第5話 生きる

「今までお世話になりました。」

要女先生に挨拶をして、僕は帰路に就いた。

1週間の入院生活を経て、ようやく帰宅できる事になったのだ。

入院した日に太田先生には連絡してあるので、心配はされていないだろう。

そのときに電話口で要女先生の名前を出したのだが、驚いた事にどうやら太田先生は要女先生を知っているようだった。

ともかく、太田先生には感謝しないといけないみたいだ。どうやら治療費は太田先生の貯えから出たらしい。闇医者の相場がどれくらいなのかは知らないが、決して安いものではないだろう。


その日は晴れていた。

サラリとした風がやんわりと頬をくすぐって、突き抜ける程に青い空へ駆け上っていく。

家に帰れる嬉しい気持ちと、要女先生と別れる事へのちょっとした哀愁を抱えながら、僕は自宅へと歩を進めた。


1週間ぶりに戻った我が家には、特に外観に変わった様子は見受けられなかった。まあ、こんな短期間で変わるわけも無いが・・・

僕は玄関前に立ち、すうっ、と息を吸った。


「ただいま」


ドアを開けて帰宅を告げる挨拶をすると、奥の方から、たたたっ、と駆ける音が聞こえた。

「白峰くんっ!」

全く予想外の人物の出迎えに、僕の平常心は一気に吹っ飛んだ。

「に、西原!どうしてここにいるの?」

「どうしてじゃないよ!白峰くんが風邪引いたって言うから・・・鈴掛くんに様子を聞いてみたら、涼子ちゃんと同棲してるから涼子ちゃんに訊けば分かるって言うし・・・」

一呼吸置いて、西原は更に続ける。

「お見舞いに来てみると、太田先生もいて・・・どうして教えてくれなかったの?」

別段教える義務があったとは思えないが、こうまくし立てられると、何となく申し訳ない気持ちになってくる。

会話している内に、太田先生と涼子ちゃんが少し遅れて姿を現した。

「退院祝いに遊びに連れ出してくれと頼んでおいたんだ。一昨日はせっかく見舞いに来てくれたのに肝心のお前が留守だったからな。

お前の状態は要女から聞いている。激しい運動をしなければ大丈夫だそうだ。」

太田先生の言葉にハッとして、僕は改めて西原の方を見た。

纏めずに、サラリと流したままの黒髪。白とピンクのボーダーのシャツの上に茶色の皮ジャケットを羽織り、ボトムスには紺のミニスカート、足元はブーツで決めている。

いつもは見せない、西原の別の顔だった。

思わず見とれてしまう。対照的に、西原はついっと視線を逸らしてしまった。

「まだ時間も早いし、少し家で休んでから出掛けた方がいいんじゃないか?今日は休日だしな。」

太田先生はそう言って僕たちをリビングに招き入れた。いや、招き入れるも何も僕の家なのだが。

座って一息ついた僕に、涼子ちゃんがお茶を持ってきてくれた。

そこに待っていたように声を掛ける太田先生。

「お前も一緒に出かけたらどうだ。」

一瞬、涼子ちゃんの動きが止まる。僅かな間を置いて出てきたのは、肯定の言葉だった。

「うん、そうする。」

それだけを口にすると。涼子ちゃんはそそくさと自分の部屋に戻っていった。


「あの・・・お手洗い借りてもいい?」

「あ、うん。そこの廊下の突き当たりにあるから。」

西原が席を立ち、リビングには僕と太田先生の2人だけが残った。

「すまんな、見舞いに行けなくて。闇医者という商売柄、要女には必要以外の面会は全て断られるんだ。」

太田先生がそう謝ってきたが、想像の及ばない世界の話に、僕は、はぁ、と生返事を返すくらいしかできなかった。

「西原と話して気付いたと思うが、お前は風邪をこじらせて入院した事になってる。話を合わせてくれ。」

「はい、分かってます。」

面倒を避けるにはそれが賢い選択というものだろう。

「ところで龍輔。お前、自分の“力”は制御できるのか?」

いきなりそう切り出されて、僕は息が詰まった。

太田先生は知っているのだろうか・・・いや、知らないと考える方が無理かもしれない。同じように僕の力について知っていた要女先生と知り合いな訳だし、第一、太田先生自身が“相手の心を感じ取る”という不思議な力の持ち主なのだ。

しかし、太田先生の問いが抽象的なのも事実だ。正直に話したら余計な事まで明かしてしまっていた・・・という事にもなりかねない。

果たしてどう答えるべきか・・・そんな僕の逡巡に構わず、太田先生は言葉を続けた。

「涼子はな、随分幼い時期から能力に目覚めていた。しかしあいつは、自分の能力を制御する事を知らなかったんだ。いや、というより、自分が特別な力を振るっているという事に気が付かなかったらしい。

あいつは思った事をづけづけと言うだろ?それには、あいつの過去が関係している。他人の感情が伝わってきてしまうもんだから、自分の感情も隠すのは無駄だと思っていたんだろう。

自分の力が特別だと知り、制御するようになった今でも、それまで培ってきた性格は急には変わらんらしい。しかし、だ・・・」

そこで先生は一旦言葉を切り、僕に見定めるような視線を向けた。

「あいつも、最近変わってきてるんだ。飾りっ気の無いあいつが、お前の退院する今朝は自分の部屋に篭って一生懸命髪を結っている。お前の話になると、急に言い淀む事が多くなる・・・」

太田先生の表情は、段々と悪戯っぽい笑みに変わっていった。

「俺は嬉しいんだ。あいつがちゃんと女の子らしく変わっていくのが。」

遠い目をして、そう口にする太田先生・・・その瞳にどれだけの想いが込められているのか・・・僕にその深さを量り知る事は出来なかった。

こうやって他人の事を自分の事の様に語る太田先生は僕の記憶に無い。

涼子ちゃんの姓について等、訊きたい事はあるのだが、その疑問を声に出す勇気は今の僕にはまだ無かった。

「おっと、話が逸れたな。お前の力についてだ。」

急に自分の話に戻され、僕は反射的に目を伏せた。

「・・・今は考えたくないというのも無理は無い。しかし、いずれは向き合わなければならない問題だ。人間はな、伸びたままの爪を晒して生きていく事は出来ないんだよ。」

黙り込んだままの僕に、太田先生はそれ以上の追及はしなかった。

「まあ、今日はとにかく思いっ切り外で遊んで来い!時には全てを忘れて気を休める事も必要だからな。」

その言葉と同時に、今まで涼子ちゃんの部屋に寄っていたらしい西原が姿を現した。

「涼子ちゃんも用意できたみたいよ。そろそろ行かない?」

今日という1日は、まだ始まったばかりだ。



家を出るや否や、先頭を切ってすたすたと歩き出したのは涼子ちゃんだった。

自然、僕と西原は並んでその後に続く形になる。

西原は、すごくご機嫌な様子だった。

ふんふん♪と流行のポップスを鼻で歌いながら、終始ニコニコしている。

何がそんなに楽しいんだろうと思いながらも、その笑顔を眺めるだけで僕は幸せになれた。

一方、涼子ちゃんは一定のペースを保ったまま、こちらを振り向きもしない。

そっけないのはいつもの事だが、それにしても今日は少し変だ。

もしかしたら、本当は出掛けたくなかったのだろうか・・・そう考えると、心苦しくなってくる。

「もうっ、涼子ちゃん!」

そんな僕の心配をよそに、西原が躊躇無く涼子ちゃんに声を掛けた。

「こっちに来てよ、顔が見えないじゃない。」

心底可笑しそうにそう言いながら、西原は涼子ちゃんの腕に組み付き、強引に僕の前まで引きずり戻した。

涼子ちゃんは落ち込んだように俯いたまま、こちらを見ようとしない。

オレンジのカーディガンにデニムのスカート、白いソックスにスニーカーを合わせた涼子ちゃんだが、洋服ではない別の部分が僕の目を引いた。

「あれ?唇の色がいつもと違う・・・」

「ねえ!聞いて聞いて!涼子ちゃん、今日初めてリップカラー使ったんだよ!」

西原は自分の事の様にはしゃぎつつ、僕に感想を求めてきた。

「可愛いでしょ?」

「い、いいと思うよ。」

咄嗟にそんな事しか言えない僕。自分がこれ程言葉を知らない人間だとは知らなかった。

ぷいっとそっぽを向いてしまった涼子ちゃんに、西原が笑い掛ける。

「良かったね、気付いて貰えて。」

それを無視するかのように歩き出した涼子ちゃんだったが、その両耳は目に見えて真っ赤に染まっていた。

(そうか、それが恥しくて・・・)

別に涼子ちゃんの機嫌が悪いのではないと分かって、僕は胸を撫で下ろす。

途端に、今までの涼子ちゃんの態度がとても可愛いものに思えてきた。

「似合ってるよ、涼子ちゃん」

今度は自然に感想を口にする事ができた。

ありがと・・・と、消え入りそうな声で答える涼子ちゃんに、僕は西原と同じように顔を綻ばせたのだった。



駅に着いた僕たちは、電車に乗って隣町に向かった。

海沿いの繁華街・・・西原の住む町だ。

目的地はその町で一番大きなデパートである。売り場のほかにもレストランや映画館まで内包した、町自慢のレジャースポットだ。


到着してまず昼食を取った僕たちは、目当ての映画が始まるまで売り場を回って時間を過ごす事にした。

“買い物=遊び”という構図は、男の僕にはピンと来ないものだったが、女の子2人は存分にショッピングを満喫しているようだった。

涼子ちゃんも気恥ずかしさは大分取れたらしく、普段の元気を取り戻していた。

西原は僕の前にいろんな小物を持ってきて、

「ねえねえ、これも可愛いと思わない?」

と、意見を求めてくる。

その度に「うん、そうだね」と一辺倒な返事をする僕に西原は少し不満げだったが、先程とは違い、僕は数々の小物に対しそれ以上の感想を持たなかった。

むしろ、それらを抱えて駆け寄ってくる西原の可愛さの方が、僕にとっては破壊力抜群だ。

涼子ちゃんはといえば、ぬいぐるみと向き合って、じーっ、とにらめっこしていたかと思うと、不意に買い物かごに放り込むという作業を、さっきからずーっと繰り返している。

その真剣な様子に、僕はつい、ぷっ、と吹き出してしまった。


洋服売り場を訪れた時は、傍観を決め込んでいた僕にいきなり矛先が向けられた。

散々女の子たちの着せ替え人形にされた挙げ句相当数の洋服を買う羽目になってしまい、結構余分に持ってきた筈のお金が一気に吹っ飛んだ。

この調子では家に帰り着く頃には一文無しになってしまいそうだった。

まあ、お金に関しては目を瞑るとしても、それ以上に閉口したのは、西原がなぜか女物の洋服を持って来ては僕の体にあてがって、きゃあきゃあ喜んでいた事だ。

「白峰くん・・・ちょっとだけ試着してみない?」

「しないよっ!!」

「似合うと思うんだけどなぁ・・・涼子ちゃんもそう思うでしょ?」

「まあ、否定はしないかな。」

してくれっ!!と懸命に突っ込みを入れる僕。

僕にそっちの趣味はないし、どう考えても似合うワケがない。

全く、2人とも一体どんな嗜好をしているんだか・・・まあ、単に僕をからかって反応を楽しんでるだけなんだろう。


その日僕たちが観たのは、「Heaven’s Gate」という映画である。

生物兵器テロの犯人に立ち向かう賞金稼ぎたちの宇宙を舞台にした壮大なSFファンタジーでありながら、どことなく西部劇の様な古臭さを漂わせる独特の作風が面白い。

しかし、映画の内容より僕の興味を引いたのは、隣で潤ませた目にハンカチを当てている西原の横顔だった。


「可哀想なお話だったね。」

映画館を出た直後、洟を啜りながら感想を漏らす西原。

それに対し、涼子ちゃんの反応はどこまでもドライだ。

「ありがちな話・・・曲は好みだったけど。」

西原は少しムッとした様な表情を見せたが、言い返したりはしなかった。

まあ確かに感動的な話ではあったが、そんなに泣くほどのものとは僕も思えなかった。だがそんな映画にここまで感情移入してしまえるところが西原らしいとも言える。



僕たちが帰路に就く頃には、日はすっかり沈んでいた。

もう結構な時間になっている。

肌寒さに身を縮ませながら、僕はTシャツ1枚しか着てこなかった事を後悔した。


駅への道中、西原が静かに語り出した。

「あのね、私、あの後もう1回白峰くんのおじいちゃんのお見舞いに行ったの。」

「・・・えっ。」

瞬間、僕は言葉に詰まった。

今でも覚えている。治樹と西原と3人でおじいさんのお見舞いに行った帰りの電車での、西原の悲しそうな顔を・・・

あの時、僕は2度と西原を見舞いに連れて行かないと心に決めた。西原のあんな顔を見るのは耐えられないからだ。

それなのに、当の西原が僕の知らないところでおじいさんのお見舞いに行っていたというのだ。僕が驚かない訳がない。

「その・・・大丈夫だった?」

控えめに発した僕の疑問に、西原は苦笑いを浮かべた。

「やっぱり、心配されちゃうよね。でも私、どうしてもおじいちゃんに謝っておきたくて・・・あの時の私は無神経だったって思ったから。

また迷惑掛けちゃうだけかもしれないとも考えたんだけどね。ごめん、黙って勝手な事して。」

「い、いいよ、そんな、謝らなくても。」

西原だって辛かった筈なのに、もう1度お見舞いに行こうという勇気が湧いてくるなんて・・・

西原は朗らかで、誰からも好かれていて・・・だから、あんな風に人から拒絶される事に耐性が無いのではないかと勝手に思い込んでいた。

「最初はやっぱりなかなか話してくれなかったけど、その内段々打ち解けてきて・・・おじいちゃんって、昔この町に住んでた事があるんだって!知ってた?

おじいちゃん、優しい顔で、昔の浜辺の風景を話してくれたんだよ・・・」

満面の笑みで言葉を紡ぐ西原。

西原は僕が思っていたよりもずっと強い女の子だった。

月の光を湛えて輝くその瞳の美しさを表現できる言葉を、僕は持たなかった。



--------



ジリリリリリリリ・・・


その日の朝は、目覚ましのベルの音から始まった。

中学の頃から愛用している目覚まし時計の聞き慣れた音なのだが、少しだけ懐かしい気がした。

考えてみればここ数日を要女先生のところで過ごしていたのだから、自宅で朝を迎えるのは久しぶりなのだ。

目を擦りながら階段を下りる。キッチンには涼子ちゃんの後ろ姿があった。

「あれ?太田先生はまだ起きてないの?」

「あ、おはよ、龍輔さん。父さんはちょっと用事があって出掛けてった。」

「ふ~ん・・・」

僕はさして気に留めなかった。そんな事より涼子ちゃんの運んでくる作りたての朝食の方が断然魅力的だったからだ。

鮭の塩焼きに味噌汁、ほうれん草のおひたしには鰹節がまぶしてあった。

「いただきます!」

一頻りご飯を掻き込んでから、僕は何気なく涼子ちゃんの顔を見た。

(・・・そういえば、初めて会った日も、こうやって2人でご飯を食べたんだっけ・・・)

あれは、学校の食堂での事だった。“龍輔さんには西原先輩は無理だ”とか言われて、かなり傷ついた記憶がある。

(あの時は、涼子ちゃんとこうやって同じ屋根の下で生活するなんて、考えもしなかったな。)

不意に、太田先生の言葉が頭の中に浮かんできた。

『お前が退院する今朝は自分の部屋に篭って一生懸命に髪を結っている。お前の話になると、急に言い淀む事が多くなる・・・』

太田先生の言おうとしている事は、何となく察しがつく。でも、僕にはそれがどうしても信じられない。もし本当に気があるなら、普段あれだけそっけない態度で接してくるだろうか・・・

大体、自分で言うのもなんだが、僕は何一つ取り得の無い人間だ。ましてや女の子を振り向かせる魅力など僅かも持ち合わせてはいない。

(それにしても・・・)

昨日の涼子ちゃんは可愛かったな・・・トマトジュースをあおりながらしばし回想に耽る。

ああやって恥しそうにする涼子ちゃんを僕は初めて見た。

(僕の前だから恥しかった・・・なんて、そんな訳無いよな。)

都合の良い考えに嵌りそうになる自分に思わず苦笑しそうになる。

「龍輔さん。」

「え、な、なに?」

急に声を掛けられて、僕は少し慌ててしまった。

そんな僕の目を真っ直ぐに見つめて、涼子ちゃんは言った。

「醤油取って。」

「あ、うん。」

涼子ちゃんのいつも通りのそっけなさに、やっぱり太田先生の思い違いだと確信する僕だった。



久しぶりの登校路・・・僕は、涼子ちゃんと肩を並べて歩いていた。

傍から見れば、仲の良いカップルに見えるかもしれない。噂の1つも立ちかねないが、涼子ちゃんはそんな事に頓着する様子も無い。

たまたま隣に僕がいる・・・多分それくらいの認識なのだろう。

ずっと無言のままでいるのも何なので、僕は涼子ちゃんに適当に話題を振ってみた。


「結局、サイトってのは何なの?」


何気ない問いかけに対し涼子ちゃんから返ってきたのは、温度を感じさせない声だった。

「知って、どうするの?」

突き放す様な口調・・・振り向きもせずに発せられたその言葉には、明らかに怒気が含まれていた。

何を怒っているのかは分からない。しかし、気圧されてしまって次の言葉が出てこない。

僕は慌てて別の話題を探した。

「と、ところで、僕、4日も学校休んじゃったけど、何か変わった事とかあった?」

「・・・2日」

「え?」

「龍輔さんが学校を休んだのは2日だけ。残りの2日間、学校は臨時休校だったから。」

どうして?・・・そう訊きかけて、僕はその問いを飲み込んだ。

どうしてだって?そんなの分かり切ってるじゃないか。

寝惚けているにも程がある。

頭を働かせるまでも無く容易に想像できる筈だった。あの日、あの後、学校がどれだけの大騒ぎになったかくらい。

徐々に校門が近付いてくる、それに伴いビデオカメラだのマイクだのを携えた報道関係者らしき人たちの姿がちらほらと見え始めた。

彼らが何の目的でここにいるのか・・・それは明らかだ。つい1週間前に起こった大惨事の取材に来ているという事は疑いようも無い。

無意識の内に忘れようとしていた事実・・・

僕は知っているのだ。あれの原因が自分にある事を。

そして、たとえ意味は分からずとも、“その単語”が真相に深く関係している事を。

サイト・・・それは軽々しく口に出していい言葉ではなかった。



教室に向かいながら、僕はぼんやりと考え事をしていた。

馬鹿だった。軽率過ぎた。そのせいで僕は涼子ちゃんを怒らせてしまった。

正直なところ、なぜ涼子ちゃんが怒ったのかはっきりと理解できた訳ではないが、彼女が気分を害した事は確かだ。

だけど、あの屋上での出来事に関して、僕に一体どんな責任があるというのか・・・一方ではそんな気持ちもある。

僕を襲った奴らは、僕にとって“何の罪も無い”と称するに値しない連中であり、彼らの不幸についていつまでも罪の意識を感じていられる程、僕はお人好しではなかった。

自業自得だと言ってやりたい。しかし、いざあの時の事を思い出そうとすると、震えが止まらなかった。眩暈がして、へたり込みそうになる。

(そうか、要女先生は分かってたんだ・・・)

先生は言っていた。『怖かったのね』と。

そう、僕は怖いのだ。

何が怖いのかも分からないまま、僕は得体の知れない恐怖に押しつぶされそうになっていた。


「おはよう!龍輔くん。」

「あ、おはよう。」

教室に入るなり、西原が僕に挨拶を投げかけてきた。

「なんか最近、白峰くんの登校してくる時間が遅くなったよね?前までは必ず私より先に教室にいたのに・・・」

「えっと、そうかな・・・」

涼子ちゃんの朝支度を待つ分遅くなっているとは言えないので、僕は曖昧な返事で誤魔化す。

「もし休んだ間のノートとか貸して欲しかったら言ってね。」

「分かった、ありがとう。」

相変わらずの細やかな気遣いにはつくづく感心させられる。

「ところで・・・」

俄かに表情を曇らせつつ、西原が訊ねてきた。

「事件のこと、知ってる?入院中にニュースで聞いたかもしれないけど。」

刹那、駆け抜けた悪寒に、僕は身震いしそうになるのを必死に堪えた。

「う、うん。一応・・・」

「なんでだろうね。自殺なんて、絶対しちゃいけないのに・・・」

悲しそうな、でもどこか怒っている様な西原の言葉が僕の心に引っ掛かる。

「絶対、しちゃいけない?」

そう問い返したところで、僕は自制の必要を感じて次の言葉を飲み込んだ。

(やめよう、議論なんて無意味だ。)

しかし、発せられた問いの部分に反応した西原が、律儀に自分の発言を補足した。

「だって、親から貰った尊い命なのに、それを大切にできないなんて・・・自殺なんて、殺人と同じだよ。」

「でも、親に産んでって頼んだ覚えは無い。」

反射的に声が出た。

「望んで産まれてきた訳じゃない。自分が何の為にいるのかも分からないのに、どうして生きていかなきゃいけないの?

自分で死ぬんだったら、それは自分の責任でやってる事だし、誰も傷つけてない。

死を選んじゃいけないんだったら、生きるってすごく息苦しい事なんじゃないの?

何でそんな物を押し付けられなきゃいけないの?」

「白峰・・・くん?」

「生きたいと思う人だけ、生きていけばいいんだ。」


「白峰くん!!」


教室に響く西原の声。周囲の視線が一気に彼女に集中した。

西原がどういうつもりで声を張り上げたかは分からない。ただ、その目はとても不安げに僕を見つめていた。

「ごめん、ちょっと風に当たってくる。」

西原の瞳から逃れるように、僕は踵を返した。

言わなくてもいい事を言ってしまった自分に嫌気が差す。頭を冷やしたかった。

「待って!」

西原の制止を背に受けながら、僕は教室を後にした。

「さて・・・と」


ガラッ


「待ってよ!」

屋上へと歩を進めようと思った矢先、西原が教室から飛び出してきた。

無理も無い。始業のベルは間近だ。彼女が止めに来るのは当然の・・・


「私も行くから!」


「え?」

一瞬耳を疑ったそのとき、階段の方から騒々しい足音が聞こえてきた。

「うおおおっ!ぎりぎりセーフだぁっ!!」

「は、治樹!?」

「お?何してんだ?廊下に突っ立って・・・もうすぐベルだぞ!」

「いや、ちょっと・・・」

返事を待つ事なく、治樹はぐいぐいと僕を教室に引き擦り込んだ。

諦めてされるがままになる僕。

(まったく、こいつは人の言う事なんか聞きやしない・・・)

無遠慮で、無神経で・・・でもその強引さは、なぜか不快では無かった。

水を差された形だが、僕の胸のもやもやは取り敢えず霧散していった。

溜息を吐きながら、僕は自分の口元が緩んでいる事に気付いたのだった。



昼休み、僕は治樹と弁当を食べていた。

涼子ちゃんに頼んでおいたので、僕の弁当は以前ほど女の子チックな体裁ではない。

「おうおう、聞いたぜぇ。西原と・・・神谷涼子ちゃんだっけ?2人を引き連れてデートしたんだってなぁ。」

治樹がニヤニヤしながら話し掛けてきた。ただ、目はあまり笑っていない様に見える。

「デ、デートなんて、そんな・・・ちょっと遊びに連れてって貰っただけだよ。」

「あのなぁ・・・まあいい。俺はあの日用事あったからよ。今度の休日一緒に遊び行こう。」

「うん、いいねぇ。どこに行こっか。」

「あそこに行かねぇか?あのゲーセン。」

「あそこか、結構久しぶりだな・・・うん、行こう!」

「よし、決まりだな!」

それは、思い出の場所だった。それまで他人同士だった僕たち2人が、仲良くなる切欠となった場所だ。

談笑しつつも、僕の胸には拭い切れないもやもやが再び濃度を増し始めていた。

気が付くと、僕の口からは脈絡の無い問いが零れていた。

「・・・治樹、治樹は生きてて楽しい?」

「おう、楽しい。」

少しの間も置かず即答する治樹。

「何が楽しいの?」

「取り敢えず、今はお前とメシを食ってる事かな。この唐揚げなんか中々絶品だぞ。どれかと交換すっか?」

余りの能天気さに、僕は思わず吹き出してしまった。

逆に、治樹が問い返してくる。

「お前はどうなんだ?朝っぱらから浮かない顔してたけど、悩みでもあんのか?」

こういう奴だ。治樹は。

僕の様子がおかしい事に気付いていて、遊びに誘い出そうとしてくれていたのだ。

それでいて、何も知らないような顔をする・・・笑ってしまうくらいムカつく奴なのだ。

「いや、治樹と話してる内に忘れちゃった。」

「なに?迷惑な奴だな。ちゃんと思い出せよ。」

治樹が笑った。僕も自然と笑顔になる。

「ていうか待て!その唐揚げって僕のじゃないか!交換も何も無いだろっ!」

「あれ~?そうだっけ?気付かなかったな。まあ、いいじゃねぇか。減るもんじゃないし・・・んぐっ、もぐもぐ。」

「減るよ!今まさに減ってるよ!」

「そんなに興奮するなよ。代わりにこのピーマンやるからさ。」

「自分の嫌いなものを押し付けてるだけだろ!大体治樹は好き嫌い多すぎなんだよ。もっとちゃんと野菜食べないと・・・」

「わ、分かった分かった!お前オレのかあちゃんかよ!」

ふと見ると、西原がこちらの様子を窺いながら、ほっとした様な表情を浮かべていた。

(心配、してくれてたのかな・・・)

僕が投げやりな発言をした事を怒っているのかとも思ったが、どうやら違ったらしい。

今の僕は、彼らと一緒に笑っていられる時間の為に、生きているのかも知れない。

そんなちっぽけな自分が、少し嬉しかった。


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