新たな船出
午後四時。飛行機は成田空港へと到着した。陽は始めの方はずっと資料に目を通していたが、機内食を口にしてからはずっと眠っていた。やはり、相当疲れが溜まっていたようだ。
到着ロビーで、あのときの運転手が待っていた。初めて組織に足を踏み入れた日。組織の人間になると決めた日。
「そういえば、まだ紹介してなかったよね。俺たち専属運転手の葛西さん。すべて知っているから、なにも遠慮することはないよ」
葛西は、表情ひとつ変えずに微笑んでいる。五十代後半といったところか。とても人が良さそうだ。
「お帰りなさいませ。桐谷様、今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
そう言うと、葛西は深々と礼をした。久しぶりに見る東京湾はとても感慨深いものだった。美月にとって、この海は人生をも変えたほどの場所なのに、この景色は何年経っても表情を変えない。
「葛西さん、上総はどうしてる?」
ふいに陽が問いかけた。やはりずっと気にしていたようだ。
「はい、以前にも増して休まれることもなく仕事をされています。ですが、なんといいますか仕事疲れではなく、精神的に参ってしまわれているようで。お食事や睡眠もまともにとられていません」
そんなになるまで、いったいなにをしているんだろう。上総じゃないといけない仕事なのだろうか。
「そうか、相変わらずだな。でもここ一、二年で急に忙しくなった気がする。まあ、将官が相手じゃどうにもならないか」
「将官?」
まだ美月は、この将官と呼ばれている人に会ったことがない。
「ああ、久瀬将官。俺らの上官だよ。契約のときはちょうど海外に行っていたんだ。たぶん、後で会うんじゃないかな」
久瀬将官。上総に指示を出している人。今の今だと、ちょっとイメージが悪い。
それから一時間ほどで、ISAのあるザ・シーフロントオフィスビルに到着した。今では、美月もセキュリティチェックを受けている。葛西がドアを開けてくれた。
「お疲れさまでございました。本日は、この後五十三階まで上がっていただき、将官と本部長に報告となっております。よろしくお願いいたします」
そう言うと、一礼をして葛西は奥の駐車場へと車を走らせた。
「葛西さんて、組織のことすべて知ってるってことは組織の人間なの?」
「いや、ただの運転手として働いてくれてるだけ。特務室専属だから、俺らの動きはすべて把握してるよ。葛西さんは家族がいるから、違う場所から通ってくれてる」
葛西は家庭を持っている。だけど、きっと家族は組織の本当の姿は知らないのだろうから、葛西のような性格じゃないとこの仕事は務まらないのだろう。もう少し葛西と話をしてみたいと美月は思った。
そんなことを考えながら、エレベーターは五十三階へと到着した。どうやら、五十階から上は組織の中でも上の地位の人間が使用する階らしい。二人は一番奥の部屋へ向かう。
ドアのプレートには久瀬と記されている。美月は、これから初めて顔を合わせる久瀬という男に対し、ほんの少しだけ恐怖を感じていた。
直属の上官。上総があんなに大変そうなのだから、自分もこの先無茶な指令を出されるのだろうか。不安と緊張が入り混じるなか、陽が静かに扉を開く。
中へ入ると、中央のソファに久瀬将官と本部長が腰掛けていた。だが、久瀬将官よりも先に目に入った光景があった。そこには、上総も一緒に座っていたのだ。
思っていたより疲れている。気力だけでなんとか動いているようにも見える。美月は声を掛けようとしたが、それは許されなかった。将官がすかさず口を開いた。
「はじめまして、桐谷さん。特務室少将の久瀬と言います。一年間の留学お疲れさまでした。どうぞ、座ってください」
久瀬将官はかなり若い。四十代前半だと聞いていたが、見た目は上総や陽とそう変わらない。しかし、彼には周りを圧倒するようなオーラがある。この人は相当なやり手に感じる。
胸にはたくさんの紋章、後ろの棚にはトロフィーや賞状など。言葉使いは丁寧だし、顔はとても穏やかで優しそうだが、眼が笑っていない。隣に座っている上総も、なんだか怯えているような、そんな気がしてならなかった。
「桐谷さん、君のこの一年間の成果を評価して、あなたの階級を三佐と定めました。今後も精進してください」
三佐……。自分に階級がついた。いよいよ組織の一員なんだと思うと、少し怖くなってくる。様々な敵と戦うことになるのだろうか。しかし、いつかは犯人も捕まえたい。だけど、この将官の下、どれだけやっていけるだろう。
「こちらは徳井本部長です。皆さんとはあまり関わりはありませんが、戦闘演習のときなど指揮を執ってくださいます。しかし、主に指揮を執るのは皆さんとなりますので、まあ見守り役ですね」
「どうも徳井と言います。久瀬さんが説明した通りです。会議には出席しますので、顔を合わせることは多いと思います。よろしくお願いします」
徳井は、四十代後半で中肉中背のいかにも本部長という面構え。この人に裏は感じられないが、久瀬将官には頭があがらないといったところだろうか。
「では、この後会議がありますので、私はこれで失礼します」
そう言うと、徳井本部長は部屋を出て行った。扉が閉まったのを確認した久瀬将官の顔つきが一瞬で変わったのを、美月は見逃さなかった。
「さて、部外者もいなくなったので大切な話をしましょうか」
すると、今度は上総の表情が変わったような気がした。なにかを恐れているような。
「……早速、君たちには始めてもらいたいことがあります。今私たちが欲しているのは、国税局の不正取引書です。これを奪い政府に揺すりをかけます。都築と柏樹の方で既にカナダ本部とは話がついており、直接政府と取引をせずカナダ本部を通して取引を仕掛けます。とりあえずここまでが一連の流れとなりますが、詳しくは来週。明日は日曜ですね。一日休んで疲れをとってください」
報告会は思ったよりもあっさりと終了した。久瀬将官も最初は裏がありそうだと感じたが、こんな人なのではとも思えたし、あのときの上総の表情から少し重い話でも始まるのかと思ったが通常の任務の話だった。少し自分の中で思い込み過ぎていたのかもしれない。
「……二人とも疲れただろう。最後の方行けなくて悪かった。いろいろと立て込んでて行けなかった」
上総は、外を眺めながら煙草をふかしている。それを見た陽は心配そうな顔を浮かべた。
「いや、それは大丈夫だけど。お前こそどうなんだよ。顔色悪いぞ。ちゃんと寝てんのか?」
「まあ。充分とは言えないけど、大丈夫。今の仕事が終われば少しはゆっくり出来るから」
上総は煙草を一度大きく吸って目を閉じた。その仕事とは、おそらく久瀬将官直々のもの。組織の仕事とはあまり関係のないものではないだろうか。
「さっき将官が話そうとしていたのは、もっと別のことなんじゃないかって思うんだけど。……お前、なにを隠してる」
陽が鋭い目つきで上総の方へ顔を向けた。美月も上総を凝視していた。なにを隠しているのかはまったく見当もつかないが、上総は自分たちの知らないなにかを知っている。それに、陽の違和感にも同感出来る。上総は煙草を灰皿に置くと、今日初めて陽の顔を直視した。
「……なんてな。さて腹も減ったし、なんか食べて風呂入っちゃおうかな。今日はお疲れ」
そう言うと、陽は早足で出て行ってしまった。
「……やっぱり、そうだよな」
煙草の火を消しながら、上総は小声で呟いた。美月はその光景をじっと見つめていた。
「ああ、ごめん美月。なにか食べに行こうか」
上総がせっかく誘ってくれたが、美月は首を横に振った。今一緒にいても、なにを話したらいいのかわからない。
「じゃあ、今日明日はゆっくり休んで。なにかあったらいつでも声掛けて」
自分の知らないこれまでの上総と陽。二人の仲が羨ましくもあり、それに参加出来ていない自分が寂しくもあった。
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