第8話 決着
「誰…なの?」
『私の名はJ・B』
サリィの問いに、J・Bに変わったリンダが応えた。
否、正確に言うと、リンダの顔はそのままで、まるで彼女の中に別人が乗り移っている様な雰囲気を漂わせていたのだ。
「J・B」
再びリンダの貌はリンダに戻って仰天した。
「一体、どうなっているの?」
『驚かして済まない』
再度、リンダの貌はJ・Bになり、
『君達を助けに来た』
「…どうなっているの?」
サリィは余りの出来事に目を白黒させた。
『これは、リンダ君の意識の上に、私の意識を重ねているからだ』
J・Bの貌のリンダはそう答えると、右小指をサリィの前に指し出した。
小指には白くきらめく微細な糸が染み込んでおり、良く見ると、その糸は天空に伸びていた。
『この霊糸は君達が落ちた鏡の前から伸びている。この霊糸を通して私の意識を送ったのだ。たとえ何万光年の彼方であろうが、時空を越えてこの糸は切れることなく伸び続ける』
J・Bの貌が微笑んだ。
『これは命綱といった筈だ。約束しただろう?直ぐに見付ける、って』
J・Bの微笑みに、リンダの貌が安堵の笑みを零し、澄んだ瞳が僅かに潤んだ。
「…有り難う、J・B…」
『礼は後だ。ところで話は聞かせてもらったよ。魔神の実体が光とはな。成る程、奴が合わせ鏡を使って出現する理由が判ったよ』
「どういう事?」
『奴は実体が、というより三次元用の身体が無いんだ。その身体を得る為に、合わせ鏡に出来た無限個の鏡の間を反射し続けて、その間の三次元空間に二次元の身体を残し、重ね続けて厚みを持つ三次元用の身体を創り出していたのだ。不幸に、その贄となった人々はその行程の最中に奴に捕らえられたのだろう』
J・Bはそう言うと、サリィのペンダントの鏡の煌きを認めた。
ペンダントの鏡は静かに澄んでいた。
リンダの貌はそれを認め、瞳を潤ませながらサリィの身体を強く抱き締めた。
「…きっと、母さんがあなたを守ってくれたのよ……」
サリィも姉の感慨深げな言葉に感涙にむせび温かな姉の胸の中で静かに頷いた。
『「――っっ?!』」
不意に、リンダの貌が歪んだ。
「お姉ちゃん?」
『…大丈夫だ』
歪んだのはJ・Bの貌だった。
『……君達を元の世界に戻す』
J・Bの貌をするリンダは、右人差し指の先から霊糸を放ち、サリィの挫いている左足に染み込ませた。
すると見る見るうちに足首の傷みが消え去り、自力で立ち上がれる迄に回復したのである。
『骨に異常は無い様だ。私の霊糸は治療も出来るのさ。良いかい、サリィ君。お姉さんの身体にしっかり掴まっているんだぞ』
「…え、えぇ」
サリィは戸惑いながらも了承して頷いた。
ぐう。
サリィのお腹が突然鳴った。
「…やだ…。そう言えば、昨日のお昼から何も食べていなかったンだっけ」
サリィは不慮の生理現象に赤面した。
「ねぇ、お姉ちゃん。あたし、お腹空いた。帰ったらステーキが食べたいわ、良いでしょ?」
「…サリィ一人で食べて。暫く肉料理は食べたくない」
リンダは思わず苦笑して応えた。
『行くよ』
次の瞬間、姉妹の身体は、リンダの右小指に付いてある霊糸に勢い良く引き上げられて、魔界の荒野の空に消えて行った。
それは一瞬の出来事だった。
天空に引き上げられたかと思った二人は、いつの間にか元の迷路の通路に佇んでいたのだ。
「か…帰って来たのね!」
二人は声を揃えて歓喜して抱き合った。
だが、それも僅かな安堵に過ぎなかった。
二人の背後の通路にある合わせ鏡の前で、無数に裂かれたタキシードを紅く染め、半ば実体化している黒い顎の動きを必死に押え込んでいるJ・Bの姿を認めたのだ。
「J・B?!」
リンダは溜まらず悲鳴を上げた。
「良かったな、サリィ君が無事で」
J・Bは傷だらけの笑みを浮かべた。だが、傷付いても尚、彼の力強さは失われていない。
「これから、こいつを撃退する。君達は急いで外へ避難するんだ」
「撃退?一体、どうやって?」
「答はサリィ君が教えてくれたよ」
J・Bは軽くウインクして応えた。
「……判ったわ」
リンダはJ・Bを見詰め、そして頷いた。
「サリィ、行きましょう!」
リンダはJ・Bの姿に躊躇するサリィの手を引いて駆け出した。
「お姉ちゃん! あの人は?」
「あの人なら心配要らない」
リンダは力強く応えた。
「あの人なら必ず何とかしてくれるわ」
リンダは信じて疑わない。J・Bの不思議な力強さの源が、決して絶望しないという強靱な意思である事と。
リンダとサリィは無事迷路を抜けて保安室に戻り、開け放しになっていた通用口を潜り抜けて外に出た。
リンダが通用口の外へ出た時、彼女の右小指に染みていた霊糸がそこから離れ、今度は保安室の机上の籠の中に居たリスの体に取り憑いた。
(!)
一瞬全身の毛を逆立ててびくついたリスは、何と、すうっと人の様に直立し、ふてぶてしい態度で籠のかんぬきに手を掛けて外し、籠の外に出て来たのだ。
リスは辺りを見回し、そして机の上から手前の鏡の壁を動かす操作パネルの上にジャンプし着地後、パネルの計器類を一望した。
リスの貌は、J・Bに変わっていた。
『お前さんなら、係員が何処いらをいじっていたか見ていたハズだ。何、スイッチの場所さえ判れば、大体の動かし方は教えてやるさ』
リスは、やれやれと言いたげに肩を竦め、電源スイッチを前足で押した。
『鏡の迷宮』が絶叫を上げて崩れ落ちたのは、リンダ達が通用口から五十メートル離れた誘導用の柵の前にたどり着いたのと同時だった。
「J・B!」
リンダは一瞬にして瓦礫の山と化した『鏡の迷宮』を見て悲鳴を上げ、そして先程まで己の右小指に付いていた霊糸が無い事に気付いて狼狽してしまった。
「お姉ちゃん! あの人、死んじゃったの?」
「…判らない…もう…判らないわ」
そう洩らすと、リンダは両手で顔を覆って嗚咽し始めた。
その時である。
「「!?」」
二人は驚いた。
手前の瓦礫が崩れ、人影が一つ立ち上がったのだ。
「――あぁ!」
リンダはその姿を認めて歓喜した。
「J・B!」
リスを胸に抱いたJ・Bは、二人にVサインを出して微笑んでみせた。
リンダは慌ててJ・Bの元に駆け寄り、彼の胸の中へ紅潮する安堵の笑みを埋めた。
「良かった…無事で…!」
「心配かけて済まない。奴が最後の足掻きで周りに衝撃波を放った為に建物は全壊したが、奴を封じる事は出来たよ。紙一重の差だった」
「一体、どうやったの?」
「こいつのおかげさ」
J・Bは、リンダに押しのけされて肩に乗っかっていたリスを指した。
「このリスに霊糸を繋いで私の意識を送り、保安室の操作パネルを使って、私と奴の周りの壁を動かして密閉された暗室を作り、鏡に何も映らない様にしたのさ。光の体を持つ奴は三次元の体を消されて、魔界に逃げ去った様だ。それに、奴を呼び出したあの本は瓦礫の下で粉々になっただろうから、もう当分は出てくる事は無いだろう」
「本当…良かった…」
リンダは安堵の息を洩らし、紅潮した眼差しでJ・Bを見詰めた。
J・Bはリンダの後ろ髪を優しく撫でて静かに頷いた。
二人の唇がゆっくり近付いた。
刹那――。
J・Bはリンダの足元を見て思わず目を瞠った。彼女の足下には何とあの禁断の聖書があり、その表紙の上に乗っている鏡の破片の中で、小さな黒い顎が蠢いていたのだ。
「あ――っ」
リンダに付いて来たサリィも顎に気付いて声を上げそうになった。
しかしJ・Bは、サリィに微笑みを湛えたウインクで応えて、それを制した。
「やれやれ。野暮は無しだ」
J・Bは然り気なく鏡を踏み締めて割った。
割られた鏡の破片は、禁断の聖書の表紙を突き刺した。黒い顎は鏡の中で無音の断末魔を上げ、粉々に散った。
「どうしたの?」
足下の事に気付いていないリンダは、紅潮したままきょとんとJ・Bの顔を見つめた。
「一寸、出歯亀を追い払ったのさ」
そう答えると、J・Bは微笑みながらリンダの唇にキスした。
完
合わせ鏡の悪魔 arm1475 @arm1475
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