十日目。
咲希はゴソゴソと、自宅から持ってきた荷物を漁っていた。お目当ては例の、咲希が木立高に行こうと思うきっかけになった日記である。
「あった」
分厚めのB5サイズの手帳。咲希がこの手帳を探していたのには、理由があった。
昔は胸が痛くなって読み返せなかった日記も、今なら読み返せるのではないかと思ったからだ。いつもは背表紙からめくる手帳を、今日は表紙からめくる。すると初めのページが現れる。このページを咲希が見るのは何年ぶりだろうか。そこには歪な、でもどこか可愛らしさを感じてしまう文字が並んでいた。その文字たちに咲希は微笑む。そして時折その微笑みに切なさや寂しさ、懐かしさを混ぜながら、文字を追っていった。
下からは、由来と法被を着た男たちの話し声が聞こえてくる。榎本が昇ったばかりだが、また住人の誰かが昇るらしい。一人昇ると、それに背中を押されるようにして続くことがよくあるそうだ。誰が昇るか、というのは咲希は聞かされていない。由来に訊いたが、それは本人の口からじゃないと言えないのだと、教えてもらえなかった。気にはなったが、そう言われてしまえば咲希はなにも言えず、どうか早めにその本人の口から聞けますようにと祈っている。
「……やっぱり、ここら辺は覚えてないや」
咲希の眉が、キュッと八の字になる。右手で優しく撫でたのは、小学生の頃に書いたらしい、とある友人のお見舞いに行く話だった。数日分の日記にも、ずっとその子との思い出が書いてある。だが唐突にその思い出は終わり、書いてある年が飛んだ。
つまり、初めて自分の能力に気づいてから、また日記を書けるようになる辺りまでが、日記には記されていない部分なのだろう。だから、咲希がその少女のことを覚えていないのは当然だった。寂しさと罪悪感を感じつつも、飛んだ年の日記を読み始めて――咲希は止まる。
『○月×日。
家庭教師みたいに毎日私に勉強を教えてくれていた朔兄は、先生になるのが夢みたいです。教え方上手だし、絶対朔兄には向いてると思う! 大学受験まであと一年。毎日応援するからね!』
朔兄、という単語自体はその日記の前にも何度か出ていた。だけど、覚えていないことに寂しさと罪悪感を感じつつも、深くは考えていなかった。だが、先生になるのが夢だ、という文章に、咲希は覚えがあった。
――朔矢君は君と同じ高校に通っていたんだよ? それに彼はこの間まで教師を目指していたから、教え方はとっても上手いよ!
咲希はもしかして、と思い至る。
幼い自分が日記の背表紙に書いた、五年後木立高へ行く、という言葉。そしてそのすぐそばに綺麗な文字で書かれた、待ってるという言葉。
昔、先生を目指していたという夢。
咲希と同じ、木立高に通っていたという事実。
そして、朔、という漢字の被り。
そういえば泉も、初対面のときに引っかかることを言っていたと咲希は思い出す。まるで、咲希と朔矢が初対面だということを、否定しているように聞こえる言葉だったはずだ。
「じゃあ、ずっと優しくしてくれていたのは、私が幼馴染だったから……? 私が覚えていないことで、佐々木さんはどう思っていたの……?」
もしも本当に朔矢が生前、咲希と幼馴染だったのなら、なんでそのことを言ってくれなかったのか。咲希が混乱してしまうかもしれない、という気遣いからなのだろうか。それとも、なにか別に理由があるのだろうか。
真実を聞きたいような、聞きたくないような、そんな思いに咲希が挟まれ始めたとき、コンコン、と控えめにドアがノックされた。
「……はい」
由来だと思ってドアの方を向き、咲希はポカンと口を開いた。
「おじゃまします……って、どうしたの?」
タイミングがいいのか悪いのか。なんと入ってきたのは、佐々木朔矢、そのヒトだった。
🌸
「さ、佐々木さん! ……どうして?」
「? いつも通り課題を見に来たんだけど」
「ああ! そ、そうですよね!」
なに訊いてるんだ私、テンパりすぎだ、と自分に突っ込みを入れながら、咲希は机の上に課題を出した。そして解説書を朔矢に渡す。
「お願いします」
言いながら咲希は、さっき気が付いてしまったことを朔矢に訊こうか悩んでいた。訊くとしたら今か、終わったあとだ。
「あのさ、咲希さん」
「はっはい!」
突然朔矢に声をかけられて、咲希の肩が跳ね上がる。声は裏返ってしまった。
「両手、掴んだままなんだけど……?」
「え?」
咲希が手元を見てみると、渡してから放したと思っていた両手が、まだ解説書を掴んでいた。それも、解説書にしわができるくらいの力で。
「ご、ごめんなさい!」
慌てて手を放すと、朔矢は苦笑いを浮かべた。
「いや大丈夫なんだけど……、あともう一つ。問題集と解説書、教科違うよ」
「え? あ!」
机の上に出しているのは数学の問題集。だが、朔矢に渡した解説書は歴史であった。
「穴があったら入りたい……」
「入らなくていいけど、大丈夫? なにかあったの?」
咲希から数学の解説書を受け取りながら、まじめな顔で朔矢が問う。誤魔化そうとも思ったが、ここまで分かりやすく動揺していて、なにもない、と言っても信じてはくれないだろうと思い、咲希は息を吐いた。
「佐々木さん。なにか私に隠していることはありませんか?」
ピクリと朔矢の肩が揺れたのを、咲希は見落とさなかった。
「……たとえば?」
「あなたが生きていたとき、私と親しい仲だった、とか」
真剣な眼差しで見上げる咲希を、朔矢も同じ眼差しで見つめる。しばらくして諦めたように朔矢は笑うと、咲希に椅子に座るよう、促した。おとなしく咲希はそれに従う。
「どうしてばれたんだろ?」
「日記を、読んだんです」
「ちっちゃい頃から書いてるやつか。あそこに、僕の名前があったの?」
「はい。正確には、朔兄、と」
「……懐かしい呼び方だね」
朔矢は眉を八の字にして笑う。その笑みは痛みを耐えているようで、咲希はそっと目をそらした。
「他に、先生を目指してることと、木立高に通っていることが分かったので、佐々木さんかな、と」
「そっか、なるほどね……。咲希さん」
咲希は朔矢を見上げた。朔矢は静かに笑っていた。
「当たってるよ。僕は木立高に通っていた頃、先生を目指していた、朔兄こと君の幼馴染の佐々木朔矢だ」
「どうして――」
どうして黙っていたんですか。
そう言おうとして、咲希は言葉を飲み込んだ。もしも親しかったらしい死んでしまった人に出会うことができたら、一番にしたいとずっと願っていたことを思い出したからだ。咲希は立ち上がり、勢いよく頭を下げる。
「ごめんなさい!」
咲希の行動が予想外だったらしく、朔矢はキョトンとしていた。それに気付かずに咲希は続ける。言葉は、なにも考えなくても口から勝手にこぼれていった。
「忘れてごめんなさい。きっと、私が忘れる前からずっとそばにいてくれたあなたなら理解してくれているのかもしれないけど、でも、最初、冷たく接してごめんなさい。傷つけてしまいましたよね。忘れた上にそんなことしてごめんなさい。本当に――」
「知ってるから」
滝のように流れていく謝罪を、朔矢の落ち着いた声が止める。咲希がそっと顔を上げると、朔矢は困ったように笑っていた。
「僕が君の幼馴染だったって知ったら、きっと君は謝り倒すだろうってこと、分かってたんだ。だから言いたくなかった。あ、別に謝られるのが嫌だから、とかじゃなくて、単純に、そのときの辛そうな君の表情を見たくなかっただけ」
朔矢は、再び咲希に椅子に座るように促した。そして続ける。
「君のことは、生まれたときからずっと面倒を見てきてる……まあ、言っても子供ができる範囲で、だけど。そばにいて面倒を見ていたから、君がどんな思いで忘れてしまったヒトや、自分の力についてずっと考えてきたか、知ってるから。どれだけ自分を責めていたのか、苦しんでいたのか、誰かと接するということに臆病になっていたのか、分かってるから。だからこそ僕も、君に謝りたい。先に死んで、忘れさせて、ごめん」
今度は朔矢が、頭を下げる。慌てて咲希は顔の前で手を振った。
「頭を上げてください」
ゆっくりと、朔矢は顔を上げる。けれども目は伏せたまま、朔矢は話し続けた。
「僕は、自転車で走ってるときに信号無視で突っ込んできた車に跳ねられて死んだんだ。死んだ直後、すぐに生き返る方法を探そうとした。だけど、そんなものはないとさくら様に冷たく突き放された。そのあと、由来さんから君がここに来るって聞いて、僕は待つことにしたんだ。不幸中の幸いっていうか、不謹慎な話ではあるけど、交通事故で死んで桜ノ町に来れたおかげで、僕はもう一度君に会うことができたんだよ」
朔矢は柔らかく微笑んだ。
「僕の心残りは、君を独りぼっちにしてしまったこと。僕が、君と誰かとの架け橋になれなかったことなんだ」
ずっと心配されていたのだ、と咲希は気付いた。生きていたときも、死んだあとも、ずっと朔矢は咲希のことを考えていてくれたのだ、と。死者に心配されている。そんなことを考えたこともなかった咲希には、朔矢の言葉はとても意外で、でもとても嬉しいものだった。そして同時に、申し訳なくもあった。
「そんな風に思ってくれていたなんて、考えたこともなかったです」
そう言うと、咲希はふわりと微笑んだ。その笑顔は憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「ありがとうございます。こんな私でも、心配し続けてくれて」
「こんな、なんて言わないで。君のことを大切に思ってる人もいるんだから」
右腕を左手で抑えて、朔矢も微笑む。いつも見ている笑顔のはずなのに、自分のことを気遣ってくれている朔矢の言葉のせいか、胸が鳴り、顔が熱くなる。思わず咲希は俯いてしまう。
――私のことを大切だと思っていてくれる人の中に、あなたは入ってますか?
咲希はそっと、心の中で問いかけた。だけどそれを言葉にできるほど咲希は素直にも、積極的にもなれず――。
「……ありがとう、ございます」
代わりに、咲希はもう一度礼を言った。
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