七日目。

 目の前には金魚が泳いでいる水色の浴衣を着ている少女がいる。腰まであった黒髪は、綺麗に結い上げられていた。

「よし、できた!」

 由来がポンと肩を叩くと、鏡に映った自分の姿を見つめていた咲希は我に返った。

「あ、ありがとうございます」

「自分の姿に見惚れていたのかい?」

 ニヤリと笑った由来に、咲希は思わず赤くなる。

「いや、そうじゃなくて……私、浴衣を着たの、久しぶりで」

 ついでに言えば、祭りに行くのも、その祭りに誰かと一緒に行くというのも、咲希にとってはどのくらいぶりか分からないくらい久しぶりだった。由来が鏡越しに、咲希に微笑みかける。

「楽しんできなさい。今の咲希ちゃん、すごく綺麗で可愛いんだから」

「そんなこと――」

「すみませーん!」

「あ、ほら朔矢君の声じゃないかい? はーい!」

「あ……!」

 パタパタと由来は走って部屋から出ていってしまった。ポツンと一人残された咲希は、再び鏡の中の自分と目を合わせる。


 久しぶりのお祭りに、最近知り合ったばかりの男性と一緒に行く。普通に考えたら嫌なはずなのに、相手が朔矢だというだけで咲希の鼓動は昨日からずっとリズムを早く刻んでいた。咲希の今の姿を見て、朔矢はどんな反応をするだろうか。驚くだろうか。綺麗だとほめてくれるだろうか。それとも、何も言わずにいつも通り微笑むだけだろうか――。気づけば咲希は、そんなことばかり考えていた。

「なんでなんだろう……」

 ポツリと呟き、咲希は静かに目を閉じて胸に手を当て、今までの朔矢との記憶を思い出していく。

 いつも浮かべている温かい微笑み。出会ってから間もないけれど、それとなく咲希のことを気遣ってくれる優しさ。そして、自分の右腕を抑え込むように掴む左手と、時折見せる切なげな表情。

 なにがあんな表情をさせているのか。あの左手はなんなのか。そんなことを考えていたら、ドアが開く音がした。咲希は静かに目を開ける。鏡には普段通りの格好をした朔矢が写っていた。

「あ……」

 咲希は振り返り、なにか言おうとする。だがなにも思いつかず、咲希の口からは文字が一つこぼれただけだった。そんな咲希に、朔矢は微笑んだ。

「可愛いね、咲希ちゃん」

「……!」

 ボンッと爆発したのではないか、というほどの勢いで咲希の顔は赤く染まる。すぐにそれを自覚した咲希は身体ごと後ろを向いて俯いた。背後から、朔矢が笑う声が聞こえる。

「笑わないでください」

 ムッと頬を膨らませて咲希が言う。

「ごめんごめん。行こうか」

「……はい」

 咲希は朔矢の方へ身体を向けると、まだ照れ臭くて小さく頷いた。朔矢は微笑んだ。その微笑みがとても愛おしげなものだということに、咲希は気づいていなかった。



🌸



 家から一歩外に出ると待っていたのは、ザワザワとしたヒト混みと、所狭しと並ぶ屋台だった。人ビトの隙間からチラチラと橙色の温かな灯りが揺れており、なにかを焼く香ばしい匂いのする煙に乗って、様々な食べ物や、ほのかにする桜の香りが咲希たちの鼻をかすめていく。

「はぐれないように手を握ろうか」

「あ、はい」

 咲希は見慣れない光景に気を取られて、完全に上の空で返事をした。そのため、普段だったら絶対に拒否をするか、戸惑うのに、差し出された朔矢の右手をなにも考えずに握ってしまったのだ。

 自分が女性とは違ったゴツゴツとした手を握っていることに気づいた咲希は、慌てて手を放した。そんな咲希の反応に驚いた朔矢は目を丸くしてポカンとする。が、なにかに気が付いたようで、やってしまった、と朔矢は小声で呟いた。だが咲希はその呟きに気付かずに素早く頭を下げる。

「ごめんなさい!」

 手に残る自分のものではない温もりに、心臓がドッドッと大きな音を立てて、まだ触れていたかったとわめいている。反射的に、とはいえ、朔矢を拒否してしまった形になり、咲希は名残惜しさと同時に罪悪感を感じていた。

 それに気付いたのだろう。朔矢は困ったような表情になって、頭をかきながら笑う。

「いや、僕こそごめん。驚いたよね」

「あ、いえ……」

 朔矢は笑って隠そうとしているが、本当は傷つけてしまったのではないかと、咲希は不安に思った。

 別に、一瞬でも朔矢と手を繋いだことは、咲希にとって嫌なことではなかった。むしろもう一度繋ぎたいとさえ思っている。ただ慣れないものに驚いてしまっただけなのだ。だけどそれをそのまま話すのも恥ずかしくて、咲希は他になにか案はないか、と腕組みをして必死に考える。その表情があまりにも真剣だったのだろう。朔矢が心配そうに咲希を見つめた。

「無理しなくても――」

「あのっ!」

 閃いた瞬間、無理をしなくてもいいと言い掛けた朔矢の言葉を遮って、咲希は声を上げていた。自分が思っていたよりも大声が出てしまい、咲希は驚いたが、朔矢の方が驚いたようで、目を丸くしてこちらを見ている。今度は咲希が、やってしまったと右手で口を抑えて小さく呟いた。そのまま咲希は朔矢をあの、と見上げる。

「シャツの裾、掴んでてもいいですか?」

 言ってから、恥ずかしさで赤くなった顔を隠すように俯いて、咲希は一気にまくしたてる。

「その! えと! 裾を掴むことに他意はないっていうか! えーっと、そう! やっぱりはぐれるのは嫌なので! はぐれないために! それに! 別にさっき手を放しちゃったのも! 佐々木さんが嫌いだとか! そう言うのでは全然なくて! ただちょっと慣れてなくて反射的にそうしちゃったっていうか! むしろもっと繋いでたかったかもって言うか――!」

「ストップ、ストップ!」

 勢いよくまくしたてる咲希を止めるために、朔矢は咲希の目の前に両手を出した。突然視界に入った朔矢の両手に思わず口を閉じた咲希は、一瞬にして冷静になる。同時に今自分が言った言葉を思い出し、次の瞬間さらに赤くなった顔を両手で覆って隠した。数秒前までそれを言わないために必死に考えていたというのに、最後の一言でその努力はすべて水の泡になってしまったのだ。

「穴があったら入りたい……」

「ははは……」

 朔矢の笑い声に、咲希はむぅっと両頬を膨らませる。

「誰のせいで――」

「ごめんごめん。それよりほら」

 朔矢は謝ると突然、クルリと回れ右をして、肩越しに咲希を振り返った。その行動の意味が分からずに、咲希はキョトンとしてしまう。朔矢は目尻を下げて、自分のシャツの裾を指さした。

「裾、掴むんでしょ?」

「! ……はい」

 何度目かの紅潮を隠すために俯くと、咲希はキュッと朔矢のシャツの裾を掴んだ。そして朔矢が歩き出したのに合わせて、咲希も足を前に出す。歩幅を合わせてくれているのか、履き慣れていない下駄でも比較的歩きやすい速度だった。

 しばらく歩いてふと顔を上げると、朔矢の耳がほのかに紅いのに気が付いて、咲希は一瞬驚き、そして小さく笑った。



🌸



「あ……」

 しばらく色んな屋台を見て歩いていると、突然朔矢は立ち止まった。咲希はそれに気付いて朔矢の視線を辿る。そこにはリンゴ飴を売っている屋台があった。並んでいるリンゴ飴はどれも艶やかな赤色に染まっており、表面に気泡を浮かせながらリンゴを包んでいる飴が、屋台の灯りに照らされて宝石のように輝いている。とても美味しそうではあるが、別段、他の食べ物の屋台との違いは見つからない。どうしてただのリンゴ飴の屋台に反応したのか分からず、咲希は首を傾げた。

「リンゴ飴、好きなんですか?」

 朔矢が固まったのが、シャツの裾越しに咲希に伝わった。そのまま黙り込む朔矢に、咲希はなにかまずいことを訊いてしまったのだろうか、と考え始めたとき、昔の話なんだけど、と朔矢が切り出した。

「僕には幼馴染がいたんだ。ちょうど、咲希さんくらいの歳の女の子。その子が小さい頃なんだけどね。一緒にお祭りに行ったときに、リンゴ飴を食べたことがないって言うもんだから、僕が買ってあげたんだ。だけどその子ったら、すぐにつまずいて、一口も食べずにリンゴ飴を落としちゃったんだよ。せっかく買ってもらったのにって申し訳なさそうにするから、食べかけだったけど僕のリンゴ飴をあげたんだ。そしたらその子、最初は断ってたんだけど何度も勧めるうちにありがとうって受け取ってさ。美味しい美味しいって笑顔で食べてたなーって思い出してね」

 目を輝かせながら懐かしそうに、そして楽しそうに話す朔矢を、咲希はどこか遠くに感じていた。チクリと痛んだ胸に、咲希は心の中で首を傾げた。朔矢が照れ臭そうに頬を人差し指でかく。

「ごめん、いきなり思い出話なんかしちゃって」

「いえ、大丈夫です。……佐々木さん、その幼馴染さんのこと、大切に思ってるんですね」

 言って初めて、咲希は自分がその幼馴染のをこと羨ましく思っていることに気が付いた。心の中にドロッとした黒い粘着質な液体が湧き上がってくる。ああ、自分は嫉妬しているのだ、と咲希は気が付いた。目の前にいるこのヒトにそんな表情をさせる名も知らぬ誰かに。どうして嫉妬しているのか。短い期間だがずっとそばにいてくれている朔矢を取られるのが、咲希は嫌なのかもしれない。

「大切、か……」

 朔矢は口元に手を当てて考え始める。そして小さく微笑むと、うん、と頷いた。

「そうだね。出会ったときから今まで変わらず、世界で一番大切かな」

 咲希の胸に、物理的ではない痛みが走った。先ほどまで湧き上がっていた液体がすべて針になったような、そんな鋭い痛みだった。すごく幸せそうな顔をした朔矢の口から出た言葉に、どうしてここまで傷つくのか。咲希には自分のことなのにわけが分からない。ただこのままでは朔矢がその幼馴染の元へ行ってしまうような気がして、咲希は思わずすがるように朔矢のシャツの裾を引っ張っていた。朔矢が驚いた顔でどうしたのか、と咲希を見下ろす。咲希はコツン、と朔矢の背中に額を当てた。そうして隠さないといけないほど、自分の顔が醜いものになっているような、そんな気がしたのだ。

「リンゴ飴……私も食べてみたいです」

 胸の中にある色々を抑えて絞り出した咲希の声は、小さくて掠れていた。朔矢の身体が一瞬また固まったことに咲希は気が付いた。どうしてそんな反応をされるのか。咲希には理解できない。

「そう、だね……。うん、僕も食べたくなっちゃった。買ってくるからちょっと待ってて」

 朔矢はそう言うと、さりげなくシャツの裾から咲希の手を外して急ぎ足で屋台へ行く。朔矢の後ろ姿は、すぐに雑踏に飲み込まれていった。

「あ……」

 行き場を失った小さな手は、朔矢へと伸び、でもすぐに諦めたように力なく落ちた。

「はぐれちゃいますよ……?」

 誰に言うわけでもなく、咲希はポツリと呟いた。



🌸



 朔矢はヒト混みで自分の姿が咲希から見えないのを確認すると、少しだけリンゴ飴の屋台から離れた、ほんのり暗くなっている場所にしゃがみ込んだ。咲希のことは心配だが、彼女は番人である由来の姪だ。次の番人にちょっかいを出す輩はいないだろう。そう思いつつもやっぱり不安で、落ち着いたらリンゴ飴を買ってすぐに戻ろう、と朔矢は決める。

「大切、なんだよ……」

 両手で顔を覆いながら、朔矢は唸るように呟いた。その声は様々な感情が混ざり合っていて、複雑な色をしていた。

 朔矢にとって咲希は、一番大切な存在だった。それこそ、まだはいはいもできない赤ん坊の頃から、ランドセルを背負い始めた頃、制服を着始めた頃、そして、生前の朔矢との記憶を失ってしまった今の咲希まで、ずっと。それはおそらくこれからも、来世で生まれ変わるまで、ずっと変わることはないだろう。だから言った。大切だと、言った。咲希は恐らく勘違いをしている。それでいい。朔矢には他に大切な人がいる。そう思ってもらえれば、咲希は自分から離れていくかもしれない。そう思っていたのに。

――リンゴ飴……私も食べてみたいです。

「あんな辛そうな声、聞きたくなかった」

 上から見下ろした朔矢には、咲希の表情は見えていなかった。だけど、傷つけたことには気付いていた。自分の策は成功したのだ。覚悟はしていた。だけど大切な存在を大切に思うが故に傷つけた自分が、朔矢は許せなかった。

 大切だからこそ、そばにいたい。この想いをすべてぶちまけてしまいたい。独り占めしてしまいたい。だけどそれは、咲希のことを本当に大切に思っているのなら、死んでいる自分が絶対にしてはいけないことだった。死人は生きている人のそばにずっといることはできない。そういう決まりがあるわけではないが、一度、生きている人に執着しすぎて怨霊になったヒトを見たことがあった。そうなるまでの年月は、そのヒトの執着具合による、と朔矢はさくらから聞いていた。そのヒトはさくらの手で、桜の樹ごと存在を抹消された。このまま咲希に執着していたら、いつか自分もそうなってしまうのではないか、と朔矢は思っていた。自分に執着しすぎたせいでそうなった朔矢を見て、咲希が責任を感じないはずも、傷つかないはずもなかった。なにより、醜い怨霊に成り果てた自分を、咲希に見られたくなかった。

 なら代わりに、この想いをすべてぶちまけて、少しの間でも咲希を独り占めしてしまえばいいか、というといいはずがない。咲希が自分に好意を向けていることに、朔矢は気づいていた。だけど、その好意は、咲希を独りぼっちにしてしまった、死人である自分にではなく、咲希を受け入れてくれる、そして咲希も心を許せる、そんな生きている誰かに向けられるべきものなのだというのが、朔矢の思いだった。大切な女性だからこそ、絶対に一人にしてしまう自分ではなく、永く共にあれる人と一緒になってほしいのだ。そして自分の生前の心残りが、咲希と他者の架け橋になれなかったことである以上、独占する、というのは論外なのであった。

 キュッとすがりつくように自分のシャツの裾を掴んだ小さな手。その手を今、放してもいいのだろうか。

「まだ、不安だ……」

 今の咲希に、誰かとの別れに耐えられるだけの力があるのか、朔矢には分からなかった。耐えること自体はできるだろう。今までも咲希は、誰かの死を心を殺すことで耐えてきたのだから。だけどそれではダメだ。別れを耐え、そしてそれでも自分から他人と関わることができ、感情を表に出すことができる。そこまでになったらきっと、手を放しても大丈夫だ。

 ふと、一瞬だけ繋がった手の温もりを思い出して、朔矢は自分の手を見つめる。本当は再会してから別れのときまで、非常時以外で咲希に触れる気は朔矢には一切なかった。咲希にとって自分は初対面の相手だから驚かせてしまうかもしれない、というのはもちろんあった。だが、それともう一つ、理由があった。温もりを一度思い出してしまえば、きっと離れづらくなってしまう。そんな気がしていたのだ。

「馬鹿だよな……」

 はぐれないように手を繋ぐ。それは朔矢が生前、幼い頃から咲希と行動するときにいつもしていたルールのようなものだった。それが癖になっていたのだと、朔矢は気が付いた。同時に、生前に繋いだときよりも、咲希の手が少しだけ大きくなっていたことに、二年の時の流れを感じた。とはいってもまだ咲希の手の方が朔矢よりも小さいのだが。

 朔矢は苦笑いを浮かべると、長く息を吐き出してから立ち上がった。そして屋台へと向かったのだった。



🌸



「おお! 咲希ちゃんと朔矢君じゃないか!」

 二人でリンゴ飴を舐めながら歩いていると、前からやってきた榎本に声をかけられた。あれからなんとなく気まずい空気が咲希と朔矢の間にはあったので、はっきり言って榎本の登場はとてもタイミングがよかった。咲希はホッと安堵の息を吐いたが、祭りの主役にどう挨拶をしていいのか戸惑う。すっと朔矢が一歩前に出て、ニコリと微笑んでから礼をした。

「こんばんは、榎本さん。改めて、おめでとうございます」

「おめでとうございます」

 朔矢の挨拶を見て、なるほど、そうすればいいのかと思った咲希は慌てて礼をした。榎本はニコニコと笑っている。

「ありがとう、二人とも」

「これまで、本当にお世話になりました」

 朔矢がさらに深々と礼をすると、いやいや、と榎本は片手を顔の前で振った。

「そんな大層なことはしてないよ。私の方こそお世話になったね」

「いえ、そんな――」

「朔矢君、咲希ちゃん」

 榎本に名前を呼ばれ、朔矢は口を閉じて榎本を見つめた。咲希もじっと榎本を見る。

「これからも、頑張るんだよ」

 はい、と二人が頷くと、榎本は笑みをより深くした、それじゃ、と手を振り、背中を向けて歩いていく。遠くでその背中を叩いたヒトがいる。榎本はそちらを向くと、親しげに話し出した。なにを話しているのかは咲希には聞こえなかったが、とても楽しそうだ。

「榎本さん、いい笑顔ですね」

「そうだね」

 咲希の呟きに、朔矢は頷く。

「私、あの笑顔好きです。見てるとなぜか安心するんです」

 チラリと咲希を見てから、朔矢は優しく微笑んだ。

「僕も。榎本さんの笑顔、好きだな」

 本当は、あなたの笑顔も見てると安心するんです。でも最近は、一緒に胸が高鳴ったりするんですよ。どうしてなんでしょうかね。

 そんな言葉を心の中で思い描きつつも、口にすることはできなくて、咲希はそっとリンゴ飴をかじった。

 初めてのリンゴ飴は、咲希にはとても甘酸っぱく感じた。

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