第7話 決意
"Round 1 Fight!"
"Round 2 Fight!"
"Round 3 Fight!"
「ぐあっ!」
"Round 1 Fight!"
"Round 2 Fight!"
"Round 3 Fight!"
「うへぇ!」
"Round 1 Fight!"
"Round 2 Fight!"
"Round 3 Fight!"
「ぬぅぅ!」
無謀な挑戦を繰り返すこの少年に、僕は少しうんざりしていた。お金がかからないのはいいが、これではハリというものがない。
適当にやってこっちが負けてしまえば、彼は満足するだろうか?いや、僕はさっきからこの上なく適当にやっている。
「うおっ!もう金がねぇ!」
それを聞いて、僕はほっと息をついた。
(これがラストファイトだな。)
時間をかける気はなかった。一気にカタをつけるつもりで、僕はコンボを仕掛けていった。
(・・・あれ?)
彼が初心者である事は間違いないだろう、勝負にならなくて当然なのだが・・・それにしても、全く動く気配が無いのはおかしい。
それは、一瞬の出来事だった。誰かがいきなり後ろから僕の首根っこを掴んで、いすの上から引き摺り下ろしたのだ。
慌てる僕の口を押さえたのは、先程まで僕と対戦していた少年だった。
「しぃー・・・お前、あれを見てみろ。」
彼の指す先には、およそこの場に相応しくないおばさんがいた。
「あれは、補導員だ。」
彼の言葉に、僕は血の気が引いていくのを感じた。
「おまえ、こんなところで制服なんか着てたら一発だぞ。まあ、どのみち、あいつらの嗅覚は服装なんかで誤魔化せるようなシロモノじゃないけどな。」
補導員は僕らに気付いていない様子だった。しばらくうろうろと歩き回った後に、トイレの中へと入っていく。
「今だ!」
僕の手を掴んで、彼は全速力で駆け出した。僕は、引っ張られる様にして彼に付いて行った。
「ふう、ここまで来れば大丈夫だろ。」
「はあっ!はあっ!はあっ!はあっ!」
けろっとしている目の前の少年とは対照的に、僕は死ぬ程息を切らしていた。
目が霞んだ。喉が焼けそうだった。
久しぶりに走ったというわけではない。曲がりなりにも部活で毎日体を動かしているというのに・・・貧弱な自分の体が恨めしかった。
そして、思い知った。僕が・・・憐れな小鳥が飛び回っていたのは、自由な空などでなかったと。
篭から這い出たとしても、せいぜいそこは飼い主の部屋の中・・・絶望的な空間で逃げまどう事しか出来ないのだと。
目が霞んだ。胸が焼けそうだった。
それは、単に疲労の所為だけではなかった。
「さぁて、お前、えっと・・・」
「白峰だよ。白峰龍輔。」
「龍輔は、これからどうするんだ?つっても、そのカッコにその鞄じゃ、補導してくれって言ってるようなもんだしなぁ・・・」
彼の方はというと、ジーンズに7分袖Tシャツ、小さめのショルダーバックといった出で立ちだ。
まあ、当たり前と言えば当たり前かもしれない、大方、バックには脱いだ制服が詰めてあるのだろう。
「そうだ、俺ん家にくるか?服貸してやるよ。今ならじいちゃんとばあちゃんしかないから、気付かれやしないだろ。」
「え、いいよ・・・別に。」
「まあ、そう言うなよ。他に当ては無いんだろ?代わりに格ゲーのやり方教えてくれよ。」
そう言うと、少年は僕に背を向け、さっさと歩き出した。
僕が付いて来ると信じ込んでいるところが癪に障ったが、彼の言う通り、僕には他に当てがなかった。
結局、僕はしぶしぶと少年の背中を追ったのだった。
「ああっ!違う!そうじゃないって!」
「おりゃおりゃおりゃぁ!!」
「だから、無暗に飛び出すんじゃなくて、ちゃんとコマンド打って!」
「うがぁ、やられるー。」
「もう・・・ほら、貸して。」
「をう。」
「ここは、こうガードして、そしてこう、こう返せば・・・」
"You win!"
「をを!!」
僕は、ふうっと溜息を吐いた。
ここは、バンダナの少年の部屋。
彼のおじいさんとおばあさんは1階でテレビを見ながらお茶を啜っていた。僕らはその脇をすり抜けて、2階にある彼の部屋へと上ったのだ。
胸を撫で下ろしながら、何て事をさせるんだ!と食いかかる僕に、少年は、「大丈夫だよ、2人とも耳が遠くなってるから。」と、笑って答えた。
とにかく僕らは、そのまま彼の部屋でゲームをする事にした。
それで、僕がコンピュータを相手にさせて彼の指南をしているわけなのだが・・・
正直言って、本当に強くなりたいと思っているのかどうかもあやしかった。デタラメにボタンを押しては玉砕し、無意味な悲鳴をあげている。
「あのさぁ・・・」
「ん?ああ、おれは鈴掛治樹だよ。治樹って呼んでくれ。」
「そうじゃなくて、どうして僕を家まで連れてきたの?」
「そりゃ、ヒマだったからよ。お前もやる事無くてあんなとこにいたんだろ?丁度いいじゃねぇか。」
それはそうだけど・・・と、僕は言葉を濁した。
どうも、僕には彼の行動原理が理解できなかった。彼は自分とは全く別種の人間・・・おそらく、いじめられたりした事なんかも無いだろう。
だが、彼と一緒にいるのは不快ではなかった。
2人でダラダラとTVゲームを続けるといった時間の使い方は、明らかに無為である。しかし、こういう時間をともに過ごせる存在こそが、友達というものではないだろうか。
「おっと、もうこんな時間だ。」
治樹の声に時計を見ると、針は既に夕方の5時を回っていた。
「僕、そろそろ帰らなきゃ。」
「おお、そうか。じゃ、またな。」
「うん、バイバイ」
それは、束の間の逃避行・・・短い間であったが、その時確かに、僕は色んな悩みや苦しみから解放されていた。そして、その報いについても深く考えてはいなかった。
家に帰り着いたのは夕方の6時前。
「ただいま~」
帰宅を告げて玄関に上がった僕を、母さんの悲しそうな顔が待ち構えていた。
--------
「起立!おはようございます!」
「「おはようございます!」」
「おう、おはよう!それじゃ、出席とるぞー」
翌日、僕はいつものように自分の席に付き、担任が朝会を仕切る無駄に元気な声を聞いていた。
そう、あれは一時の気の迷い。
僕はいつものように学校に通い、いつものように授業を受ける。いつものように教室の隅で業間をやり過ごし、小説を読んで昼休みをつぶし、部活で適当に汗を流して、そして帰る。
また、元通りの生活に戻っただけだ。そこには何の不安も無く、何の悲劇も起こりえない・・・
「担任の先生から電話があったのよ。今日はあなた、学校に行ってないそうじゃない。」
昨日、母さんは泣いていた。私には何も打ち明けてくれないの?やっぱり私じゃダメなの?と、小さく呟きながら・・・
母さんが僕に向かって話す時に、自分の事を“私”と言うのを初めて聞いた。
それは、仮面の下から少しだけ覗いた母さんの素顔だったのかもしれない。
僕がその時、溢れ出しそうな心の悲鳴を母さんにぶつけていれば、もっと違う結果になっていただろうか。
でも、僕はそうはしなかった。
心配しないで、母さん。明日からちゃんと学校に行くから。
そう繰り返している内に、母さんは次第に落ち着きを取り戻してくれた。
これでいい。これでいいんだ・・・
「それじゃ、白峰、前に出ろ。」
「え?」
「え?じゃない。今日はお前の誕生日じゃないか。前に出て一言いってくれ。」
それが、ウチのクラスの決まりごとだった。
誕生日の人は朝の会の最後に前に出て、何か一言しゃべらなければいけないのだ。
「・・・・・・・・・・というわけで、今年も一年よろしくお願いします。」
「おめでとう!」
先生がパチパチと拍手をする。それに倣い、クラスの皆もまちまちな拍手を僕に送ってくる。
僕は、ぼんやりと教室を見渡した。
仮面、仮面、仮面の森・・・
拍手が、次第にざわめきへと取って代わってゆく。
「ん?どうした?席に戻っていいぞ?」
傍らでそう言った先生の顔を眺める。
仮面・・・
「お~い、帰ってこーい!」
生徒の一人が声を上げ、クラスに失笑が満ちる・・・
仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面仮面・・・
視界がぐにゃりと歪んで、僕はその場に膝をついた。
「白峰!どうしたんだ?白峰!!」
先生の声は、やたら遠くから聞こえた。
--------
僕が保健室によくお世話になるのは、僕が弱いせいだ。そんな事はよく分かっている。
僕がよくお腹が痛くなったり気分が悪くなったりするのを仮病だと思ってる人も、少なからずクラスにいるようだ。
・・・俺も白峰みたいに腹が痛いとか言えば、授業出なくて済むかな・・・
そんな言葉を聞いた事もある。
彼らには、僕の苦しみは分からないだろう。お腹に穴が開いたような激痛や、吐きそうなくらいの悪寒・・・自分の意志に反して体が拒否反応を起こしてしまうこの歯痒さを知る事はおそらく無いのだろう。
僕だって好きでこんな風になったんじゃない。いつからこんなになってしまったのか・・・それを考えるには思い出したくない事が多すぎた。人間の記憶は、嫌な出来事は比較的すぐに忘れてしまえるように出来ているというが、それは本当らしい。そのときの僕は、半年前の記憶すらままならなかった。
体が、記憶までもが僕を裏切り、牙を剥く。
鏡に映った自分を見たとき、ふと、違和感を覚える事がある。それが本当に自分だと、どうしても信じられなくなるのだ。
その日、僕は昼休みまで保健室で休んだ後、早退する事になった。
帰る時、廊下で他の生徒とすれ違うたびに、彼らの視線が気になって仕方なかった。
実際は僕を見ている人などそうはいないだろう。僕の方が過敏に彼らの事を避けようとしているだけなのかもしれない。
そのときの僕には、この学校という空間の中で、自分の存在がひどく場違いなものに思えた。
帰り道は、南中の太陽に晒されていた。じめじめした梅雨時の湿気の中、肌に張り付いたシャツが一層不快感を煽った。
もともと体の強くない僕が、この熱気の中で眩暈を覚えたのは特別な事ではなかった。だが、さすがに座り込んだまま立てなくなってしまう事までは予想していなかった。
無理に立とうとする気力を失ったまま、僕はぼんやり通りを眺めつづけた。
まるで僕の存在に気付いていないかのように、人々は急ぎ足で目の前を通り過ぎていく。
真夏の日差しの中で、僕がそのまま気を失うまでに、たいした時間を必要としなかった。
夢を見た。
格闘ゲームの夢だ。
アーケードの前に座って僕はひたすらコマンドを入れ続ける。
何度も 何週も 蹴って殴って組み伏し続ける。
その内、相手が1人2人と増えていって、僕はいつの間にか取り囲まれていた。
雑魚どもが増えても関係ない・・・
変わらずコマンドを入れ続ける内に、新たな異変が起こった。
技が出ない。
弱パンチやキックは出るものの、他が全くでない。
さすがに、これでは手も足も出なかった。
ふと気付くと、僕の使っていたキャラが僕自身になっていた。
殴られ、蹴られ、組み伏されながら
“ああ、だから技が出なかったのか”と、妙に納得した。
よろけた僕が敵の1人に寄りかかると、彼は ぎゃあっ と奇妙な悲鳴をあげた。
そして、真っ逆さまにリング外へと転落してゆく。
僕は、半ば自棄になって残りの敵へと次々に体当たりをかました。
すると以外にあっけなく、敵はどんどん崖下へと落ちていった。
最後の1人を突き落として、僕は崖のふちに立ち尽くす。
闘技場に、高らかな宣告の声が鳴り響いた。
You Lose!
「だああ!またかっ!!」
僕を夢の世界から引き上げたのは、治樹の声だった。寝ぼけ眼に見慣れない風景が飛び込んできて、一瞬自分がどこにいるのか分からなかった。
ここは治樹の家だ、当の治樹は格闘ゲームに夢中である。
「ん、治樹?」
混乱する頭で、僕は治樹に声を掛けた。
「おお、目ぇ覚ましたか。今、飲む物を持ってくる。」
そう言い残すと、治樹はばたばたと下の階に降りて行ってしまった。
頭に乗った濡れタオルの感触が心地よい。衣服が緩められ、足が少し高めの状態で、僕は寝かされていた。
熱射病か、貧血か、そんな事はどうでもよかった。
なぜだか分からないが、気分がとても落ち着いていた。
立ち上がって、窓の外を覗き見る。治樹の部屋は2階なので、飛び降りたならば最低でも捻挫の1つは覚悟しなければならないだろう。
だが、そのときの僕には、窓をくぐればそのまま歩いていけそうに見えた。
(つまらないな・・・)
部屋の中に目をもどす。
治樹の机の上にはノートや筆記用具が整理されずに散乱していた。治樹の事をよく知っているわけではなかったが、なんとなく、治樹らしいと感じた。
机の隅のペン立ての中に、カッターナイフを見つけた。
手にとって眺めてみる。
ごく普通の、スライド式の黄色いカッターナイフだ。
刃を、出してみる。
何に使ったのか、刃はすでに半分の長さにまで折られていた。
そして、刃を、そっと手首に当ててみる。何気なく、自然に・・・
生と死の間の垣根・・・それは意外に高いものである。死に対する恐怖は人間の意識の奥底に深く根付いている。僕みたいに、生きる事に何の価値も見出せない人間でさえ、いざ、その垣根を越えようとすると、不条理なほどの抵抗を受ける。
もし、越えられるとしたら、それは、今の様にある種の感覚が麻痺した状態にあるときが一番かもしれない・・・まるで他人事の様に、そんな事を考えていた。
「おい!おまえっ!!」
背後から、怒鳴り声が聞こえた。はっとして振り向くと、猛烈な勢いで突進してくる治樹と目が合った。
力強い腕が、カッターを持った僕の右手を捉え、無理やりに畳へと押し付ける。
そのまま組み敷かれた僕に、治樹が質問してきた。
「おまえっ!今いったい何しようとしてたっ!?」
凄い剣幕だった。治樹が怖かった。
可笑しいと思うかもしれないが、治樹に怒鳴られた事で、僕は自分のしていた事が急に怖くなってきた。
「いたいっ!離してよ!!」
精一杯強がってみる。
「離してやるけど、もう絶対、あんな事するなよ!!」
あんな事・・・僕は、ただカッターナイフを手首に当てただけだ。それは初めての事ではないし、当てたナイフをどうするかは、正直考えてなかった。その行為が、治樹をこんなに怒らせてしまうとは予想もしていなかった。
ようやく治樹に解放してもらった僕は、動悸を抑えながら口を開いた・・・
「血を・・・」
僕の口から紡ぎ出された言葉・・・それは治樹への弁解の言葉だった。僕が思い詰めて自殺をしようとしていたのではないという事を治樹に納得させる必要があった。
「手首を少しだけ傷つけて、血を舐めると、落ち着くんだ。少しだけ・・・だから、時々、やってる事で、別にそんなに大した事じゃないんだ。」
嘘ではなかった。1年から2年前、いじめが一番激しかったときに実際にやっていた事だ。
治樹は、僕の言葉を、神妙な面持ちで聞いていた。
「血、そうか、それで落ち着くのか・・・」
そう言ったきり、しばらく考え込んだ様子の治樹だったが、ややあってふと顔を上げた。
頭上に豆電球でも浮かびそうな、いかにも何かを思い付いた顔をしていた。
「だったら、なにか、別に血を連想できるものを飲んでみたらどうだ?例えば・・・」
そう言いつつ、治樹は背後から飲み物のパックを取り出した。僕に飲ませるためにさっき取りに行ったものだろう。
充分な間を取って、治樹が言葉を続けた。
「この、トマトジュースとか・・・ほらっ!丁度赤い色してるし!いい考えだろ!?」
呆気に取られて治樹の顔を見ると、真剣そのものの表情でじっと僕の返答を待っている。
あまりにも可笑しくて、僕は思わず笑い出してしまった。
治樹は一瞬怪訝な表情を見せたが、僕が笑ったのは何もヒステリーのなせる業ではない。
緊張感たっぷりの間と提案の内容のギャップがあまりにも大きく、その不意打ちが僕の笑いのつぼを大いに刺激したのだ。
ポーカーで相手が提示した5枚目の切り札が花札だった様なものである。
「トマトジュースか、いい考えだね。うっく、ふふふ、うっはっはっは!!」
行き場無く鬱積していた感情は、いつの間にやら吹き飛んでしまっていた。
「な、何だよ、オレだってこれでも真剣に・・・」
「分かった、分かったよ。明日から毎朝トマトジュース飲むからさ、ふくくっ!」
「何だよぉ・・・」
治樹は僕のリアクションがいつまでも納得いかない様だった。
彼は彼なりに、僕の事を本気で考えてくれたのだろう。それが分かるから、余計に面白い。
(まったく、調子が狂うなぁ・・・)
治樹と話していると、自分が悩んでいる事がなんだか馬鹿らしくなってくる。
その後結局、僕は夕方まで治樹とゲームをした。一向に成長が見られない治樹を時には叱り付けながら、僕は丁寧に彼の格闘ゲームの指南を続けた。
「それじゃ、また来るね。」
「おう、待ってるぞ。その、何だ、何かあったら声掛けろよ。」
「心配しなくていいよ。治樹の部屋の畳を血で汚したりはしないようにするから。」
「・・・ばかっ。ちゃんとトマトジュース飲めよ。」
「あははっ。」
これからの毎日は、今までとさほど変わらないだろう。今までと同じように、つらい事も沢山あるだろう。
でも、どんなにつらい事があっても、治樹と話せば冗談にしてしまえる・・・そう考えると、明日からも何とかやっていけそうな気がした。
--------
あれから2年が経った。
あの頃と同じように、僕の隣には治樹がいて、あの頃と同じように一緒にゲームをしている。
治樹が僕と同じ高校を受験すると聞いたとき、僕は少なからず驚いた。志望校は、一応、一端の進学校である。それに対し、勉強には興味がないと豪語する治樹の学力は、充分その言を証明するに足るものだった。
受験する動機も動機である。僕が岩瀬高校を受験する事を告げると、「あ、じゃあ、俺もそこ受けよ。」と、あっさり進路を決めてしまったのだ。
仕方なく、僕が彼の勉強を見る羽目になったのだが、やり始めると速いもの、彼は見る見る内に成績を上げ、仕舞いには僕のほうが教えてもらう事も少なくなかった。今まで勉強していなかった者が勉強し始めたときの成長が一番恐い・・・とは、中学時代の担任の言葉であるが、よく言ったものである。
かくして、僕と治樹は一緒の高校に通う事になったのだが、それが僕の高校での2年間を大きく左右したのは間違いない。学校という空間の中でも、彼の隣には僕の居場所があった。バラ色の高校生活と呼ぶには程遠いものであったが、それでも中学時代と比べれば雲泥の差だった。
(感謝、か・・・しなきゃいけないんだろうな。悔しいけど。)
アーケード台ごしに治樹を見やる。そこには対戦に夢中になっている能天気な顔があった。
「お~い、もうちょっと手加減しろよ~~~」
8連敗目を喫した治樹が不満そうにぼやく。
「治樹も結構強くなったし、その内勝てるようになるって。」
「そんな事いって、お前弱いものいじめしてストレス解消してるだけだろ。」
「わかってるじゃん。どうする?まだ続ける?」
「もちろんっ。」
周りに新しいゲーセンが幾つも出来て、思い出のゲーセンはすっかり寂れてしまっていた。新しい台はあまり入っておらず、僕と治樹が初めて対戦した台さえ未だに現役を務めている。
入れ替わりの激しいゲーム業界においてこの台は時代の遺物以外の何者でも無かったが・・・しかしだからこそ僕と治樹はこうして悠々と台を占領できているのである。
「あ、おばちゃん!」
その時、不意に頭を上げた治樹がゲーセンに入ってきた1人の女性に声を掛けた。
つられて、僕もその女性の方を見る。若者が集うべきこの場におよそそぐわないその風貌が、僕の記憶の隅に引っ掛かっていた。
(あ、補導員だ! あのときのっ!)
中学時代の、僕のたった1度の逃避行を脅かした補導員・・・今日は腕にそれらしき腕章を見つける事は出来なかった。
(それにしても、補導員と知り合いになってるなんてなぁ・・・)
治樹の気さくな態度に僕は半ば呆れていた。
「あら、治樹くん。今日はお友達と一緒ねぇ。その子が例の白峰君?」
例って、どの例だ!と突っ込みたくなったが、ぐっと堪えた。治樹はいったいどれだけの人に、どんな風に僕の事を言いふらしているのだろう・・・少し不安になってきた。
「その子、見た事あるな。かなり昔だけど、1回ここに一緒に来た事あるでしょ。」
(うわっ!見つかってたのか!!)
背中を、つっと一筋の汗が流れた。治樹が“補導員の嗅覚”をあれほど警戒していた理由が分かった気がする。
「思えば、あれからだよね・・・それまで毎日のように治樹君と追いかけっこしてたのに、休日にしか治樹君を見かけなくなって、随分と楽になったのよねぇ。」
遠い目をしながら、補導員のおばさんは続けた。
「きっと、いい友達が出来たのね。ありがとう、白峰君。」
急に話を振られて、僕は「は、はい」と気の抜けた返答をするのが精一杯だった。
僕のおかげだと言いたいのだろうか?
おばさんのその考えはとても愚かしいものに思えた。僕が治樹に助けられた事はあっても、逆は無い。まあせいぜい、時々勉強を見てやるくらいの事しかしてはいない。そのおかげで勉強嫌いの治樹がたびたび赤点の危機を免れてきた事を考えれば、僕の功績は大きいのかも知れないが・・・
ともかく僕に言えるのは、治樹がいなかったら今の僕は在り得ないが、僕がいなくても治樹は治樹だっただろうという事だけだ。それ以上を望むつもりもないし、まして治樹に恩を着せようなどとは考えてもいない。
おばさんが挨拶をして出て行ったとき、時計の針は午後3時半を回っていた。
「あ、いけない。もうこんな時間か。」
今日はおじいさんの退院日である。その迎えに行く事は、治樹にも伝えてある。予定時刻の5時までに病院に到着するには、すぐにでもここを出る必要があった。
治樹は当然のごとく、同行を決め込んでいた。僕も正直なところ、おじいさんと対面するときに治樹が一緒にいてくれるのは心強かった。
ジェネレーション・ギャップが人間同士の相互理解を妨げる1要因である事は疑いが無い。程度の差はあれ、60近い歳の差が意思疎通に何の影響も及ぼさないとは考えられない。それだけに、おじいさんと治樹の関係は僕の理解を超えていた。
(もっとも・・・)
同世代とのコミュニケーションも上手く取れない僕にそれが分かる訳ないか・・・と、心の中で密かに自嘲の笑みを漏らす。
病院に向かう電車はさほど混んでいなかったが、空席を見つける事は出来なかった。
途中、治樹の目の前の座席に座っていた乗客が下車すると、治樹が僕に席を勧めてきた。
自分だけ座るのも落ち着かないので断ったが、治樹は食い下がった。
「お前もこのあいだまで入院してた身だろ?怪我の具合はどうなんだ?」
もう全然平気だよ・・・うっかりそう言おうとして、僕は言葉を飲み込んだ。治樹の張った罠に気付いたからだ。
「何言ってるんだよ。僕が風邪をこじらせて入院してたって事聞かなかったの?」
「ふ~ん、そうだっけ?でも、西原が心配してたぞ。お前の仕草がどうもおかしい、どこか怪我をしてるんじゃないかってね。」
治樹の言葉は完全に僕の意表を突いていた。気付かれた事を悔やむのと同時に、西原がそれに気付いていたという事実に少なからず感動を覚え、僕は自分の気持ちを持て余した。
だが、いつまでも感激に浸っている暇はなかった。治樹がいつになく真剣な表情で質問を重ねてきたのだ。
「この前の事件、太田が何か関係してるんじゃないのか?」
この前の事件・・・これは違えようも無い。先日の集団飛び降り事件を指している事は明らかだ。
飛び降りた連中の血液から薬物反応が確認された事を受け、偶発的に集団催眠に陥った中毒者たちの愚行として、あの事件の刑事的な側面は収束の方向にある。
一方で、現代社会に内在する種々の問題の発露として、あの事件の社会的影響は今後さらに波及していく事だろう。
事件に何か裏があるという事を嗅ぎ取った治樹の感性は褒められるべきものかもしれないが、それを即座に太田先生と結びつけるというのは、あまりに短絡的だ。僕が太田先生と一緒に暮らしているという事は、西原伝いに知っていると考えて間違いないだろう。しかし、それだけでは疑う材料に乏しすぎる。事実、治樹の憶測は的外れだと言わざるを得ない。
僕は当然、治樹の言葉を否定したが、予想外の質問であったため冷静に対処できたという自信は無かった。疑いの目で見れば些細な違和感も不審の対象となる。太田先生に掛けられた治樹の疑惑を完全に拭い去ったとは言い難い。
治樹はそれ以上の詮索をしなかったが、代わりに大胆な仮説を披露して見せた。
「俺には、この前の事件と
宏の事件・・・昨年の11月に治樹の友達の赤井宏が自殺した事件である。赤井宏と最後の会話を交わしたのは他ならぬ太田先生であり、治樹は赤井宏の死の原因が太田先生にあると信じて疑わない。
なるほど、2つの事件が関連していると考えているのならば、治樹の疑いの目が太田先生に向くのは頷ける。だが、あまりにも事実無根だ。治樹の言葉が突飛な空想として自分の内に仕舞いこまれようとしたとき・・・
1つの可能性が、頭をよぎった。
(逆の考え方は出来ないだろうか?)
つまりである。今回の事件に太田先生が関係しているというのではなく、赤井宏の事件に“サイト”が関与していたと考える事は出来ないか・・・
この考えは、治樹のそれと同様、空想の域を出るものではない。だが僕はその可能性を否定する事が出来なかった。
嫌な予感が僕の脳裏に纏わりつく。
「たとえどんなに死にたがってる奴がいたとしてもだ・・・」
治樹が断言した。
「その背中を後押しする権利は誰にも無い!無い筈だ!そうだろっ!?」
唇を震わせ、声を荒げる治樹の怒りは、太田先生に向けられたものかもしれない。しかし、その言葉はそのまま僕の胸に突き刺さった。
あの日、屋上であった事を治樹が知ったら、どんな顔をするだろうか?
しかも、治樹の友達の命を奪ったのが、僕の持つ不可解な力に類するものだったとしたら・・・
それでもなお、僕と治樹は友達でいられるのだろうか?
絶望的な答えしか見出せず、僕は小さな身震いをした。
治樹に知られる前になんとしても、僕は“サイト”をきちんと理解しなければいけない。そして、自分自身を克服しなければいけない。
それは、今まで使命感等といった類と無縁だった僕の、小さな決意だった。
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