C.O.COON -月の森と兎の祠-
黄鱗きいろ
第1話
月はどうしようもなく丸かった。月はどうしようもなく遠かった。
空を切り取った夜の下、君は踊る。僕は踊る。
カレらを祀った祠の前。
袖振り、餅つき、兎は跳ねた。
不意に陰る、光。
見上げると、突如湧き出でてきた黒雲に月が覆われつつあった。
僕は気づいた。不意に気づいた。
もう行かなきゃと僕は言った。
早く帰らなきゃと僕は思った。
僕は歩きだした。
すると君が呼び止めた。僕は振り返った。
どこへ行くの、と君が訊ねた。
村に帰るんだ、と僕は答えた。
どうして、と君が。
だってきっと心配してるよ、と僕が。
誰が心配するの、と君。
みんなだよ、と僕。
みんなってだぁれ?
みんなはみんなさ。村のみんなさ。
心配する人なんていないわ。だってこんなに気持ちのいい夜なんだもの。
僕は踵を返して、獣道に走りこんだ。
君は僕の名前を呼んだ。僕は振り返らなかった。
僕は走り出した。
祠から伸びる黒い小道。
ずっと走ってゆけば村があると誰かが言っていた。
走る。走る。村に向かって。
月が再び顔を出す前に。
怖い。怖い。月に捕まるのが。囚われるのが。
不思議な場所。不思議な広場。不思議な祠。不思議なカレら。
あの夢のような場所に。
何がどうして僕がカレらと一緒にいたのか。カレらが一体何なのか。
僕には何一つ分からなかった。
でも僕は一つだけ分かっていた。
僕は月によってこの森の中に閉じ込められていた。
どういうわけか、その確信だけが頭にあった。
僕は走り続けた。
早く帰らなきゃ。早く。早く。
また月に捕まる前に。
「だぁから、オレは反対だったんだよ」
生い茂る木々や草花やその他諸々に埋もれるように立つ青年チェスター・クーンは、大袈裟に肩をすくめて遺憾の意を表明してみせた。彼が纏っている白衣には、オナモミやら細かい葉っぱやら得体のしれない自然物がへばりつき、肩下ほどの長さの黒髪には、もはや獣道とすら呼べない道なき道を延々と歩き続けてきた疲れがにじみ出ている。
対する傍らのブレザー姿の青年オルガ・クーンは、涼しげな表情で右肩にシャベルを担ぎ、左手に持った地図を見つめ――そして、目的地までの道を発見したのか、嘆く兄を置き去りに茂みの中へ歩みを進め始めた。ただし、彼の手にしている地図上には何故か大陸や海が存在している。
その圧倒的な存在感を放つ縮尺上の大誤算には全く気付かないまま、チェスターは弟の背中を追いかけつつ、心の内に秘めたる激情を語り始めた。
「大体よぉ、なんでオレ達がこんな田舎くんだりまで来なきゃならねぇんだよさーぁ? 人はいねぇし道はねぇし暑ぃし足は疲れるし服は汚れるしそれにぃ――」
「女の子成分が足りないぃ……!!」
大仰に天を仰いで嘆いている兄をよそに、オルガは何度も世界地図を回転させては首をひねる。
「どこだ、目的地……?」
「なぁ、聞いてるか? 聞いてくれてるかよ、おーい?」
「あ、うん。聞いてなかった」
「そうかぁ……。お前また耳が悪くなったのかぁ……。お兄ちゃんは心配だぞ?」
「ふーん」
変質的なまでにポジティブかつ過保護すぎる兄の発言には気のない返事で返しつつ、オルガはあくまで真面目に真剣に進むべき道を探した。だが、彼らが辿るべきであった道は四方を見渡してみてもどこにもない。
「恐るべし。原生林……」
オルガは自然への畏怖を言葉で表さざるを得なかった。
とはいえ彼らは地図の入手という第一段階からして既に選択を誤っているのだから、この状況は至極当然の帰結であるのだが。
そんなオルガの苦悩は意にも介さず、チェスターはあくまでマイペースに、だが饒舌に語り始めた。
「しっかしどうしてオルガは女の子の話題になるといつも耳が遠くなってしまうんだろうか、オレが思うに原因不明正体不明の難病奇病じゃないかと思うんだが、このことを顔見知りの女医に相談してみたら『テメェの頭のご病気はテメェでなんとかしやがれ!』と言われて診察室から蹴りだされてしまったよハッハッハ。あれは多分、オルガの病気が手の打ちようのない不治の病だということをオレに悟らせないように、オレに気を遣っての行動だったんだろうな。まったくなんで俺の周りにはこう素直じゃない奴が多いんだろうなぁ本当に不思議だ」
「……」
「だが安心しろオルガ。オレはその病気の解決策を発見した。オレが思うにお前のその病気はお前が『女の子』というものの良さを十分に十二分に理解できてないが故のものじゃないかと思うんだよだから要はオレが女の子の良さについてお前に語ってやればいいのさ! ははっ、我ながら良案妙案ナイスアイディアだな!! オルガだってオレのありがたぁい語りを聞きたいだろう? ああオーケーオーケー皆まで言うな分かっているさ、聞きたくって仕方ないって顔だな? そうかならば語ってやろう。まず女の子っていうのはな……柔らかくて温かいんだ。柔らかくて温かいと何がいいって抱き心地が最高なんだよ。痩せてたほうが美人だと思ってる女の子は多いようだが、オレは少しふっくらしてる子のほうが好みかな、ああだからといって痩せた子が嫌いってわけじゃないんだぜ? オレはどんな女の子であろうと愛を返す義務があるからな、愛される男ってのは辛いぜへへっ。次に女の子っていうのはな……訳が分からないんだ。とにかく訳が分からない理解の範疇を超えてやがる、子猫ちゃんのように甘えてくる子もいれば、逆に女王様のように傲慢な子も、気の強い子も気の弱い子も、はたまた不器用な子もいてだな、そう、その全てが愛らしく愛しいんだ! ああ、彼女達は素晴らしい。オレのこの貧弱な言葉じゃあ表現しきれないほどに素晴らしい! 彼女達さえいればオレは生きていける! 彼女達はオレのオアシスだ!! 女の子万歳万歳ばんざぁーい!! だというのにもし、『もし』だぞ! 女の子がオレの周りからいなくなったとしたら、ああそうさ今みたいな状況さ! そんなことになったらっ、そんなことになったらぁああああ……!!」
アカデミーの主演男優も顔負けの挙動で、チェスターは大きく仰け反り、絶望に歪んだ顔を両の手で覆い隠した。
「――終わりだ。この世の終わりだ。終焉だ滅亡だ大災害だ世界の破滅だ。おお、神よ! 終末の時は来たれり!! これぞ黙示録の日かっ!?」
血を吐くような声色で全身全霊を込めて絶叫する兄を、地面に突き刺したシャベルに凭れつつ半ば諦めたような冷めた目でオルガは見つめていた。
「ああそうさ、こんなことになったのも全部アイツのせいさ、アイツめ、あの人でなしめ、帰ったらマジで地獄を見せてやる……」
「……『アイツ』?」
その言葉が何を指しているのか理解できなかったのか、オルガは兄の顔を不思議そうに見つめた。
「なぁ考えてもみろよ、オルガ。一体どこの誰のせいでこんな目に遭ってるのかをよ?」
自分と瓜二つの容貌を持つ兄にそう促され、オルガ・クーンは渋々ながらも回想を開始した。
*
「『神隠し』って知ってっか、ウジ虫ども?」
不遜。横柄。傲慢。
そんな言葉が似合う男としてのランキングなら、世界でてっぺんを取れると自負する男、ラウル・クラークは、部屋に入って早々の来訪者たちにいきなりそうやって問いかけた。
当然、そのような突然かつ自分たちには馴染みのない質問に来訪者――チェスターとオルガが答えられるはずもなく、二人はただ限りなく嫌そうな表情をもってその質問に答えた。
するとラウルは、いかにも見るからに心底残念そうな面持ちで、ただしこれがただの挨拶であると言わんばかりの平静な声色で、
「なんだ虫ども? わざわざ俺が呼びつけてやったっつーのに、喜びの声の一つも上げねぇのかとりあえずそこに跪いて許しを請え」
「ふざけろクソジジイさっさと死ね」
「ここの床汚いのでお断りします」
一人は素直に食いかかり、一人は丁寧にお断りした。
途端、部屋の空気が凍りつく。
「たかだか羽虫風情に『ジジィ』呼ばわりされると、さすがの俺もいささか傷つくんだがな?」
「あーそうですか、それはそれはすいませんでしたねぇ訂正しますよこの糞餓鬼野郎」
ちなみにラウルの容姿はどう見ても『ジジィ』と呼ばれるのも『糞餓鬼』と呼ばれるのも相当な違和感があるわけであるが、それはさておき。
怒りを余計に煽りたてるようなチェスターの発言によって、両者の亀裂は決定的なものに。
「無駄に歳ばっかり取った化け物が」
「おうおう、つい数十年前まであんなに泣き虫だった糞餓鬼が何か言ってるな」
大理石の机を挟み、バチバチと見えない火花が二人の間に飛び散る。
まさに一触即発。
「まぁまぁ、お二人とも……」
動く冷戦地帯に果敢にも飛び込んだのは、兄弟に先んじてこの部屋の内にあった女性だった。腰のあたりまで伸ばした真っ直ぐな茶色の髪に、体の線がはっきりと分かるほどぴっちりと着込まれた白衣。歳の頃は20代前半ほどか。大きな丸メガネの奥には知性的な、だがどこか弱気な光を宿した灰色の瞳がある。
記憶の底をさらっても全く覚えのない女性の存在にオルガは首を傾げる。おそらくは初対面。でもこんなに若い女性が厄介事専門のこの部署に何故?
だが、チェスターはそんな細かい事は気にしない。
「ああこれは失礼しましたはじめましてこんにちは美しいレディー。あなたの指はしなやかな白鳥のよう、あなたの肌は白磁のよう。可憐なあなたの前ではどんな美しい宝石でも赤面してしまうでしょうね。もしこの後お暇なら一緒にお茶でもいかがですか? いえむしろ抱き締めさせていただいてもよろしいでしょう――」
「よろしくない」
その女性の両手をしっかりと握りしめながら長々と回りくどい世迷言を口走っていた兄の脳天めがけて、オルガは容赦なくシャベルを振り下ろした。
加速の付いた金属の一撃を受けたチェスターは、声にならない声を上げながら、床の上を転げ回る。
だが、加害者であるオルガには反省の色は全くうかがえない。むしろ、角ではなく面で殴ったことに対して多少の思いやりを感じてほしいと言わんばかりの表情で兄を一瞥すると、突然の出来事に呆気にとられていた彼女に向き直った。
「すみません、兄が」
「はっ!? あっいえ、お気になさらず?」
未だ目の前で起きたことが飲み込めず、しどろもどろになりながらも女性は返答する。が、オルガとオルガの持つシャベル、そして倒れ伏したチェスターを見比べ、ようやく事態を把握したのか、飛びつくようにして急いでチェスターを抱き起こした。
「だ、大丈夫ですかっ!?」
そんな彼女をちらりとも見ることなく、オルガは軽く睨みつけるような視線を、机を挟んで向こう側の男に送った。
「ところでそろそろ本題に入っていただけませんか? できれば兄さんが復活する前に」
淡々とした口調で提案するオルガ。その提案に同意したのか、それなりに愉快そうに成り行きを傍観していたラウルは机の上の紙束を掴み上げ、オルガに向けて放り投げた。
「その場所で『神隠し』が起きている」
紙束の一枚目は地図だった。略図化された国土と海、国境線。一種の色彩の秩序をもって記されているそれらの均衡をぶち壊すように、赤字ででかでかと、広大な森林地帯が広がっているであろう地点に×印が描かれている。
「貴様ら三人で行ってなんとかしてこい」
ラウルの発言に、オルガは二重の意味でのあからさまな嫌悪をあらわにした。
一つはラウルが『神隠し』の意味を一向に説明しないことに対して、もう一つは彼が「三人で」と言った点に対してだ。
ラウルがこういう時に無駄に意地悪なのは別に今に始まったことではないので置いておくとしても、「三人で」という問題発言は無視するわけにはいかない。
オルガは何も言わないまま、目の前の女性に目を向ける。彼女の体つきは、先程チェスターが無駄な美辞麗句を用いて表現してみせた通り華奢であり、特別な訓練を受けた経験があるようにも見えない。つまるところを言えば足手まといだ。
彼女を同伴させることについてラウルにどういった意図があるにせよ、無能な彼女を庇いつつ、終始彼女の存在に気を取られているであろう兄のフォローもしなければならないことを思い、オルガは深いため息をついた。
「どうした、何か言いたそうな顔だな? どうせ脳みその詰まってない貴様のことだから大して意味もない馬鹿げたことだとは思うが聞くだけ聞いてやろう言ってみろ羽虫2号?」
「そうですねとりあえず『神隠し』とはどういったものなのか、愚鈍なこのワタクシメにご教授願えないでしょうか?」
理不尽極まりない悪態を受けたのにも関わらず、なおも従順な態度を崩さないオルガに対して、ラウルは片眉を吊り上げた。
「いやに素直だな」
「これ以上あなたの顔を見ていたくないので」
「素直にもほどがあるな」
「お褒めいただき光栄です、Sir」
テンポは良いのだが、どこか噛みあわない会話。互いに滲み出る敵対心を隠そうともせずに(ラウルはただの戯れとみなしているのかもしれないが)、二人は微笑みを用いて睨みあった。そして、意外なことに先に折れたのはラウルだった。
「15人」
ラウルはそこで一度言葉を切り、オルガの持つ紙束に人差し指を向ける。確認すると紙束のうち十数枚に、クリップで写真が留めてある。
「わずか一月足らずの間に、15人が次々と『神隠し』にあった」
「だから『神隠し』とはどういった現象なのか教えてくださらないとあなたとは違って無教養な僕たちには理解できないと思われ……」
「あーあー要するに行方をくらませたっつーことだ」
「素直に連続失踪事件と言えばいいじゃないですか」
「その全員が若い女性でな」
「じゃあ連続婦女失踪事件ですねどうして『神隠し』だなんて回りくどい言い方をするんですか僕たちの困った顔が見たかったんですか?」
「……おいそこのゴミ羽虫」
「なんでしょう?」
きょとんとした顔で首を傾けるオルガ。
ラウルは頬杖をつきほとんど表情を変えないまま一息で、
「人の話は最後まで聞け。ついでにテメェはもう息をするな大気が汚れるだろう世界の皆さんに申し訳ないとは思わんのかこのゴミが」
「Yes,Sir. お断りします。ところで一つよろしいでしょうか?」
「……なんだ?」
「あなたはどうやら誤解なさっているようですが、僕たちは警察でも探偵でもましてやあなたのための便利屋でもありませんよ?」
暗にそのような面倒な事件に何故自分たちが関わらなければならないのか、という疑問。その答えは意外な方向から飛んできた。
「成虫が、目撃されたんです」
足元からの声に視線を落とす。兄を介抱しているあの女性と目が合う。
オルガとラウルの注目を一度に集めてしまった彼女はあたふたと、
「あっすいません! 口をはさんで――」
「いや、ちょうどいい。女、お前が説明しろ」
「ええっ!?」
ああ言えばこう言うオルガの相手をするのがいい加減面倒になったのだろうか、ラウルは説明をその女性に丸投げした。
指令を受けた彼女はしばしきょとんとしていたが、自分が説明を求められていることを悟ると、途端に目を輝かせた。
「じゃあ説明します! 説明しますね!! この私、全力で精一杯力の限り説明させていただきますとも!!」
彼女の中の何かよからぬものに火が付いてしまったのだろうか。メガネを一度強く押し上げると、これまでとは打って変わった生き生きとした表情で、彼女は意気揚々と説明を始めた。
「まず今回の連続失踪事件ですが、おそらく人間の仕業ではありません! この写真を見てください!!」
どこからか取り出した写真をオルガの目の前に突きつける。彼女の異様なテンションに少々ドン引きしながらも、受け取るオルガ。写真に写っていたのは人影。ただしピントが全く合っておらず、被写体は本当に人の影としか認識できない。だが、普通の人間とは決定的に違う点、人間にはあるはずのないものの存在だけははっきりと確認できた。
「翅……」
眉をひそめ、オルガは呟く。
被写体の背中には翅が生えていた。それは天使が持つような鳥の翼ではない。トンボやカゲロウのような脈の入った透明な昆虫の翅。
「異源体重度感染者、通称『成虫』の目撃情報は『兎』の祠の近辺に集中しています。また、人知れず若者を森の中へと勾引かすという『兎』の伝承の内容ともこの事件は一致します。よって今回の事件は『兎』による神隠しであると我々は結論付けました」
「……『兎』?」
オルガが聞き返すと、ウルは身を乗り出し、鼻息荒く答えた。
「はいそうです。『兎』の魔物です! この地域の伝説で、森に人を誘い喰らってしまうとされている兎の魔物。といっても、所詮はおとぎ話の中の存在のはずだったんです。今回の事件が起きるまでは」
女性は写真をオルガの手から奪い取り、その写真にフェルトペンで直接描き込んでいく。耳が長い、獣? おそらくは兎の絵だ。
ところで大丈夫なんだろうかあれは大事な証拠物件じゃないんだろうか。オルガのそんな心配をよそに、彼女は写真を左手にひらひらと持ちながら、話を続けた。
「非常に興味深い証言なのですが、現場近くで特徴の一致する白い兎が目撃されているそうなのです。しかし追いかけて捕まえようとしても不思議なことに一向に捕まらない。探してみてもどこにもいない。一瞬にして煙みたいに消えてしまうんです、まるで幽霊のようにね……」
ごくり、と。唾を飲み込む音だけがやけに大きく響く。
「と、状況は大体こんなものですが、何か質問はありますか?」
「はーい」
教師に質問する生徒よろしく、オルガは右手を挙げた。
「なんでしょう?」
「……あなたの名前は何と言うんですか?」
What`s your name? 教科書英語のような発音で、至極基礎的な疑問を問いかけるオルガ。
すると、それまで饒舌だった彼女の頬に僅かに朱が差す。メガネが元の位置にずり落ち、興奮し吊り上がっていた目も元通りの気弱な雰囲気に逆戻りした。
「すっ、すいません名乗りもせずに……。私は、件の地域担当研究機関所属のサン・ウルと申します。ええと、オルガさんと、……チェスターさん、ですよね……?」
ウルは、足元のチェスターにちらりと確認の視線を送る。対するチェスターもようやく傷も癒えてきたのか、床に転がったままぴくぴくと軽く痙攣する左手を挙げて答えた。
「さて、羽虫1号2号3号」
もう十分だと判断したのか、ラウルは椅子の上で踏ん反り返り、横柄な態度で声をかけた。
この場にあるラウル以外の人物は三人。チェスター、オルガ、そしてウル。
「……えっ私、3号? 3号ですか!?」
人数を指差し確認していたウルだけが、その括りに自分も含まれていることに気づき、素っ頓狂な声を上げて反応する。
「説明は以上だ。分かったらさっさと行って、虫は虫同士で仲良く共食いしてきやがれあわよくばそのまま三人全員帰ってくるな」
「ええっ、そんなっ!?」
オルガ、チェスターとともに虫として数えられてしまい、その上帰ってくるなとまで言われてしまったことに衝撃を受けるウル。
しかし、彼女が何を思おうと関係ない。足手まといの彼女を置いていきさえすれば済む話なのだから。そんな、ある種の排他的な思考を抱きながら、オルガは軽く一礼をすると、退出しようと踵を返し、
「ふ、ふざけんなよ……。だぁれが行くかそんなとこおおおおお!!」
だがこの状況を悪化させる人物としては最高の配役である兄の怒声が、彼の計画を見事に妨害した。
幽鬼のごとくゆらりと立ち上がったチェスター。復活早々に大声で吠えたことにより、彼の視界はぐら、と大きく揺れ、再び座り込んでしまう。
「何故だ? 存在自体がオカルトなテメェらには似合いな仕事だろう?」
「悪ぃがそーゆーオカルティックなことは信じない性質でねぇ……!!」
どの口が言うんだろうどの口が、とオルガはとても言ってみたくなったが、すんでのところで踏みとどまった。これ以上事態をややこしくしてこの部屋への滞在時間を長引かせるのは自分の精神衛生上よろしくないと判断したのだ。
まずは兄をどうにかして言いくるめて、この性悪男から引き離そう。そして、できればこのウルとかいう女性はここに置き去りにして、さっさと出発してしまおう。
そう決心したオルガは、ラウルと壮絶な舌戦を繰り広げている兄に声をかけようとした。が、
「大体よぉ! なにが悲しくてわざわざオレたちがテメェの阿呆面見に来なきゃなんねぇんだよ、ああ!?」
「あの、兄さ……」
「しっかも今回はそーんなド田舎まで行ってこいだぁ? そんな女の子もいねぇようなとこに誰が行くかこの万年引きこもりが! そもそもこちとらテメェの声聞くだけで、反吐が出んだよこのカスが!! いっぺん死んで詫びろ!!」
「早く行……」
「つまりだなぁ、テメェは死ね! すぐ死ね! さっさと死ね! 早急に逝去しろご臨終しろ! 可及的速やかにテメェの大好きな主の御許に還りやがれ!!」
その発言はことごとく兄の罵声に遮られ、オルガはむっと唇を尖らせる。だがやはりというかなんというかチェスターはオルガのそんな努力にも苦労にも全く気付かない。
「お前もそう思うだろぉ、オルガ?」
「うん。兄さんはさっさと埋まればいいと思う」
「ほらな、オルガもこう言ってんじゃねぇか」
全く噛み合わない会話。オルガはとうとう会話に加わることを断念したのか、壁にもたれて座り込んだ。
「奇遇だな。こちらも貴様が大嫌いだ。できればこの場からとは言わずこの世から消え去ってもらいたいものだな」
「おーおー消え去ってやろーじゃねぇの! もう二度と来るかよこんな場所!」
ずかずかと足音も荒く退出しようとするチェスター。このままでは本当にこの事件に関わらない事態になってしまう。だがとても面倒そうな案件ではあるので、自分は一向に構わない、むしろ万々歳なのだが。そんな不純な気持ちを抱きながら、オルガは兄の背中を追いかける。
蹴破るようにして戸を乱暴に開けるチェスター。そんな彼の背中目掛けて、クリスティアナは仕方ない、とでも言いたげな声色で、彼を釣る餌を投げつけた。
「知ってっか、色惚け。田舎には美人が多いって話だ」
ぴくりと。今にもクリスティアナの視界から消え失せようとしていたチェスターの肩が跳ね上がる。
「攫われた奴らは、全員が美人だそうだぞ?」
ぴくぴく。耳が反応する。その姿はさながら名前を呼ばれた犬猫。
「あーあー、もったいないなぁ?」
クリスティアナはわざとらしく溜息を吐いてみせる。
「女の子……美人……」
チェスターはうわ言のように呟く。心がぐらついているのが傍目にもよく分かる。
「確認されてるだけで被害者は15人もいる。よかったじゃないかハーレムが作り放題だぞ?」
「ハーレム……!!」
夢でも見ているような恍惚とした表情でチェスターは虚空をうっとりと見つめる。きっと彼の意識内では、キャッキャウフフな妄想が展開されていることだろう。
「よぉし決めたぞオルガ! 俺は決めた!!」
チェスターは傍らの限りなく嫌そうな表情のオルガの肩を抱くと、遥か彼方の空を指差し、とても楽しそうに高らかに宣言した。
「いざ行かん! 田舎美人のもとへーっ!!」
*
回想終了。
オルガは目の前で偉そうにふんぞり返るチェスターの馬鹿面(と言っても、彼ら兄弟の容貌は双子と見まがうほどに似通っているのだが)に、冷淡かつ簡潔な私見を叩きつけた。
「うん、兄さんは死ねばいいと思う」
「ハハハ、またまたぁ。心にもないこと言っちゃってぇー」
「死ね」
「ははあ。お兄ちゃんには分かるぞ? お前、照れてるんだろぉ?」
「死ね」
「ははっ。照れるな照れるな。照れなくてもいいんだぜ、マイブラザー?」
「死ね」
「照れ隠しの下手なやつだなぁ、はっはっは……は」
言語体系が違うのだろうか。オルガがいくら罵声を浴びせようと、チェスターは一向にへこたれることがない。それどころかチェスターは、女の子のいない悲しさを訴えながら、オルガに纏わりつきはじめた。
「……あ。ああそうだったここには女の子がいないんだうわああああ女の子ぉ、女の子がいないよぉーうわああああ足りないぃー寂しいぃー干からびるぅーもうダメだ俺はもうダメだ助けてくれよオルガぁー」
「へぇ、よかったね」
「オルガまた耳が悪く……。ああ、オルガがいなくなった今、俺はこの先何を頼りにして生きていけばいいっていうんだ……! せめて可愛い女の子がそばにいてくれるなら、俺はこれからもこの命を燃やし続けることができるっていうのに……!!」
「そのまま燃え尽きればいいのに」
「いや、そうだよな、もう贅沢は言ってられねぇよな。はは、もう女ならなんでもいいや……。女、女性、女子、女の子、彼女、淑女、悪女、熟女、老女、メス……」
さながら怪しげな儀式の呪文か呪詛であるかのように、女性を表わす名詞がチェスターの唇から次々と紡がれていく。
そんな兄の醜態を意識の外へと追い払うべく、すすす、と横にずらされていったオルガの視線は、ある一点でぴたりと停止した。
「あ」
「うん?」
そこにあったのは白く長い耳に一対の赤い瞳。
一羽の真っ白な兎が、大木の陰から、用心深そうな瞳でこちらの様子をうかがっていた。
兄が息をのむ音がオルガの耳に届く。
「な、なんてこった……」
オルガが振り返ると、口をポカンと開け、わなわなと震えるチェスターの姿があった。
そこでオルガは首を傾げる。
はて。確かに今、兎といえば例の『オカルティックな存在』を連想させるものだろうが、兄はそこまでオカルトが駄目だっただろうか。
弟の疑問をよそに、チェスターは大きく息を吸うと――
「あれはっ! メス(女の子)じゃないかぁあああああっ!!」
一吠え。
森の中という非日常的な状況により抑圧され抑え込まれ欝屈とした感情が言の葉に乗せられ、巨竜のごとき勢いで一気に吐き出された。
哀れにもその標的とされた白兎は怯えた様子で、文字通り脱兎のごとく、森のさらに奥深くへ向かって逃亡。
「ああ、待っておくれよオレの可愛いマイバニーぃ!!」
当然のごとくそのあとを追うチェスター。
恋の障害(という名の、罪もなき草花や木や虫たち)を蹴散らしながら、愛しの彼女を追いかけ追いかけ――突如として彼のその姿は掻き消えた。
正確には消えたわけではない。
チェスターが消えた地点に空く、草木でカモフラージュされていた深さ約1メートルほどの穴。その中へ転落したのだ。
ところが兄が予期せぬ事故に見舞われたというのにオルガは一切動じることはない。
何食わぬ顔で木の棒を拾い。打ち所が悪かったのか一時的に意識が混濁している様子の兄を突っつく。
反応はない。
満足げにうんうんと頷き。何も言わないまま、積み上げてあった土を次々とすくっては穴の中(にいる兄)に向かって投入していく。
適当に土をかけ終わったところで、シャベルの裏で、ぱんぱん、と土を元通りにならし。
ふぅ、と息を吐きながら、清々しげな顔で汗をぬぐった。
が。
「……こぉらオルガぁ、こぉの悪戯っ子さんめぇー?」
がしり、と。
掴まれた足首。
ホラー映画さながらの形相で辛うじて地の底から這い出てきた兄を見て、オルガはあからさまに舌打ちした。
「チッ、浅かったか」
「オレのありがたぁい女の子語りを聞かずにさっきから何をしてたかと思えばこんな罠を作っていたとはなぁ……流石はオレの弟! だがしかしこの程度の使い古された罠ではオレはやられんよマイブラザー、このパターンは今月に入ってもう五回目じゃないかハハハハハ!! オレを仕留めたくば最低限、この穴の中に致命的な何かを仕掛ける程度じゃなけりゃあ……」
「分かった参考にするよ」
すぱりと会話を終わらせると、オルガは兄を土の中から引き上げることもせずスタスタと歩き始めた。
ちなみにチェスターの胸から下は完全に土に埋まっており、一人で脱出することはまず不可能。
「えちょっとオルガ? オルガー!? それはないんじゃないかな、オレ動けないんだけど!? 周りに誰もいないんだけどすごくピンチなんだけど緊急事態なんだけど!? エマージェンシー! エマージェンシいいいいー!!」
受取人不在の空しい叫びを、傾きかけた太陽だけが聞いていた。
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