十一日目。

 昨日はあのあと、ずっと咲希から消えてしまった記憶について、二人は話していた。といっても、ほとんど朔矢が咲希に教えていた、と言った方が正しいのかもしれない。

 そしてその対価と言えるものが、今咲希の目の前にある問題集たちであった。

「多いです……」

「文句言わない。昨日やらなかった分も今やらないと、もう春休みが終わるまで今日入れて一週間しかないんだから」

「うう……」

 咲希は言えない文句の分を呻いてシャーペンを取ってから、朔矢の一週間という言葉に気付いた。シャーペンを持っていない左手の指で、春休み初日から今日までの日数を数え始める。

「十、十一……。今日でここに来て、もう十一日目なんですね」

 解説書を読んでいた朔矢は顔を上げると、考え事をするように上を向いてから咲希の方を見、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「そうだね。十一日もいたら、飽きちゃった?」

「そういうわけじゃ――」

「うん、分かってる。言ってみただけ」

 慌てて否定した咲希に、朔矢は楽しそうにフフッと笑う。それが悔しいはずなのに、咲希はその笑みに思わず見惚れてしまう。昔はこの笑顔を、それこそ飽きるくらい見ていたのだろうな、と朔矢が生きていた頃の自分を羨んだ。

「どうしたの?」

 我に返ると、朔矢が心配そうに咲希の顔を覗き込んでいた。その距離、約五センチあるかないか。思いっきり朔矢のことを考えていた咲希は、驚きと恥ずかしさで短い悲鳴を上げた。そして距離を取ろうとしてそのままバランスを崩し、椅子から転げ落ちかける。瞬間、朔矢が咲希の左腕を掴み、強い力で自分の方へと引っ張り上げた。結果、咲希の身体は冷たい床ではなく、温かい朔矢の胸の中へと納まることになる。桜の香りが咲希を包み込む。

「大丈夫?」

 なにが起こったのか理解できていなかった咲希は、頭上から朔矢の声が降ってきたことで現状を理解した。さっと咲希の顔は真っ赤になる。くっついている朔矢に聞こえてしまうのではないかというほど、咲希の心臓は大きく音を立てている。耐えきれなくなり、咲希は右手で朔矢の胸を軽く押した。

「大丈夫ですから」

「そう……?」

 朔矢はゆっくりと手を放し、少しだけ咲希から距離を取った。それでもどことなく心配そうに咲希を見ている。そんな朔矢の表情があまりにも普段と変わっていなさ過ぎて、咲希は少しがっかりしながら、まだ早い鼓動を無視してシャーペンを問題集に走らせ始めた。


 二日分の課題のノルマが終わると、咲希は外のにぎやかさが気になって窓を見た。外では法被姿の中年男性たちが祭りの準備をしている。

「にぎやかですね」

「そう、だね……」

 どこか歯切れの悪さを感じる返事に咲希は首を傾げたが、きっと朔矢と近しいヒトが昇るのだろうと思い、なにも言わなかった。

 なぜか、朔矢はずっとそばにいてくれると、そう、咲希は信じていたのだった。

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