第9話 勝負 ――その①
心地よい飛沫を顔中に受け、僕は髪をかき上げた。外に面した擦りガラスの窓から射す光は、この時間にしてはほの暗く、今日の天気が芳しくない事を伺わせた。
明け方、思いのほか早く目覚めてしまい、浴室でシャワーを浴びる僕。
昨晩はどうも興奮していて、眠りが浅かった気がする。
無理もない。女の子の顔があそこまで近くに迫ったのは、僕の人生で初めての出来事だったから・・・
中学の頃は、女子からはとにかく毛虫のように疎まれた。
高校では、別にいじめにはあっていない。だが、周囲の女子は僕の事を、“よく分からない人”と認識しているに違いない。例えば早朝の教室でたまたま女の子と2人きりになった時など、相手は大抵気まずそうに時計を見たり携帯メールを打ったりする。
そういうシチュエーションで、「おはよう」と言って笑いかけてくれるのは、西原くらいのものだ。
(昨日、僕は何で、あんな事を・・・)
もう少しで、僕の唇は涼子ちゃんの唇に触れていただろう。
(好きなのかな、涼子ちゃんの事。)
あの瞬間、涼子ちゃんが、とても儚く、危ういものに見えた。
彼女の存在を引き止めたい・・・涼子ちゃんの欠けた心に、僕の欠けた心を重ねれば、救われる気がした。
通じ合えると感じた・・・それは都合のよい錯覚。
太田先生の帰宅で魔法が解けると、そこには滑稽な姿勢のまま固まった僕がいた。
「あ、お帰りなさい!」と、逃げるように玄関に走っていく涼子ちゃん。
何の事は無い、涼子ちゃんは僕の卑怯な不意打ちに身動きが取れなくなっていただけなのだ。
あの後、涼子ちゃんとも太田先生とも何となく顔を合わせづらかった。
1人自分の部屋にこもって、覚える気の無い英単語帳をめくった。
それにも飽きて、何もやる事が無くなったので、僕は仕方なくベッドにもぐりこんだ。
ようやく寝付いたのが多分1時過ぎ頃。そして目覚めたのが5時半。充分な睡眠も取れないまま、僕はのろのろと這い起きて、浴室で自己嫌悪中というわけだ。
シャワーの水が、このモヤモヤした気持ちまで全部洗い流してくれたら、どんなに楽だろうか。
無為な想像に駆られつつ大きな溜息を吐いた僕は、1つ重大な事に気がついた。
結局、自分はサイトについてまだ何も知らないという事に・・・
油断すると風邪の1つも引いてしまいかねない季節の変わり目。浴室を出てしっかり体を拭き、頭をよく乾かした僕は、黒のスラックスに白いワイシャツ、インナーセーターを着込んだ。
キッチンに向かうと、そこには涼子ちゃんの後姿があった。
(ああ、もう起きてたんだ。)
パジャマのままの涼子ちゃんは、まな板に向かって味噌汁の具を刻んでいた。
「お、おはよう。」
気まずいながらも、僕は朝の挨拶を口にした。
「・・・おはよう。」
応じた声から、突き放すような冷たさを感じた。やはり涼子ちゃんは怒っているのだ。
「あのっ、昨日はごめん!軽はずみであんな事しちゃって・・・」
僕の言葉に涼子ちゃんはすぐには応えず、ゆっくりとこちらに振り向いた。
「軽はずみ・・・ね・・・」
目を細めて僕を睨みつける涼子ちゃん。
「今度、しようとしたら、怒るからね。」
じゃあ、今は怒っていない・・・というわけでも無さそうである。
涼子ちゃんの一言は、もしかしたら涼子ちゃんが許してくれるのではないかという僕の淡い期待を、脆くも打ち砕いた。
僕の事を、異性として好んでくれる女の子なんて、いるわけない。そんな事は分かりきっていたのに・・・
居心地の悪い静寂・・・それを破ったのは、廊下のほうからバタバタと近づいてきた足音だった。
「おう、2人とも起きてたか。飯は出来てるようだな。」
「あ、太田先生。おはようございます。」
僕が挨拶をすると、太田先生は「ふあぁ」と大きな欠伸をした。
「そういえば、昨日は遅くまで大変でしたね。」
その場の空気をごまかすために、僕は太田先生に話しかける。
「ん?ああ、時期が時期だしな。お前も来年に向けてきっちり準備しといた方がいいんじゃないか?暇なときは俺が勉強見てやるよ。」
「父さんは中3担当の講師でしょ。高校2年生に単語やら文節やらの区切り方でも教えるつもり?」
涼子ちゃんが応じると、太田先生は心外そうな顔をした。
「ばかだな、俺は高校の国語教師の資格をちゃんと持ってるんだよ。大体、白峰が新入生のときは俺が教えてたんだからな。」
「もう忘れてるんじゃない?」
「忘れるかっ。それが飯のタネなんだぞ。」
「カ行変格活用をする古語動詞の命令形は?」
「来よ」
「それじゃ、今すぐ顔を洗って来よ!」
「うーい、分かったよ。」
涼子ちゃんの攻撃に屈して、渋々と洗面所に向かう太田先生。
キッチンに残された2人の間に、再び微妙な空気が流れ始めた。
(なにか、雰囲気が紛れるような話題は無いかな・・・)
そうだ、いよいよ明日に迫っている体育祭の話題にしよう・・・そう考えた僕は、思い切って口を開いた。
「あ、あのっ」
「龍輔さんは・・・」
涼子ちゃんと言葉が重なり、僕は口をつぐんで涼子ちゃんに先を促す。
「龍輔さんは、西原先輩の事好きなんじゃなかったの?」
「えっ?」
唐突な質問に対して疑問符を浮かべた僕に、涼子ちゃんは冷たい視線を向けて、小さく息を吐いた。
「もういい。」
そう一言だけ、涼子ちゃんは諦めた様に呟いたのだった。
登校路から見上げた空はどんよりした雲に覆われ、一面鉛色だった。ここ数日の冷え込みが嘘のように生温い風が肌に纏わり付き、用心のインナーセーターをさすがに後悔せざるを得なかった。
無言で歩を進める僕。隣には、これまた無言の涼子ちゃん。
いつも通りの涼子ちゃんの沈黙に、いつもとは違うトゲを感じるのは、僕の気のせいだろうか。
こんなイタい空気を撒き散らしてまで一緒に登校する必要は無いのだが、逆に言えば、今日に限ってわざわざ時間をずらし別々に登校する理由も無い。そこまでするのはかえって事を大げさにしてしまう気がした。
胸につかえたような心地悪さを感じながら、ようやく校門に差し掛かったとき、1人の女生徒が僕の目を引いた。
(あ、新沼・・・さん・・・)
向こうもこちらに気付いたようで、僕に視線を向けたまま眉をひそめた。あわてて目を逸らし足を速めた僕だったが、新沼さんは素通りさせてはくれなかった。
「おい、白峰龍輔。何か言ったらどうだ。」
威嚇的な物言いに立ち止まるも、一体どんな言葉を要求されているのか全く見当がつかない。
「どうせお前のような弱虫に出来るのは、嘘をついて人を脅かすくらいだろうけどな。」
「・・・」
「もしかしてお前、兄貴をやった奴に口止めされてるのか?それで、自分がやったなんてぬかしたんだろ。ホント情けねぇな。」
なるほど、そう思われるのも無理はない。というかそっちのほうが実に僕らしい。
抗弁しようにもそれが聞き入れられる可能性は皆無に思えるし、新沼さんの推察があまりにしっくりくるものだったので釈明する気力も湧かない。
「・・・ちょっと待ってよ。」
しかし意外にも、新沼さんの言葉にいち早く反応したのは、涼子ちゃんだった。
「さっきから言いたい放題言ってるけど、龍輔さんが弱虫?あなた一体龍輔さんの何を知ってるって言うの?」
「お前には関係ねぇだろ、口出しすんな!」
いきなり横槍を入れられて、新沼さんが凄む。しかし涼子ちゃんはそれをものともしない。
「弱いのは新沼さんのほうじゃない?龍輔さんに当たって、一体なんになるっていうの?龍輔さんがどれだけ苦しんでるかも考えずに、勝手な事ばかり言って・・・あなたなんかより龍輔さんのほうがよっぽど強いよ。」
涼子ちゃんの思わぬ代打でカヤの外に追いやられ気味だった僕に、新沼さんが再び視線を戻した。
「強い?こいつが?あたしより?」
ふん、と鼻で笑う。
「じゃあ、あたしが試してやろうか?何なら今ここで始めようか?」
瞳に危険な色を浮かべた新沼さんの提案を、涼子ちゃんがあっさりと受け入れた。
「いいよ、でもこんなとこで喧嘩なんて馬鹿な事はしないで。そう・・・明日の体育祭の種目で競うってのはどう?」
「はっ、何でもいいけどな。お前は何の種目に出るんだ?」
「・・・」
「おい、お前だよ!白峰龍輔!」
「ん?あ、ああ・・・2年全員競技の、騎馬戦と、徒競走だけど・・・」
「じゃあ、徒競走の順位で勝負って事でどうだ?」
「う、うん」
僕の返答を聞いて、新沼さんの笑みが一層意地の悪いものに変わった。
「おまえが負けたら、土下座して謝ってもらうからな。“大口叩いてごめんなさい”って言えよ。」
「じゃあ、龍輔さんが勝ったら?」
涼子ちゃんの質問に、新沼さんが心底意外そうな表情を浮かべる。まさか負ける訳が無い・・・そう確信している顔だった。
「あたしが負けたら、何でも言う事聞いてやるよ。殴らせろと言われたら、何十発でも殴らせてやる。」
「その言葉、忘れないでね。」
「そっちこそな。」
そう吐き捨てると、新沼さんは踵を返し、大股で校舎内へ消えていった。
「なに、あれ・・・」
新沼さんの後姿を見送った涼子ちゃんは、不快さを隠そうともしない。
「涼子ちゃん、新沼さんの事知ってるの?」
「知ってるよ、同じクラスだもん。前から結構学校サボったりしてたし、素行不良ってカンジだったけど、あの事件以来、特にね・・・」
涼子ちゃんは僕の方を見て、口調を変えて問いかけてきた。
「話したの?新沼さんに・・・“力”の事。」
「いや、ただ、新沼さんのお兄さんがおかしくなったのは、僕のせいだって・・・そう言っただけ。」
「・・・ふ~ん。」
そう、新沼さんを追い詰めたのは、紛れも無く僕自身なのだ。
病院で見た、新沼さんの涙・・・償う方法を知らない僕は、新沼さんにいくら罵られようとも、それで彼女の気が済むのなら構わないと考えていた。
しかし、涼子ちゃんの介入によって、話がおかしな方向に進んで行きそうな予感がする。
考えている事が表情に出たのか、涼子ちゃんが怪訝な顔をした。
「・・・なに?私のせいじゃないからね、勝負の事は。向こうが勝手に喧嘩を売ってきたんだから。」
その喧嘩を勝手に買ったのは誰だったか・・・
「ところで、龍輔さんは足速いの?」
「全然。50mはそこそこだけど、200mの徒競走は、毎年ビリから数えたほうが早い。」
「ダメじゃない。」
「いや、ダメじゃないって言われても・・・新沼さんは相当速い?」
「うん、凄く。1位以外になったのを見た事無い。」
「・・・」
思わず僕は、はぁっと溜息をついた。
「それ知ってて、何でこんな勝負受けたんだよ・・・」
「受けたのは龍輔さんじゃない。」
確かに、結果的にはそうなので、僕は口をつぐんだ。
「今日の放課後にでも練習すれば?体育祭は明日なんだから。」
1日の練習で短距離走が速くなれば苦労はない。
頭を抱える僕に、涼子ちゃんは好戦的な口調で告げた。
「龍輔さん、あんなのに負けないでね。」
「はあ?智子のやつと勝負?なんだそりゃ?」
弁当包みを解く手を止めて、治樹が何とも形容しがたい顔をした。
「いや、その、成り行きでね。」
昼休み、『今日の放課後ゲーセンに行こう!』と治樹に誘われたのだが、新沼さんの勝負を受けた以上少しくらいは練習しなければと思い、断る事にした。
しかし、理由を聞かれた僕はうまく誤魔化せずに、結局勝負の事を教える羽目になってしまったのだ。
(出来れば、知られたくなかったのになぁ・・・)
あまりにも無謀な対決に呆れられるのが嫌だというのもあるが、一番の懸念は発端が僕の“力”にある事まで治樹に知られ兼ねないという事だ。
まだ、教える段階ではない。というか、僕自身“サイト”について理解していない事が多すぎる。こんな状態では、治樹に事情を伝えようにもかえって誤解を招きかねない。
「ところで、お前はいつ智子と知り合いになったんだ?」
「えっと、この前、下校中に不良に絡まれて、新沼さんに助けられた事があったんだ。」
「なるほどねぇ、それが何でまた、勝負なんて流れに?」
「その、ちょっと、ね・・・」
「どうせ智子の事だから、つまんない理由でお前に突っかかって行ったんだろ。ウジウジしてるのが嫌いだとか言って。」
「まあ、そんなところ。」
事情を深く追求するつもりはなさそうだったが、治樹と新沼さんが知り合いである以上、いつかは治樹にも仔細が伝わるだろう。導火線に火がついたようなものだ。
いつ火薬に引火するか分からないという事を、覚悟だけはしておいた方がいいかもしれない。
「まあ、かなり無茶な勝負だけどね。練習なんて意味無いとは思ってるけど。」
「いや、無茶なんて事は無いぞ。どうせなら勝つ気でやれよ。お前なら出来る。」
「あはは、何言ってるんだよ。」
「別に適当な事言ってる訳じゃない。オレはお前の足腰の強さを認めてるんだ。だからサッカー部にもずっと誘ってたんじゃねえか。」
治樹はクスリともせずに、真顔でそんな事を言ってのけた。
「治樹の思い違いだよ。自分の事は自分が一番良く知ってる。大体、新沼さんは1位決定でしょ?僕が1位にならない限り負けって事じゃない。」
「いや、そうとも言い切れない。今年の徒競走、智子の組には陸上部のホープがいるんだ。有名なスプリンターだから、智子もてこずるはずだよ。
お前の組は確か、あんまり速い奴いなかったよな。俺より速い奴はいないから大丈夫だって。1位になれる。」
「それは、治樹が足速いってだけの事じゃない。」
「お前も速いよ。ほら、ゲーセンでお前と初めて会った時さ、補導員のおばちゃんから逃げる俺に付いて来れてたじゃねえか。」
「あれは、僕も必死だったし・・・治樹が僕に合わせて走ってたんでしょ?」
「ばか!オレは最悪自分1人でも逃げ切るつもりで走ったんだぞ。それでもお前は付いて来た。中学の頃オレに付いて来れる奴なんてほとんどいなかったからな。お前普段、本気を出してねえだろ。」
「充分本気だよ。」
どうやら治樹は、本当に僕が1位になれると思っているらしい。
「とにかく、そういう事ならオレがレクチャーしてやるよ。今日は部活休みだしな。放課後第3グラウンドでいいな?」
ウチの高校は進学校であるため、祝日は原則として部活動禁止である。その他にも、週に最低1日は部活を休む事が義務付けられている。
「え?いいよ、ちょっと足を慣らしとこうと思ってただけだし。」
「いいっていいて、遠慮するなよ。」
治樹はすっかりその気だ。
「なになに?グラウンドで何やるの?」
話に割り込んできたのは、西原だった。
「いや、龍輔が明日の徒競走で1位になるために、放課後ちょっと練習するんだよ。」
「へえ!すごいね!」
端的に要約された治樹の言葉を聞いて、目を輝かせる西原。
「西原も見に来いよ、今日は合唱部も休みだろ?」
治樹の誘いに少し間を空けて、西原が答えた。
「う~ん、今日はちょっと厳しいかな、コンクールが近いから自主練休めない。」
目を伏せ、少し表情を曇らせた西原だったが、すぐに顔を上げると僕に眩しい笑顔を向けた。
「頑張ってね!応援するから。」
何だか、どうしても負けられない状況に追い込まれつつあるように感じるのは、僕の気のせいだろうか。
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