第2話
「どれくらい待てば骨になるのかな……」
誰にともなく、オルガはぽつりと呟いた。その言葉の示すところは勿論例の兄の事だ。
「……もうこの際ミイラでもいいかなー」
一つ一つが若干の悪意に満ちている独り言を森に聞かせながら、オルガは歩みを進めていく。
当面の目標地点は、件の兎が祀られているという祠。全く頼りにならない地図を頼りにしているはずなのだが、その歩調には全く迷いがない。だが、だからといってその道が合っているわけではないのだが。
「15分、30分? 1時間、3時間、半日、もっとかな……?」
いつ起こるか分からない白骨化を待っている間、どこで何をして時間をつぶそうか。と、わくわくと心躍らせながら、呑気な空想にふけるオルガ。
ここはやっぱりさっさと仕事を終わらせて探索にでも……もしくは新作の罠を……いや、万が一兄さんが抜け出してきた時のために――
「……ん?」
枝が踏み折られる音。後方から響いたその音に振り返る。
小さな高台の木の陰に垣間見えた影。
無害な小動物にしては大きすぎる。猛獣か何かか? それともまさか兄さんか?
もし猛獣なら殴り倒そう。もし兄さんでも殴り倒そう。そう心の内で決め、スコップの柄を握り直す。
微かな悲鳴。
茂みの向こうから滑り落ちるようにして現れ出た小さな姿。
「?」
オルガは小首を傾げた。
*
逃げられない、絶対に。
そう確信しながらも、少年は走り続けていた。
目の前には踏みならされた黒い土の道。一直線に続く道。森の外へと続く道。
だが、彼がいくら走っても、決して森の外へは辿り着くことはできない。
まるで邪悪な『何か』が、彼の邪魔をしているかのように。帰れ、と警告しているかのように。
帰る。どこに。
帰るんだ。森の外に。
しかし、少年の頭をかすめる風景。
小さな祠。月光。兎。そして、真っ白な彼女。
彼女の唇が動く。呼び止められた気がして立ち止まる。
振り返る。彼女はいない。ただ黒い道が続いているだけだ。
でも、彼女はそこにいる気がする。黒い道の先で、ずっと、待っている。あの祠の前。白色。月の下。彼女はずっと待っている。僕は彼女を呼ぶ。彼女は振り返り、少しはにかみながら、手を広げて、****と――
「違う」
首をぶんぶんと振って、彼女たちを追い払う。
違う。違う違う。
あの場所じゃない。僕が帰るのはあの場所じゃない。
帰らなきゃ。早く、早く。
足を踏み出す。
「うわっ」
不意に足がもつれる。足元には小さな崖。
バランスを崩した少年の体は、そのまま斜面を転げ落ち。茂みの中へと頭から突っ込み。その中へすっぽりとはまってしまった。
不幸にも少年を包み込む折り重なった枝は少年の体重を支えるだけの強度を持っており、しかし一本一本はとても細く支えにすることもできない。結果として彼の体は、見事に宙に浮かぶ形に。
慌てて手足をバタつかせ、もがいてみるが、状況は変わらない。
起き上がろうにも足は宙に浮かんでしまっている。支えにしようと枝を掴んでも、折れてしまう。ならばと地面に手を伸ばしてみても届かない。少年の努力をあざ笑うように、少年がもがけばもがくほど、鋭い枝は彼の肌に細かい傷を作っていく。
やがて、彼はぴたりと動きを止めた。
俯く。その目には見る見るうちに涙がたまっていく。逃げられない。何をどうしても絶対に逃げられない。この森から、逃げることはできない。その事実と、この状況の情けなさに少年は肩を震わせた。
「そこの少年」
不意に頭上から落ちてきた声。
少年は見上げる。
最初に見えたのは黒い瞳。次に見えたのは四方に跳ねた黒髪。少年の顔を覗きこむような形で、一人の青年が座り込んでいた。
人、だ。この森の中であの少女以外の人は初めて見た。これで、帰れるかもしれない。少年の胸の内に安堵のようなものが広がっていく。
彼は珍しい動物でも見るような目で少年を観察していたが、やがて口を開き、
「人間ってどれくらいで骨になるのかな?」
「……え?」
予想外の言葉に、涙も一気に引っ込んだ。ただただ目を丸くして、青年を見つめる。
青年は口を軽く押さえ、「あ、間違えた」と口の中で呟くと、しばし考え込み、
「……それ、楽しいの?」
少年の状況を指差しながら訊ねた。少年の状況、つまり茂みの中で引っかかり宙ぶらりんの状態。好きでそんな格好になった訳ではないということは一目見れば分かりそうなものだが。
ぽかんと口を開けて答えることができないでいる少年を見、「ん、これも違うか」と青年は再び考え始める。金属の鋤で軽く口元を隠しながら、しばらく逡巡していたが、やがて。
「まぁいいや」
考えることをあっさりと放棄した。
「じゃあね、少年。頑張って」
ひらひらっと手を振りながら立ち去っていく青年。
少年は暫し唖然としていたが、
「ま、待って! 待ってよ!!」
手足を精一杯動かしながら、必死になって呼びとめた。鋭い枝が肌に刺さるが構っていられない。
「何?」
「ぼ、僕、逃げてきて……。でも逃げられなくて……。何度も同じところを……それで、それでえっと……」
いまいち要領を得ない少年の説明。青年は興味のなさそうな眼で一瞥すると、
「ふーん」
すたすたと歩き去ろうとする。
「待って! 置いてかないで!! 僕はもうあの祠には戻りたくないんだっ……!!」
祠。
その単語が青年の足を引きとめる。ぴたりと立ち止まった彼は振り返り引き返し、その単語を聞き返す。
「祠?」
言われている意味がよく分からないのか、急に踵を返して戻ってきた青年に驚いているのか、少年は答えない。青年はもう一度繰り返す。
「少年、祠から来たの?」
戸惑ったような表情ではあるが、こくり、と。首肯。
途端、青年の眼光が鋭くなる。
「この森に住んでるの?」
首を横に振る少年。否定の意味だ。
「……少年、もしかして『神隠された』子?」
無理のある造語を用いて青年は訊ねたが、少年が反応できるはずもなく。
「え、え……?」
戸惑いの声を上げる少年。睨みつけるような目で少年を観察する青年。
沈黙。ただただ沈黙。
不意に、呟くように青年は尋ねる。
「名前は?」
「……え」
「少年、名前は?」
「あ、え、えっと――」
彼は慌てて答えようと口を開き――急にのどが貼りついてしまったかのように、声が出せなくなった。
まるで魚のように口をぱくぱくとさせる少年。声を出そうとしても喉を通りぬけた空気が音を成さないまま漏れるだけだ。
困り果てて青年を見上げる。
「……ん? 僕はオルガ。君は?」
自分の名前を聞かれたのかと思ったのか、自身を指差しながら名乗る青年。だが少年は答えることができない。
「僕、は――」
少年は懸命に声を出そうと口を動かす。だが口からは呻くような声しか出てこない。
そして少年は、はたと気がついた。とてもとても単純な事実に。
僕は、自分の名前が分からないんだ。知っているはずなのに。名前なんて当たり前のように知っていると、無意識のうちに思ってきたのに。
「家族は? 住所は? 家がどこにあるか分かる?」
立て続けに投げかけられる質問。しかし、そのどれにも彼は答えることができない。
「少年」
この上なく冷静な、オルガと名乗った青年の声色。だが、その意思のあるなしに関わらず、少年を問い詰めるような響きで彼に襲いかかってくる。
なんとかして答えようとするほどに混乱してゆく思考の海。涙が、ぽろぽろと目の端から零れていく。
「わ、わかんなっ……」
とめどなく溢れ、地面へと落ちていく雫。地へと落ちた滴は、吸い込まれ、面積を広げていく。だけど、何も分からない。自分の名前すら思い出せない。
それでも、ただ一つだけ。ぽつんと取り残された思い。
「帰りたいよおっ……」
自分が誰なのかも分からない。どこに帰ればいいのかも分からない。
でも、帰りたい帰らなきゃ。帰らなきゃいけないんだ。
そんな正体不明の使命感。それだけに、少年は縋っていた。
涙は、止まらない。
「……」
何の前触れもなく唐突に、少年の頭の上に、ぽんっと乗せられた手。包み込むような手。
「分かった」
単調なオルガの声。少年は首を上げ、見上げる。
「分かった」
少年を安心させるかのように、彼の目を見ながらオルガは再度言う。一度目の時よりも、声も表情も幾分か真剣な色が込められている、ように少年は感じた。
帰れる。帰ることができる。
ゆっくりと、その事実を飲み込んでいく。胸の奥にあたたかいものが染み込んでいく。
これで本当に助かるんだ。この森から、出ることができる。僕はやっと、帰れるんだ。
その途端。ぼろぼろと。安堵で涙腺が緩んでしまったのか、堰を切ったように溢れてくる大粒の涙。その衝動を止めることができず、少年は何度もしゃくりあげる。
だがオルガの次の一言で、その幻想は粉々に砕け散った。
「じゃあ案内して」
「うぇっ……?」
何を言われたのか分からず目を丸くする少年。涙でぐしゃぐしゃになった顔が、オルガに向けられる。
「祠まで。案内して」
少年は文字通り絶句した。
だからその祠から逃げてきたのだと言っているのに彼は何を聞いていたのだろうか何も聞いていなかったのだろうか。それとも単に驚異的なまでに無神経なのだろうか。
少年は口をパクパクとさせ、彼に対して何を言ったらいいのかを探す。
だがオルガは少年をひょい、と片腕で抱き上げ。
「行ってみないことには分からないから」
「はっ、離し……っ」
肩の上に担ぎ上げて。
「じゃあ行こうか」
「いやだぁ! 離せっ離せぇ……!!」
少年の泣き叫ぶ声、華麗に無視された精一杯の意思表示は、真夜中の森に木霊となって響き渡った。
*
雲上の月は、上りきっていた。
だが、彼は未だに埋まっていた。
「オルガーまだ戻ってこないのかー? もう日も暮れちまったぞー。なぁーオルガーおーい……」
情けない声で弟を呼ぶチェスター。だがその声は森の中に吸い込まれていくだけで、目的の人物に届いている様子はない。チェスターはがっくりと肩を落とした。
と、その時、彼方より響き来る悲鳴。
チェスターの肩が跳ね上がる。
「な、なんだっ……!? いやっ、怖がってるわけじゃないんだぜ? 全然怖くないさ全っ然! たとえこんなオカルティックな場所に一人置き去りにされたとしてもだなぁ! あーくそ、オルガどうしてオレを置いていっちまったんだよ……。やっ、全っ然怖くなんてないけどな!!」
地中に放置されたチェスターは、夜風に乗って届いてしまった悲鳴のような何かに過剰反応を示した。だが、その反応を嘲笑う者も、相槌を入れてくれる者も今ここにはいない。
チェスターは一度大きく身震いすると、恐怖を押し隠すかのように、下を向き一心不乱に砂を掻き分け始めた。
「ちくしょーオルガめ……。今度一回びしっと言ってやらなきゃなこう……びしっと! ……しっかしそれにしてもなんだこれ、どんな力で固めたらこんな重さになるんだよ訳わかんねぇ、はっまさかこれセメントか? セメントなのか!?」
「あ、あのー……」
声。鈴を転がしたような、可愛らしい、声。
可愛らしい――女の子の声!?
反射的にガバッと顔を上げる。途端に生気を得た瞳が、
彼の視界に飛び込んできたのは目も眩むほどの白色。大木に半ば隠れるようにして、チェスターの様子を窺っていたのは――、白装束の一人の少女。
C.O.COON -月の森と兎の祠- 黄鱗きいろ @cradleofdragon
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