第8話 力 ――その②
僕のせいじゃない・・・確かに、そうかもしれない。
望んで得た力ではないし、望んでその力を振るっているわけでもない。
そう、“サイト”という名の毒蛇が鎌首を擡げるとき、僕の中に、自分ではない何者かが芽生えるのを感じるのだ。
自分ではない自分・・・いや、あるいは毒蛇こそが自分の本性なのかもしれない。
なら、普段の自分は一体何なのだろう?
僕は、本当は誰? 誰が、本当の僕?
分からない・・・
分かる訳がない、そんな事・・・
「龍輔さん?」
背後から涼子ちゃんの声が聞こえた。
振り返って涼子ちゃんの顔を見る。少し赤くなった目に、涙はもう無かった。
「私こそ、ごめん。ちょっと焦りすぎてたみたい。・・・コーヒーでも飲まない?」
「・・・うん、飲みたいかも。」
「それじゃ、淹れてくるね。」
そう言って、涼子ちゃんは部屋を出て行った。
改めて部屋を見渡す。女の子の部屋に上がる事などそうは無いので、1人きりになると少し落ち着かない。
(・・・って、ここは自分の家じゃないか。そんな事でどうする!)
自分にツッコミを入れつつ、ぬいぐるみの数々を眺めていると、その中に見覚えのある物を幾つか見つけた。
(あれは、西原と3人でデパートに行ったときのやつだな・・・)
昨日の事のように思い出せる。リップカラーを塗って恥かしがる彼女・・・無言でぬいぐるみの品定めをする彼女・・・冷たく、無感動なようで、時折女の子らしい一面を見せる彼女・・・
少し前まで、全くの他人だったはずの涼子ちゃん。以前は名前も知らなかった彼女とこの家で一緒に過ごすようになってから、いつの間にか、彼女が側に居る事が日常になりつつある。
視線を自分の両手に落とし、目に映った掌が閉じ開きするのを確認する。
自分だ。やはり自分なのだ。涼子ちゃんに力の矛先を向け、彼女を追い詰めたのは。
このままでは、取り返しのつかない事になるかもしれない。
ガチャッ
「おまたせ。」
2つのカップを盆に乗せ、涼子ちゃんが戻ってきた。
モカとキリマンジャロのブレンド・・・香り立つ気品を損ねないように、角砂糖1つとミルクを1つ・・・涼子ちゃんと僕の味覚には、かなり共通するところがあるらしい。
ドリップで丁寧に淹れられたコーヒーを口に含むと、胸の淀みをまるごと溶かされるような感覚に襲われ、僕はホッと溜息をついた。
「ところで龍輔さんって、どうして1人暮らししてるの?」
「え、知らなかったっけ?」
「知ってるわけないじゃない。龍輔さんから聞いてないし。」
それもそうだけど・・・涼子ちゃんの唐突な質問は、あまりといえばあまりである。僕の1人暮らしに付けこんで空き部屋に住み着いておいて、今さら理由を訊いてくるその神経・・・涼子ちゃんらしいと言ってしまえばそれまでだが。
「まあ、普通に・・・父の転勤で両親が九州にいるから、僕は学校に通うためにここに残ったんだ。」
僕の答えに、涼子ちゃんは首をかしげた。
「普通じゃないと思う。普通なら、子供1人を残したりしないんじゃない?」
「本当はみんなで引越しの予定だったらしいんだけど、僕がわがまま言ってこっちの高校に通わせてもらってるんだよ。」
「寂しくないの?」
「最近賑やかになったしね。」
「どうして転校とかしなかったの?」
「う~ん、何となく。面倒だし。」
どうしてと問われても、僕は理由を言葉にしづらかった。色んな葛藤があった気もするが。今さらそのときの心情をすっきりと言語化できる自信は無いし、できたとしてもどうせ取るに足りない幼稚な文章が仕上がるだけだろう。
身も蓋も無い言い方をすれば、僕は説明するのがおっくうだったのだ。
そんな僕の返事を涼子ちゃんはまじめに受け止め、「龍輔さん、強いね。」と1人納得していた。どういう過程を経てそういう結論に達したのか想像もつかない。
「ところで、涼子ちゃんの両親は、その・・・」
それは、前々から気になっていた疑問である。太田真澄先生と神谷涼子ちゃん・・・親子を称する2人の姓がなぜ違うのかについて、僕は初めて触れようとしていた。何も訊かずに門戸を開放しておいて、今さら理由を訊く僕も僕だ。
「ん?ああ、父さんと母さんが離婚して、今は母方の姓を名乗ってるの。」
事も無げに言ってのける涼子ちゃんの方が、感歎に値する。
涼子ちゃんは更に続けた。
「8歳の時だったかな・・・何かね、親権を巡った裁判まであったらしいよ。
それで、母さんが親権を勝ち取って、神谷姓を名乗る事になったってワケ。ホントの事言うとよく覚えてないんだけどね。」
「あ、その・・・」
言葉を詰まらせた僕に、涼子ちゃんは微笑みながら「そんな顔しないで」と言った。昔の事だし、もう何か感じる事も無い・・・と。
しかし、それならそれで、また別の疑問が生じる。涼子ちゃんが一度は母方に引き取られたと言うのであれば・・・
「どうして、今は太田先生と一緒なの?母親は?」
僕の問いにすぐには答えず、涼子ちゃんは窓に視線を移した。つられて涼子ちゃんの視線を追った僕・・・
ぞくっ
誰かと、目が合った。
それは、窓ガラスに映りこんだ涼子ちゃん。
その瞳に僅かに危険な色が浮かんだように感じたのは、僕の気のせいだろうか。
「あの人は、他人を研究材料としか見てない人だから。」
静かに、涼子ちゃんは告げた。
「要女・・・神谷要女・・・それが私の母親の名前。」
ばらばらのピースが、少しずつ組みあがっていく予感がした。
“他人を研究材料としか見ていない人”
しかしその表現は、僕が要女先生から受けた印象とは正反対と言っていい程にかけ離れていた。
先日の集団飛び降り事件の際、要女先生の言葉が僕にとってどれだけ救いになった事か・・・
(もし、僕が入院したのが要女先生の所じゃなかったら・・・)
ここにいるのは、歯車がずれたままどうにも修正の効かなくなった僕だったかもしれない。
もちろん、涼子ちゃんの語った人物が“かなめ”という名の別人である可能性も考えた。
しかし、涼子ちゃんは確かに言ったのだ。
「龍輔さんがあの人の所から電話をかけてきたときは、私すごくびっくりした。」
そういえば、僕も驚いた。あの時、太田先生が要女先生の事を知人のように語ったからだ。
全てのベクトルが、“涼子ちゃんの母親は要女先生である”という方向を指していた。そしてそれは、とりもなおさず、涼子ちゃんがあの要女先生を“人を研究材料としか見ていない人”と称したという事実に帰結する。
2人の間にどんなわだかまりがあるかは知らない。
だが僕には、涼子ちゃんの言葉を“へぇ~、そうなんだ。”と無条件に受け入れる事は出来なかった。
「要女先生と何があったか知らないけど、思い違いって事もあるんじゃないの?」
「知らないなら、勝手な事言わないで。」
僕の意見に、間髪入れず涼子ちゃんの冷たい返事が飛んできた。
涼子ちゃんの雰囲気は、先刻までの穏やかな様子から一転、ピリピリと張り詰めている。
僕は自分の迂闊さを呪った。涼子ちゃんがあまりにも気丈だったから、彼女の両親の話題でタブーは無いと勝手に結論付けていた。
涼子ちゃんはぷいと後ろを向いて、机の引き出しを何やらごそごそと漁っている。
「どうでもいい事なの。もう昔の話。これから先あの人と会う事も無いだろうし、私は父さんとずっと暮らしていく・・・それだけの事。」
背中を向けたまま一息にそういい切る涼子ちゃん。彼女は振り返ると、1冊のファイルを僕によこした。
「なに?これ・・・」
「・・・」
涼子ちゃんは喋らない。
(中を見ろという事かな・・・)
パラパラとめくってみる。中にはコピー用紙がノート1冊分ほど挟まっていた。
手書きのメモもしくは日記のような物をコピーしてファイルにまとめてあるようだ。
ざっと目を通しただけでも、何やら物騒な単語が幾つも飛び込んできた。
僕は次第に引き込まれ、今度は丁寧に文章を追っていった。
【○○年11月8日】
本人の承諾を得て、協力者にMDMAを主とする合成麻薬を投与、人為的に精神錯乱の状態を作り出す。以後、この被験者をAと呼ぶ。
【○○年11月9日】
AにTNF-α分泌調整ベクター試薬α-01(以後、試薬α-01)を投与。Aの容態に顕著な回復が見られる。抗体の過剰反応なし。
【○○年11月12日】
Aの経過は順調。脈拍、脳波、ともに異常なし。採取した血液の白血球量も正常。
【○○年11月13日】
Aの容態は引き続き安定。精神状態も概ね良好。
余白には、難解な化学式や数式がびっしりと書き込まれていた。大半は僕にとって理解不能なものばかりだが、1つだけ確かな事がある。
これは紛れも無く、新薬に関する人体実験の記録だ。
新薬の被験者はリスキーな代わりに高額な報酬が魅力のバイトだというのをテレビか何かで聞いた事がある。正式な手続きを経て行われた実験であれば問題は無いのだろう。
だが、このファイルに書かれている事が合法の域を踏み越えているという事は、知識の無い僕から見ても明らかだった。
【○○年11月22日】
Aの容態が急変。躁状態と鬱状態を繰り返し、意味不明の言葉を繰り返しつぶやく。試薬α-01以外にSNRI系の抗鬱剤を追加投与し、症状の沈静を図る。
【○○年11月23日】
Aの容態は更に悪化。頻繁な嘔吐に加え、失禁を確認。試薬α-01の投与量を5.0mg減らし、引き続きSNRIとの併用を行う。
どうやら、実験は筋書き通りには進まなかったようだ。
淡々とした文章で綴られているものの、壮絶な状況であっただろう事は想像できた。
被験者は完全に自失に陥り、強度の薬物中毒の様な悲惨な状況に追い込まれたらしい。
異様な胸の悪さを覚え、堪らずに唾を飲み込む。
以降、Aの容態を改善するために八方手を尽くす様子が続いた。
そして結局、次の記述でファイルは締めくくられていた。
【○○年12月6日】
試薬α-01の継続投与を断念。以後、Aへの処置を麻薬精神病治療に切り替える。
(涼子ちゃんの話の流れから考えて、これは・・・)
ファイルを閉じ、恐る恐る涼子ちゃんに訊いてみる。
「もしかして、このファイル・・・」
「あの人の所を飛び出すときに、こっそりコピーを取って持ち出したの。あの人の罪の一端をね。いざという時の切り札のために。」
それは、僕が今まで知る事の無かった、要女先生の研究者としての一面。
ファイルに記された年号を見直すと、随分と昔に行われた実験のようだった。ギリギリ僕が生まれた頃の出来事。涼子ちゃんはまだこの世に生を受けていない。
よくよく考えてみれば、そんな昔の話は何らかの形ですでに清算されていて然るべきである。
被験者Aがその後どのような運命を辿ったかは知らないが、要女先生の犯した罪は消えない。それはどうしようもない事実だ。
しかし、その事実を知らず“今の要女先生”を先入観なしに見てきた僕は、自分が乳飲み児の頃の出来事で先生を責める気にはどうしてもなれなかった。
今の要女先生は、医師免許も持てずに日陰者として怪我人や病人の世話をする毎日。16年という歳月は、禊には充分な期間ではないだろうか。
だが、涼子ちゃんからしてみれば、このノートを見つけた時のショックはとても言い表せない程のものだったに違いない。
ノートがかなり昔のものであっても関係ない・・・実の母親だからこそ許せない・・・そう憤慨するのも無理からぬ事だ。
どちらにせよ、僕が口を挟める問題ではないと思う。いくら頭をひねったところで、僕の口が紡ぎ得るのは実の無い空論でしかない。
涼子ちゃんが歩んできた人生に比べ、僕の人生のなんと薄っぺらな事か・・・
流されるまま、何も成さずに当たり障りなく生きてきた僕が、涼子ちゃんにどんな言葉を掛けられるというのだろう。
黙ったままの僕・・・先に口を開いたのは涼子ちゃんだった。
「・・・お父さん。」
「えっ?」
その呟きの真意を計りかねて、僕は思わず訊き返した。
「お父さんなの。」
何がお父さんなのだろう?
このメモを残した研究者?いや、話の流れから、それは要女先生以外に考えられない。
話の流れというならば、推理できる可能性はあと1つくらいしか残っていない・・・道は1本のはずなのに、僕は目の前にあるその道に気付きすらしなかった。無意識の内に、僕は正解に辿り着くのを拒んでいたのかもしれない。
答えは、涼子ちゃんの口から語られた。
「そこに書いてある、被験者Aっていうのは、私のお父さんの事なの。」
頭を殴りつけられたような衝撃だった。
涼子ちゃんのお父さん、それはすなわち太田先生その人。
太田先生が、あの太田先生が、被験者として色々な薬品を投与され、精神をかき回され、モルモットのような扱いを受けた・・・
おそらく、太田先生は当時、要女先生と友人以上の関係だったはずである。
翌年に涼子ちゃんが生まれている事を考えれば、その可能性が極めて高い。
つまり、要女先生は自分の恋人に危険な実験を強いて、その上、大失態を演じていたのだ。
気付く筈が無い。気付ける訳が無い。ファイルを見る限り、実験者が被験者に寄せる想いなど微塵も伝わってこない。
ただ事務的に綴られたその文章が、先刻とは違ってやけに腹立たしく思えた。
涼子ちゃんは、その事を知ってどれだけ苦しんだだろうか・・・同情などという言葉がおこがましい程、事実は想像を超えていた。
何の気まぐれか知らないが、思い出したくもないだろう自身の過去について語った涼子ちゃん。それなのに、何の励ましの言葉も持たない自分がもどかしかった。
せめて、涼子ちゃんのつらさの1割でも背負ってあげたい・・・そう思うと、僕の手は自然と涼子ちゃんの額に伸びた。
「あっ」
僕の指が涼子ちゃんに触れると、涼子ちゃんは少しびっくりしたような顔をして、伏せていた視線をつと上げた。
心を落ち着けるために僕が思い浮かべたのは、涼子ちゃんの事。
涼子ちゃんに出会った日、食堂でのおかしな会食。
お風呂で背中を流してもらった、恥ずかしい思い出。
先刻の夕食での、秋刀魚を巡った言い争い。
他愛も無い出来事の数々が、なぜかとても貴重なものに思えた。
トクン トクン
鼓動が聞こえる。
この音は、僕の心臓が発しているのだろうか・・・それとも、涼子ちゃんの心臓だろうか・・・
自分と涼子ちゃんの境目がどんどん曖昧になる・・・
それは、不思議な感覚だった。
次の瞬間、僕は胸の辺りに刺し込むような痛みを覚えた。得体の知れない悲しみの雫が、ひたひたと僕の心を侵食してゆく。
(これが、いわゆるシンクロというやつかな・・・)
涼子ちゃんや太田先生が持つ“力”
相手の心を感じ取る能力を、僕はようやく習得したのだ。
人の心の奥には、混沌とした感情の塊がある。それを人は、過去の経験と照らし合わせて、自分の感情に意味を与えている。
言い換えれば、経験を伴わない感情はその人の中で意味づけされず、定着しないままに消滅するという事ではないだろうか?
つまりは、涼子ちゃんの過去に見合うだけの何かしらの経験を持たない僕であればこそ、涼子ちゃんから押し寄せる感情の波に潰される事も無い。
得体の知れない悲しみ・・・それは得体の知れないまま僕の中で渦巻き、そして得体の知れないまま消えていくはずだ。
(涼子ちゃんのつらさに比べれば、こんなもの・・・)
そう思う事で、僕は何とか耐える事が出来た。
(涼子ちゃんは、こんなに重いものを胸の内に抱えてたんだ・・・)
少し、涙が出そうになった。
一方で、涼子ちゃんが今までより身近になったように感じられて、ちょっと嬉しかった。
涼子ちゃんの額から、そっと手を離す。
「・・・ありがとう。」
そう言って、涼子ちゃんは微笑んだ。
綺麗な笑顔だった。涼子ちゃんはこんな風に笑う娘だっただろうか。
「ごめん、龍輔さんの相談に乗ってたはずなのに、なんか、私の方が愚痴ばっかり・・・」
実際には、涼子ちゃんは愚痴など言っていない。でも、僕たちは確かに“心”で会話していた。
上目遣いで僕を見る涼子ちゃん。
シミ1つ無い涼子ちゃんの顔・・・こうやって間近で見ると、その美しさは芸術品のように繊細だ。
涼子ちゃんの瞳の中に自分の影が映っているのを見つけ、改めてお互いの距離の近さを意識する。
彼女の瞳の放つ神秘的な光に吸い込まれそうな感覚に囚われた。
瞳に映った僕の顔が、徐々に大きくなっていく・・・
(な、僕は一体何をっ・・・!!)
他ならぬ僕自身が、涼子ちゃんに迫るように近づいているのだ。
(や、やばいって。これ以上近づくと・・・)
理性の声が、どこか遠い国の戯曲の様に音を失う。
涼子ちゃんは、ビデオの静止画面みたいに、固まったまま動かない。
ドッ ドッ ドッ ・・・・
鼓動が高鳴り、さらに加速していく。
お互いの鼻が、かろうじて衝突を避け、交差する。
そして・・・
ガチャッ
「おーい、今帰ったぞ~~~!」
太田先生の帰宅は、絶妙のタイミングだった。
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