これは上総だから出来ることだけどね」
午前二時まであと十数分。空気は冷たいが、とても透き通っている。大きく息を吸い少し止めてみる。少しの時間、頭の中が無の状態になる。そして一気に吐き出した。
「……よし」
美月は、陽の待つ波打ち際へと歩き出した。
***
すっかり寝静まった本部で、一人の男が美月の部屋の前に立っていた。先ほどから扉をノックするも、一向に返事はない。電話もいくら鳴らしても出ない。夜中であろうと、急な電話には必ず出るはずなのに。
「……もしかして」
男は急いで事務室へ向かった。なにかおかしいと感じていた。会議の前、美月は明らかに嘘をついた。だが、こんな夜中にいったいどこへ。
「失礼、至急通話記録を確認したいんだが、ログを見せてもらいたい」
こんな時間に突然の来訪者とあって、当直の事務員は驚いた顔を見せた。
「は、はい。かしこまりました。少々お待ちください」
事務員はなにやらぎこちない手つきでキーボードを叩いている。それに、なんだか見覚えのない顔……。
「お待たせいたしました」
事務員が、昨日までの通話記録の一覧を開いて見せた。そこには「十九時四十二分 日本政府直轄機密情報調査機関 特務第三桐谷三佐」と記されてあった。
「この録音記録を聴かせてもらいたいんだが」
後々必要となる場合があるため、外部からの通話はすべて一度録音される。しかし、それは緊急の場合のみ公開されるため、聴くためには部隊長と直属の将官の許可、そして電話を受けた者の同伴が必要だった。
「申し訳ありませんが、公開することは出来ません」
「そんなことはわかっている。だが、聴かせろと言っているんだ」
すると、男は事務員に拳銃を向けた。
「反逆罪とでも言いたいんだろうが好きにしろ。しかし、そこをどかないならわかっているな」
事務員も拳銃を取り出す。いつの間にか背後にもう一人の事務員が回り込み、男目掛けて飛びかかって来た。
「こいつら……」
男は事務員を投げ飛ばし、もう一丁の拳銃を構えた。
「俺は訓練を受けた人間だ。それをわかっていて襲いかかってくるとは。お前ら正式な隊員じゃないな」
この二人は恩田らの差し金かなにかか、おそらく政府の下っ端といったところだろう。組織の制服を着用しているが、結局はただの偽者。闘い方がまるでなっていない。
男は一度体制を整え、事務員目掛け両方の拳銃の引鉄を同時に引いた。銃弾は二人の頬をかすめ、奥の壁に命中した。余程の衝撃だったのだろう、二人は一瞬で気絶してしまったようだ。
その隙に、男は急いでパソコンに向かう。美月は今、おそらくこの電話の相手に呼び出されているはず。イヤホンを装着し再生ボタンを押した。すると、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「……柏樹陽」
そこには、日本政府直轄機密情報調査機関と名乗る柏樹陽の声が録音されていた。しかし、しばらくして急に会話が途切れてしまった。
「さすがに気付いたか……」
どうやら、録音に気付いた陽が遠隔操作を行っていたようだ。残念ながら待ち合わせの場所までは録音されていなかったが、今美月が陽と会っていることは間違いない。あとはなんとかして場所を割り出せれば。なにか手掛かりになるようなことはなかったか、なにかおかしいことは……。
「そういえば、あいつの様子がおかしかったな」
男は佐伯の様子を思い返した。あれは、確か会議のとき。会議中にもかかわらず上の空で、なぜか急に都築一佐のことを尋ねられた。そして、直前に佐伯は都築一佐の授業を受けていたはず。
そこでなにかあったのか。いや、授業中になにかあれば、他の生徒の間で話題になる。そうでないとするならば、佐伯が都築一佐と別で接触したか……。
いや、もしそうなら佐伯の不自然な動きに桐谷三佐が気付くはずだ。ならば、そこに柏樹陽が介入したということはないだろうか。
「やはり、柏樹二佐か……」
得意の分析力で、陽の部屋になにかあると踏み、そこにすべての望みをかけた。すでに陽は部屋から出ているため、鍵はかかっていない。そして、家具などはそのままの状態にされていた。
「これは」
陽のデスクの上には、まるで探しに来ることを待っていたかのように受信機が置かれていた。
「……すべてお見通しってことか」
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