天と地の存在

 話し声が聞こえる。紙が擦れる音、キーボードを打つ音、ボールペンが落ちた音。


「おい、佐伯。ほら落ちたぞ、聞いてんのか」


 隣で大郷がボールペンを拾っている。


「お前、さっきから上の空だけど。体調でも悪いのかよ」


 大郷は、周りを伺いながら小声で話し掛ける。三十分ほど前から、特務室の小隊長以下全員で会議が始まっていた。


「……ああ、ちょっとね」


 佐伯は、授業のときの上総の顔が忘れられないでいた。眼鏡越しのあの瞳。あの威圧感。あの短い時間でこんなにも圧倒されるなんて。

 会議室の前方では、第一部隊の相馬一尉と和泉一尉が中心となって会議を進めている。あの二人も、最初は都築上総に対して畏れを感じていたのだろうか。それとも、こんなに怯えているのはもしかして自分だけなのだろうか。


「なあ大郷。お前、都築一佐のこと怖いと思うか」


 思いもよらない質問を投げ掛けられ、大郷は驚いた表情を見せた。


「怖いかって?そうだな……。俺は、周りが言うほどそうは思わないけどね。普段、桐谷さんたちとよく話しているのを目にしているからだろうけど」


「……そう」


 少し俯いて深妙な表情を浮かべる佐伯を、大郷は頬杖をついて横目で注視していた。


「佐伯は、怖いの?なにかあった?……そうだな。例えば、前の時間の代理授業の時に」


 思わず佐伯は眼を見開く。先程の座学に大郷は出席していないはず。なにか見られた?いや、誰かに聞いた?あの眼は、あの時間は、ほんの数秒の間だった。なにもなかったに等しい。


「なにもないよ。俺は、一番後ろの席で話を聞いていただけだし。ただ、俺自身あまり都築一佐とは話したことがないからそう思っただけ。何考えてるんだかよくわからないし、なんか裏がありそうだし」


「都築一佐には裏があるのかもしれないけど、佐伯には確実にあるよね」


 堂々と裏があると言い放つ大郷を、佐伯は目を細めて見据えた。第三部隊の小隊長同士だが、この二人の間には大きな溝が存在している。離れようとしているのではなく、単に近付こうとしないだけ。


「……佐伯。お前最近、毎日疲れた顔してる。なにに首突っ込んでるんだか知らないけど、あまり深入りするなよ」


「ああ、わかってる」


「それと……」


 大郷は、そっと周りを確認して低い声色で囁いた。


「都築一佐は信じるな」


「え、それどういうこと……」


 これ以上話すことはないと言わんばかりに大郷は首を振り、それ以降言葉を交わすことはなかった。


 ***


「ちょっと陽、やめなよ!いったいどうしたっていうの!?」


 フードテラスの奥で、美月が悲鳴をあげている。


「お前なに考えてる。なんなんださっきのは。俺たちを馬鹿にしてんのか!」


 周りの隊員は、突然のことに驚きその場から動けないでいた。陽は今にも拳を振り上げようとしている。その顔は怒りで満ちているが、なんだか怯えきった表情にも見える。対して、上総は表情ひとつ変えずに佇んでいる。


「おい、なんとか言えよ!馬鹿にしてんだろ!見下してんだろ!」


 依然上総は無表情のまま、陽の顔すら見ようともしない。美月はただ見守ることしか出来なかった。二人の間に割って入って止めたとしても、それは解決にはならない。これは、この二人の問題だ。


「……くそ」


 陽の腕に力が入り、小刻みに震え出す。それに気付いてようやく上総が口を開いた。


「お前、昔からそういう所がだめなんだ。指揮官たるもの、常に冷静でいなければならない。なにを考えているのか相手に悟られてはならない。そして、俺はお前よりも強い」


 一瞬陽が怯んだように見えた。そして、そこからはすべてが速かった。上総の言葉でスイッチが入った陽は、右腕を大きく振りかざし上総の顔めがけて殴りかかった。だが僅かに上総の方が速く、一瞬でその右腕を手にとり陽を投げ飛ばしてしまった。


「……油断したな」


 辺りは騒然とした。皆はその光景に驚き、見て見ぬ振りをすべきなのか、それとも投げ飛ばされた陽のもとへ駆け寄るべきなのか、どうしたらよいのか困惑している。


「ちょっとこっちへ来い」


 その様子を察して、上総は強引に陽を外のデッキへと連れ出した。


「おい!なんだ今の騒ぎは」


 すると間一髪、戦術部将官の橋本がテラスへ怒鳴り込んで来た。


「あの、あれです。床が……、床に水がこぼれていて、それで、滑ってしまって。ね、みんなそうだよね」


 美月は、橋本将官にどうにか帰ってもらおうと必死に嘘をつく。


「そうか、まあそれならわかった。気を付けろよ」


 なんとか将官にはばれずにすんだが、幸い十数名しかいないギャラリーをどう言いくるめるか、美月にはまだ難しい任務が残っていた。


 ***


「ほら」


 陽のもとに缶珈琲が飛んで来る。どちらも話し始めようとはしない。まだ頭にのぼった血は完璧には下がっていないが、夜風がとても心地良く、正直どうでも良くなっていた。


「……わかってるよ、充分わかってる。お前には到底敵わない」


 めずらしく弱音を吐く陽の隣に腰掛け、上総は肩を軽く叩いた。怪訝な表情で上総の方を向くと、冷えた缶珈琲を顔に当てられた。


「うわっ!冷た!なにすんだよ」


「……無関係ではないと言ったな」


 上総の言葉に、陽は顔を顰めた。いったいなんの話を……。


「あの夜、美月は俺たちとは無関係ではないと、お前は言っていた。確かに、美月の御両親は関係者だ」


 陽の視線が泳ぐ。そうだ、つい口が滑った。美月はそれどころではなく、気にも留めていなかったようだけれど、上総に聞かれてしまったのはまずい。


「お前がやったこと。そして、これからやろうとしていること。それはきっと、俺が潰さなければいけないんだと思う。だけど、友としてたまには見逃してやる」


 そこには、いつもの穏やかな眼をした上総がいた。


「……ただ、やるならお前一人でやれ。あいつにはまだ先がある」


「ああ……」


 結局いつもの通り、上総に上を行かれ上総に倒され、最後には上総に丸く収められる。やはり、この男にはなにをどうしたって敵わない。


「これ」


 上総は、携帯電話のメール画面を陽に見せた。送信元の名前はアルファベットの"H"一文字のみ。その内容に、陽は目を疑った。


「まだ先は長いけど、もう戻れない。お前には伝えておく」


「なんだよこれ、なに考えてんだ。お前、本気か?これじゃあ、だって、皆を」


「そうなるね。でも、うまくやるさ」


 上総は少し憎たらしい笑みを浮かべた。その顔を横目に、陽は缶珈琲のプルトップを勢いよく開けた。

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