獣の檻(BL)
セックスのあと、彼は左腕を提供してくれる。私はそこに遠慮なく頭を預ける。当然の権利を持ってサービスを受ける。もう五年続いた習慣だった。
最初の頃はまだ少年らしい硬い線を残していた腕は、今は若い男らしい充実した筋肉を見せている。そこに散らばる私の髪は以前にもまして艶を失い、白髪が増えた。十八歳のまだ少年とも呼べる美しい青年と三十八歳のみすぼらしい男から、二十三歳の美しく力強い青年と四十三歳のさらにみすぼらしい男になった。
五年前と今と、どちらがより醜悪だろう。かつての私たちはどこからどう見ても幼いほどの若さを搾取する中年男とその被害者だった。今はもうそうではあるまい。得体の知れない二人になった。月日は彼を成長させ、美しい顔に差す影のような弱さを振り払った。美しさはもう、獲物としての価値ではなく、彼の力の一つになっている。
「もう寝ますか」
彼の指が私の頬と瞼に触れた。初めの頃、セックスの後の彼は黙り込み、私が要求することに無表情に従っていたものだった。そのごつごつとした若い生真面目さと、そんな青年を従わせている優越感が楽しかった。今の彼はまるで違う。この行為にすっかり慣れて、あたかも自分の意思かのように私を気遣い、触れる。
生まれた時から鎖に繋がれて育った獣のように、彼も愛や情の交わし方を知らない。彼にとっての人の肌に触れる経験の全ては私に埋め尽くされている。十八歳の彼が持っていた反抗心は月に一度のこの習慣によって宥められ、あるいは萎え、男としての成熟のどこかに吸収されて消え失せてしまったのかもしれない。今の彼にとって情熱とは中年の身も心も醜い男への軽侮混じりの感謝でしかなく、若い獣としての自然な欲求とは無縁なものになった。
私は目を細めて首を振り、彼の指を避けた。彼は少し古風な美しい弓型の眉を震わせ、諦めたように微笑んだ。若さには似合わない諦めの色が、いつからか彼の微笑みに滲むようになった。
十八歳の彼は両親を突然亡くし、住む家も、財産もなくした。通い始めたばかりの大学に退学届けを出す寸前だった。歩んでいた輝かしい人生が突然途切れた。若く美しい、だが無力な獣だった。持ち物のうち売り物になるのは生まれ持った美しさだけだと知るほどには賢いが、高く売りつける術に思い至れない。夜の街で、たった一つの売り物に何の飾りもなくただ立っていた。細く薄い身体に安物の傷んだ服を着て、心細そうにしていた。あまりにも美しくあまりにも剥き出し。あまりにも恰好の獲物なので、いっそ何かの罠に見えた。通りかかる男たちは彼を気にしながらも、どう扱うべきか決めかねていた。
私が声をかけたとき、彼は大きな目を見開いた。声を掛けられること自体に驚いているようでもあったし、その相手が知った顔だったせいもあっただろう。私は彼の父親の部下だったことがあった。硬い無表情が緩み、自分よりも頭一つ低い位置にある私を縋るような、懐柔するような目で見た。
あのとき、私は彼に説教でもするべきだったのだろう。そのうえで援助を申し出るべきだったのだろう。彼からすれば自分を投げうってでも欲しい金は、私からすればちょっとした贅沢でしかなかった。例えば小さく従順な犬を飼うような。それも楽しい娯楽だったろう。彼は私に犬が抱くのと同じ恩を抱いたはずだ。私が大げさに振りかざす真似をしなければ、若く美しい青年に敬われ、時折食事や買い物を共にする喜びには預かれたかもしれない。彼の父親について二人で懐かしむことも出来たかもしれない。
あの優しく、魅力的で、気まぐれで、他人の感情や立場をいつだって理解できなかった人。いつでも地位ではなくおのれの魅力一つで人々の上に君臨し、他人に骨を折らせても微笑みひとつとねぎらいだけで充分だと信じ切っている人。愛と責任が一切結びつかない人。甘えそのもので出来ているかのような美しい人だった。姿かたちではなく、存在自体に決して薄れることのない光があった。あの人にまつわる苦しみが年月に薄れて美しい残像だけが残るころ、不意に現れてまた新しく鮮烈な苦痛をそこに塗りつけてみせた。あの人が死んだとき、多くの人間が悲しみとともに安堵した。あの人が生きているということは、自分の人生を別の誰かに握られているということだ。彼にとってあの人がどのような父で妻にとってどのような夫だったのか、知りたくはある。知ることは新しい苦痛だろうが、自分で選べる苦痛だ。
だが私はそちらを選ばなかった。ただ売られているものを買った。彼を同情すべき憐れな子供ではなく、契約を結び対価を提供できる一人の成人として扱うふりをした。もちろん不当な取引だ。彼は何かが不当に奪われているという不満をこめかみのあたりに漂わせながらも、私の言葉に従った。彼が提供するものは金で買えるものではなかった。おそらく彼と同じだけ無垢な情熱と引き換えるしかない。だがあのときの彼に必要なものは自分とつり合いの取れる無垢な愛などではなく、ただ金だった。彼はどれほど暗い場所に落ち込んでも自力で飛び立てる翼を持っていたが、若者は自分の背に何があるのか見ることなど出来ない。ただ足元の暗闇の深さに怯えていた。知らない闇よりは知ったみすぼらしい男のほうがましだったのだろう。その判断が正しかったのかは彼だけが知っている。
私は仕事場として小さなマンションを借り、そこの管理人として彼を住まわせた。毎月決まった金を振り込む。月に一度部屋を訪れ、彼から歓待を受ける。帰り際にいくらか現金も渡す。周囲の男たちが、私のようなみすぼらしく惨めで孤独な、どんな女の肉体も征服したことがない男に楽し気に語るやり方を真似ている。私には妻も子もいないが、隠さなければいけない関係であることは同じだ。
彼には生真面目なところがあり、管理人という名目を守ってか、いつ訪ねても部屋には生活、定住の気配がない。掃除が行き届いているだけではなく、仮住まいであり、いつでも出ていけるというよそよそしさが保たれている。私がハンカチやネクタイピンなどの些細な忘れ物をすると、次回まで玄関のトレイに行儀よく置かれている。
ここで普段どんなふうに過ごしているのか、ときどき尋ねる。飼っている相手への支配欲というより、単純に奇妙だからだ。何故ここまで飼い慣らされているのだろう。自分に与えられた場所ぐらいでは横暴に振舞ってもよさそうなものだ。
彼の答える言葉も生真面目でよそよそしい。図書館で勉強をしている。インターンシップに行っている。就職活動に忙しい。仕事が忙しい。仕事に余裕ができたので勉強をしている。その時々で答えは変わるが、常に勤勉なのが面白い。いつでもここには寝に帰るだけだというのは変わらない。私はその度もっと好きなことをして過ごしたらどうだと言いかけて、堪える。普通の年長者、保護者めいた馴れ馴れしさをこの関係で発揮するのは、私の感覚では性的な搾取よりもさらにみっともない。保護者たる資格はすすんで失ったのに、なし崩しでその快楽までも享受しようとする。似た部分があるからと権利がないものまで得ようとすると、そのうちに自分の立場を自分でも見失うことになる。
彼のセックスは献身的だ。最初から変わらない。私の機嫌を損ねれば追い出されるのだから当然のことかもしれないが、いざ自分の性器を受け入れるために相手が無防備に横たわっているとき、献身的でいられる男はそう多くない。それも相手は私だ。金や立場にふさわしい服を脱いだ私は、ただの貧相で惨めな中年男に過ぎない。哀れなほどみっともない私を見下ろす彼の目には時折痛みに似た何か閃くことさえあれど、言葉や態度に出ることはない。感心するが、始めの頃はつまらなくも思った。もっと踏みにじる実感が欲しくなり、挑発してみたこともある。
悔しくないのかい。
そう言ったとき、顔の筋肉があまりにも醜く歪んだのが自分でわかった。人間のできるもっとも醜い顔をしていた。そうまでして、彼の怒りが見たかった。
彼は怒りはしなかった。ただ何かを堪えるように睫毛を伏せて、私が瞳を覗き込むのを遮ると、少年じみたキスをした。そのキスは、これまでにしたどれよりも下手くそで、無垢で、背徳的だった。本来なら絶対に私に与えられるはずのないものが、不意に唇に落ちてきた。この思わぬ収穫を、私は喜ぶことができなかった。ただ後悔した。私はどこまでもつまらない男で、自分の攻撃性にさえ怯んでしまう。
以来私は身の程をわきまえて、ただ許される範囲でのみ横暴に振舞った。彼が許し、自分が許せる範囲。私はその境界を守ったつもりだ。いつだって必要以上を要求せず、必要以上に踏み込まなかった。結局はそれが一番快適なのだ。月に一度彼の顔を見て肌に触れると、身体の奥のどこかが熱く潤った。彼は成長し、ますますあの人に似てきた。それを確かめるときの郷愁は痛みに近い。月に一度のことなら、悪くない。このまま続けていくのが一番いい。
だが、彼はこの頃そうではない。大学を卒業し、職を得て、ある程度の金銭を得るようになってから、少しずつ彼は自分の範囲を逸脱するようになった。
普段の生活は変わらない。使う金は多少増えたが、部屋は相変わらず仮住まいのよそよそしさで、私に対しても雇用者としての敬意を見せる。
ただ、ベッドの上だけは話が違う。献身的であることは変わらない。だが眼差しや触れ方が馴れ馴れしくなった。私が彼の困窮につけこんだ加害者ではなく、奇妙ななりゆきで出会っただけの年上の恋人であるかのように。気の毒なことだが、本当にそう思い込みたいのかもしれない。独立するまで身体を売っていたと考えるより、窮地を風変わりで露悪的な年上の恋人に助けられたと受け止めるほうが彼の倫理観に合うのかもしれない。無論、馬鹿げている。欺瞞は嫌いだ。愛している相手を愛していないふりをしたり、忘れられない相手を忘れたふりをしたり。そんな嘘を付き続ければ、結局どこかに無理が来る。私たちは皆、そうありたい存在になることをいずれは諦める必要がある。ただ現実を受け入れなくてはいけない。
彼だって、そろそろ学んでもいい頃だろう。そう年上ぶるのも逸脱かもしれない。仕方がない。先に踏み越えようとしてくるのは彼だ。
情事の後でもすぐに乾く唇をなんとか開く。
「これで終わりにしよう」
彼は何を言われたのかわからないようだった。目を見開いて、少年じみた顔を見せた。驚くときには幼くなるのかもしれない。五年関係を続けても、知らないことばかりだった。知らないまま終わりにする。
「来月には出て行ってほしい。退職金としてまとまった金は払う」
「どうしてですか」
「君にはもう飽きた」
嘘ではなかった。もう充分だった。奪いつくし、これ以上は手に入れることができないと理解するのに、五年で充分だった。
彼の唇が青褪めて震える。
「そんな」
戸惑いはしても受け入れると予想していた。これほど動揺するとは。意外ではあるが驚くほどではない。彼にはもう少し時間が必要なのだ。だが遅かれ早かれ終わりはやってくる。嘘はいつか破綻する。待ちたくはない。
今日で終わりにすると決めていた。最後の時間全てを味わおうという意地汚さのせいで、疲れていた。まだ休んでいたかったが、なんとか起き上がる。彼の時期を待つ内に、私はさらに老いて、一人で起き上がれなくなるだろう。見下ろす彼は美しかった。太い首。なだらかな線の鎖骨。胸の筋肉の盛り上がり。場所によって透ける血の色で濃淡ができる象牙色の肌。美しい形と美しい色。圧倒される。私が飼っていた獣。もう育ち過ぎた。手に余る。
「帰る。今後のことはまた連絡する」
背を向けた私の二の腕に、痛みが走った。強い力で掴まれたのだと理解する前に、乱れたシーツに引き倒される。後頭部をフレームで打つ。痛みに顔が歪む。
殺される。
彼の顔は陰になり、瞳だけが刃物のように光っている。本気で殺される。
「許さない」
聞く耳に痛みが走るほどの唸り声。
殴られるか、首を絞められるか。こうなることを一度だって考えたことがなかったのは何故だろう。あの美しい人にあらゆる夢を抱いていた若い頃と同じで、彼にもいまだに私は甘えた夢を見ていたのか。ここまで愚かだったのか。
だがこんなふうに終わるのもいいかもしれない。
見たことのない彼の顔もまた、美しかった。夢を終えるため、或いはまた別の夢を見るために、目を閉じた。
唇に、よく知る柔らかいものが触れた。少年じみたキス。
驚きに目を開いた私が見たのは、彼の胸だった。太い腕が背に周る。
「あなたが始めたんだ。終わらせたりしない」
何を言っているのかわからない。ただ強く、強く締め付けられる。私にはどう足掻いても決して振りほどけない力で。
弱い獲物を、檻に閉じ込めるように。
BL・GL短編集 古池ねじ @satouneji
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