第15話 別離 ――その①
その日の学校への道のりは、ひたすらに無味乾燥なものだった。
ただ1人、誰とも歩調を合わせず、黙々と歩く・・・
つい1ヶ月前までは普通だった事を味気ないと感じてしまうのは、登校中傍らに涼子ちゃんがいる事が僕にとってそれだけ当たり前になっていたという裏返しなのだろう。
うんざりするほど足が重い。
だが、あまりぐずぐずもしていられなかった。今朝はあの後もしばらくぼーっとしてしまったせいで、早くしないと朝礼に間に合わない。
僕はやや歩調を速め、足を交互に前に出す動作のみに心を集中させた。
校門をくぐり、下駄箱のあたりに差し掛かったところで、僕は、ふと、ある事に気付いた。
(そういえば、家を出て行くったって何も転校する訳じゃないよな。)
つい駆け足になって1年の下駄箱の方に回る。
(神谷涼子、神谷涼子・・・っと、あった!)
中には、涼子ちゃんの靴がきちんと揃えて置いてあった。
この町からいなくなった訳じゃない・・・その事に、とりあえずほっとする僕。
(自分の教室に行く途中に、涼子ちゃんの教室にも寄ってみようかな・・・)
そんな考えが浮かんだが、僕は即座にブンブンと頭を振ってそれを打ち消した。
(やめよう、気持ち悪い。ストーカーみたいじゃないか。)
今涼子ちゃんに会ったところで、一体何を言うべきか、僕には言葉が見つからなかった。
涼子ちゃんにしても、僕に用があるなら向こうからやってくるだろう。それに、涼子ちゃんは自分の意志であの家を出て行ったのだ。
(戻ってきてくれとでも言いに行くのか?)
考えるだけでもバカバカしかった。
お互いこの学校に通い続ける事は変わらないのだから、その内話す機会があってもおかしくはない。
とにかく、今はその時を待とう・・・そう思いながら、僕は靴箱を後にした。
その日の昼休み、僕は自分の席でパンを食べていた。
パンは購買部で買ってきたものである。昼食が涼子ちゃんの弁当でないのも久しぶりの事だ。
溜息を吐きながら、BLTサンドを1カケずつ千切って食べていると、何やら廊下の方がざわつき始めた。
そしてそのざわつきは徐々に音量を増していく。
誰かが近づいてきているのだろうか・・・
でもどうせ自分には関係ない事だと無視を決め込み、黙々と食事を進める僕であったが・・・
「白峰っ、白峰はいるか!」
ざわつきを引き連れていた張本人らしき人物の凛とした声が教室の入り口付近で響いた。声は、間違いなく僕の名を呼んでいる。
聞き覚えのあるその声にビックリして顔を上げると、美しい金色の長髪の持ち主が腕を組んで佇んでいた。
「お、おい、あれって2年の新沼 智子さんだよな。」「え、どういう事?白峰くんと新沼さんに接点なんてあるの?」
教室で昼食をとっている生徒のほとんどが、こっそり新沼さんの方を盗み見ながらのヒソヒソ話に花を咲かせ始めた。
さすがは新沼さんといったところか。色々目立ちそうな人ではあるが、どうやら相当な有名人らしい。
あの不良の・・・みたいな接頭語がちらほら耳につくが、皆がそれほど怯える様子の無いところを見ると、悪名が高いというわけでも無さそうだ。
その有名人が僕を訪ねてきたという事で、少なからず僕のほうにも好奇の視線が寄せられ、どうも居心地が悪い。
つい先程治樹がトイレに立ってこの場にいない事に心底胸を撫で下ろしつつ、僕は彼女に歩み寄りながら返答を返した。
「え、えっと、ここにいるけど、どうしたの?」
僕の背後では、「もしかして白峰くんって、大人しそうな顔してもしかしちゃったりする?」「実はボクシングとか習ってて夜な夜なヤンキーを狩ってるとか・・・」などなど、本人たちも信じていないであろう荒唐無稽な憶測が飛び交っている。
「何か、すまんな、色々騒がしくしちゃったみたいで・・・」
そう苦笑する新沼さんを見て、おそらくは相応の覚悟を持ってこの教室に訪れたであろう新沼さんの顔をこのように綻ばせた事に関し、クラスメイトの無責任な雑談にこのときばかりは感謝した。
「いや、その、気にしなくていいよ。」
相変わらず気の利いた台詞の1つも出てこない自分がもどかしい。
少しの間を空けて、新沼さんが口を開いた。
「あの、さ・・・今日、あたしと一緒に兄貴の見舞いに来てくれないか?」
「え、あ、僕が行ってもいいの?」
「いいも悪いも、こっちが頼んでるんだ。まあ、悪いが兄貴に会わせる事はできないかもしれないけどな。」
それを聞き、僕はその意を察した。
彼女がこの教室を訪れた目的に何となく心当たりはあったのだ。
新沼さんはあの日言っていた。冷静に話ができるようになるまで、数日時間をくれ、と。
さっきは“見舞い”と切り出されて多少面食らったが、当の患者に会う必要が無いと言っている事からも、彼女の目的が見舞いそのものでない事は明らかだ。
彼女は、あの日の事を訊こうとしているのだ。僕が彼女のお兄さんをあんなにしてしまった、あの日の事を。
覚悟を決める時間は僕にも充分与えられていた筈だ。だから、僕はこの申し入れを受ける事を義務に近いものと感じていた。
「うん、行くよ。それで、どうすればいいかな。」
「放課後、校門の近くで待ってる。」
「わかった。放課後に校門で待ち合わせだね。」
「頼んだ。・・・人が大勢いる昼休みに悪いな、放課後だとすれ違いになるかもと思ってさ。」
「い、いいよそんなの気にしなくて。」
「そっか、じゃ、放課後よろしくな。」
「うん、また後で。」
去り際、新沼さんは背を向けたまま僕に向かって軽く右手を上
げた。振り返る事すらしない一見なおざりな挨拶であったが、それでも彼女なりに友好的な態度を示してくれている様に思えて、多少であっても心が軽くなる。
「し、白峰くんって、ああいう感じの友達もいるんだね。」
おずおずと西原が声をかけてきた。
その瞳には若干の怯えのようなものが伺える。考えてみれば、西原は“ああいう感じ”の人たちとは無縁に思える。別段、避けているつもりはないのだろう。だが、そういった住み分けは意識せずとも自然とできてしまうのが常であるらしい。
「まあ、ね。」
曖昧に頭を掻く僕。少なくとも、僕には不似合いな知り合いだというのがクラス満場一致の認識だという事は、先程のみんなの反応からも窺えた。
「さっき、智子のやつが来てたんだって?」
あれだけクラスが賑わったのだ。トイレに立っていた治樹の耳にも、その出来事はすぐに伝わった。
少し前には期せずとも空気を和ませてくれたクラスメートたちに心の中で感謝したばかりだが、せっかく新沼さんの訪問が治樹のいない間だったという幸運をこうも容易く無意味にしてしまわれると、筋違いではあるが恨みたくもなる。
「体育祭のころは勝負がどうのとか言ってなかったっけ?いつの間に仲良くなったんだよお前ら。」
納得のいかない表情を浮かべつつも、治樹が軽口じみた口調でそう漏らす。
「それで、見舞いが何とかって話してたらしいな。そりゃ純一の見舞いに行くって事か?」
「う、うん。そういう事になる、かな。」
治樹の目にあからさまな疑惑の色が浮かんだ。無理も無い。
新沼さんにはお兄さんがいる・・・昨日、治樹がその事を話したとき、僕はいかにも初耳であるかのような反応を返している。
そんな僕が明くる日には新沼さんのお兄さんのお見舞いに行くというのは、いくらなんでも急すぎると思われて当然だろう。
治樹は疑っていた。同じく治樹の知り合いである赤井宏が命を絶った出来事と同様、治樹は新沼さんのお兄さん・・・新沼純一の心を壊した集団転落事件に裏があるという確信めいたものを抱いているようだった。
「おう、だったら丁度いいな。ついでだから俺も一緒に見舞いに行かせてもらうよ。」
「え、いや、その、治樹は部活の方に顔出さなくていいの?」
「そんな心配は要らないよ。今日くらい問題ないって。顧問には上手く言っとくから。待ち合わせとかはどうなってるんだ?」
「えっと、放課後に校門前だって。」
「おっけー、了解。」
あくまで普段どおりながらも、暗に有無を言わさないやり取りで同行を決め込む治樹に、僕は手のひらから嫌な汗が滲むのを感じた。
そして直感する。
もう、逃げ場は失われてしまったのだと。
「おっ、白峰。やっと来たか。」
「ごめんなさい。待たせちゃったかな・・・」
「いや、そうでも・・・ん?」
約束どおり、放課後の校門で顔をあわせる僕と新沼さん。
しかし、新沼さんは僕の肩越しに予期せぬ人物を見出して、首をかしげた。
「おう、智子。久しぶり。」
「何だ、鈴掛。あんたも来るって話は聞いてないけどな。」
そう応答しつつ、新沼さんはこっそり僕に「いいのか?」と問いかけるような視線を送ってくる。
その視線に対し、僕はしぶしぶ頷くしかなかった。
「そんな言い方無いだろ。まるで俺に来て欲しくないみたいじゃないか。」
わざとらしく拗ねて見せる治樹。
普段どおりの気さくな態度ではあるが、それは単に表面を繕っているだけのものである事をこうも僕が感じ取れるのは、長い付き合いだからこそなのだろう。
新沼さんは表情を和らげて治樹の言葉に応じた。
「いや、助かるよ。あんたが来てくれれば兄貴も喜ぶだろうしな。」
新沼さんのお兄さんは治樹の知り合いではあったが、入院している彼が治樹と昔を懐かしむ会話など交わせる状態では無い事を、ここにいる3人ともが知っていた。
学校を出てしばらくの後、僕らは、ひっそりとした並木道に差し掛かった。
木立の中には既に全身が燃える様に染まり切った楓もちらほらと見受けられ、足下に目を落とすと赤褐色の彩りが石畳にまだら模様を描いていた。
ぱりっ、ぱりっ、と、靴の裏に爆ぜる感触が心地よい。
だが、その道を行く僕ら3人を包んだ静寂は、お世辞にも気持ちのよいものではなかった。
それに加え、先程からさざなみの音が僕の鼓膜の奥に広がり始めていた。
何となく、嫌な予感がした。
「なあ、龍輔。」
頃合いを見計らっていたかの様に、治樹が声を掛けてきた。
思わず肩をビクッと震わせる僕。
「お前、知ってるのか?純一に何があったのか・・・」
それは問いの形をとっていながら、事実を確認するかの様な声色だった。
「あ、その・・・」
それ故、僕は誤魔化す術を失って力無く頭を垂れた。
新沼さんの気遣わしげな視線を頬に感じる。
「お前さぁ、何で俺に何も言わないんだよ。」
静かな口調の裏に沸々とたぎる怒り・・・こんな話し方をする治樹を僕は知らなかった。
「あいつも、太田も関わってる事なんだろ?」
「い、いやっ!違うよ!太田先生は全然関係な・・・」
そう否定しかけて、僕は言葉に詰まってしまった。
僕はもう知っているのだ。自分の“力”に関して、太田先生がいくらかの知識を有している事を。そして、おそらくこの“力”に少なからぬ関係を持っているであろう事を。
言い淀んだ僕を見据え、いよいよ苛立ちが表に噴出し始めた治樹が声を荒げた。
「お前っ、太田をかくまって何をするつもりなんだ!?」
力強い腕で、胸倉が鷲掴みにされる。
「お前、俺に何も言わないよなぁ!今回の事だって、太田の事だって・・・何か?俺に言っても仕方の無い事だって言うのか!?俺には関係無いってか!?」
襟首を締め上げる容赦ない握力に、僕はその憤りの深さが想像以上である事を知った。
「俺はさぁ、お前を信じてたんだよ。信じて待ってたんだ。
色々言えない事があっても、俺にならその内打ち明けてくれるってな。」
ああ、そうだ。僕はもっと早く治樹に言うべきだったんだ。
時期じゃないとか、事実が整理できてないとか、何だかんだ自分に言い訳して、治樹から逃げて・・・それ自体が治樹への裏切りだって気付くべきだったんだ。
治樹の激高は、何の前触れもなく突然降って湧いたものではない。幾度も予兆はあった。僕の不誠実さに対する治樹のフラストレーションの増大を暗示するシグナルを、僕はひしひしと感じていた。
「お前の事親友だって思ってたけど、間違いだったか?俺だけ1人で勘違いしてたのかよ。バカみてぇじゃねぇか。」
違う・・・!違う・・・!そうじゃない!
そう言おうとしているのに、声が出せない。
頭の中にぐわんぐわんと治樹の言葉が反響し、なんだか自分がどうやって立っているのかさえあやふやになってきた。
「何人もの命が奪われてるんだ!分かってるのか!?何で太田みたいなのを庇ってんだよっ!!」
噛み締める唇の痛みが伝わってきそうなほどの治樹の表情・・・
「おい、落ち着けよ!おいっ!」
新沼さんが必死に治樹の興奮を抑えようとしてくれているが、治樹はまるで聞く耳を持たない。
「純一は、純一はなぁ・・・あんなんでも、根は純粋なやつなんだよ。人一倍繊細だから、サッカーできなくなった悔しさをどうぶつけていいか分からなくて、苦しんでっ・・・」
言葉を詰まらせながら、目尻を潤わせながら、治樹は訴えを続けた。
「あいつが死にかけたのに、俺は蚊帳の外か!?あいつを・・・あいつをやったやつは、今もどこかでのうのうと過ごしてるってのかよ!?おいっ!!」
息が苦しい。体の奥が見えない何かに締め付けられる。
新沼さんのお兄さんの事を治樹がどれだけ大事に思っているか、先日の彼の回想話から嫌という程思い知らされた。だからこそ、打ち明けられなかった・・・というのは、言い訳にもならない。
治樹は僕に何でも話してくれていた。対して僕は、治樹に誤魔化しばかりを続けた。
これはそんな僕に与えられた罰なのかもしれない。
「お前が誰を許そうとな、俺は絶対許せねぇ・・・なあ、何があったのか言えよ!!」
「・・・っ!」
治樹の言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さった。
そうか、僕は自分を許してしまっていたんだ。
いつに無く饒舌に、いつに無く行動的に・・・
手助けや償いと偽って色々な恩を押し付けて、自分を肯定してもらおうとしていたのが、ここ数週間の僕の姿だ。
そして、それまでの自分を無かった事の様にどこかに押しやろうとしていたに過ぎない。
そんな事で自分を許し、他人にも許してもらおうなんて、都合良過ぎるわがままでしかないというのに。
度し難い間抜けぶりだ。
こんなんだから、太田先生や涼子ちゃんに家族として受け入れてもらっているなんて都合のいい勘違いなんかするのだろう。
『どんな人だって、いろんな想いを持ってて、いろんな悩みに苦しんでるのにね。そんなの、当たり前の事なのに・・・』
先日の西原の言葉が思い起こされる。
新沼さんのお兄さんにしてもその筈なんだ。治樹がこうやって涙を浮かべて怒りを露にする程の大切な存在・・・その人格を、僕が壊したんだ。
それをずっと隠し続けて、いまさら治樹に許してもらおうなんて、そんな勝手が通る訳ない・・・そんなの、分かってたのに・・・
なお昂ぶって怒鳴り声を上げる治樹。傍らでは、新沼さんの制止の声が続いている。
(いいよ、止めなくても・・・僕は庇われるだけの価値のない人間だ。)
諦めが心を支配し、されるがままの僕であったが・・・
耳に届く新沼さんの叫びに、次第に違和感を覚え始める。
何かが変だ。
「・・・い、おいっ!!聞けって言ってるだろっ!周りの様子がおかしいんだよ!!」
いつの間にか、ただの制止では無くなっている。
ようやく新沼さんの言葉に反応して僕の襟首を解放した治樹が、ゆっくりと辺りを見渡す。
「・・・何だ?こいつら・・・」
小さく呟く治樹。
どこからとも無く湧いて出た、かなりの数の人影が、ゆらり、ゆらりと進路、退路を断つように展開していく。
ざっと30人はいるだろうか。身なりから察するに、夜の街にたむろするのが似合いそうな連中である。
そのような輩にこうやって取り囲まれる謂れなどに心当たりはない。
だが、理由を訊いたところで返答は期待できそうにも無かった。
彼らの誰1人として、その瞳に理性の光を宿してはいない。だらしない口元から涎を垂れ流している者さえいる。
何か、非現実的な事が起ころうとしている・・・
そんな予感が僕の背筋を凍りつかせた。
じりじりと後退を余儀なくされた僕たちは、ついに1本の楓の木を背に追い詰められた。
いったい何がどうなっているのか・・・目の前の光景を理解できず呆然と立ち尽くした僕は、頭を混乱させたまま、もたれかかっている木の幹に爪を立てた。
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