第14話 家族 ――その②

僕と涼子ちゃんが自宅近くまで帰ってきたときには、既に日は落ちて、夜道の静寂を松虫の声が際立たせていた。

僕は、映画館での涼子ちゃんの言葉が気になっていた。

『私、ひとりぼっち慣れてるから。』

その呟きの切ない音色が僕の心に引っ掛かって簡単には消えそうに無い。

何となく涼子ちゃんの横顔を見つめていると、こっちを振り向いた涼子ちゃんが不思議そうに首を傾げた。

「ん?どうしたの?」

「あ・・・いや、何でもないよ。」

ここでいきなりその言葉の真意を問うのも無神経だし、今の涼子ちゃんの歩調は弾むように軽く、あの瞬間漂っていた孤独感など微塵もにおわせていない。それなのに、わざわざ蒸し返して涼子ちゃんの上機嫌に水を差すのは気が引ける。

「それより、早く帰らないと太田先生お腹空かせてそうだね。」

「んー、そうねぇ。でも今日はちょっと疲れたし、父さんがご飯作っててくれないかな。この際あの大雑把なカレーでも構わないから。」

太田先生の作る大雑把なカレーとやらを食べた事は無いが、あの性格で料理を手がけたらどんな風になるかは大体予想がついた。

「あはは、まあ、疲れてるなら僕も手伝うよ。」

そう言いつつ玄関前に差し掛かったとき、僕は言い知れぬ違和感を覚えた。

(あれ、誰か来てる?)

「・・・ただいま・・・」

挨拶とともに扉を開け放ったとき、それは確信に変わった。

そこに揃えて置かれた見慣れない靴にギクリとする僕。いや、見慣れないというより、最近見ていない靴と言った方がいいだろう。

それは紛れも無く、母さんの履く靴だった。

(う・・・)

冷や汗が額に滲む。

「龍輔、ちょっとこっちに来なさい。」

リビングから、ピンと張り詰めた冷たい声が届いてきた。それを聞いたからにはもう疑いようが無い。母さんが来ているのだ。

僕はとりあえず言われるがまま声の方に向かう。傍らの涼子ちゃんの顔からは、最早完全に笑みが失われていた。

リビングに辿り着くと、そこには向かい合って座る太田先生と母さんの姿があった。

二人の前には湯飲みが湯気を立てている。

「そっちに座りなさい。」

母さんに促されて、僕と涼子ちゃんは太田先生と並ぶようにテーブルについた。母さんは僕らの前にも湯飲みを置いて、無言でお茶を注いだ。

しばしの沈黙の後、口を開いたのは母さんだった。

「あなた、ここしばらくその二人をこの家に住まわせてるんですってね。」

「・・・そう、だけど?」

静かながらも怒りの滲み出た口調にたじろぎそうになりながら、僕は努めて平静に答えを返した。

大体、母さんがどう思おうとも、僕は決して悪い事はしていないし、母さんにとやかく言われる筋合いも無い。

「何か、母さんに言う事無いの?」

「無いよ。何を言えっていうんだよ。」

「・・・あなた、ここを誰の家だと思ってるの?」

問い掛ける母さんの語尾が震える。

「知らないよ。登記名義の事言ってるの?いいだろ!そんな事どうでも!

ここには僕が住んでて、この二人を客人として泊めてるんだ。それだけの事だよ!」

「あの・・・」

事態の成り行きを不安そうに見守っていた涼子ちゃんが、おずおずと口を挟んできた。

「ご家族の了承を得ずに勝手に上がりこんだのはこっちの落ち度です。だから、その・・・」

「謝る必要なんか無いって。」

「でも・・・」

「いいからっ!」

いたずらを咎める様な母さんの高圧的な物言いに、僕は心底腹を立てていた。

連絡もせずにいきなり現れたと思ったら、何を勝手な事ばかり言って来るのか。

そんな僕らのやり取りを静観していた太田先生が、おもむろに煙草を取り出した。

「・・・煙草はやめてもらえます?」

「おっと、これは失礼。」

母さんが噛みつくと、先生は素直に出した煙草を懐に仕舞う。

それでも母さんが先生に向けた矛は納まらなかった。

「第一、あなたのような大人がついているんでしたら、もっと分別のある行動をなされたらどうですか?人の家に無断で住み着くなんて、どういうつもりですか!」

キンキンと響く甲高い声が、僕のイライラを増幅させた。

たまにしか顔を見せないくせに随分と偉そうな事を言う。

熱されて気化した感情が体内で蒸気となってその圧力を増していった。

そんな僕の様子に気付く事無く、母さんは先生への罵倒を続けた。

「あなた先生をされてるというお話ですよね?でしたら学生を教え導くのが本来の役目でしょう?

あなたみたいな無責任な行動を取られる先生がいらっしゃるから、教師への信頼が失われていくんです!私たち親は誰を信頼すればいいんですか!

・・・出て行ってください。すぐにでも!!」


「いい加減にしてよっ!!」


カッとなった僕は、思わず大声を張り上げていた。

「母さんこそどういうつもりだよ!

二年間、僕はここで自分で生活してきたんだ。今更余計な口出ししないでくれるかな。僕が何か母さんに迷惑掛けた?この二人が母さんに何したって言うの?

僕の事はほっといてくれりゃあいいだろっ!

誰が無責任だって?母さんは自分が信頼されてると思ってるの!?」

「・・・それが、あなたの意見なのね。」

激情を押し殺すような声でそう言う母さんに、僕は一切容赦しなかった。

「そうだよ。母さんのほうこそ、もう帰ってくれ!出て行ってくれよ!!」

温かいご飯、他愛も無い会話が僕を待ち受けてくれる・・・ようやく僕は、寝食のためのただの箱ではない“帰る家”を手に入れたのだ。それをかけがえ無く思っている自分に、僕自身この時初めて気付いた。

だからこそ、今になってのこのこ出てきて全てをぶち壊しにしようとする母さんが許せなかった。

がたんっ、と音を立てて、母さんが立ち上がる。

「分かった。勝手にすればいいでしょ。私はもう何も言わないから。」

僕は黙ったまま、その背中を玄関まで見送った。

「・・・それじゃ、もう行くからね。」

振り向きもせずにそう言葉を寄越す母さん。

早く行けばいい。引き止められるのを待っているとしたら大間違いだ。

「次に私が来るまでに、少し頭を冷やしてなさい。」

母さんの物言いはいちいち癪に障る。

「頭を冷やすのは母さんの方だよ。それに・・・」

僕は、思いっきり皮肉を込めて言い放った。

「そういうのを、母親面してるって言うんだ。」


ぱしぃっ!!


瞬間、頬に軽い衝撃が走った。

叩かれたのだ、母さんに。

覚えている限り、母さんに叩かれたのは初めての経験だった。

こちらを見つめる母さんの瞳には、今にも零れそうな程涙が溜まっていた。

興奮で乱れた息遣いが、その胸を上下させている。

切羽詰ったその表情に、僕の動悸も激しくなった。

今までなら、こんな風になる前に僕が母さんをなだめる事で事態が収拾していた。

でも今夜は、僕は引かなかった。引くべきではないと思ったからだ。


結局、母さんは何も言わないまま、踵を返して走り去っていった。自分の頬に手を当てると、じんっと微かに熱を帯びていた。

「・・・追わなくていいのか。」

「必要無いです。」

太田先生の問いに、僕は即答した。追い掛け、追い付いたとしても、僕は母さんに掛ける言葉を持っていない。

「それより、早くご飯にしましょう!もうお腹空き過ぎてどうにかなりそうだし・・・そうだ!涼子ちゃん、先刻帰り道にカレーの話してて何か食べたくなっちゃったから、今日はカレーにしよう!もちろん“大雑把じゃない”カレーね。僕も一緒に作るよ。」

「えっ、うん。いいけど・・・」

涼子ちゃんも、太田先生も、先程までの事を引き摺る様に深刻な表情をしていて、これでは何だが僕一人が空回っているみたいだ。

二人には、今しがたのくだらない出来事などすぐに忘れて欲しかった。

こんな揉め事に二人が気を煩わす必要なんて無い。

「ほらほら、涼子ちゃん早くっ!」

僕は涼子ちゃんを台所まで引っ張って行き、そのまま夕食の支度を始めた。

「やっぱり、先生の大雑把なカレーってのも気になるなぁ。ねぇ先生、一体どんなカレーなんですか?」

「何だ?さっきから大雑把大雑把って・・・涼子から聞いたのか?いいんだよ。カレーってのは大雑把なくらいが丁度良くてウマイんだ。」

「あはははっ!まあ間違いでは無いですね。」

こうして、辺りを包む雰囲気はなし崩しに元の日常のものへと帰っていった。

・・・これでいいんだ。

僕は心からそう思った。

太田先生と涼子ちゃんに囲まれたこの場所こそが僕にとっての家庭なんだ。

母さんが何と言おうと、僕はこの団欒を失いたくない。

その事に気付けたのだから・・・



翌朝、僕はいつも通りの時間に目を覚ました。

窓から差し込むほの温かい日差しと、清廉な空気が心地いい。

何もかもいつも通りの朝だ。

一つだけいつもと違うとすれば、この日常の大切さを僕自身が実感して迎えた初めての朝だという事だろうか。

目を擦りながら、僕は階段を下りてキッチンに向かう。

そこからは、いつも通り朝食の美味しそうな匂いが・・・


匂いが、してこない・・・


(ん?涼子ちゃん寝坊でもしたのかな?)

不思議に思いつつ、僕はそのまま歩を進める。

キッチンには、誰もいなかった。

(やっぱり、涼子ちゃんはまだ部屋かな。起こしに行った方がいいかも。

でも、万が一着替え中とかだったら何て言われるか・・・)

そう逡巡している内に、僕はテーブルの上に何やら紙切れが置かれている事に気付いた。

(・・・置き書き?)

言い知れぬ悪寒が僕の背中に張り付いた。

いつもの日常・・・僕はただ、そう思い込もうとしていただけなのかもしれない。

静か過ぎるのだ。この家全体が。まるでもぬけの殻になったかの様に。

恐る恐る、その紙切れを手にとって目を通す。そこには、二種類の筆跡で文字が記されていた。

『俺と涼子はここを出て行く事にした。塾講のバイトで丁度金も貯まったところだしな。色々と迷惑を掛けてすまなかった。』

太田先生の文章は簡潔極まりないもので、認めたくなくてもその意味を取り違える事などできそうになかった。

続けて綴られていたのは、涼子ちゃんの言葉。

『今だから言うけど、龍輔さんとの生活、結構楽しかったです。

私、母親の愛情とかよく分からないけど、龍輔さんのお母さんは間違いなく龍輔さんを愛してるんだと思います。

私もああいう風に母親にやさしくたたかれてみたかったな。

これからはお母さんの事大切にしてあげてください。

それじゃ、さよなら。今までありがとう。』

読みながら、僕は胸に穿たれた虫食いのような喪失感が体の隅々にまで広がっていくのを感じていた。

(・・・っ!そうだ!出て行くっていったって荷造りとか結構時間掛かるんじゃないか!?)

まだこの家に残ってるかもしれない・・・

一縷の望みに賭け、僕は涼子ちゃんの部屋へと走った。

その勢いのままにドアノブに手を掛けるも、僕はなかなかノブを捻る事が出来ない。

(先刻、着替え中だったらまずいって自制したばかりじゃないか・・・)

不意に浮かんだそんな思考が現実逃避だという事は分かっている。

このままでは埒が明かない。

僕は思い切って、ドアを開け放った。


部屋からは、涼子ちゃんの生活していた痕跡が何もかも消え去っていた。


涼子ちゃんがここに来る以前とまるで変わらない部屋・・・

これは、母さんの部屋だ。

力が抜け、僕はその場にへたり込んだ。

(・・・勝手すぎるよ!こんなのっ!)

床に拳を叩きつけながら、心の中で悪態を吐く。

つまりは、そういう事だったんだ。

家族だとか何だとか、僕一人が勝手に浮かれていただけだったんだ。

無理もない、太田先生も、涼子ちゃんも、結局は赤の他人なのだから。

二人にしてみれば、僕の家での生活など、もとより一定期間の逗留に過ぎなかったという事だろう。丁度頃合いだから・・・それだけの事で出て行けるくらい、取るに足りないものなのだ。

(くそっ、大体、僕をお兄ちゃんって呼んでいいかなんて訊いてきたのは、涼子ちゃんのほうじゃないか!)

あの時それを了承していれば、二人は出て行かずに済んだのだろうか・・・

そんな訳ない・・・無為な想像とは知りつつも、僕の思考はそういったどうしようもない事に囚われていた。

がらんどうの我が家をこれ程広過ぎると感じたのは初めてだ。

寒々とした空間に耐えられず、僕はエアコンのスイッチを入れた。勢いよく吹き出た暖気が頬を撫でるも、こんなもので冷え切った胸の奥が暖められたりしない事は百も承知だった。

「ああああっ!」

呻きを上げながら、僕は頭を掻き毟る。

ぐだぐだと考えていても仕方ない。

(だったら・・・)

僕だって、あの二人をどうでもいいと思い直せばいい事だ。

認識が間違っていたのなら正せばいい。

立てた膝に力を込めて、僕は立ち上がった。

何の事は無い、二人が来る以前の生活に戻るだけなのだから。

(そう、問題なんて何も無いさ。僕だって・・・)


僕だって、ひとりぼっちは慣れてるんだ。

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