十四日目。

 桜の樹の中で朔矢は一人、うずくまっている。今の朔矢に身体はないため、正確には朔矢の意識は、だが。

 一昨日、咲希に距離を取ろうと言ってから桜の樹の中に引きこもり、今日で三日目だった。

 昨日の午前中までは、咲希と親しい間柄の者たちが来ては、出て来いだの、咲希と話せだの言ってきていたが、昨日の午後からはそういったことがすべてなくなった。ずいぶんと静かになった桜の樹の中で、朔矢はじっと考える。


 もしも自分が生きていたら。


 あの日。あの車を避けることができていたら。あの車が信号無視をしていなかったら。あの交差点を通らなかったら。友人に呼び出されなかったら。電話に出なかったら。

 あの日、あの時、あの瞬間。咲希がなにかを最後まで言い終えていたら。ちゃんとその言葉を、自分が聞くことができていたら。咲希と一緒にいる未来を描くことができたのだろうか。


 朔矢は、フッと鼻で笑った。

 そんな未来は、もうない。現に自分は咲希の言葉を最後まで聞くことなく、電話に出て、友人に呼び出され、あの交差点を通った。そして、あの車は信号無視をして突っ込んできて、自分はそれを避けることができずに跳ねられて死んだのだ。


 朔矢は静かに、思い出す。


 車に跳ねられたあと。次に目を覚ましたときには、電車の中だった。朔矢には電車に乗った覚えはなく、不審に思ったが、走っている電車から降りることもできずにぼうっとしていた。そうしていると、跳ねられたことが夢だったのではないか、と朔矢には思えてきた。もしくは電車に乗っている今が夢なのかもしれない。そんな曖昧な感覚の中で、朔矢は窓の外で懐かしい思い出たちがまるで映画のように写っているのを眺めていた。電車は静かに、桜ノ町で止まる。ドアが開いて、降りようか、どうしようか、と悩んでいると、老人が降りないのか、と話しかけてきた。

「ここが、あなたの降りるべき場所ですよ」

 老人に言われて、そうなのか、と思い、朔矢は立ち上がってポケットの中を漁る。だが、目当ての物は見つからない。

「あの僕、切符とか、持ってないんですけど……」

 すると老人が、ホッホと笑った。

「そんな物はいらないよ」

「え……?」

 どういう意味か分からずにポカンとした朔矢の背中を、老人は押した。見た目によらず強い力に、朔矢の身体は、駅のホームにドサリと音を立てて倒れ込んだ。

「君は死んでいるんだから」

 頭上から振ってきた言葉に、朔矢の頭は一瞬にして真っ白になった。瞬時に、自分が跳ねられて死んだのだと理解する。そしてこの電車が、死後の世界に向かう物だったということにも。

 もう一度電車に乗ってこの世に戻ろうと朔矢が振り向いたときには、電車の影も形もなかった。

「嘘……だよな」

 よろりとよろめきながら立ち上がり、呟く。

「戻らなきゃ……」

 線路に沿って歩けば、きっと戻れるはず。そう思った朔矢は線路に降りようとする。が、後ろから強い力に引っ張られて、それはできなかった。

「なにをしようとしておる」

 フルートのような声。だけどその声にはどこか従わざるをえないような力がある。朔矢が後ろを振り向くと、薄墨色の髪の毛の小さな少女が立っていた。見た目に似合わない古風な口調で、少女はもう一度問う。

「なにを、しようとしておる」

「……戻らなきゃいけないんだ」

「ほう……」

 髪の毛と同じ薄墨色の瞳が細められる。

「察しは付くが、念のために問おう。どこにじゃ?」

「あの子のそばに」

「櫻木咲希、か」

 よく口にしていた名前を、見ず知らずの少女が口にしたことに、朔矢は目を見開いた。少女はクックと笑う。

「おぬしの生前の記憶ぐらい、知っておる。特別気にかけていた少女のことであろう?」

「……僕を、あの子の元へ戻してください」

「無理に決まっておるじゃろう」

 少女は冷たく突き放す。

「なにか方法があるはずだ」

「ない」

「嘘だ……」

――朔兄!

 咲希の微笑みが、声が、朔矢の頭の中に浮かぶ。早く戻らないと、また咲希の記憶が減ってしまう。咲希を傷つけてしまう。早く――。

「おぬしは死んでおる。なにをしようと、その事実が変わることはない」

「嘘だ!」

 勢いよく少女に掴みかかろうとした朔矢を、後ろから誰かが羽交い締めにして止める。あとからこのとき止めたのは櫻井だということを、朔矢は本人から聞いた。そのときはただ、その戒めを解こうと朔矢は必死で暴れた。

「嘘だ! 僕は! 僕はああっ!」

 生き返らなければ。あの子の知らない知り合いを増やしてはいけない。

「生き返るんだっ! お願いだ! 戻してくれええっ!」

 じっと静かに、少女は朔矢を見つめた。無表情ではあったものの、その瞳は哀れむように揺れていた。

「咲希ちゃんっ! 咲希ちゃん――っ!」

――絶対に咲希ちゃんよりも先に死なないし、ずっとそばにいる。

 朔矢の小指と小さな小指が絡み合う。

――朔兄。

 涙を流すことを忘れてしまった、記憶の中の色を失った咲希の瞳が、朔矢をじっと見つめる。そしてふわりと、力なく微笑んだ。

 どうせ、あなたのことも忘れてしまうのでしょう? そう言いたげな笑みだった。すべてを諦めたような声が、小さく開かれた唇からこぼれ落ちる。

――ありがとう。

「うぁああああああっ!!」

 あんな悲しいありがとうを、朔矢は聞きたくなかった。あの一回だけにしたかった。あんな気持ちにさせたくなかった。


 どうせ独りぼっちなんだとは、思ってほしくなかった。


「ごめんね、咲希ちゃん」

 自分が死んだせいで、また独りぼっちにしてしまった。だけど今度は違う。自分がいなくなっても、咲希はもう独りじゃない。これ以上いたら、咲希が他の人と繋がりを築くときに邪魔になる。去り際を見誤ってはいけない。

「咲希さん……」

 朔矢はそっと、顔を上げる。明日はお祭りだ。遠目にでもいい、チラリとでも咲希の姿が見れたら満足だ、と朔矢は自分に言い聞かせる。間違っても話しかけるな、と。明後日昇るときは、できるだけ早めに昇ろうと、朔矢は考えている。そうしないと、また長くここに留まってしまいそうだからだ。


「さようなら、愛していたよ……」


 その呟きは、誰にも届くことなく、消えていった。

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