嵐の前の静けさ
「そろそろ搭乗時間だね」
陽が雑誌を買って戻って来た。上総は、数十分と続いていた電話がようやく終わったようだ。
二人は見た目や性格がまるで反対だ。陽は見た目に結構気を遣っている。髪の毛は茶色いし、シンプルなネックレスや革のブレスレット、カジュアルな服装でショートブーツを履いている。背も高いため、まるでモデルのようだ。性格も人見知りしない明るい性格で、冗談もうまい。その割によく気が付くしっかり者だ。
上総はいい意味でありのままを活かしている。髪の毛は染めておらず、服装はジャケットをさらりと羽織ったシンプルで綺麗めな感じ。性格は明るいわけでもないし暗いわけでもない。だが、頭の中ではいろんなことが駆け巡っているように思う。常に周りをよく見ているし、一歩どころじゃなく十歩も二十歩も先を見据えている。
きっと、この二人だからうまくバランスがとれているんだろう。私はそれを崩してしまわないだろうか。重荷にはなっていないだろうか。
「おい、そろそろ行くぞ」
上総が立ち上がる。ついに始まるんだ。不安もあるけれど、楽しみの方が大きかった。自分の力がどれだけのものか試してみたい。
そうして、三人はカナダへと旅立った。それぞれ、口には決して出せない秘密を胸に抱いて。
***
「そろそろ終わるな。どうだ、彼女の様子は」
夕陽が射し込む最上階の一室。いかにも高価な椅子に腰掛け、煙草を手に煙をふかす男。その横では、後ろ手を組み海を見つめるもう一人の男。
「はい、全て順調です。彼女は留学先の特科士官学校を首席で卒業いたしました。武術も予想を上回る出来です」
「そうか。このまま頼むよ」
「承知しました」
男は一礼し、部屋を後にした。
***
その頃、カナダでは十一ヶ月の月日が流れていた。上総と陽は、一、二ヶ月ごとにカナダと日本を行き来していた。美月とは月に一度会えればいい方だった。
今日はその数少ない三人揃っての食事の日。三人が会う場所は決まっている。美月が安全に帰れるようにと、美月のアパートの目の前にあるダイニングバー。この辺りは、比較的夜も賑やかだが治安は良い。
二十一時、いつも通りの時間にいつも通りの場所で美月は二人を待っていた。今では英語はほぼ話せるようになったため、周りの人たちの会話がよく聴き取れる。
初めてこの地についた頃は、右も左も分からずとても苦労したが、それでもやる気だけはなくならなかった。
しかし、上総と陽は英語に加えドイツ語が話せる。そして、今は中国語を習得しているらしい。まだまだ追い付けていない。足手まといにだけはなりたくないし、がっかりさせたくはない。
「美月。ごめんちょっと遅れた」
五分ほど過ぎて、息を切らせた陽が店に入って来た。しかし、上総の姿がない。
「お疲れさま。上総はまだ仕事?」
「ああ、忙しいみたい。最近はさ、あんまり一緒にいないんだよね」
美月は少し寂しかった。会えない寂しさ。友達に会えない寂しさではなくて、だけど恋とは違う、憧れのようで……。そして、陽はそんな美月の気持ちに気付いていた。
「あと一ヶ月で終わるな。どうだった?留学は」
陽は流暢に英語で注文しつつ、いつも通りの優しい笑みを浮かべる。
「やっぱり最初はすごい大変だったけど、なんかあっという間だった。英会話も武術も楽しいし、すごく良い経験させてもらったよ。でも、大変なのはこれからなんだよね」
「大丈夫だよ。それだけやる気があればなんだって出来るさ。俺もそれくらいのやる気が欲しいよ。頑張っても頑張っても一度だって上総を抜けないんだ。それどころか全く追い付けもしないし、差が開いていくばかりだ」
陽は大きな溜め息をついた。
「あの、よくはわからないけど、陽は凄いよ!すごく努力家だし、文句も言わないし。私は本当に尊敬してる」
美月は励ましながらも、こんなことしか言えない自分が悔しかった。
「……ありがとう。なんか元気出た。よし、飲もう!」
その後は他愛もない話をして、だんだんと夜が更けていった。
***
「都築、お前大丈夫か」
その頃、上総はまだ日本に残っていた。つい二日前に陽は一人でカナダへ戻っていた。
「お前うなされてたぞ。……まだ、夢に出るのか」
会議室で眠っていた上総の苦しそうな声に気付き、一人の男が様子を見に顔を出した。上総は顔を顰め、ゆっくりと身体を起こす。
「……すみません。なにか、ご用でしょうか」
「いいからまだ寝てろ。顔色も悪いし、凄い汗だ。一回シャワーでも浴びた方がいいんじゃないか。ただ様子を見に来ただけだからなにも気にするな」
そう言うと、男は部屋から出て行った。上総は男の姿が見えなくなった後、暗闇の中頬杖をついて目を閉じた。
***
明日はお互いなにもない日だったため、二人は夜中まで飲んでいた。
「陽、大丈夫?ちょっと飲み過ぎじゃない。そろそろ帰ろう」
陽はテーブルに突っ伏してほとんど夢の中だ。
「疲れてそうだったもんな……」
美月は先に支払いを済ませ、無理やり陽を起こして店を出た。
外はまだ暗く空気は冷えている。このまま陽のアパートへつれて行くのはとても無理なので、自分のアパートまでつれて帰ることにした。
陽はなんとか歩いているが、こちらの問いには返答せず先ほどから唸っている。やっとの事で布団へ寝かせ、美月も眠りについた。三、四時間経っただろうか、カーテンの間から洩れる陽の光で美月は目を覚ました。
「起きた?おはよう、美月」
台所の方から陽の声が聞こえてくる。
「布団敷いてくれてありがとね。起きたとき驚いたよ。まさか美月の部屋にいるなんてさ。いや、昨日は申し訳なかったね。今、朝ごはん用意してるからね」
陽は微笑んでいたが、ふと笑顔が消えた。
「……なんかさ、最近あいつこそこそなにかやってるんだよね。今もさ、まだ日本にいるんだよ。仕事のメールとかよこすんだけど、ほぼ時間が明け方三時とか四時で。しかもそれが毎日。全然寝てないんじゃないかな。まったく、なにやってるんだろうな」
陽は、テーブルに朝食を並べていく。しかし、それは美月一人分だった。
「なんか急ぎのメールが来てたからさ、ちょっと戻るね。あとこれ、昨日の」
そう言って陽は部屋を後にした。テーブルには昨日の飲食代が置かれていた。
美月は驚いていた。普段上総から自分に届くメールは、必ず零時前だったからだ。そんなに遅くまで仕事をしているなんて、どれほど大変な仕事なんだろう。身体は大丈夫だろうか。
今頃日本は夜の九時。忙しいだろうが、電話でもしてみようか。しかし、十回ほどコールが鳴ったがまるで出る気配がない。
「やっぱり忙しいよね」
もう切ろうとしたそのとき、か細い上総の声が耳に届いた。
「……もしもし、美月?」
「あ、上総。忙しいところごめんね!あの、なんかね、最近忙しそうだって陽から聞いたからさ、ちょっと心配になって……」
「ああ、ありがとう。俺は大丈夫だよ。心配かけてごめん」
上総の声は明らかに疲れていた。声のトーンも低い。
「そう。ならいいんだけど、あんまり無理しないでね。じゃあ切るね」
「あっ美月。……あの、いやなんでもない。今週末にはそっちに行けると思うから。じゃあ」
そう言って電話は切れた。上総はなにか言い出そうとしていた。おそらく、上総にとっても美月にとっても良くはないこと。上総はなにかを隠している。
結局、その後は一睡もすることが出来なかった。ふと、昨日の日誌を書いてないことを思い出して机に向かう。特科士官学校を卒業してからというもの、週二回の武術と政治戦略の講義以外なにもすることがない。
上総のことを陽に話すべきか迷ったが、今はまだ心の中にしまっておくことにした。
***
日本へ帰国する日を迎えた。結局、上総はカナダに戻ることはなかった。陽ともあれ以来会っていない。
「美月。久しぶり!」
チェックインカウンターに姿を見せた陽は、普段と変わらず笑顔だった。
「なんとか間に合ったね。仕事片付いた?」
「うん。これ見てみ」
そう言うと、陽はタブレットPCを立ち上げ、膨大な量の資料を見せてくれた。
「全部資料作ってきた。帰ってすぐ会議あるからさ、目通しておこうと思って」
だが、陽も少しやつれている気がする。今すぐここまでする必要はないはずなのに、上総の手助けをしようと考えているのだろう。自分には、なにか出来ることはないのだろうか。
「やっぱりさ、美月変わったね。目が違うよ。自分の知らない土地で暮らすってだけで人生観変わるよね。それに射撃はオールAだって?上総に次ぐ腕だな」
変わった?私が?そうなのだろうか、自分ではよくわからない。成長はしたと思うけど、まだまだ弱い。でも、これからは後ろ向きな考えはなくしていこう。
「陽、仕事もいいけど機内では少しは寝た方がいいよ。見た目に疲れが出ちゃってるもの。身体は相当ぼろぼろなはず」
「はいはい、寝るときはちゃんと寝るよ。でもさ、足引っ張りたくないんだよね。少しでもあいつに追いつきたいから」
上総はたくさんの人に期待されている。陽だってそうだ。だから二人は若くして高い地位にいる。
「……美月。その、本格的に仕事が始まったらさ、自分ではどうにもならないこととかたくさんあると思うんだ。でもそのときは、自分の気持ちに正直になれ。本当に大変なことが起きた時は、特に。もう、周りの目なんてどうでもいい。大切なのは、自分の心だから」
陽は哀しげな、いや辛そうな表情でこちらを見つめている。このときはまだ、この言葉の意味を理解出来ないでいた。
***
あのときの君の眼は、まだなにも知らず、純粋で無垢な瞳だった。
今なら引き返せるとわかっていたのに、この先に待ち受ける哀しみを、そっと教えてあげられることも出来たのに。
いつか君がこの言葉を思い出したとき、もしかしたら自分の運命を呪うかもしれないね。
……いや、君は違う。きっと、誰よりも早く立ち上がり、誰よりも強い一歩を踏み出すだろう。
そのとき、僕は側にいてあげることは出来ないと思う。だからお願いだ。どうか君の力で、周りの人たちを立ち上がらせてくれないか。
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