Time for…(刻戻し完結版)

桜雪

途切れた記憶と刻の慈悲

「経過を見初めて…1年ですが、今のところ再発は無さそうです」

「本当ですか?」

奈美の表情がパッと明るくなる。

「毎月、通っていただきましたが…3ヶ月に1回のペースにしましょう」

「はい、ありがとうございます」

「ところで…記憶のほうはどうですか?なにか思い出したことありませんか?」

「そっちのほうは…なにも…変ですよね、入院していたことすら覚えてないって…いえ、私、病気になったことすら…半信半疑なんです…今も…」

少し、不安そうな顔の奈美。

「あ~いえ、まぁ…記憶障害のほうは専門外なんですが…お話したほうがいいのか…どうか…迷ってまして」

「なんの話でしょうか…」

「いえ、あなたの入院中に、頻繁に逢いに来ていた男性がいたんです。覚えてませんか?」

少し考えて…首を横に振る奈美。

「そうですか…その青年なんですが…今、この病院に入院してるんです」

「えっ?」

「看護師の話だと…恋人のようだったと聞いたもので、もしかしたら…記憶の回復に繋がるのではと思いまして」

「あの…その人は、私のことを…」

「それが…人違いではとのことで…ただ、私も何度か見かけてるんで、人違いではないと思うのですが…」

「じゃあ、人違いなんでしょうかね…恋人なんて、私も心当たりがないですし…」

どういう顔をしていいか解らずに、力なく笑う奈美。

「そうですか…もしかしたらと思ったんですが」

「すいません…」

「いえ…謝られるようなことは何も…」


病院から帰るとアパートの部屋で、ぼんやりと外を眺める。

どのくらいそうしていたのか…気づけば月が覗く時間になっていた。


「私に恋人…」

そんな人が本当にいたのだろうか?

なんで覚えてないんだろう。

(発病してから私は何をしていたんだろう…)

心の奥から、ジワリと滲むような不安が襲ってくる。

発病・入院・恋人…。

奇跡の完治だと周りは騒いでいたが、本人はまるで実感がない。

当然だ、病気になどなっていなかったことになったのだから。

覚えているはずがない…経験してないのだ。


病気のことより、気になるのは恋人のことだ。

(入院しているときに知り合ったのなら…私の病気のことも、完治したことも知っているはず…なぜ…今、その人は私の隣にいないのだろう)

自分の記憶がないことと無関係とは思えなかった。


翌日…奈美は病院を訪れた。

知り合いの看護師に、その青年のことを聞いてみたのだ。

「本当に恋人のようだったよ、毎日のように逢いに来て屋上で時間の限り一緒にいたんだよ、でも…ある日を境にパタッと来なくなったの…奈美さんの病気が治る前の日ね」

「そんな…」

「奈美さんの記憶が無くても…本当に覚えてない?あれから逢ってもいないの?」

「……」

無言で頷く奈美。

「本当は良くないのかもしれないけど…303号室よ…入院してるの」

「えっ…でも、なんで入院してるんですか?」

「うん…離人りじん現実感喪失げんじつかんそうしつ症侯群しょうこうぐんっていう病気、知ってる?」

首を横に振る奈美。

「なんか、現実感を感じられなくなるんだって…風景や手足の感覚が作り物のように感じたりするんだって…」

「いつから入院してるんですか?」

「そうねぇ…3ヶ月くらいになるかしら」

「そうなんですか…」

「本当に覚えてないの?…なんだか可愛そうね…あなたも…あの人も…」


胸が苦しくなる…。


(逢ってみようか…)

そんな気持ちにならないわけではない…しかし…どこか逢ってはいけないような気持ちもあるのだ。

個室の前まで歩いてきたものの、どうしてもドアを開ける勇気がない。

スライドドアに手を掛けようとして…深く深呼吸をする。

(開ける!)

と思ったとき…スーッとドアが開く。

奈美が視界を上に向けると…白い肌…悲しそうに微笑む青年。

「あ…の…」

何を話せばいいのか…初対面の男に…自分の恋人だったかも知れない青年に。

思わず視線を横に逸らす奈美。

(あれ…私…泣いてる…の…)

奈美の瞳から涙が零れる。

青年はスッと奈美の涙を指先で撫でる…その指先に、白く長い指は、なぜか奈美を悲しい気持ちにさせる。


「なんで…泣くの?」

微笑みながら、奈美に尋ねる青年。

「なんででしょうね…すいません…」

頭を下げて、帰ろうとする奈美。

「あの…私も通院してるんです…あの私…入院してたみたいで…でも記憶が無くて、私…大切な人がいたみたいなんですよね、でも覚えてなくて…」

早口で青年に話しかける奈美。

黙って聞いている青年。

「……それで…その…また来てもいいですか?」

はぁ~と大きく呼吸をする奈美。

自分が何を言ってるのか…途端に恥ずかしくなって下を向く奈美。


そんな奈美の頭をポンと叩く青年。

「いつでもどうぞ…」


「はい!」


それから、アルバイトを始めた奈美。

休みの日は必ず、青年の部屋を訪ねて色々な話をした。

青年は感情豊かな奈美の表情や、失敗話を楽しそうに聞いていた。


そんなある日…。

検査が終わると、奈美は青年の部屋を訪ねた。

花瓶に活ける花を手にドアを開けると、そこには誰もいない。

「えっ…」

(どうして…)

久しく感じなかった、あの滲むような不安に襲われる奈美。

その場に崩れ落ちて、声を出して泣いた。

(なんで…いなくなるの…)

床には、花びらが散らかる。


奈美の頭をポンと叩く白い手。

「あいかわらずドジだな…奈美」

顔を上げると、白い手に落ちたはずの花が握られている。

床には花びらは一枚も落ちていない。


「退院するんだ…奈美が僕に現実いまをくれたから…」

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Time for…(刻戻し完結版) 桜雪 @sakurayuki

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