玉響の灯火
絶望からの脱却
自分にとっては嘘のような。今までの生活とは真逆の、第二の人生のはじまり。そのきっかけとなったのが、あんな凄惨な事件だなんて。
あの頃の自分は、弱く脆く無知で世間知らず。意志や希望をどこかに忘れて、気が付けば過ぎ去って行く世の中に流されながらただ生きていた。
だけど、きっと今の自分ならば。救うことは出来なくても、なにか行動を起こせたに違いない。
ほんの少し強ければよかったんだ。ただ一言声を発していれば、自分の世界は大きく変わっていた。たった、それだけのことなのに。
***
地元の短期大学を卒業し、都内の企業に就職した
好きで早く行っているわけではない。満員電車で立つくらいなら、一時間早くても座れる方をとっているだけ。
今年で就職して五年目。仕事内容は嫌いではないが、同年代どころか女性が極端に少ない職場であるが故、愚痴を言いあったり出来ずストレスが溜まるばかりだった。
隣には、毎日文句を言っているかと思えば、こちらに仕事を押し付けてくる中途社員の男。美月はそろそろ転職を考えていた。
今日も一番に到着し、デスクを拭いてコーヒーを作る。あとは始業までの間のネットサーフィン。これが毎朝の楽しみだ。
たまに転職サイトを覗いてみる。次は事務仕事ではない職を希望しているが、性格上やはり事務仕事が向いている気もする。
薬局の受付や塾の受付など、多少人との関わりがありつつパソコン業務がある仕事。アパレルや営業などはもってのほか。極度の人見知りであるため、常に人と関わり続けるのはかなり難しいことだった。
こうして、今日も業務の合間にこそこそとネットサーフィンをし、長い一日を終えた。特に買い物などをするでもなく、いつもと同じ電車に乗り家路に着く。いつもと変わらぬ帰り道のはずだった。
家に着いても明かりが点いていない。普段なら母はとっくに帰っているはずだし、今日は父も早く帰ると言っていた。
そっと鍵を開けて中の様子を確認するが、人のいる気配がない。やはり、まだ帰っていないのだろうか。それとも二階で洗濯物でも畳んでいるのだろうか。
薄暗い廊下を抜け、リビングに入ろうとしたそのとき、足下のなにかに躓いて転びそうになった。
「え、なに……」
恐る恐る灯りを点けると、そこには地獄のような光景が広がっていた。
***
あれからどれくらい経ったんだろう。自分になにが起こったんだろう。
美月は海を眺めていた。都内の竹芝にあるお気に入りの場所。以前からたまにふらっと寄ったりしていたが、あの事件以降頻繁に訪れていた。
目の前には東京湾が広がり、レインボーブリッジが見渡せる。それなのに、いつ来ても人はおらず閑散としている。
時たま吹く風が肌寒い九月中旬。穏やかな海風に吹かれて美月は思い出していた。
あの日、家の中には父と母の無惨な死体が横たわっていた。声も出ず、涙も出ず、ただ一心不乱に110番していた。ただただ呆然として、警察が到着しても取り乱すことなく発見したときの状況を話していたらしい。
おそらく、いろんな人にいろんな事を聞かれたのだろうが、まったく覚えてはいない。ただ、すべてちゃんと受け応えはしていたようだ。朦朧とする意識の中で、たくさんの人が行ったり来たり。
捜査などどうでもよかった。二人が死んだという事実だけで精一杯だった。いつの間にか、親族が手伝ってくれて葬儀は終わっていた。親戚に連れられてお墓にも行った。気が付いたら、自宅に仏壇が設置されていた。
美月の世界は真っ暗だった。起きているのか寝ているのかもわからない。毎日自分がなにをしていたのかも覚えていない。そして、今日が何月何日なのかさえも。
もう半年以上経つが、少しでも気を緩めるとあのときの光景がフラッシュバックしてしまう。両親はこちらを見ていた気がする。目が合っていた気がする。なんで助けてくれなかったのって訴えていたような気がする。
会社は辞めた。哀れな自分に向けられる視線に耐えきれないし、どうせ近いうちに辞める予定だったのもありすぐに退職願いを出した。
まだ、自分の中では両親が死んだことなど認めてはいないし、なぜあんなことが起こってしまったのかも理解出来ない。
警察によると、二人とも毒薬によって意識を失い、頭部を拳銃で撃ち抜かれていたそうだ。物取りの犯行ではないようで、恨みをもつ人物など思い当たらない。考えれば考えるほど暗闇の中に迷い込んで行った。
かれこれ何時間ここに座っているのかわからない。朝からなにも食べていない。美月は頭の片隅で考えていた。目の前に広がる広大な海に飛び込もうと。
今日は雲ひとつない晴天。星はまばらだが、ひとつひとつが静かに瞬いている。時刻はとうに明け方三時をまわっていた。
美月は立ちあがり柵を乗り越えた。両手を広げて全身で風を感じる。すると、一粒の涙が頬を伝った。夜空に輝く星を見上げて、また一粒二粒と涙をこぼす。
「……ああ、やっと泣けた」
美月の中で、ずっと溜まっていたものが一気に崩れ落ち、悲しみも絶望もすべてが流れていくような気がした。
「さよなら」
風が舞う漆黒の空にその身を投げようとしたそのとき、優しい声が耳に届いた。その声に、思わず美月の身体は行動を止める。涙で滲む瞳を声のした方へ向けた。
「泣きたいときは泣いた方がいい。でも、死にたくても死んじゃだめだ。とにかく生きるんだ。死ぬより辛いことなんてないんだよ」
暗くてよく見えないが、そこには長身で茶髪の自分と同い年くらいの一人の男が立っていた。
「君の気持ちは痛いほどわかる。一度、下へ降りよう」
すると、今度は反対側から声が聞こえた。振り返ると、そこにも一人の男が立っていた。だが、こちらの男は先ほどの男とは雰囲気がまるで違う。そのまま二人は美月のもとへと近付いて来る。
「えっ。えっあの、あ……」
そして二人は美月の肩に腕を入れ、そのまま持ち上げて下へ降ろしてしまった。
「はじめまして、桐谷美月さん。俺は
茶髪の男が名乗る。なんで自分の名前を知っているんだろう。この人たちはいったい何者なのだろうか。
「あっちは
都築という男は、少し離れた場所で腕を組みこちらを見ていた。
「あ、あの」
美月の声は震えていた。これはいわゆるナンパというものだろうか、それとも誘拐されるのだろうか。もしそうだとしたらどうすればいい。自分は死ぬつもりだったのだからなにをされても構わないが、実際まだ生きているし、大声をあげるべきか……。
「大丈夫だよ。君の考えていることはわかるよ。俺たちはナンパをしているわけでもないし、君を攫うつもりもない。襲う気もない」
美月の表情からすべてを読み取り、柏樹陽が優しい顔を浮かべて話す。
「少し君に話があるんだ。まだ詳しくは話せないけど、俺たちは君とはまったく無関係というわけではないんだよ。まあ、そんなにすぐに信用なんて出来ないよね」
陽は、地面に座り込んでいる美月に手を差し伸べた。
「……俺たちと一緒に来ない?生活は保障するよ。衣食住すべて保障する。君はひとりじゃない、仲間はたくさんいるよ」
「なにを言っているのか、よくわからないんですが……」
「ここ、好きな場所なんだよね。だって何回も来てるでしょ。俺も好きな場所でね、君のことも何度か見たことがある。だから気になってたんだ」
美月の頬をまた涙が伝う。それを見て、柏樹陽が美月の左側に腰掛ける。
正直、今言われたことはわからない。よく考えればすごく怪しい二人。それなのに、二人がいてくれることで安心して、しばらくの間三人で空を見上げていた。
「美月って呼んでもいい?」
ふと、柏樹陽が声をかけてきた。風になびく薄茶色の髪が綺麗だった。そして、とても優しい顔。
「お前もそう呼べよ」
前方で立っている都築上総に向かって声を掛ける。彼は漆黒の髪を靡かせ、心を見透かされそうな眼でこちらを向いた。でも、どことなく穏やかな顔。
わずかに朝陽が差し始めていた。まだ月は出ているが、少しずつゆっくりと夜が明けはじめる。
美月は、自分の中で死ぬという気持ちが薄れていくのを感じていた。たった今出会ったばかりだというのに、この二人はなにか自分と同じものを持っているような気がした。
この日を忘れない。三人が出会った、今日このときを絶対に忘れない。
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