八日目。

 雲一つない青空に、堂々と輝く太陽。そして、その光を浴びている、榎本と榎本の樹――。

 昨日までの騒がしさが幻だったかのように、祭りの跡は何一つ残っていなかった。

「――今から、榎本が上へ昇る。榎本、別れは済ませたな。心残りはないか?」

 静かな声で、さくらは榎本を見上げて問う。榎本は少しだけ考える仕草をしてから、さくらの前に手を出した。

「……ちょっとだけ、いいですか」

 さくらが頷いたのを確認すると、榎本は咲希の方へと歩く。なんだろうと想い、首を傾げた咲希が榎本をじっと見つめていると、榎本はニッコリと微笑んだ。

「咲希ちゃん」

 今輝いている太陽のように温かな声が、咲希の名前を呼ぶ。

「はい」

「君は、ここに来た直後よりも、よく笑うようになったね」

 その言葉に、咲希は榎本と初めて出会ったときを思い出した。微笑んでくれた榎本から、顔をそらしてしまったことが、咲希の頭に浮かんだ。

「……まだ、ぎこちないかもしれないですけど」

 二人はフフッと笑う。そして榎本は真顔に戻ると、じっと咲希を見つめる。

「もっともっと笑いなさい。君が笑顔を失ってた時間の分まで。大丈夫。君が思っているよりも、人間はずっと優しいから」

「……はい」

 榎本の言葉が、じんわりと咲希の心を温める。人間の優しさを、咲希はここに来て知ったのだ。そのきっかけを与えてくれたのはこの町の人ビトだった。その中の一人である榎本に、咲希は微笑んだ。榎本も微笑みを返す。

 もっと榎本と話してみたい。そんな願いが咲希の中に芽生える。同時に、ここで榎本と過ごした記憶は、今までとは違って一生覚えていられるのだ、と言う事実に咲希は気が付く。さっき感じた、もう叶えるには遅すぎる願いも、一緒に過ごした少ないけども大切な記憶も、消えて無くなったりはしないのだ、という初めての感覚に咲希は、ゾワリと鳥肌が立った。

「榎本さん」

「ん?」

 咲希は深々とお辞儀をする。

「お世話になりました」

 榎本はなにも言わずに頷くと、さくらの元へと戻っていった。

「もう、いいのじゃな」

「はい。さくら様、住人のみなさん。本当に、お世話になりました。……では、さくら様」

 しっかりと頷いて、さくらは青空へと両手を伸ばす。すると空から柔らかく、温かな一筋の光が、榎本へと降りてきた。

 次の瞬間、榎本の樹の花が、枝が、幹が、ほどけて大量の花びらになり、光に吸い込まれるようにして昇っていく。榎本の身体にも同じ現象が起きる。スルスルと足から解けていき、桜の花びらとなって光を目指して舞い上がっていく。

 あまりにも幻想的すぎる光景に、咲希は息をするのも忘れて、ただただ見守っていた。


 最期まで、榎本は笑っていた。


 最後の一枚が昇り切ったことを見届けると、さくらは手を下ろした。そして先ほどまで榎本がいた場所を悲しげにじっと見つめたあと、咲希たちの方を向いた。

「桜ノ町の住人の一人。榎本敦は、無事に昇っていった。どうか、悔いのない来世を送れるよう、祈ってほしい」

 さくらの言葉に、その場にいた者はみな手を組み、目を閉じて頭を垂れる。座る者も、立ったままの者もいた。咲希も周りに合わせて手を組むと、立ったまま目を閉じる。

 どうか、笑顔で始まり、笑顔で終わる人生を送れますように、と祈った。



🌸



――ちょっとそこら辺を歩こうか。

 朔矢にそう声をかけられて、咲希は朔矢と二人で歩いている。時々すれ違うヒトは、寂しげな表情をしていることが多い。それほど榎本は様々なヒトに好かれていたのだろう。二人は黙々と歩いていく。話したい気分でもなかったため、咲希にとってその沈黙はとても心地よかった。

 気づいたら二人は、駅まで来ていた。何の気なしに駅の横を見て、咲希は固まった。心臓を掴まれたような、そんな感覚が咲希の身体に走る。


 見覚えのあるさび付いた自転車が一台、駅の壁にもたれ掛かるようにして置かれている。


「この町でのああいった物はね、みんなで共有してるんだ」

 朔矢が、自転車をじっと見ながら言う。

「と言っても、自転車なんか使うよりも花びらになって飛んだ方が早いからね。誰もあの自転車を使うヒトはいなかった。そんな中で榎本さんだけがこの自転車を使ってた。生きてた頃に使ってた自転車と似てたんだって。きっと生前にその自転車を大事にしてたんだろうね。この話をしてるとき、目がすごく輝いてたから。まあ、さっき言ったようにそれまで誰も使ってなかったから、榎本さんが使う頃にはすでに、この自転車はさび付いていたらしいよ」

「そう……なんですか」

 朔矢の話を聞いているのかいないのか。とにかく咲希の意識はその自転車にすべて、注がれている。

 数えるほどにしか話したことはなかったが、その自転車に誰も跨っていないのを見て、改めて榎本がいなくなったことを咲希は実感する。

「榎本さん、いないんですね」

 ポツリと、咲希は呟く。自転車から目を放せずにいる咲希は、朔矢がこちらを見ていることに気付かない。

「榎本さん、誰にでも、いつも笑顔でしたね、本当に、人の心を解す笑顔というか……。昨日のお祭りのときも言いましたけど、すごく安心できるんです、榎本さんの笑顔を見ると」

 咲希の頭の中には、初めて会ったときの榎本の笑顔が写っていた。

「私、あんまり榎本さんと話したこと、ないんです。でも、いつもどこかしらですれ違う度、絶対に笑顔で挨拶してくれるんです。おはよう、今日もいい天気だねって……。なんでもない会話ですけど、すごく嬉しかった。自分から避けてたのもあるけど、そういうの、初めてだったから」

 つぅっと一筋の滴が、咲希の頬を伝っていく。

「きっと榎本さんだったら、色んなことを受け止めてくれた。そう思うと、なんで最初っからもっと心を開けなかったんだろうって思います。もっともっと話してみたかったです。……でも、もういないんですよね。自転車に乗った榎本さんも、あの笑顔も、もう見ることはできないんですよね」

 自分でも驚くくらい、咲希は言葉をこぼした。最後の一言を言い終えて、咲希が落ち着くまで、朔矢はなにも言わずに待っていてくれた。黙ってそっと渡された白いハンカチを受け取って、咲希は涙を拭く。

 しばらくして咲希が落ち着いたのを確認すると、朔矢が口を開く。

「今言うのもちょっとな、とは思ったけども……。それがきっと、死んだヒトを思う人の、普通の感情なんだよ」

「そうなんですね……」

 咲希は静かに胸に手を当てた。自分にも、誰かを失って悲しい、と思える感情があったのだと、不謹慎だとは思いながらも嬉しく思った。

「ハンカチ、洗って返しますね」

「いや、あげるよ」

「返します。またそのときに、色々話しましょう」

 咲希はふわりと笑った。本人が気づくはずもないが、その笑顔は、彼女が自分の能力に気づくよりも前に見せていた、無邪気な笑顔に近く、朔矢は思わず見惚れてしまった。

「朔矢さん……?」

 咲希に呼びかけられて朔矢はハッと我に返る。

「うん、じゃあ、待ってるよ」

 朔矢も笑顔で返す。その笑顔に、なにかを決意したような、そんな雰囲気を咲希は感じて、心の中で首を傾げた。

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