嘘と恋の部屋(BL)

 記憶をなくした。逆行性健忘というらしい。自宅マンションで転んで頭を打って、何もかも忘れた。自分の名前もこれまでの人生も思い出せない。そのうち思い出すかもしれない、と医者は言った。俺はガーゼの貼られた頭を撫でた。瘤が出来ているが、大した傷とも思えない。実際脳に損傷もないらしい。でも記憶はない。脳って繊細すぎる。忘れたいことでもあったのだろうか。

 診察室から出ると、廊下で待っていた男が顔を上げた。がっしりとした体格で、立体的に整った顔をしている。瞳が大きく黒く、白目が子供のように青白い。日に焼けた肌も滑らかで、血が綺麗そう。気の毒に、ひどく落ち込んでいる様子だった。誰かは当然わからない。

 恋人だといいな。

 自分の考えに驚いた。記憶がなくとも言葉をしゃべれるように、恋の習慣が体に残っているらしい。そんなつもりはなかったのに。

「大丈夫?」

 男が深刻な声で聞いた。何が大丈夫なのかわからないが、他に聞けることなどないだろう。自分より落ち込んでいる人を見て、少し気が楽になる。

「あんたは?」

 男はぼそぼそと名乗ったが、何者なのかは言わなかった。

「俺の恋人?」

 いきなりそう聞いてしまったのは、彼が好みだったのもあるが、やっぱり心細かったからかもしれない。彼は目をぱちぱちと瞬いてから、微笑んだ。何かいいものを見つけたような笑み。

「ああ……うん。そうだよ……あなたの、恋人だ」

「嬉しい」

 言うと、彼は嬉しそうにした。恋をしている男の目だ。俺は浮かれた。

 会計を済ませると、彼の車で家に帰った。怪我人を乗せているせいかひどく慎重な運転だった。俺と一緒に住んでいるのだと言う。寝室で転倒した俺を病院まで運んでくれたのも彼だ。

「俺、なんでこけたの?」

「徹夜明けだったから」

 俺のプロフィールを話してくれた。病院では名前と年齢ぐらいしかわからなかった。二十五歳。小説家。家族は両親と弟。実家は遠く、家族とは極めて疎遠。それを告げる声が少し重い。

「それって俺がゲイだから?」

「……そうかもしれない」

「あんたとはどうやって会ったの?」

 バーで出会ったのだと言った。彼は三歳年上のSEらしい。

「俺が口説いた」

 照れくさそうに言うのが可愛い。がっちりとした体で、落ち着いた風情で、表情がときどき幼げなのにときめく。こんな生真面目そうな人が、どんなふうに口説いてくれたのだろう。想像もつかない。もう一度口説かれてみたい。浮ついていると、記憶にない自分の家にたどり着く。車から出るとかなり暑い。今は八月だ。病院を出たときは気温に気を使う余裕がなかった。隣にいる彼の薄いTシャツが汗に濡れて、つんと青い男の匂いを漂わせていた。好ましい匂い。血が騒めく。

 俺が借りて、彼が転がりこんできたというマンションは、自分が選んだだけあっていい場所だった。中心部を少し外れていて静かだが、近くに大きな大学や図書館がある。オートロックで一階にはコンシェルジュが常駐している。小説家としての俺は結構売れているのかもしれない。若いのに。ファミリー向けなのか広い。一番大きい部屋を仕事部屋にして、本で埋め尽くしている。一番小さな部屋は彼の部屋だった。パソコンデスクと小さなベッドの他にはほとんどものがない。

「居候だからね」

 と笑う。彼は在宅勤務がほとんどなので俺の面倒が見られると嬉しそうにしている。面映ゆい。

 リビングと、大きなベッドの寝室。綺麗に掃除がしてあった。寝室で転倒したそうだが、特に感慨もない。

「少し休んだら?」

 と彼に言われた途端、急に疲れが出たのでそのまま昼寝をすることにした。色んなことがありすぎた。記憶を失い、恋人ができた。冷房の効いた部屋。さらさらとしたシーツ。この感覚。覚えがあると言えばあるような気がするし、ないと言えばない。何もかもがふわふわとしている。

 そう言えば、この家の鍵を彼は持っていた。

 ふわふわとした思考にそのことが浮かんだ。

 ごく自然な動作で自分のジーンズのポケットから取り出して鍵を開けてくれた。家の中の案内もちゃんとしてくれた。ここに住んでいるのは嘘ではない。

 嘘?

 何故そんな言葉が浮かんだのだろう。嘘だなんて。あの人の大きな体。綺麗な白目。表情や声。どこもかしこも健全で、善良な気配。この真っ白いシーツと同じぐらい公明正大な人間に見える。俺の恋人。

 眠たい。頭がずきずきと痛む。眠りに落ちる直前、啓示めいた言葉が浮かんだ。

 あの人は嘘をついている。


 記憶を失っても、生活に不便はなかった。一番仕事が不安だったが急ぎのものは終わっていたし、それ以外も問題はなかった。作家としての俺は驚くほど清潔な、性の匂いのまるきりない文章を書くのではじめは戸惑ったが、脳というより指が書き方を覚えていた。この先もなんとかなりそうだ。

 自分のことも書き記しているのを期待したが、俺は覆面作家でエッセイも書かない。SNSもやっておらず、日記もない。個人的なメッセージのやりとりもほぼなく、恋人とも音声の通話ばかり。記憶が戻る手がかりなどほぼなかった。連絡しなくてはいけない相手がいないのはありがたいが。

 家事は基本的に彼がしてくれた。俺もしなくちゃと思っても、仕事や読書につい熱中してしまう。前からそうだったらしく、彼は俺にはなから家事を期待していない。情けない話だ。彼の家事はきちんとしているが、生来の性格というより、責任感や習慣からのものだと見える。料理は豪快で、肉が多い。肉と米をよく食べる。見ているだけで腹がいっぱいになるような食欲だ。

「もっと食べなきゃ」

 そう言って俺の快適な量より多めに盛りつける。こんなに食えない、と思いながらも、気持ちが嬉しくて食べてしまう。少し太ったかもしれない。

「大丈夫?」

 彼はいつも俺のことを気にしてくれる。室温は寒がりの俺に合わせてくれるし、シャワーを浴びていると心配なのか脱衣所の近くで待っていてくれるし、上がったら髪を乾かしてくれる。俺に触れるとき、太いしっかりとした指で、そっと触れる。大切なこわれものになった気分だ。俺は息をつめる。なんだか苦しくて、でもやめてほしくない。この男を好きだと思う。この男の全部が好きだった。ひょろひょろと生白い俺とはまるで違う、この男の肉体と精神と振舞い。全てが好きだった。全てが好き、と言うと陳腐極まりないが、結局現実なんて陳腐なのだ。俺はこの男の総体に強烈に惹かれていた。この男と近づきたい。もっと知りたい。セックスだってしたい。もちろん。

 でかいベッドの寝室のチェストには男同士のセックスに使う用意がちゃんと揃っていた。うまく想像できないが、俺たちはこのベッドで幾度となくセックスをしたんだろう。記憶を失ってからは一度もしていない。記憶は戻らないが、生活に支障はない。ある程度の平穏がやってくると、今度は欠如が気になって仕方がない。俺たちは恋人だと言う。俺は恋人に家事よりもセックスを求めている。好意は感じるのに、何故してくれないのかわからない。

「セックスしようよ」

 俺の髪を乾かす彼に、はっきりと言ってみた。俺の髪は多分無精で長めで、量が多いので乾くまでに結構時間がかかる。ソファに座る彼の脚の間に座らされている。風呂上がりの薄着でこんな態勢で髪を乾かすなんて俺からすれば前戯みたいなもんで、初めてされたときは大層期待した。今でも毎回期待する。ドライヤーの手が止まる。

「怪我……は……」

「もう治ったよ。病院行っただろ」

 病院まで送ってくれたのも彼だった。部屋を出たのはあのときだけだ。外は暑いし、不安だし、この部屋の中にいたかった。この男と二人だけの部屋に。夜、仕事を切り上げて寝室に行くと、彼はいつでも俺を待っている。俺が眠るまでじっと見ている。ちゃんとそこにいるのを確かめるみたいに。怯えるみたいに。

「したくないの?」

 彼の手からドライヤーを奪い、スイッチを切って脇に置いた。やかましい音が止み、静寂の中に俺と彼だけがいる。尻を軽く動かすと、彼の性器とぶつかった。俺の肉に押されて、欲情の芯を持っている。

 彼の厚みのある唇から息が漏れた。俺は膝立ちしてくるりと体を反転させると、彼の頭を抱いた。短い硬い髪。俺の髪は丁寧に乾かすのに、自分のは軽く拭っただけで済ませている。そういう無頓着が好きだ。ずっとこの髪に触りたかった。ずっと。ずっと? いつから?

 脳みその俺の制御できない部分が俺の体を動かして、彼の唇を唇で塞いだ。

「こわいの?」

 日に焼けた滑らかな肌を両手で包んで、そう聞いていた。こわい? 何が? 彼は何も言わなかった。それが答えだった。

「こわいなら、俺が全部してあげるよ」

 もう一度キスをした。本当は俺もこわかった。何がこわいのかもわからないのに、こわくて仕方がない。早く体を繋げたかった。この男の大きな体を自分と結びつけたかった。簡単には解けないものがほしい。そうしないと捕まえておけない。どうしてそう感じるんだろう? この部屋の中だけが安心で、ここから一歩も出たくない。なくした記憶。知らない外の世界。取り戻したいものなど本当は何一つない。ただこの中にいたい。この男と二人きり。愛し合うふりをしたい。し続けたい。嘘がつけなくなるまで。

 俺は必死で温かい体にしがみついた。俺の前にシャワーを浴びた肌はまだボディーソープと、清潔で健康な皮膚の下から湧く汗と欲望の匂いがした。なんとしてでもこの肉体を征服しなくてはいけない。追い詰められた気分と確かに感じている欲望が混じって区別がつかなくなる。

 唸り声がした。俺が出しているのかと思ったが、違った。彼の喉が震えている。食いしばった歯の合間から低い音が漏れている。獣じみた声。太い腕が俺の体をやすやすと捉え、あっけなくソファに押し倒し、俺の唇を奪った。彼からの初めてのキス。

 これまでの穏やかさが嘘みたいに性急なセックスだった。男同士の硬い体で繋がる不自然を力任せにねじ伏せるセックス。曝け出したところを乱暴に拓かれて、俺は痛みと喜びに呻いた。征服し、征服されている。獣の声が二つ重なる。上になった彼の体から熱いものが滴る。汗かと思ったら、涙だった。彼は泣いている。下半身で繋がったまま、唇が重なる。

 言いたいことを言わずに済ませるための、キスだった。


 気がつくとベッドにいた。さらさらと冷たいシーツ。冷房から守るように俺を囲う大きな体。セックスの倦怠が全身と、心の芯にまだ残っていた。暗い部屋で瞬きをする。

 夢を見ていた。

 長い夢だ。一生分に近いぐらいの長さ。脳みそのどこかに穴が開いて、全部が流れ込んでくる。中年の男の背中を見上げている。俺はちいさなちいさな子供で、その男が自分の父親だと知っている。男は振り向かずに出ていく。それからの母親は忙しく、ちいさな俺は一人で過ごす時間が長かった。家の鍵は大切なものだからランドセルのポケットに入れていた。出すまでに時間がかかる。貧しい母子のアパートにはオートロックなんかなく、見知らぬ人間がいたって警戒もされない。鍵を探る細い俺の腕を後ろから誰かがつかみ、大きな手で口を塞いだ。蓋の開いたランドセルが転がった。

 母親には何も言わなかった。母親が大変なことはわかっていたし、心配なんかされたくなかった。いい子でいたかった。無口で、内向的で、大人の男が苦手で、でもいい子だったはずだ。図書館の床に座って本をたくさん読み、小説を書いた。書くことが好きだったし、汚いものが存在しない世界を作れるから。それに、人と関わらずに金を稼げると思った。とにかく必死だった。高校でデビューして、大学に通いながらひたすら書き続け、それなりに成功した。セキュリティのちゃんとした部屋を借りれたことにほっとした。これであの日のちいさな俺を、汚い男の手から守れるのだ。

 その頃に、彼に出会った。

 母親に紹介された。堅い席だったのに、たった一目見ただけで、強烈に惹かれた。綺麗な白目。清潔な肌。照れた笑み。その総体。心惹かれた。欲情した。それで、俺は、嫌になった。全部が嫌になった。生きてきたこと。自分のこと。全部。いい子なんかじゃなかった。ずっと、本当は違っていた。頑丈な鍵をかけて閉じこもっても、この部屋には汚い男がいる。俺自身が。耐えられない。部屋を出て、色んな男と寝るようになった。セックスが好きなわけじゃない。どんな男とだって寝るたびに嫌になる。俺は全てをあらゆる角度から複雑に嫌悪して、嫌悪していることに安心した。

 俺の部屋に彼がやってきた。母親に一緒に住むよう頼まれたのだ。碌なことにならないと知っていても、その場しのぎのいい子の顔をして受け入れてしまった。俺の生活はますます荒れた。部屋に男を連れ込んだりもした。彼は俺を咎めた。当たり前だ。でも腹が立った。誰のせいだと思ってるんだ。俺は年上の男が好きだと言った。汚い年上の男に抱かれていると生きている気がすると。嘘だったが、同じぐらい真実でもあった。嘘の中でしか本当のことが言えない。

 彼は怒っていた。怒りながら俺に欲情していた。そのことにはすぐに気付いた。男の醜さには詳しいのだ。彼も結局同じだ。失望して、でも嬉しかった。俺は彼と寝ようとした。そうすれば物事はもう少し簡単に、或いは取り返しがつかなくなるほど複雑になるだろう。彼は嫌がった。俺は諦めず、揉み合いになった。頭を打った。全てを忘れた。忘れたかったから。

 彼の顔を見る。薄暗い部屋の中でも青いほど澄んだ白目。見つめ合う。彼は俺が思い出したことを悟ったらしい。観念したように、少しほっとしたように、唇が緩んで開く。嘘に慣れない若い、十八歳の唇。嘘の中だけの俺の恋人。俺のことを呼ぶ。


「お兄さん」

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