鉛の心臓(BL)

 街の上に伸びる高い柱。そのてっぺんに王子の像はありました。全身を薄い純金で覆われ、瞳はサファイア、剣の柄には赤いルビー。美しく輝く王子は街の誇りでした。

 しかし人々の思いとは裏腹に、黄金の王子は不幸せでした。王子の二つのサファイアを覗き込むものがいれば、その輝きの奥に悲しみが沈んでいることに気づいたかもしれません。

 王子は葦になりたいと願っていました。川のほとりに生えている、あのつまらない草のことです。王子は葦の恋人であるツバメに恋焦がれていたのです。街の高い場所に据えられた王子には、遠い川の畔にいるツバメもよく見えました。ツバメが得意気に川面をすれすれに飛び、銀のさざなみを立てる度、王子の心にもさざなみが立ちました。そんな恋は初めてでした。生前の王子は宮殿に住み、あらゆる美しい少女たちに情熱を向けられ、気まぐれに戯れました。それが王子にとっての恋でした。自分のことさえ知らぬちっぽけなツバメに焦がれる日が来るなんて。

 ツバメには恋人がいました。葦です。あの小さなすばしっこい体が葦の周りをぐるぐる飛び、高い声で愛を囁くのを見ると、王子の鉛の心臓は重さを増し、動けないこの黄金の身が憎くなるのでした。葦になりたい。葦になって、あの可愛らしい鳥の羽を撫でさすり、絡みつきたい。そして南へ向かう翼を戒めて、ずっと傍にいたい。

 虚しい願いでした。どれほど美しくとも、黄金の王子は葦にも、ツバメの恋人にもなれません。しかし街の人々が身を寄せ合う寒さがやってくるころ、ツバメの恋も冷え、葦に飽きてしまいました。王子は喜びましたが、また違う悲しみが襲いました。恋が終われば、ツバメは南へ向かってしまいます。王子の目でも届かぬほどの遠い遠い国へ。それがツバメという寒さに耐えきれぬ小さな鳥の本性なのです。ひとつところにいられぬ移り気な心。

 王子のサファイアの瞳から、涙が零れました。神がきまぐれに起こした奇跡でしょうか。動くことも出来ぬのに、恋の悲しみで涙が流れるのです。

 夜、誰の目にも触れることないはずの涙に、気づくものがいました。ツバメでした。

「あなたはどなたですか」

 月に照らされた王子の輝きに包まれて、ちっぽけなツバメは尋ねました。恋の終わりがツバメをここまで運んでくれたのです。ツバメは王子のサファイアの瞳と同じ高さまでやってきました。王子はそっと首を傾けてその嘴にキスをしたかったですが、叶いません。

「私は幸福の王子だよ」

 恋するものの直観でしょうか。王子はツバメが、光り輝く自分に心を奪われたことがわかりました。ですが幸福にはなれませんでした。この移り気な生き物が、いくら美しくとも動くことのできぬ身との恋に殉じてくれるとはとても思えなかったのです。

 生前から人の心をとらえることに慣れた王子でした。王子はサファイアの瞳から涙を流し、エジプトより魅力的な物語を紡ぐことにしました。遠くの栄光より魅力的なのは、近くの悲惨です。街の悲惨なら、王子はよく見て知っていました。はじめこそ心を痛めましたが、権力が庶民の悲惨に基づいていることなど生前から承知の上、すぐに慣れてしまいました。ですが、ツバメにはどうでしょう。移り気で享楽的、だが心優しいこのツバメには。

 王子は剣の柄のルビーを取り外し、街の貧しい親子に届けるようお願いしました。独りぼっちの王子にはルビーの輝きは心の慰めになりましたが、このツバメとのひと時のためなら惜しくありません。

 ツバメはすぐにでもエジプトに行きたいのだと反論しましたが、その黒い瞳は最初から揺れていました。

「ツバメさん、ツバメさん、お願いだよ」

 王子はサファイアの目を悲しみに翳らせてツバメを見つめました。ツバメはしぶしぶ、王子のルビーを咥え、貧しい親子のもとへと飛んでいきました。

 ツバメが私の宝石を咥えている!

 王子の鉛の心臓は音高く鳴りました。月の光を弾き、ルビーはツバメの軌道を赤く彩り、夜に深い傷を一筋つけました。王子にしか見えない傷です。

 やがてツバメは帰ってきました。そして、王子に自分のしたことを話してくれました。

「不思議なんです」

 ツバメは王子の耳元で、うっとりと囀りました。

「ここはこんなに寒いのに、とっても温かい気がするんです」

「それは、あなたがいいことをしたからだよ」

 王子が言うと、ツバメは小さな頭で何事かを考えようとしましたが、すぐに眠ってしまいました。その体を風から守ってやりたかったのですが、王子にはできません。冷え切った夜、王子の足元はちっぽけなツバメの命の分だけあたたかいのでした。

 朝になるとツバメはすっかり元気になり、街のあちこちを飛び回りました。王子はそれを見ていました。自分の街に恋する人がいるのは、なんと素晴らしいことでしょう。ツバメは見飽きた街の風景ひとつひとつに特別な魔法をかけてくれました。ツバメの姿が見えないときも、あの陰にいるかもしれないと考えるだけで、どれだけ楽しいことでしょう。

 一度引き留めることが出来たのが王子を貪欲にしたのでしょうか。王子は今夜エジプトに発つと嬉しそうに告げるツバメに、またしても一晩の猶予を頼みました。片目のサファイアを貧しい青年に届けてくれとお願いしたのです。

「できません」

 ツバメは泣きました。それを見て、王子の心はしかし躍るのでした、なんと可愛い私のツバメ。

「ツバメさん、ツバメさん、お願いだよ」

 顔を上げるツバメに、サファイアの瞳を煌めかせて哀願しました。

「私の言うとおりにしておくれ」

 ツバメはそうしました。か弱い嘴を使って、王子の片目を抉り出し、泣きながら飛んでいきました。可哀想なツバメ。

「ぼくはエジプトに行きます」

 次の夜、胸を精一杯膨らませて告げるツバメに、王子はまたしてもお願いをしました。

「もう一晩ここにいてください」

「もう冬なんですよ。ぼくはエジプトに行かなくっちゃ」

 ツバメはエジプトに行って、失った王子のサファイアの代わりを持ってくると約束してくれました。王子にとっては宝石よりもその約束のほうがよほど価値があることも知らないツバメです。

「私のもう一つのサファイアを、可哀想な女の子に持って行っておくれ」

 しかし王子には、未来の輝かしい宝石の約束よりも、今のツバメとの時間が必要なのでした。

「ぼくはもう一晩ここにいます」

 ツバメは言いました。

「でもあなたの目を取り出すなんてできない。何も見えなくなってしまいます」

 王子ははっきり告げました。

「私の言うとおりにしておくれ」

 ツバメはそうしました。帰ってくると、小さな体をつめたい王子の体に摺り寄せます。

「あなたは何も見えなくなってしまいました。だから、ずっとあなたと一緒にいます」

 それこそが王子の望みでした。鉛の心臓が喜びに暴れます。

「いや、ツバメさん、あなたはエジプトに行かなくちゃいけないよ」

 ですが王子は恋心を隠し、何も知らぬふりをしました。

「あなたとずっと一緒にいます」

 ツバメの声は、震えていました。そのすすり泣く様を見られないことだけが、王子には心残りでした。

 何も見えない王子を喜ばせようと、ツバメは素敵な話をしてくれました。ツバメがその軽やかな翼で飛び、優しい瞳で眺めた遠い国の幸せの物語。ツバメは今寒さに震えながら、ただ王子のためだけにその話をしてくれるのでした。ツバメの声は時々掠れ、そのあとことさら明るくなります。自分が望んだことなのに、涙をこらえるツバメに王子は苦しくなりました。

「ツバメさん、ツバメさん、お願いです」

 王子はツバメに街を周り、そこにある悲しみや苦しみについて教えてくれと頼みました。ツバメはすぐに飛んでいきました。ツバメは帰ってくるでしょうか。両目を失った王子は恐れましたが、ツバメはちゃんと帰ってきました。

「王子様。お話します」

 ツバメはどこまでも忠実でした。出会った頃の軽薄さは嘘のように、心を痛めながら見たことを話してくれます。王子は街の悲惨ではなく、ツバメの悲しみに心を揺さぶられました。この健気な家臣の期待に報いてやりたくなりました。鉛の心を純金の像の中に持つ王子は、せめてツバメには美しい心を持つのだと信じてほしくなりました。

「ツバメさん、私の体の純金を剥がして、一枚ずつ貧しい人たちに与えてください」

 ツバメはすぐさま嘴で王子の純金を剥がし、人々に分け与えました。剥がすごとにツバメの嘴の力も、羽ばたきの音も弱くなりました。それでもツバメは必死でした。

「さようなら、愛する王子様」

 最後の純金を届け終えるとなんとか王子の肩まで飛び上がり、しゃがれた声で言いました。

「あなたの手にキスをしてもいいですか」

 憐れっぽく問うツバメはすっかり弱っていました。もうつややかな羽もかさついてみすぼらしくなり、誇らしげに膨らんでいた胸もしぼんでいます。その中にあった移り気な心も失い、もうどこにも行けない小さな体があるばかりです。

「あなたはとうとうエジプトに発つのだね。私も嬉しいよ。私の小さな可愛いツバメさん」

 王子の言葉は嘘ではありませんでした。そうだったらいいと、初めて王子は思いました。ツバメはもう充分に王子を愛してくれました。この先誰にも愛されぬみすぼらしい姿を晒そうとも、愛する人が傍にいなくとも、ツバメの愛が王子の愛とは違っていても、エジプトでツバメが別の恋人を見つけても、それでいいと思いました。遠くでツバメの幸福を思うだけで、王子は永遠に幸せでしょう。

「キスは唇にしておくれ。私もあなたを愛しているんだ」

 ですがもう、何もかもが遅いのです。

「ぼくはエジプトには行けません」

 ツバメは言い、最後の力で飛び上がりました。

「ぼくは死ぬんです。死は眠りの兄弟ですよね」

 何度も王子の体を抉った嘴が、王子の唇にキスしました。そのまま、命をなくした小さな体は、王子の足元に落ちました。

 その瞬間、街には奇妙な音が響きました。鉛の心臓が割れる音です。

 ただのみすぼらしい像になった王子は人々の関心を失いました。鋳造しなおすために溶鉱炉に入れられましたが、なぜだか鉛の心臓だけは溶けることなく、ごみ溜めに捨てられました。ごみ溜めにはツバメの亡骸も横たわっていました。

 その頃神が気まぐれを起こし、天使に街で最も尊いものを二つ持ってくるよう命じました。天使はすぐさま鉛の心臓の残骸と、鳥の亡骸を選びました。神は天使の選択に満足し、王子とツバメを天国の庭園の住人としたのです。

「この小さな鳥は美しい声で歌い、王子は永遠に私を賛美するだろう」

 天国の庭園は美しく明るく温かく、人々はみな幸せでした。王子はツバメを指先にとまらせ、ツバメは愛くるしい声で庭園で見たものを話しました。王子はもう歩くことも見ることもできるのに。

「ここはなんて素晴らしい、幸せな場所なんでしょう。愛する王子様」

 王子は微笑みました。そのサファイアと同じ色の瞳の翳りに、ツバメは首をかしげました。

「あなたはまだ悲しいのですか。優しい王子様」

「いいえ。何も悲しいことなどないよ。私の可愛いツバメさん」

 そしてツバメにキスをしました。王子の恋と嘘が殺してしまった憐れな、自分が可哀想だとも知らぬちっぽけな鳥。王子は幸福でした。このツバメさえいれば、王子はどこでも幸福でした。ごみ溜めでさえ、幸福でした。ですがツバメには、もっと違った幸福があったでしょう。重いものを振り払うように、王子は微笑みました。

「天国とはなんと素晴らしい場所だろうね」

 黄金で出来た天の庭。ですが王子の心だけは鉛で、割れたままでした。永遠に。

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