第6話 逃避

放課後、僕はいつもの様にひっそりと教室を後にした。

おじいさんが明後日退院なので、今日は最後のお見舞いに行くと決めている。

校庭は、野球やサッカー、テニス等様々な部活の練習で賑わっていた。その中にランニングしている治樹の姿も見つけたが、用事がある訳でもないので、声を掛けたりはせずにそのまま校門を抜けた。


街路樹を覆う緑は鮮やかさを失い、曇天の肌寒さが辺りを覆っていた。

僕は、路上に疎らに散らばっている落ち葉を、1枚1枚踏みつけながら歩いた。

まだ、ぴしっと音を立てて崩れる落ち葉は皆無で、どれもくにゃりとしなってしまう。

その事に多少苛立ちを覚えながら、僕は足の裏を擦り付ける様にして歩を進めた。


細い路地に入って暫くしたところで、突然、目の前の地面に影が差した。慌てて身を躱そうとしたが、間に合わず前方の人物にぶつかってしまった。

「す、すみません。」

謝りながら顔を上げた瞬間、僕は自分の不運を呪った。

相手は3人。最初からぶつかってくるつもりだったのだろう。道を塞ぐ形で並んで歩いていたようだ。

3人とも歳は僕と変わらないくらいに見える。ただ、その格好や風貌はまともに学校に行っている人間のものでは無かった。

真ん中のリーゼントの少年が、剃り込んだ短い眉を吊り上げて怒鳴ってきた。

「どこ見て歩いてんだぁ?ああぁ!?」

確かに余所見をして歩いていたのは僕の方なので、返す言葉が見当たらない。

「ねえねえお兄さ~ん?どこ見て歩いてたんだって聞いてるんだけどな~~!?」

足が竦む。

心よりもまず体が、数日前に刻み込まれた物理的な痛みの記憶が僕を縛り付け、身動きすらできなかった。

「けっ、黙り込みやがって・・・まあいい、財布置いてけば許してやるよ。」

因縁を吹っ掛けてきている以外の何物でも無かったが、その言葉が僕にもたらしたのは、安堵感だった。

彼の声に興奮の色は窺えない。ちょっとした小遣い稼ぎのつもりなのだろう。僕自身に対しては何の興味も抱いていない様だ。財布さえ渡せば素通りさせてくれそうである。

僕が言われるままに財布を取り出した、その時・・・


ドガッ!!


激しい音とともに、リーゼントの少年が前のめりになった。ビックリして後ずさった僕の目の前で、彼は頭を抱えてうずくまった。

彼の側に落ちているのは学生鞄である。どうやらこれが彼の頭に直撃したらしい。

「ウチの生徒に手ぇ出してんじゃねぇよ!」

聞こえてきたのは、驚いた事に女の子の声だった。

向こうからゆっくりと歩み寄ってくる少女。着ている制服は紛れも無くウチの高校のものだ。背中にまでなびいている髪は茶色を通り越して金に近い。片手にはなぜか花束を握っていた。

「んだぁ!?この女ぁ!!」

逆上した少年たちが女の子の方に突っ込んでいく。

「あ、危ないっ!!」

僕の咄嗟の叫びは、しかし杞憂に過ぎなかった。彼女はあくまで冷静に、彼らの顔面に見事な回し蹴りを叩き込んだ。

(ギリギリまで切り詰めたスカート履いた女の子がやっていい技じゃないと思うけどな・・・)

そんな事を考えている内に、勝負は一方的にカタがついた。

逃げ去っていく少年たちを尻目に、少女はつかつかと僕の方に歩み寄ってくる。

「あ、ありが・・・」

言い掛けた僕の襟首を、彼女は問答無用で掴み上げた。

「・・・っ!?」

訳が分からない。僕は何か彼女を怒らせる様なことをしただろうか?

「あたしはあんたの様なウジウジした人間もさっきの奴らと同じくらいムカツクんだよ!」

理不尽な物言いだと思った。僕にどういう対応を求めているのか分からないが、喧嘩だけが解決の手段では無い筈だ。大体、弱い僕が手を出せばもっと悲惨な結果になっていただろう。

その場合、害を被るのが僕だけとは限らない。自分が追い詰められた時、一体何が起こるのか・・・その事を僕自身まだ把握できていないのだ。

「さ、財布を出せば満足してくれるんなら、僕はそれで・・・」

「あんたが稼いだ金じゃねぇだろ!!親の金だろうが!!」

そう言って、少女は僕を突き飛ばした。

「・・・っ!」

彼女の肘が、僕の脇腹に触れた。サポーターをあてがった脇腹に激痛が走り、思わず前屈みになる。

「なんだ、あんた、怪我してるのか?」

「・・・うん、ちょっと。」

「さっきの様な連中にやられたのか?」

「・・・」

無言のままの僕に、彼女はさも不機嫌そうにチッと舌打ちをした。

「とにかく、今度似た様な事があったら、パンチの1つでもくれてやんな。抵抗しなきゃ、何も変わんねぇよ。」

そう言い残し、彼女は僕の前から立ち去った。

(君には、分からないよ・・・)

僕は心の中でそう呟いた。

彼女に僕の気持ちが分かる訳が無い。僕の様にやり返す力が無い人間には、どうしようも無い事だってあるのだ。

彼女の言葉は、結局は自分の身を守れる力を備えている人の論理でしかない。

僕は、足元の落ち葉を思い切り踏み付けた。

しかし、葉は崩れる事なく、くにゃりとしなっただけだった。



--------



厄介な騒動に巻き込まれたものの、ようやく駅に辿り着いて電車に乗り込む僕。

向かう先は、おじいさんの入院している総合病院だ。

2駅程で下車し、そこからは徒歩で病院を目指す。最寄り駅から少し距離があるので、暫く歩き続けなければいけない。

ふと、僕は自分の少し前を歩いている金髪の少女に目を留めた。

あれは確かに先程の少女だ。片手には相変わらず花束を抱えている。

今まで気付かなかったが、どうやらあれからずっと彼女の後に付いていく形になっていたらしい。

気まずさを覚えながら、彼女に追い付いてしまわないよう、僕は若干歩くペースを落とした。

角を曲がった時、不意に目の前から少女の姿が消えた。

(あれ、違う方向に行ってくれたのかな・・・)

そう思った瞬間、僕は後ろからいきなり肩を掴まれた。

「おい!さっきからあたしを付け回しやがって、まだ何か用があんのか?」

いつの間に回り込まれたのだろうか。

心外な物言いに、僕はムッとして言い返した。

「僕はこの先の病院に用事があるんだよ。おじいさんの見舞いに行くだけだ。」

彼女は一瞬きょとんとして、それから甲高い笑い声を上げた。

「あはははっ、何だ、目的が一緒なら無理もねぇか。悪いな、変な言いがかりつけて。」

(目的が一緒・・・)

それを聞いて、僕は初めて彼女の持つ花束の意味に気付いた。

「なんだ、あんたは手ぶらなのか?見舞いに行くってのに・・・しょうがねぇなぁ。これを少し分けてやるよ。」

そう言いつつ、彼女は自分の花束から数本の花を抜き取って輪ゴムで括り、僕に手渡した。

「・・・ありがとう。」

礼を言って歩き出した僕に、彼女の方から歩調を合わせてきた。

「あんた、名前は何て言うんだ?」

「白峰・・・だけど。」

「白峰?もしかして、2年の白峰か?」

「・・・え、知ってるの?」

自分が有名人になった覚えなど無く、彼女の反応は僕にとって不可解だった。

「あんたのクラスに、鈴掛っているだろ?鈴掛治樹だよ。あいつが時々あんたの話するのを聞いてたからな。」

「ああ、なるほど、治樹の知り合いなんだ。」

治樹は交友関係が広い。あいつの知り合いでも僕とは全く面識の無い人間は山程いる事だろう。

(それにしてもあいつ、僕の事をどんな風に話してるんだろう・・・)

僕が若干の不安に駆られているところに、彼女が躊躇いがちに話し掛けてきた。

「あの・・・さ、その花の代わりと言ったら何だけど、あたしの兄貴の見舞いに来てくれねぇか?兄貴、友達少ないから、あたしの他に見舞ってくれる人が殆どいないんだ。」

思いがけない申し出に、僕はその意図が理解できず戸惑った。

「それは、構わないけど・・・僕は君のお兄さんと面識無いし、いきなり知らない人が行っても迷惑なだけじゃない?」

当然の問いに対し彼女から返ってきたのは、静かな笑みだった。

形容し難い物憂げな微笑は、僕の胸を強く締め付けた。

「いいんだ、どうせ分からないだろうし。」

ぽつりと呟く彼女。

彼女のお兄さんがどういう理由で入院しているのか、僕は訊く事が出来なくなってしまった。


病院に着いてみると、周囲を取り巻く空気が普段よりもやや騒がしいように感じられた。

駐車場には何台かの報道車が駐まっているのが見える。

事件でもあったのだろうか。

ふと脇を見ると、傍らの少女がそれらの車を憎々しげに見つめていた。

何か知っていそうな様子だが、軽々しく声を掛けられるような雰囲気ではない。

僕としても人の事情に首を突っ込むつもりはないし、詮索は控えるべきだろう。


中に入ろうとしたとき、意外な人物に出くわした。

「あれ、太田先生。どうしてこんなところにいるんですか?」

「ああ、ちょっとな、見舞いだよ。それより隣の娘は新沼君の妹さんじゃないか?」

そう言われても、僕はまだ彼女の名前を聞いていない。

どう答えたものか逡巡する僕の代わりに、彼女自身が返事をした。

「てめぇには関係ねぇよ。」

土足で踏み込んでくるなと表情が語っている。

「そうか・・・それじゃ龍輔、俺は先に帰るぞ。」

込められた敵意を太田先生は事も無げに受け流し、そのままあっさりと立ち去っていった。


病室に向かう僕たちは、暫くの間無言だった。

「そういえば、まだ名前を言ってなかったな。」

少女が先に口を開いて沈黙を破る。

「あたしは新沼智子にいぬまともこ。あたしの兄貴は去年まで、鈴掛と同じサッカー部に所属してたんだ。」

そう説明しながら新沼さんが向かう先は、どうやら精神病棟のようだ。

彼女は更に話を続けた。

「今でこそろくでもねぇ兄貴だけど、昔はあたしの自慢だったんだ。サッカー部の次期エースって言われて、1年でレギュラーになって・・・高校で最初に出場した公式戦じゃあ、いきなり2得点も決めたんだ。すげーだろ?

でも、先輩との折り合いが良くなくって、ある日の練習で後ろからひでぇスライディングくらって・・・」

新沼さんの声が、俄かに震え始める。

「脚を・・・かなり酷くやっちゃったんだ。兄貴はサッカー辞めるしかなかった。それからだよ、兄貴が荒れ始めたのは。

途端に、みんな掌を返す様に冷たくなりやがった。それでも兄貴を心配してくれたのは鈴掛くらいのもんさ。」

そこまで話し終えたとき、廊下の先でうろうろしていた男がこちらを確認するなり走りよってきた。

「ああ、ちょっとキミ、新沼さんの妹さんですね。少しお話を・・・」

新沼さんはその男に一瞥もくれずに、つかつかと歩調を速めてその脇を通り抜けた。

僕は置いていかれない様に慌てて彼女の後に付いていく。

男はなおも追い縋り、新沼さんに声を掛け続けた。

「本当に少しだけでいいからっ!キミの言葉が同じ様な境遇の子たちを元気付ける事だってあるんだ!」

その男を横睨みにして、新沼さんは冷たく言い放つ。

「また放送倫理協会に通報されてぇか?病院内での取材自粛の通達は知ってる筈だろ?」

抑制しきれない苛立ちを含む語気に尻込みしたその男は、諦めた様に足を止め、それ以上追ってくる事は無かった。

「あいつらに病人を静かに休ませようってくらいの常識はねぇのか?」

疲れたように首を振りつつ、新沼さんはとある病室の前に立ち止まった。

ドアのネームプレートには“新沼純一”と書かれていた。

カチャリとドアノブを回し、彼女は中に入っていく。僕もそれに続いてドアを潜った。

「紹介するよ、あたしの兄貴の純一じゅんいちだ。」

ベッドには、1人の少年が腰掛けていた。


それは、あの日、屋上で僕を殴った赤髪の生徒の、変わり果てた姿だった。


瞬間、目の前が真っ白になった。

僕はここにいちゃいけない。早く逃げるべきだ・・・そう思っていても、足が思うように動いてくれない。

「よお、兄貴。どうだ、綺麗だろ?」

新沼さんは、誇らしげにお見舞いの花束を掲げ、ベッドの脇の花瓶にやや乱暴に突っ込んだ。

その様子を、少年は焦点の合わない双眸でぼんやりと見つめていた。

「あ、ありがとう。お姉ちゃん。」

彼が発した言葉に、背筋が凍った。

幼児退行現象・・・確か、精神的に大きなショックを受けた場合に起こる自己防衛の為の一種の逃避行動だと、本か何かに書いてあったのを記憶している。

「はははっ、何度も言ってるだろ?あんたが兄貴で、私はあんたの妹だよ。」

「・・・智子?・・・ウソだよ、智子はちっちゃな子供なんだから。まだ僕がついてなきゃいけないんだから。」

「ああ、そうだそうだ。智子はまだ子供だよ。だからあんたが早くよくなって、しっかりと守ってくれよ。」

新沼さんは別段驚いた素振りも無く、要領を得ない事ばかり言っている自分のお兄さんと器用に会話を成立させていた。

このような状況でも、辛さを億尾にも出さず明るく振舞う新沼さんを見ていると、胸の辺りがしくしくと痛む。

僕の存在はこの少年の記憶からまるっきり抜け落ちているらしい・・・そのことは僕をこれ以上無く安堵させたが、彼の症状の深刻さを幸運に感じてしまう自分の心が、どうしようもなく醜いものに思えた。

「兄貴、今日はあたしの友達が見舞いに来てくれたんだ。ほら、挨拶しなよ。」

いきなりこちらに振られても、どんな話をすればいいのか皆目見当が付かない。

おろおろしている僕を見て、彼は不思議そうに首を傾げて話し掛けてきた。

「お兄ちゃん、どこかで会った事ない?」

ぎくり、とした。

彼の瞳はこちらを見ている様でいて、どこか遠い世界に囚われている様でもあった。

彼の記憶には、僕の事がまだ僅かに残されているのだろうか。

もしこの場で彼があの日の事を、自分を追い詰めた1人の少年の事を思い出したら、一体どうなるのか・・・そう考えると、怖くて堪らなかった。

逃げ出したい思いに駆られながらも、一方では、あの出来事を思い出させる事がこの異様な状況を打破する足掛かりになるのではないか、そしてそれが、僕にできる唯一の罪滅ぼしなのではないかという気もしていた。

「うん、あるよ。久しぶりだね。」

正直な返答が、僕の口から零れた。

自分自身の言葉に内心動揺しながら新沼さんの表情をこっそり窺ってみたが、相変わらずにこにこしたままで、それを気に留める様子は無い。

大方、お兄さんの問いに適当に話を合わせているとしか思っていないのだろう。

「どこで会ったんだっけ?」

「屋上だよ。学校の。」

もう引き返せない。ある種の諦念を抱きながら、僕は少年の質問に答えた。

それを聞くなり、定まらなかった彼の視線が僕の顔にぴたりと収束した。彼の唇は俄かに青ざめ、わなわなと震えだす。

新沼さんもさすがにおかしいと思ったらしく、彼と僕の顔を交互に見比べていた。

「く、るな・・・」

「・・・?」

呻く様な声に、僕は思わず耳を傾けた。

その刹那、彼はがむしゃらに両腕を振り回し始めた。

「・・・っ!」

咄嗟の事に反応できず、僕の頬に一筋の爪痕が刻まれた。

「くるなっ、くるなっ、くるなっ、やめ、ろ・・・っ!くるなぁぁぁぁぁぁっ!!!!」

半狂乱となって叫び続ける彼を、新沼さんが飛びつく様にして抱きしめる。

「兄貴!しっかりして兄貴っ!大丈夫だから、私が付いてるから!ねえっ、しっかりして!」

病室にこだます、けたたましい絶叫と悲痛な懇願。

「ああああっ!がああっ!くる・・・な・・・っ!ぎあああっ!!」

「兄貴っ!兄貴っ!!私がいるから!ねっ?落ち着いてよ!お願いだからっ!兄貴ぃ!」

呆然とその様子を見守っていた僕は、自分がここに留まる事自体が状況を悪化させる要因になりかねない事に気付いた。

歯噛みしながらも、僕は病室から出て行くしかなかった。


廊下に出た途端、僕は全身に強烈な脱力感を覚えた。

(何だよ、今のは・・・何だったんだよ・・・)

長椅子に座り込んだまま、しばらくは動く事ができそうになかった。

やがて、静かになった病室から新沼さんが出てきた。疲れ切った表情で僕の隣に腰掛けると、彼女は僕にハンカチを差し出してきた。

「それ見つかると、兄貴、別の病室に移されちゃうんだ。」

はっとして窓ガラスに映った顔を見てみると、頬からじんわりと血が滲み出ていた。ハンカチを受け取ったものの、それを汚す事が躊躇われたので、僕は自分の手の甲で血を拭った。

「なあ、あんた、兄貴の身に何があったか知ってるのか?」

感情を失ったかの様な声で、新沼さんが問いを発した。

「・・・うん。」

「何があったんだ?」

「・・・」

「おい」

「・・・新沼さん、言ったよね。抵抗しなきゃ、何も変わらないって。」

「あ?何の関係があるんだよ。」

「僕は、抵抗したんだ。だって、そうしなきゃ、僕の方が危なかったんだ。」

「はぁ?何が言いたいんだ!?」

「君のお兄さんがどうなろうと、僕の責任じゃない筈だよね。違う?」

突然、新沼さんが僕の胸倉を押さえ付けた。容赦ない力が僕の自由を奪う。

「お前がやったっていうのか?あ?じゃあここであたしに同じ事やって見せろよ!!

ほらほらぁ!どうした!?お前みたいな腰抜けにそんな真似ができる訳ねぇだろっ!!」

はあはあと肩で息をする新沼さん。

苦しい体勢を強いられながら、僕はやっとの思いで先程のハンカチを彼女に差し出した。

彼女の瞳に溢れる涙を拭いて欲しかったから。

「・・・っ!」

しかし新沼さんは、食いしばる歯の音が聞こえてきそうな形相でハンカチを払い退けた。

そのまま僕を突き放し、彼女は走り去ってしまった。


廊下に立ち尽くした僕は、無意識の内に頬の傷を指でごしごしと擦り続けていた。

その痛みで、行き場の無いやるせなさを少しでも紛らわせようとしていたのかも知れない。

血のついた指を咥えてみた。

独特の鉄くさい味がして、少しだけ、気分が落ち着いた。



--------



仮面、仮面、仮面の森・・・

おかえり、と、母さんが言う

よくやったな、と、父さんが言う

頑張ったよ 僕、頑張ったよ

精一杯の笑顔を貼り付けて、僕が返す

えらいわね、龍輔

嬉しいぞ、龍輔

よかった、僕は間違ってないんだね

新品の仮面が頬に馴染む頃には、全てのウソは真実(ほんとう)になるんだね

それまで、父さんや母さんに、心配かけちゃいけないんだ

学校で何があっても、それは僕の問題なわけで

だから僕は言うんだ ちょっと転んじゃったんだって

すると、父さんが言うんだ そうか、災難だったなって

心配そうな顔を貼り付けて言うんだ

でも、仕方がない 僕は僕で 父さんは父さんで 母さんは母さんで 先生は先生で・・・

ただ、それだけの事

僕は父さんじゃなく 父さんは母さんじゃなく 母さんは先生じゃなく 先生は僕じゃない

それだけの事

手首に刻んだ幾つかの傷痕に母さんが気付かないのも、仕方ない事なんだ

別に、死にたいとか、そういうんじゃない

痛みが、飛沫が、再確認させてくれるんだ

僕が、僕である事 この身体が、僕の身体であるという事

朱い雫を口に含むと、どこか懐かしい味が口の中に拡がって

それだけで、少し、救われた気分になるんだ



--------



「ふう・・・」

朝、僕はシャワーを浴びていた。

(嫌な夢を見たな・・・)

白い部屋に、真っ赤な服を着た知らない女の人が立っていて、真っ赤な服を着た知らない男の人が寝ていて・・・

どこからかともなく溢れた水は、部屋中を満たしてゆく。

潮の香り 海鳥の声

水に身を任せてゆらり揺蕩う 遠くから聞こえるさざなみの音が耳に心地よい

思い出してみると、決して不快な夢には思えない。

しかし、目を覚ました時、なぜか僕はびっしょりと汗をかいていた。

(昨日、あんな事があったからかな。)

頬をつたう水滴が傷に染みる。

精神病棟の一室で僕が見たのは、1人の人間が壊れた様だった。

(少しでも償おうとした僕が間違ってたんだろうか・・・)

良かれと思って紡いだ僕の言葉は狂気を生み、誤解を生み、決裂を生んだ。

自分がサイトであるという事実が、不気味に肩にのしかかってくる。新沼さんの流した涙を思い出すと、今更ながらではあるが、事の重大さが身に染みた。

軽い気持ちでサイトという言葉を口にしたとき、涼子ちゃんがあんなに怒っていた理由も、今なら分かる気がする。

いつかは立ち向かわなければいけない問題・・・ではあるのだが、僕の思考は同じ所をぐるぐる回っているばかりで、なかなか一歩を踏み出す勇気が湧いてこない。

(まあ、とにかく・・・)

今日は休日、時間はたっぷりある。治樹とゲーセンで遊ぶ約束もしている事だし、ゲームでもしながらゆっくり考えるか・・・

(ふふ、でも、あのゲーセンか。結構久しぶりだな。)

暖かいシャワーを頭から被りながら、僕は2年前のあの頃へと思いを馳せるのだった。



--------



「行ってきます。」

「行ってらっしゃい。気をつけるのよ。」

母さんの声に送られて、その日、僕は家を出た。

中1の時に父が単身赴任してから2年間、僕は母さんと2人で生活していた。

中3になった僕が抱える当面の問題は、高校受験である・・・はずだった。

受験生が受験以上の悩みを持ってはいけない。それが、世間の常識というものだ。

子供が受験に集中できていない状況にあるとすれば、それは親の責任という事になる。

まあ、ウチに限っては、その心配はない・・・母さんは、そう思っていただろう。

僕は母さんを心配させないようにそれなりの成績を取るよう努力していたし、学校でのつまらない出来事について相談を持ちかける事もしなかった。

勉強し、それなりの成績を取る・・・それだけのために、僕は中学へと通った。机に無数の落書きが彫られていたとしても、上履きが画鋲で穴だらけになっていたとしても、それは些細な事として片付けられるべき問題だった。

まあしかし、そのときの僕には、もうそのような懸念をする必要はなかった。中3にもなると、皆、僕どころではなくなってくるようだ。それに、万年補欠ながらも所属していたバレー部の方には、一応友達みたいなのも出来て、部活の方にまでは嫌がらせが及ばなかった。

一時期は精神的にかなり不安定になった事もあったが、なんとか自分の内だけに留めたまま乗り切る事が出来た。

あとは、このまま受験に向けて日常を繰り返すだけ。それだけでいい。

何とも楽なノルマだ・・・そう思っていた。


(どうしてだろう・・・)

家を出て5分くらいしたところで、僕の足は動かなくなってしまった。

辛い事など何もない筈だ。

僕が今までの人生で培った技・・・心を灰色にして、感情を麻痺させれば、日々はまるで泡沫のように朧げなまま過ぎていってくれる。学校に行きたくないなんて、そんな幼稚なわがままは卒業した筈だった。

だが、いくら言い聞かせても、僕の足は学校へと歩を進めてはくれなかった。


初夏の眩しい朝日に晒されながら、ちぃちぃという小鳥のさえずりにしばらく耳を傾けている内に、なんだか全てがどうでもよくなってきた。

くるりと踵を返すと、僕は学校と正反対の方へと歩き出した。



最近見つけた小さなゲーセン。見かけに寄らず、そこには最新ヴァージョンの格ゲーが揃っていた。

コンピュータ相手にヒマを潰しながら、僕は、今までにない開放感を覚えていた。

学校をサボる。

それは、とても簡単な事だった。

学校へ向かう道のりはあれほど難儀なものだったのに、サボると決めた途端、全身を締め付けていた重苦しい鎖から一気に解き放たれたのだ。

その時の僕は、自由な小鳥だった。例えそれが一時的な逃避だとしても、後にどのような代償が待ち構えていようとも関係なかった。僕は初めて、鳥篭の外の空気を吸う事が出来たのだから・・・


あっさりと最終ステージまでコマを進めたところで、1人のプレーヤーが割り込みしてきた。

(おっ・・・、丁度いい。)

悪いが、この人には僕の気晴らしの犠牲となってもらおう・・・ぺろりと舌なめずりをして、僕はやや前傾気味に座りなおした。


"Round 1 Fight!"


"Round 2 Fight!"


"Round 3 Fight!"


(・・・・・)

勝負は一瞬だった。

弱い。

僕に挑戦してきた奴は、あからさまに格ゲー初心者の動きだった。これでは暇つぶしにもならない。

(少しは相手の腕を見てから挑戦してこいよぉ・・・)

「くぁぁぁ、やられたぁ~」

能天気な声が聞こえ、台の向こうから少年がひょっこりと顔を覗かせてきた。

「おまえ、つええな!」

ボブといえるくらいまで伸びたサラサラの髪に、派手めの柄のバンダナ・・・


それが、僕と治樹の出会いだった。

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