第15話 別離 ――その②

「白峰、そこを離れるなよ!」

僕の胸に広がる絶望とは裏腹に、新沼さんの力強い言葉が耳に響いた。

その直後、治樹と新沼さんは目配せをしつつ同時に躍り出て、集団に喧騒を巻き起こした。

「があああっ!!!!」

最前にいたニット帽の男が、2人の戦意を察したらしく奇声を上げて飛び出した。

「はあっ!!」

しかし、その突き出された拳は目当ての新沼さんに届く事無く、男は側頭部に足刀を叩き込まれてもんどり打った。

治樹の方へはスキンヘッドの大柄な男が掴みかかろうと両の手を振り上げていた。

その迫力に治樹は気圧されたりなどしなかった。むしろ逆に、前へと踏み込んで、高い位置にあるその鳩尾に肘を叩き込んだ。

「ぜぇぇっ!!」

ぐぅぅぅっ、と耳障りな呻きを発して、男は前のめりに崩れ落ちた。

続けざまに襲い掛かる長髪の男を巧みにいなす治樹。バランスを失ったその男を、治樹は新沼さん目掛けて押しのけた。

「ぐおっ!?」

長髪の男は、新沼さんと対峙していたサングラスの男に激突した。無防備を晒したその2人に新沼さんの容赦ない連撃が飛ぶ。

「ふうっ!やああっ!!」

「ぐえぇ!!」「おごぉぁ!!」

このような状況に置かれながらも、新沼さんは不敵な笑みすら浮かべつつ愚痴をこぼした。

「ふん、こっちに処理を押し付けやがって。現役じゃねえからってラクしてんじゃねえよっ。」

それに対し治樹は無言のまま、新たな相手の顔面に突きをうずめて足元に寝そべる者の人数をまた一人増やした。

新沼さんがすごいのは知っていたが、治樹の流れるような動きには唖然とさせられた。彼が中学では空手をやっていたという話は聞いたが、中学といえばもう2年近く前の事である。

ブランクだってある筈だし、正直、これ程までのものとは思っていなかった。

それにしても、こんなに見事にこの人数を捌けるものだろうか・・・まるでマンガの主人公のような2人の動きに、僕はただただ驚嘆するしかなかった。

しかし、この状況をこのままたった2人で楽々と乗り切ってしまえる程、現実は甘くなかった。

既に幾人もの輩を地に這わせた新沼さんの前には、鼻ピアスの男が立ち塞がっている。

その男の攻撃を受け流すため身を躱そうとした新沼さんの足を、地面にうずくまっていたサングラスの男が抱え込んだ。

「くっ!!」

間合いを取る事もままならず、目の前の男の拳が新沼さんの横っ面に入る。

「っつああっ!!」

上半身を弾かれつつも、その反動を利用して回転した新沼さんの裏拳が鼻ピアスの男の顎をぶち抜き、勢いそのままに引き抜いた右足でサングラスの男の顔を踏みつけた。

「智子っ!大丈夫かっ!!」

「バカっ、前っ!!」

一瞬の集中力の綻びをつかれた治樹は、眼前のボウズ頭の男に両肩を捕まれていた。その男はそのまま背を反らし、強烈な頭突きを治樹に見舞う。

体勢を崩して押し込まれた治樹であったが、数歩で踏みとどまり、逆にボウズ頭に頭突きでお返しをすると、ふらついたその男の懐に潜り込んで払い腰のような投げを繰り出した。

「うげぇぇっ!!」

したたかに石畳に叩きつけられて悶える男。

それでもなお、地面に転がる男たちより周囲に立ちはだかる男たちの人数が上回っている。

「はあっ、はあっ。」「ぜえっ、ぜえっ。」

執拗な波状攻撃を、次第に受け切れなくなってきている。加えて、異様な圧迫感の中での戦いが2人の体力を急速に奪っていた。


「ほう、なかなかのもんだな。」


不意に響いたその声に、ぞくり、と悪寒が走り、僕は思わず声を上げそうになった。

言葉を発する事のできる人間が、あの中にいる・・・

そもそも人間が言葉を発し得ないほうが尋常ならざる事ではあるが、周りを見渡す限り、言葉での意思疎通が叶うだけの知性をも奪われたかの様な表情しか見当たらない。

不気味な静けさの中、目の前の包囲に裂け目が生じ、そこから異様な雰囲気を纏った男が歩み出てきた。

ざっくりと刈り上げた短髪に、褐色に焼けた肌、捲られた腕は隆々とした筋肉に覆われ、2m近くありそうな長身から鋭い眼光でこちらを見下ろしている。

正気を失っていると思われる周囲の連中よりも、ある意味、危うい色を灯した瞳だ。

「おい、白峰龍輔!何そこでぼさっと休憩しているんだ?お前の“力”なら切り抜けられる状況だろうが。」

不快な笑みを顔に貼り付けたまま投げかけられた言葉に、僕の動揺は激しさを増す。

治樹と新沼さんは驚きの表情とともに僕に一瞥を寄越したが、すぐさま前方を睨みかえした。

彼の顔には全く見覚えがない。だが、ある種の予感はあった。

この状況は明らかに異常である。単にチンピラが仲間を呼び集めて喧嘩をふっかけているのとは明らかに違う。

そして、僕と治樹と新沼さんの中で最も“異常”な存在は、考えるまでも無く僕だ。

だったら、あの異常な連中の目的は僕なのだろう。

推察と呼ぶにはデタラメな論理だが、実際にあの男が発した言葉は僕の予感が当たった事を示していた。僕自身と、僕の“力”を知っている者にしか発し得ない言葉である。

この道に差し掛かったときに聞こえてきたさざなみの音は、危機が迫っている事を知らせるものだったのだろうか・・・

「ふん、まあいい。おい!そこのバンダナ!」

返答しえずに萎縮するだけの僕に興味を失ったのか、その言葉の向かう先は治樹へとシフトした。

「どうだ?俺に勝ったらこの場を見逃してやるってのは。」

好戦的な目をギラつかせつつ、治樹を挑発する。

治樹は周囲への警戒を切らす事なく、ゆっくりとその男の前に歩み出た。

「2人には、手を出すなよ。」

「大人しくしてりゃあな。」

男は両腕をだらりと脱力させたまま、無造作に歩を進めて治樹との間合いを潰していく。

摺り足で慎重に距離を計っていた治樹であったが、急激にそのリズムを転調させて一気に飛び込み、自らの拳の射程距離に男を捉えた。

その刹那、男は信じがたい速度で強引に己の上半身を捻転させた。

男の繰り出した右フックは、治樹の脇腹に届く直前に辛うじて挟み込んだ肘によりブロックされたが、なおも勢い留まらぬ豪腕は治樹の体を一瞬宙に浮かせた。

バランスを崩して後退った治樹を無駄の無い動きで追い詰める男。体裁を気にする余裕も無く、治樹は咄嗟に地面に転がって追撃を逃れた。

充分な距離を作って体勢を立て直した治樹に、男の嘲笑が飛んだ。

「ハッ!転がって逃げ回るばかりか?」

たった一合だけでも、この男の圧倒的な力量が垣間見える。

「くっ!」

不利を察した新沼さんが駆けつけようとするも、虚ろな目をした取り巻きたちによって彼女の意図は阻まれた。

多少の障害ならば力尽くで排除する心積もりであったろう新沼さんを躊躇わせたのは、立ちはだかる各々が懐から取り出した鈍い光沢を放つ得物の数々だった。

ある者はナイフを、ある者は鉄パイプを携え、無機質な視線をこちらに向けてくる。

その手に武器が加わっただけで、僕たちを囲む不気味な連中の威圧感は桁違いに膨れ上がった。

もはや眼前の対決を見守る事以外、僕たちに残された道は無い様に思われた。

「ふうっ」

小さく息を吐いた治樹は、やや広めだったスタンスを肩幅ほどに狭め、体を揺するように上下にリズムを取り始めた。

その動きは、やがて見るものを惑わす複雑なステップに変わる。

まるでダンスでも踊っているかの様に軽快な動きだ。

「ん・・・?」

「どうしたの?」

不思議そうな新沼さんの声につられて、僕は問いを発した。

「いや、鈴掛は中学まであたしと同じ道場にいたから、基本は空手の動きのはずなんだけど・・・あれはどう見ても、ボクシングとかそっち系のフットワークだろ。」

新沼さんのその言葉に、改めて治樹の動きを観察してみる。

確かに先程まで、治樹はどっしりと腰を据えた構えをしていた。

ただ、背の高い方ではあるけれども大柄とまではいかない体躯に、サッカー部のエースを張るほどの俊足、敏捷な身のこなしを擁する治樹には、今の軽やかな構えの方が見ていてしっくりとくる。

「!」

そんな感想を抱いた次の瞬間、男の間合いに治樹が躊躇無く踏み込んでいた。

それに反応した男の拳が、治樹の顔面目掛けて突き出される。

しかし、治樹は既にそこにはいなかった。

男の右側面にするりと回りこむ治樹。直後、治樹の体が突如宙に舞い上がった。

危険を察知し仰け反った男の鼻先を、治樹のつま先が掠める。

鋭い跳躍から放たれた治樹の飛び後ろ回し蹴りに、今度は男の方が距離をとる形になった。

つ、と男の鼻から一筋の血が垂れる。それを拭いつつ、男は感心した様な表情を治樹に向けた。

「お前、名は?」

「・・・治樹だ。」

一瞬たりとも気の抜けない相手である。治樹は眼前の相手を見据えたまま短く答えた。

「俺は鉄真だ。お前、資質は悪くないな。どうだ、俺に飼われてみないか?」

こんな状況で本気とも冗談ともつかない提案をする鉄真という男に、治樹は怒声を返す。

「ふざけるなっ!お前の手下になんかなるワケねぇだろっ!!」

「そうか・・・そいつは残念だ。」

声のトーンと共に、鉄真の重心が僅かに沈んだ。

今まで無防備に見えるほど悠然と突っ立っていたのが、やや膝に余裕を持たせた姿勢に変わっている。たったそれだけで、鉄真の間合いが何倍にも広がった様に感じられた。

その間合いに飲み込まれるのを嫌い後退を余儀なくされる治樹。

しかし、鉄真はまるで氷面を滑るかの様な摺り足で距離を潰し、治樹に余裕を与えない。

フェイントを入れながら逆方向に弧を描くステップで難を逃れようとした治樹だったが、それすらもやすやすと見破った鉄真にじわりと追い詰められる。

意を決したかのように前へと飛び出す治樹。同時に鉄真も急激に前進の速度を上げた。

2人の距離が一気に縮まる。

治樹は鉄真の顔面に打撃を飛ばすと見せかけ、その懐へ潜り込む動きに転じた。

そんな低い姿勢のさらに下から、鉄真の掌底が治樹の鳩尾を襲った。

「ぐふぅっ・・・!!!!」

信じられない程の衝撃で手品の如く弾け飛んだ治樹は、そのまま並木の1本に突っ込み、その固い幹へとしたたかに背を打ち付けた。

「く・・・はっ・・・」

呼吸する術を失い、ずるずると崩れ落ちる治樹の瞳から、俄かに生気が失われた。

「は、治樹ぃっ!!!!!!!」

僕の呼びかけにハッと顔を上げる治樹。

その眼前には、既に鉄真が迫っていた。

「おらっ!!おらぁっ!!!!」

「うぐふっ、ごはあぁっ・・・!!」

突き上げる拳が幾度も治樹の腹部を襲う。

鉄真は前のめりの治樹の髪を掴んで強引に振り回し、治樹はさらに別の木へと頭から激突した。

「ぐぅぅぅ・・・」

その追撃で完全に意識を昏倒させ、治樹は地面に力なく突っ伏した。

もはや戦う術も逃げる術も失った治樹に、鉄真は冷めやらぬ戦意を双眸に宿したままゆっくりと歩み寄っていく。

やばいっ!・・・やばいっ!!

これ以上攻撃を受けたら・・・死ぬ・・・治樹は死んでしまう!!

「・・・っ、やめろっ!殺す気かっ!!」

悲鳴のような新沼さんの言葉に、鉄真は視線だけをこちらに向けてにやりと笑った。

まるで悪びれる様子の無い不敵な表情に、頭の中で鳴り響く警鐘がボリュームを増す。

そのつもりなんだ。あいつは、鉄真は治樹を殺す気なんだ!!

行かなきゃ!・・・僕が行かなきゃ!!

そう思っていても、体が言う事を聞いてくれない。周りを取り囲む連中から突きつけられた刃物が、僕の足を石畳に縫い付けていた。

体の芯におぞましい寒気を覚えつつも、全身から汗が噴き出して止まらない。

(うぅ・・・くそっ・・・!!)

動いてくれない自分の手足がどうしようもなくもどかしい。

(何で、だよっ・・・)

自分の命など取るに足らない無価値のものだ・・・僕は普段からそう思っている。

僕は世界の中で何ら重要な役割を果たしていない。依存するだけの存在で、誰かを支えたり、助けたりなどしてこなかった人間だ。弱虫で、独り善がりで・・・たとえ僕が死のうとも、1粒の水滴ほども世界に波紋をもたらさない事は疑いない。そして、すぐに僕の存在など忘れ去られる筈だ。


でも、治樹は違う。

面倒見のいい治樹を慕っている人は多いに違いない。友人の痛みや苦しみを、まるで自分の事のように受け止め、全力で励まし、共に抵抗し、道を切り開いてくれる。

治樹が死んだら、どれだけ多くの人間が涙を流す事だろうか。

人柄的にも、能力的にも、治樹を失った際の世界の損失は、僕の場合とは比較にならない程大きいのは明らかだ。

だけど、ここでもし、僕が命に代えて治樹を護る事ができたなら、僕の存在はそれだけで大きな価値を持つものになり得るだろう。

治樹の将来の可能性を考えれば、この場で僕と治樹のどちらが生き延びるべきかは明白だった。

それなのに、この期に及んで、僕は自分の生に執着している。目の前の親友の危機に、何を為す事も出来ず足踏みしている。

どこまで自分は情けないんだろう。

その事が無性に悔しく、恥しくて、僕は足元を見つめて自分の無力さを呪った。

拳を強く握り締め過ぎたせいか、しびれた手からは徐々に感覚が薄れていく。


ガシッ!!


歯噛みする僕の傍らで、鈍い音が響いた。

慌てて振り向くと、スローモーションのようにゆっくりと崩れ行く新沼さんの姿が目に飛び込んできた。

その近くには、取り巻きの1人が鉄パイプを振り切ったそのままのポーズで佇んでいた。

新沼さんの事だ、きっと治樹の窮地を救うため駆け出そうとしたに違いない。僕が持ち得なかった勇気を持ち合わせていたために、彼女は危険な凶器の餌食となってしまったのだ。

「・・・っ!」

ドサッと僕の足元に倒れ、2度、3度と不規則な痙攣を繰り返す新沼さん。彼女のこめかみから血が滲み出てくるのを見て、僕は息を呑んだ。

何も・・・僕は何もできなかった・・・

今日ほど自分に絶望した事は無い。こんな自分など、捨ててしまいたかった。

もう、死ねばいいんだ。

どうせ僕を守ってくれる人はいなくなった。必死に活路を開こうと抵抗していた大切な2人を、僕は木陰で無様に縮こまったまま、成す術無く見捨ててしまったのだから・・・

僕なんてこのまま殺されてしまえばいい。

いっその事、自分が感覚を持たない小石か何かであってくれればよかったと思う。

そうであれば痛みやらを感じずに砕け去る事ができた。

じわじわと精神を侵食する虚無感が、心の全てを真っ黒に染め切ってしまう、その寸前・・・


雷光の様な閃きが僕の脳裏を巡った。


不気味な連中に取り囲まれたときから、無意識ながら頭の隅に描いていた状況・・・それが目の前に実現している事を悟ったのだ。


(・・・気絶してる、2人とも・・・)

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